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『竜門雑誌』第311号(竜門社, 1914.04)p.21-26

◎海軍収賄事件に就て

青淵先生

本篇は青淵先生の談として実業之世界四月一日発行の誌上に掲載せるものなり(編者識)

▲人情の弱点

 今回の海軍収賄事件は、意外な出来事であつて、一般世人の疑惧懸念の状を増さしめたのは、実に憂ふ可き事である。

 総じて罪悪は、種々な理由から生ずるのであるが、殊に利益に関して最も罪悪が行はれ易いのである。利益は主に貨財を目的とするのである、貨財は之を見れば欲しくなり、之を得れば益々多く得たく思ふのが、人情の弱点であるので、智慮才徳のある人でも、是れ位のことは他に知れはせまいと思ふて、遂に賄賂に手を出すやうな事にもなり、一旦手を出せば、段々に其慾が嵩じて来て、不知不識罪悪を重ぬる様な例が、世間に乏しくない。然しそういふ罪悪も独でするのは、余り大袈裟でないが、次第に多数の者が寄り集つて、申し合せて遣るやうになると、段々事が大袈裟になる。例へば窃盗の類が夜コツソリ忍び入つて、物を盗むとか、或は他人の懐中から紙入を掏り取るとか云ふのは、其罪悪の及ぶ所が、比較的小さいけれども、今回の収賄事件のやうなのは、其の範囲が非常に大きい、一人よりは二人、二人よりは三人と、段々大仕掛けに罪悪を行ふことが出来る、表面には何の気振も見えぬやうに、隠微の間に大なる罪悪が行はれ、従つて其弊害も亦頗る大きい。

▲弊害生じ易し

 斯様な不正の事柄が、個人の間にも能く行はれる、商人同志の間にも、亦商人以外の間にも、其事が必無とは云はれない。売買取引の間に能く行はれ易いのである。普通の塲合ならば、左う云ふ事の起り得られないものだが、利害の関係が他に在つて、取扱ふ者の間に、直接の利害関係がない塲合に、多く左様な不正が行はれる。例へば主人に利害があつて、番頭同志に利害の関係のない様な塲合には兎もすれば、行はれ勝ちなのである。或は主人番頭と云ふ関係でなく、利害が第三者にあつて、実地其取引に当る、第一、第二者の間に行はれる様な例が少なくない。斯様な塲合には其取扱に当るものが、実着正直の人でなければ、自らそう云ふ弊害が生じ易い。想ふに、海軍の収賄なども斯様な事情から起つたものと想像される。

▲遺憾又遺憾

 由来、官府の物品買上げに就ては、却々厳しい規則がある。会計法もあれば、物品買上規則もある。其手続は一人一個で取扱ひ切れるものでなく、夫々の係を渡つて、吟味し合ふものであると思ふ。其等に関する手続は、遺憾なく整頓されて居る筈である、殊に日本の官憲に於ては、会計法などは、海外の其れよりも、一層厳密に出来て居つて、寧ろ窮窟に過る位であると想ふ。で、我国に於て、左様な不正の行はれ可き筈がないと思はれるけれども、事実に行はれて居つたと云ふのは、誠に驚くべき限りで、遺憾又遺憾な事である。

