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『竜門雑誌』第308号(竜門社, 1914.01)p.54-61

青淵先生懐旧談

◎父母の俤(承前)

▲遠加美講の御祈祷▲無縁仏否定の一矢▲高飛車の迷信打破▲桔梗門に閉籠めらる▲消えやらぬ心の烙印▲厳父の丹精家運栄ふ

▲遠加美講の御祈祷

 邸宅の裏の淵が、森として蒼く、そして鏡の如く静かな夏の朝であつた、曇つた空はいよ〳〵低く下りて来て、西東、何方へ吹くとも知れぬ迷つた風が、折々さつと吹き下りる。

姉は其頃極つたやうに、朝起きるとすぐ裏の淵の岸に佇んで、物思はしげにジツと水面を見入るのが癖であつた、そうしてゐるうちに、泫然と落泪したり、又或時は口も听けず、呼吸も絶えたやうに硬くなつて、瞳を一点に据えた儘、小半時もさうして釘付の様に佇んでゐた。

青田を掠めて来て、藍蔵の方へ吹ぬける風に、鬢のもつれを払はうともせず、扱帯の儘で赤土の崖を淵の岸へと下りて行く、その崖には湿気を含んだ白い鱗苔が斑らに生えて、凹みには水が溜つてゐた、驚きながらも姉の袂を放さじものと堅く握つて、兎もすれば滑りさうな崖をソロ〳〵とついて下りた、松の枝からチラホラと落ちて来る枯れ松葉が、頭の上に降りか〻る、崖の裾から殺ぎ落したやうな傾斜地には、野生の蟹釣草、鳴子稗、スカンボなどが、滋れるだけ、脊を伸して今が見頃の花をすい〳〵と立て、[立て〻]ゐる、そこへ来ると、病人は又もやスタ〳〵と崖を上つて家路に帰る、淵の岸まで来るといつも満足して引返すのであつた。

家内中の心配を一身に集めてゐたばかりではなかつた、父の実家なる宗助の母親が、大の凝固まつた迷信家であつたので、この病気は家に祟のある為かも知れぬ、何を措ても祈祷をするがよいと頻に勧誘したけれども父は迷信が大嫌ひで、容易に聞入れなかつたが、その中に病人を連れて転地保養旁々上野の室田と云ふ滝のある処へ行かれた。

▲無縁仏否定の一矢

 然るに父の不在中、母は到頭宗助の母に説伏せられ、将又四囲の圧迫に抗しかねて、家にあるといふ、その祟を攘ふ為め遠加美講といふものを招いで御祈祷をすることになつた、余も父も同じく少年時代と[よ]り迷信をひどく嫌つたので、その時極力反対したけれども、まだ十四才の小供の悲さ、一言の下に伯母などに叱りつけられて、余が説は通らなかつた、さて両三人の修験者が来てその用意に掛つたが、中座と唱へるのが必要なので、それには無智文盲の飯焚女を立てることになつた、而て座敷には注連を張り御幣を立て、中座の女は目を隠し御幣を持て端座してゐる、其前で修験者が色々の呪文を唱へ、列座の講中信者などは、大勢で異口同音に遠加美と云ふ経文体のものを高声に唱へると、中座の女、初めのうちは眠つてゐるやうであつたが、何時かは知らず持つてゐる御幣を矢鱈に振立てた、この有様を見た修験者は、直ぐに中座の目隠を取て其前に平身低頭し「何れの神様が御降臨であるか御告を蒙りたい」など〻言ひ、それから「当家の病人に就て何等の祟がありますか、何卒御知らせ下されたい」と願つた。

すると飯焚女めが如何にも真面目になつて、此家には金神と井戸の神が祟る、又此の家には無縁仏があつて、それが祟をするのだ。とさも横柄に言放つた、それを聞いた人々は、さも驚いて顔を見合せてゐる、別して祈祷を勧誘した宗助の母親は、得意顔になつて鼻高々と、それ御覧なさい、神様の御告は確かなものだ、道理で私の小さい時老人達から聞いた話に、何時の頃かこの家から伊勢参宮に出立して、それ限り帰宅せぬ人がある、定めし途中で病死したのであらうといふことを聞いてゐたが、今の御告の無縁仏の祟といふのは、果してこの話の人に相違あるまい、あな恐ろしや、どうも神様は明らかなものだ、まことに有難い事であると、曰つて喜び、而してこの祟を清めるのは、如何したらよからうと中座の女に伺つて見ると、それは祠を建てゝ祀りをするがよいと曰つた。

