出典を読む
『竜門雑誌』第333号(竜門社, 1916.02)p.42-53
説話
◎楽翁公の人格
青淵先生
本篇は昨年五月十三日午後一時より東京市養育院に於て挙行せる楽翁公記念祭に於ける青淵先生の演説なりとす(編者識)
諸君、私は昨年の今頃は丁度支那へ旅行を致して居りましたので例年の此楽翁祭に出席することも出来ませんでしたが、本年は幸に支障なく出席することが出来ましたのを甚だ喜ばしく存じて居ります。
先刻来佐久間君及び戸川君より段々有益な御話を承はりまして此会の為に諸君と共に両氏へ深く御礼を申上げて置きます、佐久間君の御話は御自分の実歴論で、楽翁公の御心配によつて積立てられた七分金が幕末に於て如何に始末されたかと云ふことからして、維新革命の落着に至るまでの御自身の経過を精しく御述べ下さいましたので、私共も坐ろに当時を想起こす感がございます、同君に於ては定めし御苦心もなされたことであらうと存じますが然し又其御尽力が江戸の町をして焦土たらしめなかつたと云ふことは大なる隠徳で、此塲合に於ても同君の御苦労を深く感謝せねばならぬやうに思ひます、又戸川君のは極く趣味の深い御話で、我々に於ても興に入つて拝聴致したのであります、楽翁公が政治以外の方面にも大層御心を用ひられ、又優れた能力を御持ちになつて居られたのみならず、文芸上にも豊富なる智識と技能とを持つてござつたと云ふこと及び其御注意が如何にも優美であつたと云ふことは真に感服に堪えぬ次第でございます、私も楽翁公の詠ぜられた和歌などを書いた書物を持つて居りますし殊に自身が一つ珍重して持つて居りますのは画幅であつて何れに伝はつたのであるか分かりませんが私は江間政発と云ふ人から引受けて珍蔵して居りますが、着色と云ひ絵柄と云ひ誠に立派なものでございます[、]斯の如く歌も御詠みなされ又絵画もなされ、其他園芸に、美術に、総ての事柄に優れてござつて、而して民政及び国防等経世的の御考にも甚だ優越した見識を以て居られたと云ふことは甚だ珍らしいことであります、兎角多芸な人には一心の堅固と云ふことが乏ぼしく或は意思が堅実でないとか精神が透徹しないとか云ふやうなことがあるが、楽翁公は之に反して極く精神堅固な御方であると同時に又た多能多技な御方であつて、普通凡庸の徒には望み難いやうに見えるのでございます、実際公は凡庸と[ど]ころではなく非常な傑物であらせられた、故に其御一代の事に就て御話しすれば実に際限のないことでありますから、今日は私自身の感想等に就て申述べることを致さず、茲に公の自著に係かる撥雲秘録と申す書物を持参致しましたから之れを少しばかり読むで楽翁公の御人格御精神等を諸君に能く御知らせして見たいと思ふのであります。
先づ此秘録が如何なる書物で又たどう云ふ訳で私が之れを見たかと云ふと、それは松平家に極秘してある箱があつたのであります、此書物の現はれた謂はれは、江間政発氏が序文を書て居りますのでこれを読めば明かに分るのでありますが、然し此序文も中中長いもので悉く読むと頗る時を費しますから大要を御話しすると、一つの大切な箱が松平家に古るくから伝はつてあつた、然し其れは極秘の箱で松平家でも開けることが出来ないであつた、偖て或時其箱が破れたに付いて其の破ぶれ目を少しばかり開けて見ると封印がしてあつて、其部分に職に就いた者でなければ開封してはならぬと云ふ楽翁公自身の封印がしてある、職に就くと云ふのは老中の職に就くと云ふ意味であるが、維新後になつては老中になることはないから開けて見ても宜からうと云ふので定教子爵の時代に其れを