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◎理論より実際

 世間一体に、教育のやり方を見ると――私は殊に今の中等教育なるものが其弊が甚しいと思ふ――単に智識を授けるといふことにのみ重きを置き過ぎて居る、換言すれば、徳育の方面が欠けて居る、確かに欠乏して居る、又一方に学生の気風を見ると、昔の青年の気風と違つて、今一と呼吸といふ勇気と努力、それから自覚とが欠けて居る、此く言へばとて、自分の如き昔者が決して自慢高慢をする訳ではないが、何しろ当時の教育は学課の科目が多い、あれもこれもといふ有様であるので、その多い科目の修得にのみ逐はれて、維れ日も足らずといふ風であつて見れば、従つて他を顧みる遑もない勘定で人格、常識等の修養に心を注ぐことの出来ぬのも自然の数で、返す〴〵も遺憾千万な訳である、現に処世の人となつてる人々は兎も角として、是から世間に出て大に奮励努力、国家の為に尽さうと思はれる方々は、此辺に能く々々心を用ゐて貰ひたい。

 所で、自分に最も関係の深い実業方面の教育に就て見るに、その昔にありては、実業教育と名付くべき程のものはなかつたが、維新以後になつても、明治十四五年の頃までは、此の方面には些の進歩を見ることは出来なかつた、商業学校の如きも、其の発達は僅々この二十年程の間のことである。

 一体文明の進歩といふことは政治、経済、軍事、商工業、学芸等が悉く進んで、其所に始めて見ることが出来るので、其中の何れか一が欠如しても、完全なる発達、文明の進歩のあるものではない、然るに日本では、其の文明の一大要素である商工業が、久しい間閑却して顧みられずにあつた、翻つて欧洲の諸列強に見るに、他の方面の事も勿論進歩して居るが、其中でも取りわけ進んで居るのが実業である、即ち商工業である[、]我国に於ても近来は実業教育に世人が注意するやうになつて、進歩発達はして来たが、さて惜いかな、其の教育の方法はと云ふと、前述の如く其他の教育の方法と同じく、せくが儘に、急ぐが儘に、理智の一方にのみ傾き、規律であるとか、人格であるとか、徳義であるとか云ふことは、毫も顧みられない、機運の趣く所、余儀ない次第と言は〻゙ 言へ実に嘆ずべきことである、是を軍人社会に見ると、其の教育法の然らしむる所か、或は軍事といふ其職が、既に其の性質を養ふものか、其辺の所は解らぬが、一般的統一、規律、服務、命令等のことが、整然と厳格に行はれて居るやうであるのは、実に結構なことで、立派な人格な士を見受けるのも、非常に頼もしい次第である。

 実業界に立つ者は、前述の諸性質を十分に備へた上に、尚ほ一つ尊ばなければならぬ一大事が残つて居る、それは自由といふことで、実業の方では、軍事上の事務のやうに、一々上官の命令を俟つてるやうでは、兎角好機を逸し易いので、何事も命令を受けてやると云ふ具合では、一寸発達といふことは六ケ敷いのである、その結果、唯智へ、智へと傾いて行つて唯もう己が利益々々とのみ逐うて孟子の謂ゆる『上下交も利を征りて饜かず、国危し』と云ふやうな状態に陥つてはと、是れのみ気遣はれるので、どうがなして斯ういふ事に立ち至らぬやうと、窃かに手近い実業教育に於ても、智育と徳育とを併行せしめて行きたいものと、及ばずながらも、多年努めて居る次第である。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.368-372

出典:学生諸君に望む(『竜門雑誌』第315号(竜門社, 1914.08)p.11-17)

サイト掲載日:2024年11月01日