全体自分は最初から此事には反対であつたので、愈々祈祷をするに就ては、何か疑はしい所でもあつたらば、屹度看破して呉れやうと、手ぐすね引いて始終注目を怠らずにゐたが、「今無縁仏と曰つたに就て、私の家にその無縁仏の出た時は凡そ何年程前の事でありましやうか、祠を建てるにも碑を建て〻供養するにもその時代が知れなければ困りますと、」[」と、]先づ質問の第一矢を放つた。

▲高飛車の迷信打破

 無縁仏否定の第一矢を放つと、もの〳〵しい扮装をした修験者は、セヽラ笑ふやうな態度を見せて、その旨中座の飯焚女に伺つた、すると中座は事もなげに、凡そ五六十年以前であると言つたので、自分は又押返して「五六十年以前ならば、何と云ふ年号の頃か」と問くと、中座はそれは天保三年の頃であると云ふ返答、ところ[が]天保三年は今より廿三年前の事であるから、その御祈祷の出鱈目なる事は、最早や争ふべき余地がないまでに見透された、心中凱歌を奏した自分は、儼然として威儀を正し。[、]

「只今、御聞の通り、無縁仏の有無が明らかに知れる位の神様が、年号を知らぬと云ふ事は、些と辻褄の合はぬ事かと思はれる、斯ういふ間違がある様では、全然信仰も何も出来る訳のものぢやない、果して玄機霊妙に通じ、破邪顕正の大威力を持たる〻神様なら、年号位は立派に御解りにならねばならぬ[、]然るにこの観易き年号すらも誤る様では、所詮取るに足らぬものであらう。」

折伏の高飛車に出で〻、矢継早に詰問の第二矢を射放つと、修験者は見る〳〵顔色を変へて、座にも堪えぬ挙動をしたが、宗助の母親が横合から「左様な事を言ふと神罰が当る」といふ一言を以て自分の言葉を遮つたが、是は明白の道理で、誰れにも能く解つた話であるから、満座の人々も興を醒まして、修験者の顔を穴の明くほど見詰めた、そして何ういふ言葉を以て抗争の余地を剰さぬこの難詰に応ずるだらうと云ふ興味をも、自然と満座の人々は起さぬ訳にゆかなかつた、すると修験者は既う迚も太刀打が出来ぬと観念はしたもの〻、それでも当座の繕ひに「是は何でも野狐が来たのであらう」と言ひ抜けた、[。]

そこで自分は

「野狐と云ふ事なら、猶更祠を建てる必要もなく、祀りをする必要もない。」

と言ふと、はじめには最も熱心に主張した宗助の母親も我を折て、そんな事なら何も祀りをするにも当るまいといふので結局、何事をもせずに止めることになつた、それ故修験者は、いかにも怨めしさうにさて〳〵悪い少年だといはぬばかりの顔付で自分を睨まへた、私は勝誇りたる会心の笑を禁ずる事が出来なかつた。

それぎり宗助の母親は、ぶツつり加持祈祷と云ふ事をやめてしまつた、村内の人々はこの事を伝へ聞いて、以来修験者の類を村には入れまい、迷信は打破すべきものぞといふ覚悟を有つやうになつた、父が上州の室田から帰つて来て、母からこの事を聞き「栄治郎のやりさうな事た」と言つて笑はれたのを、今でもしかと記憶には存じてゐるのである。

▲桔梗門に閉籠らる

 十四の年も軈て暮れて、自分は十五才の春を迎へた、世は嘉永から安政へかけての過渡期で、日本は正に内憂外患の禍中に投ぜられてゐた、今の新聞号外のやうな評判記と云ふものが、二三日遅れに自分の村などにも配られてゐたが、百姓生活の気楽さには、そんな噂も耳をかす必要はなかつた、伯父の保右衛門と云ふ人が、自分を連れて江戸見物に上つた。