開けて見ました、定教子爵は曾て養育院の常設委員にお成りなさつたことがある御方で今の御当主様の先々代に当りませうと思ひます、其御方が開けて見ますと撥雲秘録と云ふ標題で尊号事件の顛末などが余程詳らかに書てありました、当時に於ける京都の公卿衆の評議とか、又関東に於ては老中の評議廻しとか云ふことが皆仔細に書いてある[、]而して其事件の結末に就ては余程心配されたものと見えて、総て其書類を一纏めにして他人に見せない為に開封を許さぬと云つて封じ込めて焼く訳にも行かぬから何かの時に或は見る人があるかと云ふ考を持たれたものと見えるのです、此秘録の中に「宇下人言」と云ふ標題の一巻がある、宇下人言とは何の意味やら一寸分かりかねる文字であるが、能く考へて見ると定信と云ふ字を分解して書いたもの〻やうに思ひます、定と云ふ字はウ冠の下に下の字と人の字を書き、信と云ふ字は人と言の二字で出来て居る、故に人と云ふ字だけが共通で宇下人言の四字を組合はせると定信となる、御自身が認められたものであるからそれで宇下人言と云ふ分からぬ標題としたものと見えます、即ち一種の自叙伝であります、誠に面白く且つ切実に書いてある、元来之れは秘書であるから松平家でも世の中に公けには致されませぬが、其秘書を開く時に江間政発氏は之れに列席した一人であつた為め、写して持つて居ります、私は一冊を同氏から借覧したので、それで此書物があることを知つて居るのであります、楽翁公の伝は大抵世間皆どなたも知つて居られるし、私も御話し致したことがありますから申上げることが自然重複する虞れがある[、]又た此書は秘密になつて居りましたから其内容を余り喋々御話することも如何と思ひますが、さればと申して今日の時代となつてまで秘して置くべきものでもあるまいと考へまして本日此席に持参致したのでございます。
先づ此書の初めに斯う云ふことが書いてある。
「宝暦八年歳星戊寅にやどる、十二月二十七日に生る、生れてより虚弱なりければいたつきにのみ罹りて成育の程頼みなかりしとぞ、伊東江雪法眼なんと云ふ師医[医師]灸薬を施したりければ稍長じぬ(生母は香詮院といふ我名は賢丸といふ)五つの春二月田邸災あり予は乳母の腹にし上苑の滝見の茶屋に遁れたり」
田邸と云ふのは田安家の御屋敷でありまして、公五才の時之れが焼けたのであります、上苑とは御城内吹上の御庭のことで即ち将軍家の御庭と云ふ意味であります。
「今にも其炎火のさま覚えて居侍るなり、上使ありて御城に退き侍れとの仰せにて悠然院殿、宝蓮院殿、高尚院殿御始めとして予が如きまでも皆々上りたり」
是等の何院殿と仰せらる〻は楽翁公に対して何う云ふ御間柄の方々であるかは調べて見ぬと能く分りませぬが兎に角其等の方々と共に御城内へ避難されたのである。
「将軍家治公いとまめやかに仰せ言ありてくま〳〵の御恵み浅からず、此時百猿の御巻物と山本大夫の奉りし伊勢の御秡を賜りしなり、其時暫く御城に居たりければ心や欝し侍らんとて吹上の上苑に伴ひ給ひ或は能興行ありたり、悠然院殿、宝蓮院殿は五六日もやたちけん宮内卿殿は[の]別業の芝と云ふ所にあなるを借りて住み給ふとて御城を罷ん出給ひぬ、予等は久しく御城に居たりけり、いと御恵み浅からず、将軍家にも殊に鐘[鍾]愛し給ひける御事とて後々に語り聞かせ侍ることなり、それより田邸の別業四谷の里に暇[仮]の殿造り出来にければ、余等も皆御城をば罷ん出侍りぬ、明けの年田邸の御館出来にければ皆々移りぬ
