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『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.480-485
六五、大事と小事
凡そ人の禍は多くは得意時代に萠すもので、得意の時は誰しも調子に乗るといふ傾向があるから、禍害は此の欠陥に喰ひ入るのである。されば人が世に処するには此の点に注意し、得意時代だからとて気をゆるさず、失意の時だからとて落胆せず、常操を以て道理を踏み通す様に心掛けて出る事が肝要である。それと共に考へねばならぬことは大事と小事とに就いてゞある。失意時代なら小事も尚能く心するものであるが、多くの人の得意時代に於ける思慮は全くそれと反し、『なにこれしきのこと』と云つたやうに小事に対しては殊に軽侮的の態度を取り勝ちである。併しながら、得意時代と失意時代とに拘らず、常に大事と小事とに就いての心掛を緻密にせぬと、思はざる過失に陥り易いことを忘れてはならぬ。
誰でも大事を目前に控へた場合には、此を如何にして処置すべきかと、精神を注いで周密に思案するけれども、小事に対するとこれに反し、頭から馬鹿にして不注意の中にこれをやり過して仕舞ふのが世間の常態である。但し箸の上げ下しにも心を労する程小事に拘泥するは、限ある精神を徒労するといふもので、何もそれ程心を用ふる必要の無いこともある。また大事だからとて左まで心配せずとも済される事もある。故に事の大小というたとて、表面から観察して直ちに決する訳にはゆかぬ。小事却て大事となり、大事案外小事となる場合もあるから、大小に拘らず、其の性質をよく考慮して、然る後に相当の所置に出るやうに心掛くるがよいのである。
然らば大事に処するには如何にすればよいかといふに、先づ事に当つて能く之を処理することが出来ようかといふことを考へて見なければならぬ。けれどもそれとて人々の思慮に因るので、或る人は自己の損得は第二に置き、専ら其の事に就いて最善の方法を考へる。又或る人は自己の得失を先にして考へる。或は何物をも犠牲として其の事の成就を一念に思ふ者もあれば、之と反対に自家を主とし、社会の如きは寧ろ眼中に置かぬ打算もあらう。蓋し人は銘々其の面貌の変つて居る如く、心も異つて居るものであるから一様に云ふ訳にはゆかぬが、若し余にどう考へるかと問はるれば次の如く答へる。即ち事柄に対し如何にせば道理に協ふかを先づ考へ、而して其の道理に協つたやり方をすれば国家社会の利益となるかを考へ、更に斯くすれば自己の為にもなるかと考へる。左様考へて見た時、若しそれが自己の為にはならぬが、道理にも協ひ、国家社会をも裨益するといふことなら、余は断然自己を棄てゝ道理のある所に従ふ積りである。
斯の如く事に対して是非得失、道理不道理を考査探究して、然る後に手を下すのが事を処理するに於て宜しきを得た方法であらうと思ふ。併し考へるといふ点から見れば、孰れにしても精細に思慮しなくてはならぬ。一見して之は道理に協ふから従ふがよいとか、これは公益に悖るから棄てるがよいとかいふが如き早飲込はいけない。道理に合ひさうに見えることでも、非道理の点はなからうかと右からも左からも考へるがよい。又公益に相反する様に見えても、後々には矢張世の為になるものではなからうかと、穿ち入つて考へなくてはならぬ。一言にして是非曲直、道理非道理と速断しても、適切でなければ折角の苦心も何にもならぬ結果となる。
小事の方になると悪くすると熟慮せずに決定して仕舞ふことがある。それが甚だ宜しくない。小事といふ位であるから、目前に表れた所だけでは極めて些細のことに見えるので、誰もこれを馬鹿にして念を入れることを忘れるものであるが、此の馬鹿にしてかゝる小事も積んでは大事となることを忘れてはならぬ。また小事にも其の場限りで済むものもあるが、時としては小事が大事の端緒となり一些事と思つたことが後日大問題を惹起するに至ることがある。或は些細のことから次第に悪事に進みて、遂には悪人となるやうな事もある。それと反対に小事から進んで、次第に善に向ひつゝゆく事もある。始めは些細の事業であると思つたことが、一歩々々に進んで大弊害を醸すに至ることもあれば、それが為め一身一家の幸福となるに至ることもある。これ等は総て小が積んで大となるのである。人の不親切とか我儘とかいふことも、小が積んで次第に大となるもので、積り積れば政治家は政治界に悪影響を及し、実業家は実業上に不成績を来し、教育家はその子弟を誤らせる様になる。されば小事必ずしも小でない。斯く観じ来れば、世の中に大事とか小事とかいふものは無い道理。大事小事の別を立てゝ兎や角といふのは、必竟君子の道であるまいと余は判断するのである。故に大事たると小事たるとの別なく、凡そ事に当つては同一の態度、同一の思慮を以てこれを処理するやうに仕度いものである。
大事小事に添へて一言して置き度いことは、人は調子に乗るはよくないといふことである。『名を成すは毎に窮苦の日にあり、事を敗るは多く因す得意の時』と古人も云うて居るが、この言葉は真理である。困難に処する時は丁度大事に当つたと同一の覚悟を以てこれに臨むから、名を成すは多く左様いふ場合に多い。世に成功者と目せらるゝ人には、必ず『あの困難をよくやり遂げた』『あの苦痛をよくやり抜いたものだ』といふ様なことがある。これ即ち心を締めてかゝつたといふ証拠である。然るに失敗は多く得意の日に其の兆を為して居る。人は得意時代に処しては恰も彼の小事の前に臨んだ時の如く、天下何事か成らざらんやの慨[概]を以て如何なることをも頭から飲んでかゝるので、動もすれば目算が外れて飛んでもなき失敗に落ちて仕舞ふ。それは小事から大事を醸すと同一義である。だから人は得意時代にも調子に乗るといふことなく、大事小事に対して同一の思慮分別を以てこれに臨むがよい。水戸黄門光圀公の壁書中に『小なる事は分別せよ、大なることに驚くべからず』とあるは真に知言といふべきである。