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仁に当つては師に譲らず

 世人は動もすれば、論語主義には権利思想が欠けて居る、権利思想なき者は文明国の完全なる教とするに足らぬと論ずるものが有るやうだが、是は論ずる人の誤想謬見と謂はねばならぬ、成る程、孔子教を表面から観察したなら或は権利思想に欠けて居るやうに見えるかも知れぬ、基督教を精髄とせる泰西思想に比較すれば、必ず権利思想の観念が薄弱であるが如く思はれるであらう、併しながら余は此の如き言をなす人は、未だ以て真に孔子を解した者ではないと思ふ。

 基督や釈迦は始めより宗教家として世に立つた人であるに反し、孔子は宗教を以て世に臨んだ人でないやうに思はれる、基督や釈迦とは全然その成立を異にしたものである、殊に孔子の在世時代に於ける支那の風習は、何でも義務を先にし、権利を後にする傾向を帯びた時であつた、斯の如き空気の中に成長し来つた孔子を以て、二千年後の今日、全く思想を異にした基督に比するは、既に比較すべからざるものを比較するのであるから、此の議論は最初より其の根本を誤つたものと謂ふべく、両者に相違を生ずることは固より当然の結果たらざるを得ないのである、然らば孔子教には全然権利思想を欠いて居るであらうか、以下少しく余が所見を披瀝して世の蒙を啓きたいと思ふ。

 論語主義は己を律する教旨であつて、人は斯くあれ、斯くありたいといふやうに、寧ろ消極的に人道を説いたものである、而して此の主義を押し拡めて行けば、遂には天下に立てるやうにはなるが、孔子の真意を忖度すれば、初から宗教的に人を教へる為に説を立てようとは考へてなかつたらしいけれども、孔子には一切教育の観念が無かつたとは言はれぬ、若し孔子をして政柄を握らしめたならば、善政を施き国を富まし、民を安んじ、王道を十分に押し広める意志であつたらう、換言すれば、初めは一の経世家であつた、其の経世家として世に立つ間に、門人から種々雑多のことを問はれ、それに就て一々答を与へた、門人と謂つても各種の方面に関係を持つた人の集合であるから、其の質問も自ら多様多岐に亘り、政を問はれ、忠孝を問はれ、文学、礼楽を問はれた、此の問答を集めたものが軈て論語廿篇とはなつたのである、而して詩経を調べ、書経を註し[、]易経を集め、春秋を作りたる抔は晩年のことで、福地桜痴居士が曰へる如く、六十八歳より以後の五年間を、纔に布教的に学事に心を用ゐたらしく見える、されば孔子は権利思想の欠けたる社会に人となり、而も他人を導く宗教家として世に立つた訳でないからその教の上に権利思想が劃然として居らぬのは已むを得ないのである。

 然るに基督は之に反し、全く権利思想に充実された教を立てた、元来猶太、埃及等の国風として預言者といふやうな者の言を信じ、従つて其種の人も多いのであつたが、基督の祖先たるアブラハムより基督に至るまで殆ど二千年を経て居る間に、モーゼとかヨハネとかいふ幾多の預言者が出て、或は聖王が出て世を治めるとか、或は王様同様に世を率ゐて立つ所の神が出るとか言ひ伝へて居た、此時に方つて基督は生れたのであつたが、国王は預言者の言を信じ、自己に代つて世を統ぶる者に出られては大変だと云ふ所から、近所の子供を皆殺させたけれども、基督は母マリヤに連れられて他所に行つた為に此難を免れた、耶蘇教は実に斯の如き誤夢想的の時代に生れた宗教であるから、従つて其の教旨が命令的で又権利思想も強いのである。

 併し基督教に説く所の『愛』と論語に教ふる所の『仁』とは殆んど一致して居ると思はれるが、其所にも自動的と他動的との差別はある、例へば、耶蘇教の方では『己の欲する所を人に施せ』と教へてあるが、孔子は『己の欲せざる所を人に施す勿れ』と反対に説いて居るから、一見義務のみにて権利観念が無いやうである、併し両極は一致すといへる言の如く、此の二者も終局の目的は遂に一致するものであらうと考へる。

 而して余は、宗教として将た経文としては耶蘇の教がよいのであらうが、人間の守る道としては孔子の教がよいと思ふ、こは或は余が一家言たるの嫌があるかも知れぬが、殊に孔子に対して信頼の程度を高めさせる所は、奇蹟が一つもないといふ点である、基督にせよ、釈迦にせよ、奇蹟が沢山にある、耶蘇は磔せられた後三日にして蘇生したといふが如きは明かに奇蹟ではないか、尤も優れた人のことであるから、必ず左様いふことは無いと断言も出来ず、夫等は凡智の測り知らざる所であると謂はねばなるまいが、併し之を信ずれば迷信に陥りはすまいか、斯る事柄を一々事実と認めることになると、智は全く晦まされて、一点の水が薬品以上の効を奏し、焙烙の上からの灸が利目あるといふことも事実として認めなくては為らなくなるから、其の因つて来る所の弊は甚しいものである、日本も文明国だと謂はれて居ながら、未だ白衣の寒詣や、不動の豆撒が依然として消滅せぬのは、迷信の国だといふ譏を受けても仕方がない、然るに孔子に此の忌むべき一条の皆無なのは余の最も深く信ずる所以で、また是より真の信仰は生ずるであらうと思ふ。

 論語にも明かに権利思想の含まれて居ることは、孔子が『仁に当つては師に譲らず』といつた一句、これを証して余りあること〻思ふ、道理正しき所に向うては飽くまでも自己の主張を通してよい、師は尊敬すべき人であるが、仁に対しては其の師にすら譲らなくもよいとの一語中には、権利観念が躍如として居るではないか、独り此の一句ばかりでなく、広く論語の各章を渉猟すれば、これに類した言葉は尚ほ沢山に見出すことが出来るのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.282-288

参考記事:論語主義と権利思想(『青淵百話』(同文館, 1912.06)p.163-169)

サイト掲載日:2024年03月29日