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『竜門雑誌』第294号(竜門社, 1912.11)p.24-29
演説及談話
◎修養団員に告ぐ
青淵先生
本章は青淵先生が修養団慶応義塾支部発会式塲に於ける青淵先生の講演と修養団記者が親く先生に就て聞き得たる訓戒とを加味して起草せられたるもの〻由にて十一月一日発行の修養団の機関雑誌「向上」に掲載せるものなり(編者識)
修養団は日に月に隆盛に赴き、各方面に支部の発会を見るを得て団員も追々に増加し、今や向上雑誌も大発展の機運に向ひ、前途に大なる光明が見えて来た事を思へば、従来少し計りでも御助勢をして居る私には、中心喜ばしく思ひます。もはや十年に近い奮励力行の歴史を以つて居る修養団は私が関係致しましてからも既に四年余となりました。けれども真の活動はこれからであらうと思ふ斯く前途に大なる希望を以て居る団員諸君は、益々自重して有終の美を成す様に努力せられん事をば、特に望んで置く次第であります。
今回の雑誌には諸大家の有益なる理論や学説の寄書も沢山御座いますから私は説を述べる事は止めまして、先日慶応義塾で開かれたる支部発会式に於て述べた修養と云ふ事に就ての愚見を茲に記載する様に致します。
修養を論ずる前に一言添へて置きたいのは兎角青年の際には其議論が余りに過激になりて動もすれば悲歌慷慨に傾き易い但し慷慨激烈も時としては必要の事もあろうが、平時は成るべく穏健がよい何事も過ぎれば反つてよくない。過ぎたるは及ばざるに如かずで、此辺の事にも亦修養が入用になつて来るのであります。
一例として茲に私共の学生時代を少しく御話して見ますれば概して漢学生で多く勝気に富み、衣至骭袖至腕、腰間秋水鉄可断と言ふ様な意気態度であつて、衣服の如きも常に木綿袴の垢じみたのが当時の学生風であつて、従つて放歌大声で大道を濶歩しても世人が敢て怪まなかつたのであります、そして或は天麩羅屋に入つたり、人込みの中で傍若無人の行為をして見たり、甚しきは飲食して勘定もせず、一歩進んでは随分いか〻゙ はしい、挙動もあつたのであります
今日の青年は之に反して至極従順温和で粗暴の行状抔は少い、其代りに聊か軟弱の嫌がある甚だしきは淫靡浮薄の誹りを受ける様になつて来たのである、我が修養団もつまり之等の弊風を矯めやうとして起つたのに外ならないのであります。併しそれが余りに過ぎると、先きに申した様に過激に失して又反対なる修養を要すると言ふ事になるのでありますから十分に用心せねばならぬ。凡て事物は彼れを嫌へば之れに陥り右を矯正せむとすれば左に傾くと言ふ事になり易いのであります。故に修養団の修養は决して一方に偏する事なく即ち中正にして向上的修養でなければならぬから老婆心を以て一言御注意までに申して置くのであります。
偖て、修養と言ふ事に付て、私は或者より攻撃を受けたことがある、其説は大体二つの意味に別れて居つたのであります。其一つは修養は人の性は天真爛熳を傷けるからよくないと言ふので他の一つは修養は人を卑屈にすると言ふのでありました。依て之れ等の異見に対して答へ置きました事を簡単に申して見たいと思ひます。
先づ修養は人の本然の性の発達を阻害するからよくないと言ふは、修養と修飾とを取り違ひて考へて居るものであると思ひます。修養とは身を修め徳を養ふと云ふ事にて練習も研究も克己も耐忍も都て意味するもので、人が次第に聖人や君子の境涯に近づく様に力めると言ふ事で、それが為めに人性の自然を矯めると言ふ事はないのであります。つまり人は充分に修養したならば一日々々と過を去り善に遷りて聖人に近くのであります、若しも修養した為めに、天真爛熳を傷けると言ふならば、聖人君子は完全に発達をした者でないと言ふ事になる、又修養の為めに偽君子となり、卑屈に陥るならば其修養は誤れる修養であつて、吾々の言ふ修養ではないと思ひます。
