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『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.282-289
三八、社会に対する富豪の義務
社会の平和安寧を完全に保たんとするには、政治上将た社交上、弱者を憐んで此が救恤の方法を講ぜねばならぬ。而して公平にまた適切に救民策が行はるるならば、社会の秩序は何時も井然として一糸乱れぬ筈である。然るに世の富豪なる者は往々此の辺の事理を弁へず、彼は彼なり我は我なり、彼等貧困なりとも我が富を積むに於て何の顧慮あらん。富は取り徳なりといふ様に考へ、飽くまで我意を押通さうとするものがある。これ等は社会の秩序安寧を保全する上より論ずれば甚だ怪しからぬ行為と謂はねばならぬ。孔孟の教によつて自分は早くより此の事を深く感じ、凡そ富豪として社会に立つ以上は、自ら社会に尽すべき義務あることを自覚した。勿論自分の意見は東洋的であるから、今日の時代に当篏めては頗る時代遅れの感があるかは知らないが、如何に思想が古くても、仁義忠孝といふものは千載不磨で、其の根本に遡れば決して之に新旧の差別ある訳はないから、自分の意見とても、頭から古いとして必ずしも一概に排すべきものでは無からうと思ふ。
偖、自分は実業界の人となつたと同時に、上述の如き考からして、自分の力相応には今日まで養育院の為に尽力して来た。尤も養育院にも幾多の変遷があつて、未だ市会の無かつた明治十六年頃、東京府会は之を無用の長物として一時廃止さるゝの厄難に遇うた。其の当時は府の共有金を以て貧民救助を行つたものであつたが、府の方から止められては仕方が無いから、自分は同志者と謀り、之を私設として存続することにした。然るに二十二年に市政の施かれた時、再び同院を東京市に引渡す事となり、爾来今日に到るまで二十余年の日子を経過して来たが、此の間余は常に常設委員長として将た養育院長として、終始偸らぬ熱誠を以て其の事に当つて来た積りである。而して若し余も富豪の末の一人に数へらるゝの資格があるとすれば、自分は富豪として社会に尽すべきを尽して来たと考へるから、今日に於て心中聊かも疚しきを覚えないのである。
世人も既に知れる如く、東京市の人口は次第に増加し、事業も追々其の大を加へ、日清日露両戦役後の如き殊に其の著しきを感じた。斯の如きは一面東京市の繁栄と謂はねばなるまいが、併し他の一面、即ち養育院から観た所に依れば、繁昌に連れて貧窮民の増加したことも亦事実たるを免れない。即ち国家の富力が増進するに連れ、それと反対に貧民増加の事実は現在の東京市が之を証明して居る。併し乍ら、人は飢ゑたりとて黙して死を待つものではない。食はんが為には忍んで幾多罪悪を犯すものであるから、貧富の間が懸隔すればする程、彼等に対する救済の方法を講じなければ、社会の安寧秩序は到底保つことが出来なくなると思ふ。故に貧民救助は、これを広義に解釈すれば、社会の安寧秩序を保つに於て必要的条件であると謂へる。
元来日本の旧慣は家族制度で、人よりは家を重んじたものであつた。十代十五代に亘つて同名の人の連続して有つたのはその証拠で、例へば三井八郎右衛門は何代続いたものか解らぬ。斯く家を重んじた代りには、一族相救ひ一郷相助くるの美風も此の間に存在して居た。現に水戸藩の如きは、総じて農家の其の家を附属せる敷地はこれを世襲財産となし、何人たりともこれを売買質入する等の事は出来ぬ制度で、何処までも家といふものを続かせる策を講じてあつた位である。当時社会の風潮が斯うであつたから、家族は互に相救ひ[、]郷党は互に相助け合つたので、従つて此の間別に公共的救助の必要を認めなかつた。然るに泰西文明の輸入に連れ、諸事業は総て機械的となり、個人思想が次第に発達して来たから、此の間に介在して巧に手腕を揮ふ者は限り無き富を積むが、下手なものはまた反対に貧困に陥らざるを得なくなつた。詰り善きは何処までも善く、悪しきは何処までも悪しいといふことになつたから、是に於てか貧富の懸隔は愈〻甚しくなつて行く。しかもまたそれを自然の趨向と心得、一人の救済策を講ずるものもなく打捨て置くので、遂には彼の忌む可き社会主義の如き思想を生ずるに立ち至つたのだと思ふ。
