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『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.152-161
二二、論語と算盤
余が所蔵の画帖の中に論語と算盤とを一処に描いた一軸がある。旧来の思想から考ふれば論語と算盤とは如何にも不調和の画題で、何か諷刺的にでも描いたものであらうとの観察を下すより外、此の二者に調和あるものだとは多くの人の思ひ到らぬ所であらう。古い漢学者の思想を以てすれば、論語は道徳上の経典であるのに、算盤は之と全く反対の貨殖の道の道具である。如何でか二者相容れることが出来ようぞといふ結論を得るに相違ない。所が余は独り世の所謂儒者の見る所と其の見解を異にし、久しい以前から論語と算盤とは相一致しなければならぬ者であると云ふ持論であつた。そして屡それに関する意見を人にも語つたり、社会に向うても発表したことがある。何時であつたか鴻儒三島中洲博士に余が所蔵の其の画帖を示して、同時に余が意見を吐いたことがあつた。ところが三島博士も余の意見を是認され、其の後博士は『論語算盤論』を作つて余に示された。さて余は何故に論語と算盤とが調和一致すると言ふのであるか、左に余が持論を述べて見たいと思ふ。
論語が孔子の言行録たることは、今更説くまでもないことだが、今其の論語を通じて孔子の性格を窺うて見るに、一体孔子は容易に本音を吐かぬ人であつた。常に事物の半面だけを語つて、全体を悟得せしめることを力めて居られた様に思はれる。就中門下の諸子に説かれた教訓の数々は、大抵此の側面観に依つて反省を促して居たものである。それは今例を挙げて説明するまでも無いことであるが、同じく『仁』といふことを弟子に説いて聞かせるにも、甲に説いた処と、乙に訓へた処と、乃至丙に語り丁に示した処とは各相異つたもので、其の人物の性格を見て、それに適応する様に説き聞かせたものである。俗に『人を見て法を説け』といふことがあるが、孔子の教訓法は実にそれであつたのだ。併し此の事実に就いては何人もこれまで認めて居た所で、孔子の教を慕ふ程の者は、皆左様いふ心持を以て論語を読んで居たに相違ない。だが孔子の此の教育法が却つて後人から誤解される動機をつくり、知らず識らずの間に孔子教の本領を誤り伝へる様になつたのである。彼の『論語読みの論語知らず』などと嘲つて、自らは論語の旨意を会得して居ることを誇り、論語を曲解して居る腐儒を罵つた連中すら、猶且つ巧妙なる孔子の側面観的教訓に惑はされて、無意識の中に矢張『論語読みの論語知らず』に陥つて居たのは[、]寧ろ滑稽なる事実ではないか。兎に角孔子の教は広汎なものであるから、解釈の仕方、意義の取り方に依つては如何にでも見える。故に誤解も亦甚しくなつて来る訳であるが、余は又実業家の立脚地から論語を見ると、儒者の未だ嘗て発見せぬ所に非常な妙味を見出すことが出来る。
従来儒者が孔子の説を誤解して居た中にも、其の最も甚しいものは富貴の観念[、]貨殖の思想であらう。彼等が論語から得た解釈に依れば『仁義王道』と『貨殖富貴』との二者は氷炭相容れざる者となつて居る。然らば孔子は『富貴の者に仁義王道の心あるものは無いから、仁者とならうと心がけるならば富貴の念を捨てよ』といふ意味に説かれたかといふに、論語二十篇を隈なく捜索しても、そんな意味のことは一つも発見することが出来ない。否、寧ろ孔子は貨殖の道に向つて説を為して居られる。併しながら其の説き方が例の半面観的であるものだから、儒者が之に向つて全局を解することが出来ず、遂に誤を世に伝へる様になつて仕舞つたものである。
