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◎得意時代と失意時代

 凡そ人の禍は多くは得意時代に萠すもので、得意の時は誰しも調子に乗るといふ傾向があるから、禍害は此の欠陥に喰ひ入るのである、されば人の世に処するには此点に注意し、得意時代だからとて気を緩さず、失意の時だからとて落胆せず、常操を以て道理を蹈み通すやうに心掛けて出ることが肝要である、其れと共に考へねばならぬことは大事と小事とに就て〻゙ ある、失意時代なら小事も尚ほ能く心するものであるが、多くの人の得意時代に於ける思慮は全く其れと反し、『なにこれしきのこと』と云つたやうに、小事に対しては殊に軽侮的の態度を取り勝ちである、併しながら得意時代と失意時代とに拘はらず、常に大事と小事とに就ての心掛を緻密にせぬと、思はざる過失に陥り易いことを忘れ[て]はならぬ。

 誰でも目前に大事を控へた場合には、之を如何にして処置すべきかと、精神を注いで周密に思案するけれども、小事に対すると之に反し、頭から馬鹿にして不注意の中に之をやり過して了うのが世間の常態である。但し箸の上げ下しにも心を労する程小事に拘泥するは、限りある精神を徒労するといふもので、何も夫程心を用ふる必要の無いこともある、また大事だからとて、左まで心配せずとも済まされることもある、故に事の大小といふたとて、表面から観察して直ちに決する訳にはゆかぬ、小事却つて大事となり、大事案外小事となる場合もあるから、大小に拘はらず、その性質をよく考慮して、然る後に相当の処置に出るやうに心掛くるのが宜いのである。

 然らば大事に処するには如何にすれば宜いかといふに、先づ事に当つて能く之を処理することが出来やうかと云ふことを考へて見なければならぬ、けれども其れとて人々の思慮に因るので、或人は自己の損得は第二に置き、専ら其事に就て最善の方法を考へる、又或人は自己の得失を先にして考へる、或は何物をも犠牲として其事の成就を一念に思ふ者もあれば、之と反対に自家を主とし、社会の如きは寧ろ眼中に置かぬ打算もあらう、蓋し人は銘々その面貌の変つて居る如く、心も異つて居るものであるから、一様に言ふ訳には行かぬが、若し余にどう考へるかと問はるれば、次の如く答へる、即ち事柄に対し如何にせば道理に契ふかを先づ考へ、而して其の道理に契つた遣方をすれば国家社会の利益となるかを考へ、更に此くすれば自己の為にもなるかと考へる、さう考へて見た時、若しそれが自己の為にはならぬが、道理にも契ひ、国家社会をも利益するといふことなら、余は断然自己を捨て、道理のある所に従ふ積りである。

 斯く事に対して是非得失、道理不道理を考査探究して、然る後に手を下すのが事を処理するに於て宜しきを得た方法であらうと思ふ、併し考へるといふ点から見れば、孰れにしても精細に思慮しなくてはならぬ、一見して之は道理に契ふから従ふがよいとか、之は公益に悖るから棄てるが宜いとかいふが如き早飲込はいけない、道理に合ひさうに見えることでも、非道理の点はなからうかと右からも左からも考へるが可い、また公益に反するやうに見えても、後々には矢張世の為になるものではなからうかと、穿ち入つて考へなくてはならぬ、一言にして是非曲直、道理非道理と速断しても、適切でなければ折角の苦心も何にもならぬ結果となる。

 小事の方になると、悪くすると熟慮せずに決定して了ふことがある、それが甚だ宜しくない、小事といふ位であるから、目前に現はれた所だけでは極めて些細なことに見えるので、誰も之を馬鹿にして念を入れることを忘れるものであるが、此の馬鹿にして掛る小事も、積んでは大事となることを忘れてはならぬ、また小事にも其の場限りで済むものもあるが、時としては小事が大事の端緒となり、一些事と思つたことが後日大問題を惹起するに至ることがある、或は些細なことから次第に悪事に進みて、遂には悪人となるやうなこともある、それと反対に小事から進んで次第に善に向ひつ〻行くこともある、始めは些細な事業であると思つたことが、一歩々々に進んで大弊害を醸すに至ることもあれば、之が為め一身一家の幸福となるに至ることもある、是等は総て小が積んで大となるのである、人の不親切とか我儘とかいふことも、小が積んで次第に大となるもので、積り積れば政治家は政治界に悪影響を及ぼし、実業家は実業上に不成績を来し、教育家はその子弟を誤るやうになる、されば小事必ずしも小でない、世の中に大事とか小事とかいふものはない道理、大事小事の別を立て〻兎や角といふのは、畢竟君子の道であるまいと余は判断するのである、故に大事たると小事たるとの別なく、凡そ事に当つては同一の態度、同一の思慮を以て之を処理するやうにしたいものである。

 之に添へて一言して置きたいことは、人の調子に乗るは宜くないといふことである、『名を成すは常に窮苦の日にあり、事を敗るは多く得意の時に因す』と古人も云つて居るがこの言葉は真理である、困難に処する時は丁度大事に当つたと同一の覚悟を以て之に臨むから、名を成すはさういふ場合に多い、世に成功者と目せらる〻人には、必ず『あの困難をよく遣り遂げた』、『あの若[苦]痛をよく遣り抜いた』といふやうなことがある、これ即ち心を締めて掛つたといふ証拠である、然るに失敗は多く得意の日に其の兆をなして居る、人は得意時代に処しては恰も彼の小事の前に臨んだ時の如く、天下何事か成らざらんやの槩を以て、如何なることをも頭から呑んで掛るので、動もすれば目算が外れて飛んでもなき失敗に落ちて了ふ、それは小事から大事を醸すと同一義である、だから人は得意時代にも調子に乗るといふこと無く、大事小事に対して同一の思慮分別を以て之に臨むが可い、水戸黄門光圀公の壁書中に『小なる事は分別せよ、大なることに驚くべからず』とあるは、真に知言と謂ふべきである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.43-49

出典:大事と小事(『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.480-485)

サイト掲載日:2024年11月01日