▲御用商人と不心得な役人

 元来、御用商人と云へば、兎角世間では、何にか罪悪を含み居るもの〻如く、悪感情を以て迎へ、あれは御用商人であると云ふ。其御用商人と云ふ語には、厭な響きを持て居る、私共も御用商人と指し呼ばれるならば、甚だ心持ちが善くない。即ち御用商人と云へば、金の力を以て、権勢に媚びる者而して廉潔実直な事のみをして居られぬ性質の業体のものだと云ふ様に、一般の人に見做されて居るのは、心外な事である。然しながら、海外の其道の者でも、又内地の其道のものでも、私共の見る所では、皆相当の資力ある人であつて、能く道理を弁へて居る。面目を重んじ、信用を大切にする。斯様に自ら省る底の人であれば、必ず是非善悪の判断に、迷はぬ訳であるから、少々官府の人から、如何はしい申出であつたからとて、オイソレと直ぐに応諾は為さないかと思はれる、或は取扱上の面倒などがあるので、正当なる売買以外の極軽く微な何等かの事があるかも知れないけれども、今回発覚した海軍収賄事件のやうな大仕懸な罪悪は、苟も双方悪い考が一致しなければ出来ぬ筈である。よしや一方から賄賂を贈つて来ても、一方が是を受けぬと云へば仕方がない。又役人に不心得な者があつて、婉曲に或は露骨に贈賄を促したからとて、御用商人たる実業家が自己の良心に省みて、面目信用を大切に思ふ者ならば、必ず左様な要請には応じない筈である。已むを得ずば其取引を断つても、左様な罪悪は成立せめ[ぬ]やうに為ることが出来る筈である。私共は、爾あるべきものと確く信じて居る。

▲一人の貪戻一国の乱

 然るに海軍収賄事件の事実に徴するに、軍艦であるとか、軍需品であるとか、其納入に就て贈賄が行はれたと云ふのである。又単りシーメンス会社にのみ左様な事があつたと云ふのではない。凡そ主なる物品の買上には、殆ど贈賄行為が伴ふて居ると云ふことである。海軍のみならず、陸軍にも亦其事が多く行はれて居ると云ふことである。甚しきは、其買上られた品物が、表面の価格よりは、実質が頗る劣つて、何処かに完備を欠いて居る所の脆弱なものであると云ふやうな疑惑を被ると云ふのは何事であるか、実に慨はしい次第でないか。大学に『一人貪戻なれば一国乱をなす』と云ふ語がある。是は何も貪慾とか収賄とか云ふやうな事を意味してゐるのではないけれども、収賄貪慾と云ふ底の、人の些細な私曲から延いて天下を聳動するやうな大事にも立至ると云ふ事は、実に怖しい事と申さねばならない。

▲実業界の不正行為

 以前、私は斯様な不正な贈賄を為す実業家は、海外にはありもしやうが、日本にはありはしなからうと思つて居たが、若し左様な海外の実業家に、紛らはしいやうな、実業家が我が実業家中にもありと云ふのでは、甚だ以て遺憾に禁へない。今回の事件は、真か偽か、単に一片の風説にに[風説に]過ぎないかは判然しないが、遂に三井の人までも其の嫌疑の下に、検挙されたのは、甚だ以て痛心の至りである。斯様な事件は、何うか何にかの間違ひであらせたいと、深く祈つて居る訳である。畢竟斯様な事件の、発生すると云ふのも、仁義道徳と生産殖利とを別々に考へて取扱ふからであらうと思はれる。生産殖利は正しき道に依つて、経営すべきものだと云ふ観念が、我々お互に実業家間の、信条となつて居るならば、外国の人は兎に角、日本の実業家中に、左様な不正を働くもの〻、無いと云ふ事を誇り得るでもあらう。縦しや相手方の人が、貪慾心に駆られ、内々これ〳〵のことをした、乃公の労に酬ゐろと云ふ様な顔色を示したり、甚だしきは、露骨に口に出して、左様な申出をするやうな塲合にも、其れは正義に反く行為であるから、私には出来ぬと云つて、キツパリ断はる位の覚悟を以て、商売をしたならば、必ず左様な誘導は起るものではないのである。茲に於て私は、益々実業家の人格を高めることの必要を痛切に感ずるのである。実業界に不正の行為が跡を断ぬ様では、国の安全を期することが出来ないと云ふ迄に、深く私は憂へて居る。

