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『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.266-274
三六、危険思想の発生と実業家の覚悟
聖上陛下に対し奉り、唯々恐懼措く能はざるは、彼の幸徳一輩に関する大逆事件の発生である。我が邦有史以来の大暴挙であつたにも拘らず、幸に之を未発に防ぐことを得たのは此上もなき幸福であつた。されば爾後に此の種病源の根絶を期することは、我々臣民たるものが夢裡にだも忘る可らざる所で、斯かる忌はしい問題は未来永劫我が国内に発生させぬ様努めることも、亦吾人臣民たるものは瞬時も忘れてはならぬ。由つて余は実業家の立ち場から、我々同業者の将来覚悟すべき点に就いて一言所感を述べて置き度いと思ふ。
偖、此の問題を論ずるに方り、先づ研究して見なければならぬのは、我が国が今日驚くべき発展を為した根源、即ち維新開国当時の事情は如何なることであつたか、回想すれば今より凡そ五十年の昔である、旧幕府に於て開国の実施はせられたが、国内の上下に種々の議論がありて一定の国是は立ち得なんだ。而して我が国が始めて泰西諸国との条約を締結して完全に開国を宣言するや 聖上陛下は明治元年三月五ケ条の御誓文を約して大に国是を定め給うた。其の中に『智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇道[皇基]ヲ振起スベシ』との有難い思召があつたので、爾来上下一致して盛んに西洋文明の輸入に力めたのであつた。夫が為め国運は駸々として長足の進歩を遂げ、四十四年の今日は早くも先進国たる世界列強の伍班に列する程の盛運に達した。外は二回の戦争に依つて国土が約二倍の境域となり、内は政治、教育、軍事其の他百般の施設一として大に進歩せぬものはない。近く我が実業界の事に徴するも、各種の商工業が昔日に比して十倍乃至何十倍の生産額となつて居るものも少くはない。
斯の如き大発展は抑〻何によりて生ぜしやといふに、そは言ふまでもなく 上御一人の御聖徳の致す所と、我が国体の宜しきを得たるとの二点に職由するものであるとは、蓋し何人も疑を挟み能はざる事実であらう。去り乍ら此等諸種の文明的機関は、素より我が国固有のものばかりで組織されて居るのでは無く、御誓文中の広く世界の知識を取り入れよとの思召が本となり、漸次に西洋文明の輸入したことが大なる関係を持つて居るのである。して見れば今日の進歩発達を招致した一因として、亦西洋文明の恩沢をも数へなければならぬ。実に泰西文化の輸入は我が国開発の上に取つて大効果があつたと云ふも決して過言でない。
併し乍ら社会の百事、利ある所には必ず何等かの弊害が伴ふは数の免れざるもので、我が国が西洋文明を輸入して、大に我が文化に貢献した一面に於ては、矢張其の弊害を免かるゝことは出来ない。即ち我が国が世界的事物を取入れて其の恩沢に浴し[、]其の幸福に均霑したと同時に、新しき世界的害毒の流入したことは争はれぬ事実で、彼の幸徳一輩が懐いて居た危険思想の如きは、明かに其の一つであると言ひ得るのである。古来我が国にはあれ程の悪逆思想は未だ嘗て無かつた。然るに今日左様いふ思想の発生するに至つた所以は、我が国が世界的に立国の基礎を築いた結果で、亦止むを得ざることではあるけれども、我が国に取つては最も怖るべき最も忌むべき病毒である。従つて我々国民たるものゝ責務として、如何にもして此の病毒の根本的治療策を講じなくてはならぬ。惟ふに此の病毒の根治法には恐らく二様の手段があらう。一は直接其の病気の性質原因を研究し、これに適切な方剤を投ずるので、他の一法は出来るだけ身体諸機関を強壮ならしめて、仮令病毒の侵染に遭ふとも、立ち所に殺菌し得るだけの素質を養成して置くことである。所で我々の立脚地からは此の二者孰れに就くべきかといふに、元来実業に携はる者であるから、此の悪思想の病源病理を研究して其の治療方法を究むることは職分でない。寧ろ我々の取るべき務は国民平生の養生の側にあると思ふ。国民全部をして強健なる身体機関を養はしめて、如何なる病毒に遭ふも決して侵害されることの無いやうに養生を遂げしめなくてはならぬ。故にこれが治療法、即ち危険思想防遏策に就いて余が所信を披瀝し、以て一般世人、殊に実業家諸氏の考慮を促し度いと思ふ。
余が平素の持論として屡〻言ふ所の事であるが、従来利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不十分であつた為に『仁を為せば則ち富まず、富めば則ち仁ならず』利に附けば義に遠ざかり、義に依れば利を失ふといふ様に、仁と富とを全く別物に解釈して仕舞つたのは甚だ不都合の次第である。此の解釈の極端なる結果は、利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任は無いといふやうな所に立ち至らしめた。余は此の点に就いて多年痛嘆措く能はざるものであつたが、要するに是れ後世の学者の為せる罪で[、]既に屡〻叙べたる如く孔孟の訓が『義利合一』にあることは、四書を一読する者の直ちに発見する所である。