人は天真爛熳がよいと言ふ事は私も最も賛成する処でありますが、人の七情(喜怒哀楽愛悪慾)の発動が何時如何なる塲合にも差支へないとは言はれぬ。聖人君子も発して節に中るのを勉めるのであります。故に修養は人の心を卑屈にし天真を害するものと見るのは大なる誤りであると断言します。
修養は人を卑屈にすると言ふは礼節敬虔などを無視するより来る妄説と思ひます。凡そ孝悌忠信仁義道徳は日常の修養から得らる〻ので决して愚昧卑屈で其域に達するものではない大学の致知格物も王陽明の致良知も矢張修養である修養は土人形を造る様なものではない、反て己の良知を増し己れの霊光を発揚するのである、修養を積めば積む程其人は事に当り物に接して善悪が明瞭になつて来るから、取捨去就に際して惑はず然も其裁决が流れる如くになつて来るのであります。故に修養が人を卑屈愚昧にすると言ふは大なる誤解で極言すれば、修養は人の智を増すに於て必要だと言ふ事になるのであります。以是我が修養団の修養は、智識を軽せよと言ふのではない、唯今日の教育は、余りに智を得るのみに走つて、精神を練磨することに乏しいからそれを補ふ為めの修養である。修養と修学とを相容れぬ如くに思ふのは大なる誤りであります。私は此意味に於て修養団に賛成して居るのであります。
蓋し修養は広い意味であつて、精神も知識も身体も行状を向上する様に練磨する事で、青年も老人も等しく修めねばならぬ。斯くて息む事なければ遂には聖人の域にも達する事が出来るのであります。
以上は私が二ツの反対説即ち修養無用論者に対して反駁致しましたる大要で団員諸君も亦此考へで修養せられん事を望んで置くのであります。
さらば修養は何処までやらねばならぬかと言ふに之れは際限がないのであります。けれども空理空論に走る事は尤も注意せねばならぬ。修養は何も理論ではないので、実際に行ふべき事であるから、何処までも実際と密接の干係を保つて進まねばならぬ。
偖此実際と学理の調和と言ふ事は特に申して置かねばならぬのであります、要するに論理と実際、学問と事業とが、互に並行して発達せないと国家が真に興隆せぬのであります、如何程一方が発達しても他の一方が之れに伴はなければ其国は世界の列強間に伍することは出来ぬと思はれます、事実ばかりで満足とは申されず、又学理のみでも立つ事が出来ないので、此両者がよく調和し密着する時が、即ち国にすれば文明富強となり、人にすれば完全なる人格ある者となるのであります。
右に対する例証は沢山ありますが、之れを漢学に求めて見ますれば、孔孟の儒教は支那に於ては最も尊重されて、之れを経学又は実学と申して、彼の詩人又は文章家が弄ぶ文学とは全く別物視してある。而して夫れを最もよく研究し発達せしめたのが彼の支那宋末の朱子である。蓋し朱子は非常に博学で且つ熱心に此学を説いたのであります。処が朱子の時分の支那の国運は如何であつたかと言ふに、丁度其頃は宋朝の末で政事も頽敗し兵力も微弱にして少しも実学の効はなかつたのであります。即ち学問は非常に発達しても政務は非常に混乱した、つまり学問と実際とが全く隔絶したのであります本家本元の経学が宋朝に至りて大に振興したにも不係、之れを採つて実際に用ゐなかつたのであります。
然るに帝国は如何と言ふに、其空理空文の死学であつた宋朝の儒教が日本に於ては之を利用した為め、却て実学の効験を発揮したのであります、之れをよく用ゐたのは即ち徳川家康であります。元亀天正の頃は日本を廿八天下と称して国内麻の如くに乱れて、諸侯皆武備にのみ心を尽して居つたのであります。其中にて家康は大に達観しまして、到底武のみを以て治国平天下の策とすべきでないといふことを悟り、大に心を文事に注いで、支那に於ては死学空文であつた朱子の儒学を採つたのであります。当初先づ藤原惺窩を聘し尋で林羅山を用ひて切りに学問を実際に応用した、即ち理論と実際とを調和し接近せしめたのであります。