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◎天は人を罰せず

 孔夫子が『罪を天に獲れば、祷る所なし』と曰はれた言葉のうちにある天とは、果して何であらうか、私は天とは天命の意味で、孔夫子も亦この意味に於て天なる語を用ゐられたものと信ずるのである。

 人間が世の中に活き働いてるのは天命である、草木には草木の天命あり、鳥獣には鳥獣の天命がある、此の天命が即ち天の配剤となつて顕はれ、同じ人間のうちには、酒を売るものがあつたり、餅を売つたりする者があつたりするのである、天命には如何なる聖人賢者とても、必ず服従を余儀なくせられるもので、尭と雖も吾が子の丹朱をして帝位を継がしむること能はず、舜と雖も亦太子の商均をして位に即かしむるわけには行かなかつたのである、これ皆天命の然らしむる所で、人力の如何ともすべからざる所である、草木はどうしても草木で終らねばならぬもので、鳥獣に成らうとして成り得られるものでない、鳥獣とても亦如何に成らうとしたからとても、草木には成り得られぬものである、畢竟みな天命である、之によつて稽へて見ても、人間は天命に従つて行動せねばならぬものであることが頗る明かになる。

 されば孔子が曰はれた『罪を天に獲る』とは、無理な真似をして不自然の行動に出づるといふ意味であらうかと思ふ、無理な真似をしたり不自然な行動をすれば、必ず悪い結果を身の上に受けねばならぬに極つて居る、その時になつて、その尻を何処かへ持つてゆかうとしたところで、元来が無理や不自然なことをして自ら招いだ応報であるから、何処へも持つて行き所がないと云ふことになる、これが即ち『祷る所なし』との意味である。

 孔夫子は論語陽貨篇に於て、『天何言哉、四時行焉、百物生焉、天何言哉』と仰せられまた孟子も万章章句上に於て、『天不言、以行与事示之而已』と曰はれて居る通り、人間が無理な真似をしたり不自然な行動をしたりなぞして罪を天に獲たからとて、天が別に物を言つて其人に罰を加へるわけでも何でもない、周囲の事情によつて其人が苦痛を感ずるやうになるだけである、之が即ち天罰といふものである、人間が如何に此の天罰から免れやうとしても、決して免れ得べきものでは無い、自然に四時の季節が行はれ、天地万物の生育する如くに、天命は人の身の上に行はれてゆくものである、故に孔夫子も中庸の冒頭に於て、『天命之謂性』と言はれて居る、如何に人が神に祷ればとて、仏にお頼み申したからとて、無理な真似をしたり不自然な行為をすれば、必ず因果応報は其人の身の上に廻り来るもので、到底之を逃れる訳に行くもので無い、是に於てか自然の大道を歩んで毫も無理な真似をせず、内に省みて疚しからざる者にして、初めて孔夫子の言の如く、『天生徳於予、桓魋其如予何』との自信を生じ、茲に真正の安心立命を得られることになるのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.10-13

出典:実験論語処世談(一二)(『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)p.11-29)

サイト掲載日:2024年11月01日