例を挙ぐれば、論語の中に『富と貴とはこれ人の欲する所也、其の道を以てせずして之を得れば処らざる也。貧と賤とはこれ人の悪む所也、其の道を以てせずして之を得れば去らざる也』といふ句がある。此の言葉は如何にも言裏に富貴を軽んじた所があるやうにも思はれるが、実は側面から説かれたもので、仔細に考へて見れば富貴を賤んだ所は一つもない。その主旨は富貴に淫するものを誡められたまでゞ、これを以て直ちに孔子は富貴を厭悪したとするのは、誤謬もまた甚しと謂はねばならぬ。孔子の言はんと欲する所は、道理を以て得た富貴でなければ、寧ろ貧賤の方がよいが、若し正しい道理を踏んで得たる富貴ならば敢て差支はないとの意である。して見れば富貴を賤み、貧賤を推称した所は更に無いではないか。此の句に対して正当の解釈を下さんとならば、宜しく『道を以てせずして之を得れば』といふ所によく注意することが肝要である。
更に一例を以てすれば、同じく論語中に『富にして求むべくんば執鞭の士と雖も、我亦之を為さん、若し求む可からす[ず]んば吾が好む所に従はん』といふ句がある。これも普通には富貴を賤んだ言葉のやうに解釈されて居るが、今正当の見地から此の句を解釈すれば、句中富貴を賤んだといふやうなことは一も見当らないのである。富を求め得られるなら賤しい執鞭の人となつてもよいといふのは、正義仁義を行うて富を得らるるならばといふことである。即ち『正しい道を踏んで』といふ句が此の言葉の裏面に存在して居ることに注意せねばならぬ。而して下半句は正当の方法を以て富を得られぬならば、何時迄も富に恋々として居ることはない。奸悪の手段を施してまでも富を積まんとするよりも、寧ろ貧賤に甘んじて道を行ふ方がよいとの意である。故に道に適せぬ富は思ひ切るがよいが必ずしも好んで貧賤に居れとは云うて無い。今此の上下二句を約言すれば、正当の道を踏んで得らるゝならば、執鞭の士となつてもよいから富を積め。併し乍ら不正当の手段を取る位なら寧ろ貧賤に居れといふので、矢張此の言葉の反面には『正しい方法』といふことが潜んで居ることを忘れてはならぬ。孔子は富を得る為には実に執鞭の賤しきをも厭はぬ主義であつた、と断言したら恐らく世の道学先生は眼を円くして驚くかも知れないが、事実は何処迄も事実である。現に孔子自らそれを口にされて居るから致し方がない。尤も孔子の富は絶対的に正当の富である。若し不正当の富や不道理の功名に対しては、所謂『我に於て浮雲の如し』であつたのだ。然るに儒者は此の間の区別を明瞭にせずして、富貴といひ功名といひさへすれば、其の善悪に拘らず、何でも悪いものとして仕舞つたのは[、]早計もまた甚しいではないか。道を得たる富貴功名は、孔子も亦自ら進んで之を得んとして居たものである。
然るに此の孔子の教旨を世に誤り伝へたものは、彼の宋朝の朱子であつた。朱子は孔子の経解学者中では最も博学で、偉大の見識を持つて居たものであらうが、孔子の富貴説に対する見解だけはどうも首肯することが出来ない。独り朱子のみならず、一体に宋時代の学者は異口同音に孔子は貨殖富貴を卑んだものゝやうに解釈を下し、苟も富貴を欲して貨殖の道を講ぜんと志すものは、到底聖賢の道は行ふことが出来ないものであるとして仕舞つた。従つて仁義道徳に志すものは必ず貧賤に甘んずるといふことが必要になつて、儒者は貧賤であるべきことゝなり、彼等に対しては、貨殖の道に志して富貴を得る者をば敵視するやうな傾向を生じて、遂に不義者とまで仕てしまつたのである。然るに朱子の学風は我国に於ては頗る勢力があつたから、孔子に対する誤解も亦社会一般の思想となり、富貴を希ひ貨殖の事に関係するものは、何でも彼でも仁義の士とは謂はぬ様になつた。