保右衛門と云ふのは、母の妹即ち自分には叔母に当るお房の夫で、矢張り渋沢の分家であつた、血洗島の実家の墓所から左へ一軒置いて隣りの家である、利根畔から深谷へ通ふ小荷駄に乗つて、青田の中の一筋道を深谷へと向つた、途中事もなく江戸へ着いて、翌日から方々見物して歩いたが、或日の事、一ツ橋辺から迷ひ込んで桔梗門の中へ這入つて了つた、厳めしい門を仰ぎながらツイ浮々と入り込んでしまつたのである、スルト人相の悪い折助が二三人溜りから出て来たそして突如伯父と私を捕へて、大きな眼玉を剝きながら、物置小屋のやうな所へ入れ、「コラ〳〵百姓、泣いたつて吠えたつて此所はお城内だぞ、斯うして呉れるから乾干にでもなつて了へツ」と、捨台辞を言つて戸をピシヤリと閉めてしまつた、伯父と私は途方に暮れてどうなる事かと心配してゐたが、私はヒヨイと思ひ付いた、それは父から兼々聞いた事がある、金さへ出せば助かるに違ひない、地獄の沙汰も金次第と云ふから、伯父さん金を出しておやりなさいと云ふた、スルと正直一図の伯父は、いや〳〵それな事をして反つて罰が重くなりはせぬかと言つて却々それに従はぬ、恰度その時以前の折助が様子を見に来たので早く早くと伯父を急立て〻金を出すと折助は急に打て変つた顔付をして、直ぐ解放して呉れた、その時伯父は大層自分の頓智を褒めて、お前の智恵で漸う助かつたと大喜びであつた。

父が極く厳正な気質であつたといふ証拠には次のやうな話がある、やはりその再度の江戸見物の時の話で、忘れ難き父の教訓として、今も尚ほ服膺してゐるのであるが、其の時分家にある硯箱は杉か何かの粗造のもので、大分破損してゐたので、江戸へ行つたら新調しやうといふ事を父に請求したら、買つて来てもい〻と云ふ許可が出た、それで伯父と共に小伝馬町の建具屋で桐の二本立の本箱と、同じく桐の懸硯とを、双方で一両二分で買取つた、さうして家に帰つてから、父へこれ〳〵の二品を買つたと云ふ話をして置いたが、その時父は値段だけ聞いて何とも曰はなかつた。

その翌日かに荷物が到着した、さあ来て見ると是まで使用してゐたのは、杉の板で真黒で丁度今日自分の宅の台所で用ひてゐる炭取のやうなものだから、較べて見ると苟くも桐細工の新らしいのとは大に相違して華美に見える。

父の顔色は見る〳〵変つた。

▲消やらぬ心の烙印

 父は屹となつて、暫らく私の顔と右の二品を見較べてゐたが、軈て怒気を含んだ声で

「栄治郎、お前は父の訓戒をよもや忘れはしまい、質素倹約は処世斉家の最も大切な心得であることを、彼れ程兼々言つて聴かしてあるではないか、如何に小供心でも、その本箱と懸硯とが、自分の家に似合ふか似合はぬかと云ふ位の考は付かなくてはならぬ、不似合と知りつ〻、気に適つたま〻買つて来て之を使はうとする了簡では、その心既でに身を亡ぼすもの、此の家を無事安穏に保つて行く事は到底出来ぬ、此品は断じて用ふることならぬ、直ぐに火にかけて焼いて了へ、嗚呼乃公は不幸の子を持つた。」

と言つて数次歎息せられた。

自分は父の顔を仰ぐこと出来ず、一言一句喰込むやうな父の訓辞を聴いてゐたが、此時漸う顔を擡げて「叔父さんにも相談して見ましたら、別に差支はなからうといふことでしたから、それで買取りました」と弁解して見たところが、父は益々機嫌が悪く

「お前は幾歳になるか、十五と云へば既う成童である、それに未だ一個の見識も持たぬといふことで何うするか、縦令叔父さんが何と云つたにせよ、一見して欲しいと思つたからとて、それを直ぐに買つて来るのは、取もなほさぬ軽卒の挙動である、若し又考へて買つたとすれば確かに質素の念に欠けてゐる[、]どちらにしても不心得千万な話ではないか。」