余は従来、救貧のことは人道上より、将た又経済上よりこれを処理しなければならぬことゝ思うて居たが、今日に至つてはまた政治上よりもこれを施行せねばならぬことゝなつたと思ふ。余の友人は先年欧洲細民救助の方法を視察せんとして出発し、凡そ一年半の日子を費して帰朝したが、余も此の人の出遊に就いては多少助力した点から、帰朝後同趣味の人を集めて其の席上に報告演説を依嘱した。其の人の語る所を聞いて見ると、英国の如きは此の事業完成の為に殆ど三百年来苦心を継続して、今日纔に整備するを得た。又デンマルクは英国以上に整頓して居るが、仏、独、米なぞは今や各自各様に細民問題に力を注いで、一寸の猶予もないとのことである。而して海外の事情を見れば見るほど、久しい以前より自分共が力を注いで居た所に力を入れて居る様に思はれる。
此の報告会の時、自分も集会した友人に対して意見を述べた。それは『人道よりするも経済的よりするも、弱者を救ふは必然のことであるが、更に政治上より論じても、其の保護を閑却することは出来ない筈である。但しそれも人に徒食悠遊させよといふのではない。成るべく直接保護を避けて防貧の方法を講じたい。救済の方法としては、一般下級民に直接利害を及ぼす租税を軽減するが如きも、其の一法たるに相違ない。而して塩専売の解除の如きはこれが好個の適例である』といふ意味であつた。此の集会は中央慈善協会に於て開催したのであつたが、会員諸君も余の所説を諒とされ、今日と雖も其の方法等に就いて種々なる方面に向ひ相共に調査を続行しつゝある次第である。
如何に自ら苦心して築いた富にした所で、富は即ち自己一人の専有だと思ふのは大なる見当違ひである。要するに人は唯一人のみにては何事も為し得るものでない[。]国家社会の助に依つて自らも利し、安全に生存することも出来るので、若し国家社会が無かつたならば、何人たりとも満足に此の世に立つことは不可能であらう。これを思へば、富の度を増せば増すほど社会の助力を受けて居る訳だから、此の恩恵に酬ゆるに救済事業を以てするが如きは、寧ろ当然の義務で、出来る限り社会の為に助力しなければならぬ筈と思ふ。『己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す』といへる言の如く、自己を愛する観念が強ければ強いだけに、社会をも亦同一の度合を以て愛しなければならぬことである。世の富豪は先づ斯かる点に着眼しなくてはなるまい。
此の秋に方つて、畏くも 陛下は大御心を悩まし給ひ、御先例になき貧窮者御救恤の御下賜金を仰せ出させられた。此の洪大無辺の 聖旨に対し奉りて、富豪者は申合せぬ迄も[、]心中には何とかして聖恩の万分一にだも酬い奉らなくてはならぬと苦慮するであらう。是こそ余が三十年来一日も忘るゝ能はざりし願意で、謂はゞ願望が今日漸く達せられたといふもの。併し乍ら誠に長く心掛けて来た事だけに、有難き 聖旨を承るにつけても、前途が非常に明るくなつた感がして、心中の愉快は殆ど譬へやうがない。けれども此処に懸念すべきは其の救済の方法如何に就いてゞある。それが適度に行はるればよいが、乞食が俄に大名になつたといふ様な方法では、慈善が慈善でなく救恤が救恤でなくなる。それから最う一つ注意仕度いのは、 陛下の御心に副ひ奉らん為め富豪が資金を慈善事業に投ずるにしても、出来心の慈善、見栄から来た慈善は決して宜しくないと云ふことである。左様いふ慈善救済事業には得て誠実を欠くもので、其の結果は却て悪人を造るやうなことになり勝ちである。兎に角 陛下の大御心の存し給ふ所を思ひ、此の際富豪諸氏は社会に対する自己の義務を完うせられたい。これ実に畏き 聖旨に副ひ奉るのみか、二つには社会の秩序、国家の安寧を保持する上に於て、如何ばかりか貢献することが多からう。(〔明治四十四年二月下旬の談〕)