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『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.466-475

六三、常識の修養法

現代に必要なる常識

 常識が普通人間の性格に於て欠く可らざる要素であること、又処世上如何なる程度迄必要であるかに就いては今更喋々を要せざる所である。今日の如く社会が発達して、何事も一定の秩序を以て進む世の中にては、殊に常識の発達した人が必要になつて来た。実際仕事をする上に於ても、よし其の人に充分な学識はあるにもせよ、一面常識に於て欠くる所ありとすれば、其の学識はどうも十部が十部役に立たない。折角の学問も左まで効能を為さぬ様に思はれる。併し常識の権衡を得ない人が、特殊の場合に於てまゝ大豪傑となり、非凡人となつて嶄然頭角を現はさぬでもないが、それ等の人の人格を公平に判断すれば、仮令それが豪傑であり非凡人であるとするも、必竟それは性格に於て片輪の人と謂はねばならぬ。故に若し左様いふ人が時勢に適合し風雲に乗じて起つ時は、まゝ意想外の大事業を為さぬとも限らぬけれど、さも無い場合には空しく失意の中に此の世を終らなければならないから、それ等の人は却て国家にも郷党にも家庭にも厄介者となる虞があらうと思はれる。即ち自ら率先して国家を統べ社会に御するの地位に立ち得らるるならば、我が意の嚮ふに任せて事を行ひ得るから、没常識が却て偉大な事業を生まぬとも限らないが、若し周囲が秩序井然一糸の乱れをも許さない様な処に居らねばならぬならば、其の拘束に堪へ兼ね悶々として為す無き生涯を送らねばならぬであらう。それ等の例は昔の所謂英雄豪傑に沢山ある。尤も性格が片輪だからとて必ずしも事業を為し得ぬと断言出来ないから、余は夫等の人の在世を嫌ふ者ではないが、今日の如き秩序ある社会に於ては、一般世人が片輪でなく、総てが一様に調和し平等に発達することを希望する故、寧ろ常識的人物の輩出を渇仰する次第である。

常識とは何ぞ

 凡そ人として世に処するに際し、常識は何れの地位にも必要で、又何れの場合にも欠けてはならぬことである。然らば常識とは如何なるものであらうか。余は次の如く解釈する。即ち事に当りて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見分け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適ふ者がそれである。これを学理的に解釈すれば『智』[、]『情』、『意』の三者が各権衡を保ち平等に発達したものが完全の常識だらうと考へる。更に換言すれば普通一般の人情に通じ、能く通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力がそれである。人間の心を解剖して『智』、『情』、『意』の三つに分解したものは心理学者の唱道に基く所であるが、何人と雖も此の三者の調和を不必要と認める者は無からうと思ふ。『智慧』と『情愛』と『意志』との三者が有つてこそ人間社会の活動も出来、物に接触して能く効能をも現はしてゆけるものである。故に常識の根本原則たる『智』、『情』、『意』の三者に就いて少しく述べて見ようと思ふ。

