テキストで読む

◎湖畔の感慨

 大正三年の春、支那旅行の途上、上海に着いたのは五月六日であつたが、其の翌日は鉄道で杭州に行つた、杭州には西湖といふ有名な景勝の湖水があり、其の辺りに岳飛の石碑がある、その碑から四五間程離れた処に、当時の権臣秦檜の鉄像があつて相対して居る、岳飛は宋末の名将で、当時宋と金との間には屡〻戦があつて、金の為に宋は燕京を略取せられ、南宋と称して南方に偏在した、岳飛は朝命を奉じて出征し、金の大軍を破つて、将に燕京を恢復しやうとしたのであるが、奸臣秦檜は金の賄賂を納れて岳飛を召還した、岳飛は其の奸を知つて、臣が十年の功一日にして廃る、臣職に称はざるにあらず、実に秦檜、君を誤るなりと言つたが、彼は遂に讒によりて殺された、斯の誠忠なる岳飛と奸佞なる秦檜とは、今数歩を隔て〻相対して居るのだ、如何にも皮肉ではあるが、対象また妙である、今日岳飛の碑を覧に行つた人々は、殆んど慣例のやうに岳飛の碑に対つて涙を濺ぐと共に、秦檜の像に放尿して帰るとのことである、死後に於て忠奸判然たるは実に痛快である。

 今日支那人中にも岳飛のやうな人もあらう、又秦檜に似たる人がないとも言はれぬけれども、岳飛の碑を拝して秦檜の像に放尿するといふのは、是れ実に孟子の謂ゆる『人性善』なるに因るのではあるまいか、天に通ずる赤誠は、深く人心に沁み込んで、千載の下猶ほ其の徳を慕はしむるのである、是を以ても人の成敗といふものは、蓋棺の後に非れば得て知ることが出来ない、我国に於ける楠正成と足利尊氏も、菅原道真と藤原時平も、皆然りと謂ふべきである、此の碑を覧るに及んで感慨殊に深きを覚えた。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.395-396

出典:支那漫遊見聞録(『竜門雑誌』第315号(竜門社, 1914.08)p.23-28)

サイト掲載日:2024年11月01日