殊に致富に関する事業の位地が卑かつた為に、此の観念は一層強いものとなつて社会に現はれて居た。要するに我国の国民性をつくる上に於て、朱子学は偉大な貢献のあつたことは認めなければならぬが、それと同時に又富貴貨殖と仁義道徳とは相容れないものであるとの、誤つた思想を蔓延させた弊も掩ふ可らざる事実である。併し一世の大儒たる朱子すらも猶且つ左様であるから、況や後の凡儒者流が之に雷同して、孔子の本領を誤らしめたことは蓋し無理なきことであらう。
元来孔子を解釈して一個の道学先生であるとして仕舞ふからこんな間違も生じて来たのである。孔子の本体は後の儒者の目するごとき道徳の講釈のみを以て能事とする教師ではなかつた。否、寧ろ堂々たる経世家であつた。孔子を目して経世家なりと断定するのは、必ずしも吾人の一家言ではない。それは孔子が四方に遊説した事実を調査して見れば何人も了解に苦まぬ所である。曾て故人の福地桜痴居士の著述した『孔夫子』といふ書物があるが、その書中に次のごときことがある。『孔子は若い時代から常に政治家となる野心を抱いて居り、晩年に及ぶまで自己の経綸を施すべき機会を狙うて東西に奔走して居た。しかれども彼が一生を通じて其の志望を果す可き時機は遂に来なかつた。故に六十八歳の時断然政治的野心を抛棄して仕舞ひ、爾後五年間に於ける孔子の生活は、全く道学の宣布、子弟の教育に一身を委ねて居た云々』といふことであるが、余は此の説に全然同意はせぬけれども、少くとも孔子の生涯を知る程のものなら、其の政治に心を持つて居たといふことを拒む者は無いであらう。斯の如き観察の下に孔子の言説を見れば、それは確かに堂々たる経世家の主張である。孔子が貨殖の道に対して決して忽諸にしなかつたのは蓋し当然の事と謂はねばならぬ。
惟ふに古の聖人は其の徳を以て其の位に居た人々で、尭舜禹湯文武の如きは即ちそれである。而して孔子も其の徳を具有して居たけれども、不運にして其の位を得ることは出来なかつた。故に彼が其の満腔の経綸も施すに所無く終つたのであつたが、若し孔子にして尭舜禹湯文武の如く為政者の地位に在らしめたならば、必ずや実際に於て其の経綸的思想を遺憾なく発揮せしめたことであらう。孔子の根本主義は彼の『大学』に説ける如く『格物致知』といふことにある。貨殖の道は又経世の根本義である。果して孔子が政治に志を持つて居たものならば、貨殖の道を外にして経世の方法はないから、必ず貨殖をも重んじて居たに相違ない。これ実に余が見解である。
近年漢学の再興につれて論語も大分読まれるやうになつて来たらしい。併し乍ら論語を読んでも、同じく旧来の如く富貴功名を卑むべきものであると解釈して居ては、何の役にも立つものでない。之を読むに方つては、余が所謂『論語と算盤』との関係を心とし、これに依つて致富経国の大本を得んと志してこそ、初めて真に意義あるものとなるのである。『論語読みの論語知らず』といふことは、最早前世紀の言葉である。今は之を読んで一々活きたものとして使用しなくてはならぬ。然るに今日でも生意気の青年なぞになると、時としては論語を目するに旧道徳の残骸を以てし、旧時代の遺物として殆ど之を顧みない者がある。これは甚しい誤解である。聖人の教は千古不磨のもので、必ずしも時代に因つて用不用のあるべきものでない。余は明治時代に生活し、而も論語を行為の指導者として来たが今日迄は更に不便を感じなかつた。して見れば旧時代の遺物でもなければ、旧道徳の残骸でもない。今日に処して今日に行ひ得らるゝ所の処世訓言である。世の貨殖致富に志あるものは、宜しく論語を以て指針とせられんことを希望する次第である。