 さて『智』は人に取つて如何なる働きをするものであらうか。人として智慧が十分に進んで居らねば物を識別する能力に不足を来すのであるが、此の物の善悪是非の識別が出来ぬ人や、利害得失の鑑定に欠けた人であるとすれば、其の人に如何程学識があつても、善いことを善いと認めたり、利あることを利ありと見分けをしてそれに就くわけにゆかぬから、左様いふ人の学問は宝の持ち腐れに終つてしまふ。此処を思へば智慧が如何に人生に大切であるかゞ知らるゝであらう。所が彼の宋の大儒程朱の如きは痛く此の智を嫌つた。それは智の弊としてやゝともすれば術数に陥り、欺瞞詐偽の生ずる場合がある。又功利を主とすれば智慧の働きが多くなり、仁義道徳の方面には遠くなるとの理由で之を疎外した。それが為に折角多方面に活用せしむべき学問が死物になり、唯己一身をさへ修めて悪事がなければよいと謂ふことになつて仕舞つた。是は大なる誤思謬見で、仮に一身だけ悪事がないからよいと手を束ねて居る人のみとなつたらどんなものであらうか。左様いふ人は世に処し社会に立つて何等の貢献する所もない。夫では人生の目的が那辺に存するかを知るに苦しまねばならぬ。とは云へ素より悪行があつては勿論不可ぬけれども、人は総て悪事に陥らずに、多くの世務を果す様でなければ、真の人間とは謂はれぬのである。若し智の働きに強い検束を加へたらその結果は如何であらう。悪事を働かぬことにはなりもしようが、人心が次第に消極的に傾き、真に善事の為にも活動する者が少くなつて仕舞はねばよいがと、甚だ心配に堪へぬ訳である。朱子は所謂『虚霊不昧』とか、『寂然不動』とか云ふやうな説を主張して仁義忠孝を説き、智は詐術に奔るものであるというて絶対にこれを嫌つたから、それが為に孔孟の教は偏狭に陥り、儒教の大精神を世人に誤解される様になつた点が少くないと思ふ。智は実に人心に取つて欠く可らざる大切の一要件である。故に余は智は決して軽視す可らざるものとして居る。

 智の尊ぶ可きものなることは実に前述の如くであるが、併し智ばかりで活動が出来るかといふに決して左様いふものでない。其処に『情』といふものを巧に案排しなければ、智の能力をして充分に発揮せしむることが出来ないのである。例を挙げて説明すれば、徒らに智ばかり勝つて情愛の薄い人間はどんなものであらうか。自己の利益を図らんとする為には他人を突飛ばしても蹴倒しても一向頓着しない。由来智慧が充分に働く人物は、何事に対しても一見して其の原因結果の理を明かに知ることが出来、事物の見透しが付くのであるが、斯かる人物にして若し情愛が無かつたら溜つたものでない。其の見透した終局までの事理を害用し、自己本位を以て何処迄もやり通す。此の場合他人の迷惑や難儀なぞが如何に出来ようと、何とも思はぬ程極端になつて仕舞ふ。其処の不権衡を調和してゆくものが即ち情である。情は一の緩和剤で何事も此の一味の調合に依つて平均を保ち、人生のことに総て円満なる解決を告げてゆけるものである。仮に人間界から情の分子を除却したらどういふ事にならうか。何も彼も極端から極端に走り、遂には如何ともす可らざる結果に逢着しなければなるまい。此の故に人間に取つては『情』は欠く可らざる一機能である。併し乍ら情の欠点は最も感動の早いものであるから、悪くすると動き易い様になる。人の喜怒哀楽愛悪慾の七情によりて生ずる事柄は変化の強いもので、心の他の部面に於てこれを制裁するものが無ければ、感情に走り過ぐるの弊が起る。是に於てか始めて『意志』なるものゝ必要が生じて来るのである。

意志

 動き易い情を控制するものは鞏固なる意志より外にはない。然り矣、意は精神作用中の本源である。鞏固なる意志があれば人生に於いては最も強味ある者となれる。けれども徒らに意志ばかり強くてこれに他の情も智も伴はなければ、唯頑固者とか、強情者とかいふ人物となり、不理窟に自信ばかり強くて、自己の主張が間違つて居てもそれを矯正しようとはせず、何処迄も我を押し通すやうになる。勿論斯ういふ風の人も或る意味から見れば尊ぶべき点が無いでもないが、それでは一般社会に処すべき資格に於て欠けて居る[。]謂はゞ精神的の片輪で完全の人間とは云はれない。意志の鞏固なるが上に聡明なる智慧を加味し、これを調節するに情愛を以てし、此の三者を適度に調合したものを大きく発達せしめて行つたのが、始めて完全なる常識となるのである。現代の人は能く口癖のやうに意志を強く持てといふが、意志ばかり鞏くても矢張困り者で、俗にいふ『猪武者』の様なものになつては、如何に意志が強くても社会に余り有用の人物とは云へない。智と情とに対し能く権衡を保つてゆけるだけの意志が最も必要なる意志である。