後世儒者の其の意を誤り伝へられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が『孟子』の序に『計を用ひ数を用ふる、仮饒ひ功業を立て得るも、只是れ人慾の私にして、聖賢の作処とは、天地懸絶[懸隔]す』と説き、利殖功業の事を貶して居る。其の言葉を押進めて考へて見れば、彼のアリストートルの『総ての商業は罪悪なり』と曰へる言葉に一致する。之を別様の意味から見れば、仁義道徳は仙人染みた人の行ふべきことであつて、利用厚生に身を投ずる者は仁義道徳を外にしても構はないといふに帰着するのである。斯の如きは決して孔孟の骨髄ではなく、彼の閩洛派の儒者に依つて揑造された妄説に外ならぬ。然るに我が国では元和寛永の頃より此の学説が盛んに行はれ、学問といへば此の学説より外には無いといふ迄に至つた。而して此の学説は今日の社会に如何なる余弊を齎して居るであらうか。
孔孟教の根底を誤り伝へたる結果は、利用厚生に従事する実業家の精神をして殆ど総てを利己主義たらしめ、其の念頭に仁義も無ければ道徳も無く、甚しきに至つては法網を潜らるゝだけ潜つても金儲けを仕度いの一方にさせて仕舞つた。従つて今日の所謂実業家の多くは、自分さへ儲ければ他人や世間は如何あらうと構はないといふ腹で、若し社会的及び法律的の制裁が絶無であるとしたならば、彼等は強奪すら仕兼ねぬといふ情ない状態に陥つて居る。若し永く此の状態で押し行くとすれば、将来貧富の懸隔は益〻甚しくなり、社会は愈〻浅間しい結果に立ち至ることゝ予想しなければならない。これ誠に孔孟の訓を誤り伝へたる学者が数百年来跋扈して居た余毒である。兎に角世の中が進むに連れて、実業界に於ても生存競争が益〻激しくなるは自然の結果と謂うてよい。しかるに此の場合に際し、若し実業家が我勝ちに自利自慾を計るに汲々として、世間は如何ならうと自分さへ利益すれば構はないというて居るならば、社会は益〻不健全となり、嫌悪すべき危険思想は徐々に蔓延するやうになるに相違ない。果して左様なれば危険思想醸成の罪は、一に実業家の双肩に負はねばならなくなる。故に一般社会の為に之を匡正せんとするならば、此の際我々の職分として、極力仁義道徳に由つて利用厚生の道を進めて行くといふ方針を取り、義利合一の信念を確立するやうに勉めなくてはならぬ。富みながら且つ仁義を行ひ得る例は沢山にある。義利合一に対する疑念は根本から一掃せねばならぬ。仮令貧富の懸隔は社会に免る可らざる現象としても、斯の如くにして富者は貧者を憫み、強者は弱者を扶け、相共に手を携へ精神を一にして進むならば、それこそ真に黄金世界の実現と謂つべく、如何に獰悪なるバクテリヤが此の間に侵入しても、毫も意に介するには足らぬことゝなるであらう。
余が茲に再言せんとするは弱者保護の方法に就いてゞある。我が国四十有余年間に於ける顕著なる万般の発達に連れて、最も注目を払ふべき新たなる現象は、貧富の懸隔が著しく其の度を加へて来たことである。就中適切なる一例としては[、]東京市の富が幾何増加したかを知らんとするに方りて、その反対の貧者の数が幾何殖えたかを調査すれば間違はないと謂へる。これは頗る皮肉な言ひ方であるが、事実であるから致し方がないのである。余は明治初年より東京市の養育院に関係して居るものであるが、若し前説に疑を抱く人があらば、願くば養育院の統計表を一覧して貰ひ度い。甚だ遺憾ながら院の事業は年毎に繁昌して行く。如何に優勝劣敗の自然淘汰が社会進歩の原則であるとはいへ、吾人は此等貧困者を冷然と見過すことは出来ない。貧者を憫み、弱者を扶くることは、即ち我々が自身に尽すべき所の職分である。余は此等の貧困者を悉く救助し度いとは言はぬが、希くは彼等の為に相当の授産方法でも講じて貰ひ度いものである。富強者が貧弱者に対して相当の職分を尽すことは、文明的国民の唯一の徳義となつて居る。余が先年米国を巡遊した時、各地に慈善救済事業の盛んなる有様を見て、熟〻文明国の真意義を感ぜずには居られなかつた。同時に翻つてこれを我が国情に照し、我が国民が此の種の事業に対して甚だ冷淡なることを嘆息した。由来我が邦は家族制度の国柄であつたから、公共的救済事業の発達しなかつたのは寧ろ当然であらうが、今日は最早昔日の日本ではなくなつて居る。我が実業界を始め、其の他各般の施設が全く世界的になつて来たから[、]貧困者の救済策も矢張世界的の方法を取らなければ間に合はぬ訳だ。斯くて一方には貧困者が各〻其の地位に安んじて、生活を楽しむ様になり、他方に於ては社会的危険思想の病源を根絶するの道が立つならば、それこそ論語に所謂『貧にして楽み、富んで礼を好む』の域に達したもので、大逆事件の如きは永遠に起るべきものではないと余は自ら信ずるのである。敢て実業家の猛省を促す次第である。(〔明治四十四年一月の談〕)