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『竜門雑誌』第294号(竜門社, 1912.11)p.11-12

講話

◎文明と貧富

青淵先生

 文明と野蛮と云ふ文字は相対的で、如何なる現象を野蛮と云ひ、如何なる現象を文明と云ふか。其界限は随分六ケしいけれども、要するに比較的のものであるから、或文明は更に進だ文明から見ると矢張り野蛮たるを免かれないと、同時に或る野蛮は夫れより一層甚だしい野蛮に対すると文明と謂へる訳になるけれども今日之を論ずるに当りては只一の空理に非ずして実現されて居る所のものを例とする外はない。但し一郷、一都市に就ても文化の程度を異にするけれども先づ一国を標凖とするのが文明野蛮と云ふ文字に相応しいと思ふ。私は世界各国の歴史若くは現状を詳に調べて居らぬから丁寧なお話は出来ぬけれども英吉利とか仏蘭西とか独逸とか亜米利加とか云ふ国々は今日世界の文明国と云ふて差支ないだらう。其文明なるものは何であるかと云ふと国体が明確になつて居て、制度が厳然と定つて、而して其一国を成すに必要なる総ての設備が整ふて勿論諸法律も完備し。[、]教育制度も行届きて居る。

斯くの如く百揆皆整ふて居るからと云ふて未だ文明国とは謂へない。其備設[設備]の整ふて居る上に一国を十分に維持し活動すべき実力がなくてはならぬ。此力と云ふことに就ては兵力にも論及せねばならぬが警察の制度も地方自治の団体も皆其力の一部分である[。]斯くの如きものが十分に具備して居る上に彼此各克く其権衡を得て相調和し相聯絡して一方に重きを措き過ぎるとか若くは統一を欠くとか云ふことのないのが即ち文明と云ひ得るだらう。換言すれば一国の設備が如何に能く整ふて居ても之を処理する人の智識能力が其れに伴はぬ[な]ければ真正なる文明国とは謂はれない[、]但し前に述べたる如き完全なる設備の整ふて居る国で之を運用する人は不完全であると云ふことは先づ少ない道理であるが或塲合には表面の体裁は完全に見ゆるが根本が堅実でない塲合も有り得る事で。[、]所謂優孟の衣冠で、立派な着物も其人柄に似合はぬと云ふやうな有様がないとは謂はれぬ。故に真正の文明と云ふことは総ての制度文物の具備と夫れから一般国民の人格と智能とによりて始めて謂ひ得るだらうと思ふ。斯く観察すれば最早や貧富と云ふことは論ぜぬでも文明と云ふ中には自ら富の力が加つて居ると見て宜しいけれども形式と実力は必ずしも一致するものに非ず[、]形式が文明にして、実力は貧弱、是は甚だ不権衡の言ではあるけれど必ずないとは謂はれない。故に曰く真正の文明は強力と富実とを兼ね備ふるものでなければならぬ。

 扨て一国の進歩は孰れに傾くかと云ふに古来各国の実例を観るに多く文化の進歩が先きにして実力が跡より追随する様に思はれる。殊に国に由つては兵力が先づ前駆して富実と云ふものは殊更遅れ馳せになると云ふことは多く看る例である。我帝国の現状も矢張さう云ふ有様と謂はねばなるまいかと思ふ[。]其国体が万国に冠絶して、而して百般の庶政も維新以後輔弼の賢臣が打寄つて漸次に建設せられたのであるから誠に申分はないと思つて居る。只其れに伴ふ富実の力が同じく完備して居るかと云ふと悲哉歳月尚ほ浅しと言はねばならぬ。富実の根本たるべき実業の養成は短日月にして満足し得るものでない為めに前に申す国体とか制度とか云ふもの、完備せるに比較すれば富力は頗る欠如して居る。但し其富を増殖する事のみに国力挙つて努力するならば帝国小なりと雖種々なる方法もあるだらうけれども富むより先きに使用せねばならぬと云ふ必要がある、文明の治具を張る為めに富実の力を减損するは今日の大なる憂ひである。凡そ国を成すは唯富みさへあれば宜いと云ふ訳に行かぬ。文明の治具を張る為に富力の一部を犠牲に供すると云ふことは止むを得ぬであらう。換言すれば一国の体面を保つ為め一国の将来の繁盛を謀る為に陸海軍の力を張らねばならぬ[。]内治にも外交にも種々の国費を支出せねばならぬ[。]即ち一国の治具の為には其財源を多少减損すると云ふことは勢ひ免かれぬ事であるけれども其れが劇しく一方に偏すると終に文明貧弱にならぬとは謂へぬ。若しも文明貧弱に陥つたら百般の治具は皆虚形となり遠からずして文明は野蛮と変化する[。]斯く考へると文明をして真の文明たらしむるには其内容をして富実、強力、此二者の権衡を得せしめねばならぬ。我帝国に於て今日最も患ふる所は文明の治具を張る為めに富実の根本を减損して顧みぬ弊である。是は上下一致文武協力して其権衡を失はぬ様勉強せねばならぬと思ふ。

真正なる文明(理想と迷信)

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