現に家康が遺訓の一つとして今日にまで人口に膾灸[膾炙]する「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思ひ[へ]ば不足なく、心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思へ、勝つ事ばかりを知りてまくる事を知らざれば、害其身に至る。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるにまされり」に就て考へて見るに、皆経学中に求めたものである、多くは論語中の警句より成立して居る当時殺伐の人心を慰安してよく三百年の泰平を致した所以のものは、葢し学問の活用即ち実際と理論とを調和して極めて密接ならしめたるに依る事と思ふのであります。
然も家康が斯くまで朱子の儒学を採つて之れを実際に応用したけれども、元禄享保の頃となつては次第に種々の学派を生じ空理を弄ぶ様になつて来て、有名なる儒者は多かつたけれども、之れを実際と密着せしめた者に至つては甚だ稀れで僅に熊沢蕃山、野中兼山、新井白石、貝原益軒抔の数人にすぎない徳川の末の微々として振はなくなつて来たのも、やはり此の調和を失した結果であらうと思ひます。
以上は往昔の事例でありますが、今日でも両者の調和不調和が其事物の盛衰を示して居る事は諸君のよく知られる処と思ひます、世界の二三等国に就て見ると明である、又一等国中にも現に両者が其並行を失はんとしつ〻ある国も有る様に思はれます。
翻つて帝国は如何と言へば未だ决して十分なる調和を得て居ると云ふ事が出来ぬ、のみならず稍ともすれば、離隔せんとするの傾向が見える。之を思へば実に国家の将来が案じられるのであります。
故に修養団は大に茲に鑑みる処あつて、决して奇矯に趨らず、中庸を失せず、常に穏健なる志操を保持して進まれん事を中心より希望するのであります。
これを要するに、修養団の修養は、力行勤勉を主として智徳の完全を得るのにある、即ち精神的方面に力を注ぐと共に知識の発達に勉めねばならぬ、而して修養が、単に自分一個の為のみではなく、一邑一郷大にしては国運の興隆に貢献するのでなければならぬ。
序ながら一言申添へますのは頃日慶応義塾に於ける支部開会式に独立自尊と云ふ問題がありました之れは故福沢先生が熱心に唱導せられた当時の警語で御座いますが、兎角曲解する者がある様に見えますから、縦ひ先生の御旨意は如何であつてもそれは別として、独立自尊に付て私の信じて居る解釈を少しばかり御話して見たいと思ひます[。]
葢し人は絶対に独立自尊が出来るかと言ふと。それは到底不可能であると思ふ。此理合さへ会得が出来たなら、如何に独立自尊を自分の精神としても、決して倨傲不遜に陥ると言ふ事はなからうと思ひます若しも文字通りにて他人はどうでもよい只己れをのみ立てればよい、己れ程貴い者はないと思ふたならばそれは文字に捕はれたる解釈であつて其人は終に世に立つことは出来ぬ様になります。凡そ多数の人々が相集つて社会をなし国家を組織して行くには人の迷惑には頓着せぬと云ふ事は出来ぬ。自分の家に人が来た時は一時間も待たせて何とも思はずに、他人の家に行つた時には「五分間待せた」といふて不平を唱へるのは甚だ通用せぬ事であります、総じて人に迷惑を懸けないと云ふ処に始めて自尊と云ふ事がある、孔子の温良恭倹譲とか又は己を捨て人に従ふと言ふのは自尊と反対であると思ふのは大なる間違であると思ひます。福沢先生とて決して倨傲不遜を以て自尊を主張されたのではないと思ひます。孔子の忠恕と言ふ事と福沢先生の自尊と云ふ事とは、一見甚だ違つて居る様でありますが、実は表裏の関係であると思ひます。
故に諸君が独立自尊を奉ずるに就ては、常に相当的と云ふ事を忘れず、偏せず傾かずして進むだら世の実際と並行して行く事が出来やうと思ひます。