テキストで読む

◎成敗は身に残る糟粕

 世の中には悪運が強くて成功したかの如くに見える人がないでもない、併し人を見るに、単に成功とか又は失敗とかを標準とするのが根本的誤りではあるまいか、人は人たるの務を標準として一身の行路を定めねばならぬので、謂ゆる失敗とか成功とかいふものは問題外で、仮りに悪運に乗じて成功したものがあらうが、善人が運拙くして失敗した者があらうが、それを見て失望したり悲観したりするには及ばないでは無いか、成功や失敗の如きは、唯丹精した人の身に残る糟粕のやうなものである。

 現代の人の多くは、唯成功とか失敗とかいふことのみを眼中に置いて、それよりもモツト大切な天地間の道理を見て居ない、彼等は実質を生命とすることが出来ないで、糟粕に等しい金銭財宝を主として居るのである、人は唯人たるの務を完うすることを心掛け、自己の責務を果し行ひて、以て安んずることに心掛けねばならぬ。

 広い世界には、成功すべくして失敗した例は幾らもある、智者は自ら運命を作ると聞いて居るが、運命のみが人生を支配するものでは無い、智恵が之に伴うて始めて運命を開拓することが出来るのである、如何に善良の君子でも、肝腎な智力が乏しくて、イザといふ場合に機会を踏み外したら成功は覚束ない、家康と秀吉とは能く此の事実を証明して居る、仮りに秀吉が八十歳の天寿を保ち、家康が六十で死去したら如何であつたらうか、天下は徳川の手に帰せずして、却つて豊臣の万歳であつたかも知れぬ、然るに数奇なる運命は、徳川氏を助けて豊臣氏に䄃した、単に秀吉の死期が早かつたのみならず、徳川氏には名将智臣が雲の如く集つたが、豊臣氏には淀君といふ嬖妾が権威を擅にして、六尺の孤を託すべき誠忠無二の且元は擯けられ、却つて大野父子が寵用されるといふ有様、加之ならず、石田三成の関東征伐の一挙は、豊臣氏の自滅を急がしむるの好機会を造つた、抑も豊臣氏愚なるか、徳川氏賢なるか、余は徳川氏をして三百年の泰平の覇業を成さしめたものは、寧ろ運命の然らしむる所であつたと判断する、併しながら此の運命を捉へることが六ケ敷い、常人は往々にして際会せる運命に乗ずるだけの智力を欠いて居るが、家康の如きは其の智力に於て到来せる運命を捕捉したのである。

 兎に角人は誠実に努力黽勉して、自ら運命を開拓するが宜い、若しそれで失敗したら、自己の智力が及ばぬ為と諦め、また成功したら智恵が活用されたとして、成敗に関はらず天命に托するが可い、此くて敗れても飽くまで勉強するならば、何時かは再び好運に際会する時が来る、人生の行路は様々で、時に善人が悪人に敗けた如く見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである、故に成敗に関する是非善悪を論ずるよりも、先づ誠実に努力すれば、公平無私なる天は、必ず其人に福し運命を開拓するやうに仕向けて呉れるのである。

 道理は天に於ける日月の如く、終始昭々乎として毫も昧まさ〻゙ るものであるから、道理に伴うて事をなす者は必ず栄え、道理に悖つて事を計る者は必ず亡ぶる事と想ふ、一時の成敗は長い人生、価値の多い生涯に於ける泡沫の如きものである、然るに此の泡沫の如きものに憧憬れて、目前の成敗のみを論ずる者が多いやうでは、国家の発達進歩も思ひやられる、宜く其様な浮薄な考は一掃し去りて、社会に処して実質のある生活をするが宜い、苟くも事の成敗以外に超然として立ち、道理に則つて一身を終始するならば、成功失敗の如きは愚か、それ以上に価値ある生涯を送ることが出来るのである、況んや成功は人たるの務を完うしたるより生ずる糟粕たるに於ては、尚更意に介するに足らぬでは無いか。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.405-409

出典:成敗を意とする勿れ(『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.231-237)

サイト掲載日:2024年11月01日