▲我が帰一協会の趣旨

 私共の組織して居る、帰一協会と云ふのがある。帰一と云ふのは外でもない、世界の各種の宗教的観念、信仰等は、終に一に帰する機のないものであらうか、神と云ひ、仏と云ひ、耶蘇と云ひ、人間の踏む可き道理を説くものである。東洋哲学でも、西洋哲学でも、其の論ずる所は、東西習俗の異なるに従つて、自然些細な事抦の差はあるけれども、その帰趣は一途のやうに思はれる、『言忠信、行篤敬なれば、蛮狛と雖も行はれん』と云ひ、反対に、『言忠信ならず、行篤敬ならざれば、州里と雖も、行はれんや』と言つて居るのは、之れは千古の格言である、若し人に忠信を欠き、行が篤敬でなかつたならば、親戚故旧たりとも、其人を厭がるに違ひない。西洋の道徳も、矢張り同じ様な意味の事を説いて居る。但だ西洋の流義は、積極に説き、東洋の流義は幾分が消極に説いてある。例へば『己れの欲せざる所、旃を人に施す勿れ』と孔子教では説いてあるのに、耶蘇の方では、『己の欲する所、是を人に施せ』と反対に説いてあるやうなもので、幾分かの相違はあるけれども、悪い事をするな、善いことをせよと云ふ、言ひ表はし方の差異で、一方は右から説き、一方は左から説き而して帰する所は一である。斯様な程合のもので、深く研究を進めるならば、宗派を分ち、門戸を異にして、甚しきは、相軋る、相凌ぐと云ふやうな事は、馬鹿らしい事であらうと考へられる。凡てに於て、帰一が出来るか否かは判らぬけれども、或る程度の帰一を期し得るものなれば、左様あらしめたいと云ふ所で組織せられたのが、即ち帰一協会である。

 組織以来、殆ど一年余り経過して居る。内地人ばかりでなく、欧米人も多少は会員に成つて居る。先晩も其の会合があつた、英人も米人も来会した。而して或問題に就てお互に研究し合つた。私は則ち仁義道徳と生産殖利と云ふことは一致すべきものであり、一致させたいものであることに就て、自分が四十年来其事に、心を労して居る実験談を試みた。然しながら、道理は左様であるけれども、之に反する事実が、屡々世間に現はれるのは、真に情ない次第である。

▲道徳と殖利との一致

 之に対し来会せる内外の学者から、種々の議論が出た。平和協会のボールス氏とか、井上博士とか、塩沢博士とか、中島力造博士、菊池大麓男なども居て、夫々の意見を述べられた、つまり、全然帰一と迄は行かないにしても、必ず或程度迄は帰一し得らるべきものである。世の中の物事が、ひよつと横道にそれる様な事もあるが、其れは其の事柄が悪いので、其の為めに真理は少しも晦まされるものでない。昔は斯うであつたとか、斯う云ふ理論もあるとか、種々な説明があつて、仁義道徳と、生産殖利とは、必ず一致すべきもの、又一致せなければ、真正の富を作り成し、之を永久に捕捉することの出来ないものであると云ふことに、大抵議論が帰着しやうと思ふと云ふ様な事であつた。若し果して、斯う云ふ論旨が、充分に徹底して、世の中に皷吹せられ、生産殖利は必ず仁義道徳に依らねばならぬと云ふ観念が打成されたならば、仁義道徳に欠ける行為は、自ら止むに至るであらう。例へば御用物品の買上げに従ふ職司の人も、賄賂は仁義道徳に背くと心付けば、迚も賄賂を収め得るものでない。御用商人の側から云ふても、仁義道徳に背戻すると思へば、賄賂を行ふことは出来ない。

▲斯く不正は除くべし

 此の関係を押し進めて、政治にせよ、法律にせよ、軍事にせよ、あらゆる事柄を、此の仁義道徳に一致させなければいけない。一方は仁義道徳に従つて、正しき商売の道を踏んでも、一方が賄賂を要請すると云ふ様な、片跛ではいけない。世の中の事は、殆ど車を廻はす様なもので、お互に仁義道徳を守つて行かなければ、必ず何処かに扞格を生ずるものであるから、一切の事柄をして、仁義道徳に合致せしむるやうに相互に努めなければならぬ。此の主義を充分に拡大して広く社会に行ふならば、賄賂など〻云ふ様な、忌はしい事は自ら止むに至るであらう。

金力悪用の実例(仁義と富貴)

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