と曰つて、箕子が殷の紂王が象牙の箸を作つたのを見て歎息した例を引いて責められた、勿論田夫野人の為るやうに、打たり擲いたりするやうな事を為る人ではなかつたが、それから四日も五日も、深く心の中で自分を見限つたといふやうな口吻で教訓を重ねられた、その一言一句は、七十四年の今日でも、烙き付けたやうに頭脳の底に刻みつけられてゐるのであるから、実際その時の自分の心の苦痛と云ふものはなかつた、厳しい正しい理窟責めに逢つて、初めは悪い事を為たと後悔したけれども、四日も五日も続け様に言はれると、小供心にも余り酷いと怨む気も出て、次ぎには自分の心を恐れるやうな気にもなり、終には悲しくなつて、何とも言へぬ憂鬱に囚はれるのであつた。

伯父の保右衛門も、叔母も母も喜作の父親の長兵衛なども、かはる〴〵自分に代つて父に詫を言つたが、その当座は父の機嫌はなか〳〵なほらなかつた、自分の生涯に取て、実際これ程残念な失敗はなかつたのである。

▲厳父の丹精家運栄ふ

 何故に是程の小事を、斯くまで巌重に譴責せられたのであるかと能々考へて見るに、父の心中では、斯様に自分の意に任かせて事を取扱ふやうでは将来どんな事をするか甚だ懸念に堪えぬ、この不心得が長じると、行未[末]万事につけて奢侈放逸が伴ふのは見え透いてゐる、事柄それ自身は小問題でも、将来に繫るところは実に重大であるとの懸念が強い、素よりその金を惜まれた訳でも何でもないが既に古書にも「紂王為象箸、箕子歎曰、彼為象箸、必不盛土簋、将為玉杯、玉杯象箸、必不羮黎藿衣短褐而舎䒢茨之下、則錦衣九重、高台広室称此、以求天下、不足矣。」と言ふてあるとほり、奢侈の漸といふものは、固より貴賤上下の差別はない、一物の微と雖も、その分限に応じて能く之を初念の発動するところに慎まなければ、終には取返しのならぬことになるのは、昔から幾らも例のある話である、今自分が斯様に美麗な燦たる書架や硯箱を買ふほどだから、従つて居宅も書斎も気に入らぬといふやうに、万事に増長して、つまり百姓の家を堅固に保つことが出来ないといふ、彼の微を閉ぢ、漸を防ぐの意味を以て、斯様に厳しく訓戒されたものと思はれる、父が是れ程厳格な人であつたにも拘らず、酷く叱られたことは滅多にない、こんなに謂はれたことは、後にも前にも是が唯一度であつた、併かしこの譴責を受けた時、自分の心の中では、余り厳正に過ぎて、慈愛の薄いやうに思はれたのは、それは全く自分の心得違ひであつたのである。

あ〻不束なその時の思出よ、この一事を以てするも父晩香の平凡の人物でなかつた事が知られる、あ〻今にして知る父の見識、よき父をもつた自分の十五六歳の二個年は、斯くして多幸多福のうちに過ぎ去つた、[。]

* * * * * *

瞬く間に過ぎた十五六歳、この頃は三度の食事よりも好きであつた犬の噛合も漸次下火になって、伯父の誠実からは習字の稽古、従兄からは撃剣の習練を厲まされ殊に前にも話した通り、父の呍咐で必死と家業に出精したから家業も追々と繁昌するやうになり、就中父が粉骨砕身して丹を尽されたから村の中では相応の財産家と謂はれるほどになつて、第一は父の実家の宗助が物持、その次は淵の上の市郎右衛門など近郷近在の評判であつた、農商の外には少しは質物も取り、金も貸すといふ業体をも取扱つたから父の不在の時には自分も一ぱしの役に立つやうになり、家業も仲々忙がしく、自然と学問の方はおろそか勝であつたが、もとより嗜の事とて决して学問を廃すると云ふ事はなく、業閑を見ては書を読み詩文をも作り、之を藍香に添刪して貰つたりしてゐた[。]

(未完)

修験者の失敗(理想と迷信)

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