テキストで読む
度々識者が力説する通り、我が国民の思想には忌むべき弊習がある、それは即ち外国品偏重の悪風である、外国品だからとて別段排斥する必要がないやうに、之を偏重するの余り内地品を卑下する理由もない筈である、然るに舶来品といへば総て優秀なものばかりとの観念が、深く国民の上下に普及して居るのは誠に慨嘆に堪へない、尤も日本の文明は最近の発達で、而かも欧米諸国からの移植に負ふ所が頗る多いために、曾ては欧化主義の流行に苦しみ、今も猶ほその余弊として、此の舶来品愛重の勢をなして居ること〻思はれる、けれども維新以来早くも半世紀にならうとする今日、且つ又東洋の盟主、世界の一等国を以て任じて居る今日の日本国たるもの、何時まで欧米心酔の夢を見て居るのであらう、何時まで自国軽蔑の不見識を敢てする積りであらう、実に意気地のない話である、外国の「レツテル」が貼つてあるから此の石鹸は宜いぞと威かされたり、外国品だから此の「ウヰスキー」を飲まなければ、時勢後れの人間に見られると怖れるやうで、それで独立国の権威と大国民の襟度が如何して保たれて行かれよう、私は実に国民の大自覚を望むのである、我々は今日唯今、心酔の時代と袂別せねばならぬ、模倣の時代から去つて、自発自得の域に入らねばならぬ。
有無相通は経済の原則とはいふもの〻、私は徒らに排外思想を鼓吹するものではない[、]物に一得一失は動もすれば伴ふもので、先年戊申詔書を降された時も、これを極端非理な消極主義に穿き違へた人々が多く、当路者が御大旨の徹底に悩まされたことがある、此の国産奨励の宣伝をも極端な消極主義、排外主義と取られては、独り発起人等の迷惑なるのみならず、延いては国家の大損失を招く虞がある、有無相通ずとは数千年前から道破された経済上の原則で、此の大原則に反して経済の発展は企図せられる筈がない、一県にして佐渡からは金を産し、越後からは米を産する、一国にすれば、台湾からは砂糖が出るし、関東地方からは生糸が出る、更に国際間に拡大して見ると、亜米利加の小麦、印度の棉花の如く、それ〴〵地勢に依つて其の産物を異にするのであるから、我々は彼の小麦粉を食し、彼の棉花を購ひ、そして我は生糸、綿糸を売つて行くべきである、この点は特に注意して、我国に適する物を作り、適せない物を仕入れることを過らぬやうにせねばならぬ。
次に我々は奨励会の事業を選択して置く必要がある、奨励は其の声ばかりでも効益は少ないが、折角会組織にしたのであるから、是非目的を貫徹する為に実際の事業に着手し、範を天下に示すべきである、目下の所では会報を発行する以外、具体的に決定したものはないが、規則書にもある通り、今後は国産の調査研究、共進会の開催、講話会の開催、商品陳列場の完備、一般の質疑応答、輸出奨励策等を実施して行くのである、特に研究所の設立、産業上の注意、市場又は製品の紹介、試験分析、証明の依頼に応ずることなどは裨益する所大なるものがあらうと思ふ、而して事業の成否は一に係つて各人の双肩にあるのだから、御互にこの会の発展と利用とに力を注がねばならぬ。
最後に当局者に一言して置きたい事は、奨励は大に之を努めねばならぬが、不自然不相応の奨励を行へば終に無理が出来る、親切なやり方も却つて不親切な結果となり、保護した積りが干渉束縛となる、殊に商品の試験及び紹介をする際には、私利私情を離れて一に邦家の為を念ひ、公平と親切とを忘れざらん事を切望して置く、更に又日本品使用の機運が動いたのを奇貨として、詰らぬ物を粗製濫造し、忠良なる国民を欺瞞し、一時の私腹を肥さんと試むる商売人もあらう、此の如きも亦国産の発達を阻害すること尠少でないから、相警めて斯る不逞漢の輩出を防がねばならぬのである。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.326-330
出典:国産奨励の真意義(『竜門雑誌』第318号(竜門社, 1914.11)p.12-15)
サイト掲載日:2024年11月01日