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◎文明人の貪戻

 全欧の事変に就て初め私の予想は全く外れた、既に其の観察を誤つた私は、将来も亦見込違ひをするであらうと恐懼して居る、併しながら私の観察の誤つた所以は、私の予想以上に暴虐の人があつたからである、謂ゆる『一人貪戻なれば、一国乱を作す』といふ古訓が、事実として全欧洲に現はれて来たからである、文明の世には有り得べからざるものとの想像が過誤の観察となつたのである、果して然らば、私の智の到らざりしが為でもあらうが、私は却つて文明人の貪戻なる結果ではなからうかと、冷笑せざるを得ないのである。

 此の事変の終局は如何になるであらうか、私の如き近眼者流には予言することは出来ないけれども、結局は列強並び相疲る〻か、或は一方の威力が衰へて、其極或る条件の下に終局を見るであらうか、歴史家は、百年を経ると地図の色が変ると言うて居るが、我々は又之に由つて、商工業の勢力の移りゆく様を見ねばならぬ、将来の商工業は如何に変化するであらうか、其の変化に就て、我々は如何なる覚悟を以て之に応ずべきであらうか、我々の考慮すべき所、用意すべき点は詰り此所に在るのだ、私は政治上若くは軍事上に就て述ぶることを好まぬ、また其の知識をも持たぬのである、故に今私の言はんと欲する所は、単に商工業に関する方面に限らる〻のであるが、今後地図の変化に伴ふ商工業勢力範囲の変化に就て、適切なる準備と実行の責任とは、未来の当事者に在るのである、而して此の未来の当事者なるものは、現時の青年を除いて外にない、青年たる者は今日よりして審思熟慮、之に対する策を講ずべきである。

 何れの国家に於ても、自国の商工業を発達せしめんとするには、海外に我が国産の販路を求め、人口の増殖するに於ては領土を拡むることを講ずるのみならず、様々なる策略を以て自己の勢力の増大を図るのである、現に欧洲列強が五大洲に雄飛して居る所以は、全く是等の事情に由るものであつて、優越なる位地を占むるものは、特に優越なる国家と称せらる〻のである、彼の独逸皇帝今回の行動の如き、此点より企図せられたものであると思はれる、従来皇帝が内地の殖産に、海外の殖民に留意せらる〻ことは容易ならざるものにて、若しも少しく其点に就て注意するならば、何人と雖も、皇帝が何故に此くまで仔細に心を労せられるかと云ふことを感ぜずには居られまい、例へば、英仏に対する商工業の競争は勿論、日露戦後、日本雑貨が各地に歓迎さる〻を見れば、直ちに之を模造する、総じて学術技芸には能ふ限りの保護と便利とを与へ、商工業は常に政治兵備と相聯絡し、中央銀行の如きも力を尽して商工業の便宜、資金の融通を計るといふやうに、如何に彼等上下一致して富国に従事して居るか〻゙ 窺知し得られる、又その学問に於ても化学、発明、技術、精妙、実に行届くことは一通りではない、それは今回の戦乱の為に、遠き我国の如きをして、薬品染料等の欠乏に窮せしめたる事実に見るも、彼国の力が世界の隅々まで及んで居ることが分かる、故に自国の拡大のみを企図する貪戻心は実に厭ふべきであるが、官民一致その国の富強を勉むるの努力は感服の外はないのである。

 翻つて我国の商工業を見るに、多くは不統一にして振はず、殊に戦乱の影響を受け、生糸の値は下落し、綿糸綿布の販路は渋滞し、総じて取引は萎靡し、有価証券の価は下落し、新たなる事業は起らざるの状態にある、併し早晩是等は恢復することも予想に難くないのであるから、此際一時の困難は堪へ難くとも、当業者は大に勇気を起さねばならぬ所である、又一方には此の事変は大に乗ぜざるべからざる好時機と思ふ、今日我が実業家は目前の不景気に畏縮するやうであるけれども、其れは甚だ無気力の行為である、唯その著目を誤らぬやうにして戦中十分なる研究を積み、漸次実物の効果のあるやうに努めて行きたいのである、殊に支那に対する商工業の如きは、境は接近し居る、人情風俗共に欧米人に比すれば縁故最も深いのである、然るに其の関係に於ては、往々にして他列強に比して大に遜色あるは実に心細い極みである、吾人は須らく進んで支那の富源を開発し、其の産業を進め、其の販路を拡めて、通商上の利益を増加するやうに心掛けねば為らぬ、我が国民の今日まで支那に対する商工業経営の態度を見るに、兎角個々別々であつて、其の間に少しも聯絡がない、独逸の政治経済機関が統一して密接な関係を保つて居るのを見るにつけても、我が国民が此の歴史的に於ても、将た人種的に於ても、幾多の便宜を有する国柄なるに関はらず、彼等の後へに瞠若たるやうではならぬ、而して此の覚悟は特に我が青年に対して最も望ましき所である、何うか今日の青年諸氏は斯る所に注目して力を入れて貰ひたいのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.312-318

出典:青年の覚醒 : 白耳義の思出(『竜門雑誌』第318号(竜門社, 1914.11)p.19-22)

サイト掲載日:2024年11月01日