常識の大小

 以上述べた所に依つて智情意の三者が、如何に常識修養の上に必要であるかゞ了解されたであらう。併し常識にも大と小とがある。智情意の三者が充分なる調和を保ちて、円満に極度に発達した者が大なる常識で、これ迄には及ばずとも前の三者が相当に発達して居る者が小なる常識である。而して大なる常識を養ひ得たる者は聖人の域に達し、仮令小なる常識でも之を修養した者は賢人君子として世に処することが出来る。曾て井上哲次郎博士が孔子祭の席上演説に、孔子は常識の如何にも完全に発達した人で、智情意の三者が適度に発達されたものであるとの意味を詳細に説明せられたことがあるが、自分は此の説が頗る意を得たものとして今も尚記憶に新たなる所である。要するに常識に対しては智情意の三者が必須条件である。事物に接触してこれを識別理会する所の智能と、人と応対するに当つて敦厚なる情愛と、而して何事の障害に遭遇するとも不屈不撓能くこれを貫き得るの意志と、此の三者が完全に整うてこそ常識的人物と云ひ得るのだ。故に現代社会に必要を認められつゝある此の常識の修養を志さんとする者は、智情意の三者に留意し、これが片輪にならぬ様、又跛にならぬ様心懸けることが最も肝要である。さすれば人人の心掛如何に因つて、大なる常識をも養ひ得らるゝであらうし、左なくとも小なる常識は必ず修められて、役に立つ人として社会に立つことが出来よう。

偉き人と完き人

 史乗などに見ゆる所の英雄豪傑には、兎角此三者の権衡を失した者が多い様である。意志が非常に強かつたけれども智識が足りなかつたとか、意志と智慧は揃うて居たが、情愛に乏しかつたとか云ふが如き性格は彼等の間に幾らもあつた。斯の如きものは如何に英雄でも豪傑でも常識的の人とは謂はれない。成る程、一面から見れば非常に偉い点がある。超凡的な所がある。普通一般人の企及す可らざるものがあるには相違ないが、偉い人と完き人とは大に違ふ。偉い人は人間の具有すべき一切の性格に仮令欠陥があるとしても、其の欠陥を補うて余りあるだけ他に超絶した点を有する人で、彼れ此れ完全なる者に比すれば云はゞ変態である。それに反して完き人は智情意の三者が円満に具足した者、即ち常識の人である。余は勿論偉い人の輩出を希望するのであるけれども、社会の多数人に対する希望としては、寧ろ完き人の世に隈なく充たんことを欲する。詰り常識の人の多からんことを要望する次第である。偉い人の要途は無限とは云へぬが、完き人なら幾らでも必要な世の中である。社会の諸設備が今日の如く整頓し発達して居る際には、常識に富んだ人が沢山に居て働けばそれで何等の欠乏も不足もない訳で、偉い人の必要は或る特殊の場合を除いてはこれを認むることが出来ない。

平凡の常識が生む結果は偉大也

 凡そ人の青年期ほど思想が一定せず奇を好んで突飛な行動に出でんとする時代は少からう。それも年を経るに従ひ次第に着実になつてゆくものだが、青年時代には多くの人の心は浮動して居る。然るに常識といふ者はその性質が極めて平凡な者であるから、奇矯を好み突飛を好む青年時代に此の平凡な常識を修養せよといふは、彼等の好奇心と相反する所があるであらう。偉い人となれと云はるれば進んでこれに賛成するが、完き人となれと云はるれば其の多くは之を苦痛に感ずるのが彼等の通有性である。併し乍ら政治の理想的に行はるゝも国民の常識に竢ち、産業の発達進歩も実業家の常識に負ふ所が多いとすれば、否でも常識の修養に熱中しなければならぬではないか。況や社会の実際に徴するに、政治界でも実業界でも深奥なる学識といふよりは、寧ろ健全なる常識ある人に依つて支配され居るを見れば、常識の偉大なることは云ふまでもないことである。

常識とは如何なるものか(常識と習慣)

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偉き人と完き人(常識と習慣)

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