テキストで読む

人物過剰の一大原因

 経済界に需要供給の原則がある如く、実社会に投じて活動しつ〻ある人間にも、亦此の原則が応用されるやうである、言ふまでもなく、社会に於ける事業には一定の範囲があつて、使ふだけの人物を雇ひ入れると、それ以上は不必要になる、然るに一方人物は年々歳々沢山の学校で養成するから、未だ完全に発達せぬ我が実業界には、迚も夫等の人々を満足させるやうに使ひ切ることは不可能である、殊に今日の時代は高等教育を受けた人物の供給が過多になつて居る傾が見える、学生は一般に高等の教育を受けて、高尚の事業に従事したいとの希望を持つてか〻るから、忽ち其所に供給過多を生じなければ止まぬことに為つて仕舞ふ、学生が此の如き希望を懐くのは、個人としては勿論嘉すべき心掛であるが、これを一般社会から観、或は国家的に打算したら如何であらうか、余は必ずしも喜ぶべき現象として迎へることは出来ないやうに思はれる、要するに、社会は千篇一律のものでは無い、従つて之に要する人物にも色々の種類が必要で、高ければ一会社の社長たる人物、卑くければ使丁たり車夫たる人物も必要である、人を使役する側の人は少数なのに反し、人に使役される人は無限の需要がある、左れば学生が此の需要多き、人に使役さる〻側の人物たらんと志しさへすれば、今日の社会と雖も未だ人物に過剰を生ずるやうな事はあるまいと考へる、然るに今日の学生の一般は、其の少数しか必要とされない、人を使役する側の人物たらんと志して居る、つまり学問して高尚な理窟を知つて来たから、馬鹿らしくて人の下なぞに使はれることは出来ないやうになつて仕舞つて居る、同時に教育の方針も亦若干その意義を取り違へ、無暗に詰込主義の智識教育で能事足れりとするから、同一類型の人物ばかり出来上り、精神修養を閑却した悲しさには、人に屈するといふことを知らぬので、徒らに気位ばかり高くなつて行くのだ、此の如くんば人物の供給過剰も寧ろ当然のことではあるまいか。

 今更、寺小屋時代の教育を例に引いて論ずる訳ではないが、人物養成の点は不完全ながらも昔の方が巧くいつて居た、今日に比較すれば教育の方法なぞは極めて簡単なもので、教科書と言つた所で、高尚なのが四書五経に八大家文位が関の山であつたが、それに依つて養成された人物は、決して同一類型の人物ばかりでは無かつた、それは勿論教育の方針が全然異つて居たからではあらうけれども、学生は各〻其の長ずる所に向うて進み、十人十色の人物となつて現はれたのであつた、例へば、秀才はどん〳〵上達して高尚の仕事に向うたが、愚鈍の者は非望を懐かずに下賤の仕事に安んじて行くといふ風であつたから、人物の応用に困るといふやうな心配は少かつた、然るに今日では教育の方法は極めて宜いが、其の精神を穿き違へて居る為に、学生は自己の才不才、適不適をも弁へず、彼も人なり我も人なり、彼と同一の教育を受けた以上、彼のやる位のことは自分にもやれるとの自負心を起し、自ら卑しい仕事に甘んずる者が少いといふ傾向である、これ昔の教育が百人中一人の秀才を出したに反し、今日は九十九人の普通的人物を造るといふ教育法の長所ではあるが、遺憾ながら其の精神を誤つたので、遂に現在の如く中流以上の人物の供給過剰を見るの結果を齎らしたのである、併し同じ教育の方針を執りつ〻ある、欧米先進国の有様を見るに、教育に因つて斯る弊害を生ずることは少いやうに思ふ、殊に英国の如きは我国に於ける現時の状態とは大に違うて、十分なる常識の発達に意を用ゐ、人格ある人物を造るといふ点に注意して居るやうに見える、固より教育のことに関して其の多くを知らぬ余の如き者の容易に容喙さるべき問題ではないが、大体から観て今日のやうな結果を得る教育は、余り完全なるものであるとは謂はれまいと思ふ。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.378-382

参考記事:就職難善後策(『青淵百話』(同文館, 1912.06)p.293-301)

サイト掲載日:2024年03月29日