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 世間には争ひを絶対に排斥し、如何なる場合に於ても争ひをするといふことは宜しくない、『人若し爾の右の頰を打たば、左の頰をも向けよ』などと説く者もある、斯んな次第で、他人と争ひをするといふことは処世上に果して利益になるものだらうか、将た不利益を与へるものだらうか、この実際問題になれば、随分人によつて意見が異なることだらうと思ふ、争ひは決して排斥すべきで無いと言ふものがあるかと思へば、又絶対に排斥すべきものだと考へて居る人もある。

 私一己の意見としては、争ひは決して絶対に排斥すべきものでなく、処世の上にも甚だ必要のものであらうかと信ずるのである、私に対し、世間では余りに円満過ぎる、などとの非難もあるらしく聞き及んで居るが、私は漫りに争ふ如き事こそせざれ、世間の皆様達がお考へになつて居る如く、争ひを絶対に避けるのを処世唯一の方針と心得て居るほどに、さう円満な人間でも無い。

 孟子も告子章句下に於て『無敵国外患者、国恒亡』と申されて居るが、如何にも其の通りで、国家が健全なる発達を遂げて参らうとするには、商工業に於ても、学術技芸に於ても、外交に於ても、常に外国と争つて必ず之に勝つて見せる、といふ意気込みが無ければならぬものである、啻に国家のみならず、一個人におきましても、常に四囲に敵があつて之に苦められ、その敵と争つて必ず勝つて見ませうとの気が無くては、決して発達進歩するもので無い。

 後進を誘掖輔導せらる〻先輩にも、大観した所で、二種類の人物があるかの如くに思はれる、その一は、何事も後進に対して優しく親切に当る人で、決して後進を責めるとか、苛めるとかいふやうな事をせず、飽くまで懇篤と親切とを以て後進を引立て、決して後進の敵になる如き挙動に出でず、如何なる欠点失策があつても、猶ほ其の後進の味方になるを辞せず、何所々々までも後進を庇護して行かうとするのを持前とせられて居る、斯ういふ風な先輩は、後進より非常の信頼を受け、慈母の如くに懐かれ慕はる〻ものであるが、斯る先輩が果して後進の為に真の利益になるか如何かは、些か疑問である。

 他の種類は恰度これの正反対で、何時でも後進に対するに敵国の態度を以てし、後進の揚足を取ることばかりを敢てして悦び、何か少しの欠点が後進にあれば、直ぐガミガミと怒鳴りつけて、之を叱り飛ばして完膚なきまでに罵り責め、失策でもすると、もう一切かまひつけぬといふ程に、つらく後進に当る人である、斯く一見残酷なる態度に出づる先輩は、往々後進の怨恨を受けるやうな事もあるほどのもので、後進の間には甚だ人望の乏しいものであるが、斯る先輩は果して後進の利益にならぬものだらうか、この点は篤と青年子弟諸君に於て熟考せられて然るべきものだらうと思ふ。

 如何に欠点があつても、又失策しても、飽くまで庇護して呉れる先輩の懇篤なる親切心は、誠に有難いものであるに相違ないが、か〻る先輩しかないといふ事になれば、後進の奮発心を甚しく沮喪さするものである、仮令失策しても先輩が恕して呉れる、甚しきに至つては、如何なる失策をしても、失策すれば失策したで先輩が救つて呉れるから、予め心配する必要は無いなど、至極暢気に構へて、事業に当るにも綿密なる注意を欠いたり、軽躁な事をしたりするやうな後進を生ずるに至り、どうしても後進の奮発心を鈍らす事になるものである。

 之に反し、後進をガミ〳〵責めつけて、常に後進の揚足を取つてやらう〳〵といふ気の先輩が上にあれば、その下にある後進は、寸時も油断がならず、一挙一動にも隙を作らぬやうにと心懸け、あの人に揚足を取られる様な事があつてはならぬから、と自然身持にも注意して不身持なことをせず、怠るやうなことも慎み、一体に後進の身が締るやうになるものである、殊に後進の揚足を取るに得意な先輩は、後進の欠点失策を責めつけ、之を罵り嘲るのみで満足せず、その親の名までも引き出して、之を悪ざまに言ひ罵り、「一体貴公の親からして宜しく無い」なぞとの語を能く口にしたがるものである、随つて斯る先輩の下にある後進は、若し一旦失敗失策があれば、単に自分が再び世に立てなくなるのみならず、親の名までも辱しめ、一家の恥辱になると思ふから、どうしても奮発する気になるものである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.30-35

参考記事:実験論語処世談(十一)(『竜門雑誌』第335号(竜門社, 1916.04)p.11-22)

サイト掲載日:2024年03月29日