六つの年に大病に罹りたり生くべき程心許なかりけれど高島朔庵法眼等多くの医師打集ひて医しぬ、九月の頃平療す、七つの頃にやありけん孝経を読み習ひ仮名なんど習ひたり、八つ九つの頃人々皆記憶もよく才もありとて褒めの〻しりければ我心ながらさもあることよと思ひしぞはかなけれ」
之れは御悧巧だ〳〵と皆が御世辞を言ふから自分自身も悧巧な積りで居たのが恥かしいと云ふ懐旧の情を叙べられたので甚だ床しき述懐であります。
「其後大学など読みならひたる頃幾かへり教えられ侍りても得覚え侍らずして、さては人々の褒めの〻しりけるは諂らひ阿ねるにこそ、実はいと不才にして不記憶なりけりと九つの頃ふと覚りぬ、之を思へば幼き時褒めの〻しるはいと悪しきことなるべし、十余りの頃より名を代々に高くし日本唐土へも名声を鳴らさんと図りけるも、大志のやうなれども最と愚かなることにぞ侍りける」
之れに依つて見ると十歳位の時から海外にまで聞える程の人物になりたいと思はれた、之れは実に非凡なことである、然かし御自身ではそれは大志のやうではあつたけれども烏滸の次第であつたと謙遜して居られるのであります。
「其頃より大字など多く写して人の需めに応じたりけり、皆々請需めしも諂ひの種に生ひ出でしことなれば、其需めに応じて書きける心いと浅かりけり」
私共も時々字などを書かせられるが或は楽翁公が茲に言はれたやうなことがあるかも知れませぬ。
「十余り二つの頃著述を好みて通俗の書など集め大学の条下にある事々を書集めて人の教戒の便りにせまほしく思立ちて書きけれども、古きことも覚え侍らぬ上通俗の書は偽り多しと聞きければ止めたり」
もふ十一二歳の頃から著述をして人の教にならうと思ふことを書き始められたのであるが、然かし古いことは知らず又た通俗の書を参考にすると事実を失ふて居ることがあるから、読者を誤らしめてはならぬと思返へして止められたのである。
「今思へば真西山の大学衍義の旨趣に類したる大旨なれば蒐め侍らざりしぞ幸ひとも云ふべきにぞ、此頃より歌も詠みたれど皆腰折の類にて覚えもし侍らず又頼よる人もなければ自からよみて反古にのみしたり、鈴鹿山の花の頃、旅人の行きかふ様畵きたるを見て
鈴鹿山旅路の宿は遠けれと
振捨てかたき花の木の下
と詠みたるも十余り一つの頃にありけん」
十一歳の時に既に斯う云ふ歌を詠まれたのは文芸上に於ても天才であつたやうに思はれます。
「十余り二つの時自教鑑と云ふ書を書きたり、大塚氏に添刪を請ひたれは其うちの書にしては見よきなり、今もあり、清書の頃明和は七つとあれども五年の頃より作りたり、父上悦び給ひて史記を賜ふ、今も蔵書になしぬ、十余り一つ二つの頃より詩を作りけれど平仄も揃ひかねて人にも言ひ難き程なり、
雨後の詩に
虹晴清夕気 雨歇散秋陰
流水琴声響 遠山黛色深
又七夕の詩に
七夕雲霧散 織女渡銀河
秋風鵲橋上 今夢莫揚波
とよみたるも多く師の添削にあひたれば斯かる言葉とはなりたりける」
之れで見ますると楽翁公と云ふ御方は生来非常に多能で少年の時分から余程優ぐれて居つた御人のやうであります、自教鑑と云ふのは楽翁公蔵書の中に出て居りますが、自分の身を修めると云ふことを自から戒めた書で余り長篇ではないやうに記憶して居ります、私も昔之れを読むだことを覚えて居ります。楽翁公は又た甚だやさしい性質の御方であつたが、然かし老中田沼玄番頭[玄蕃頭]の政治をひどく憂へて、迚も是では徳川家は立行くことは出来ぬと云ふ位に憤慨して、是非此悪政を除くには田沼を殺す外はないから、身を捨て〻田沼を刺さうと云ふことを覚悟したと云ふことが此書の中にも書いてあります、元来至つて温和な思慮深い御人であつたが、或点には余程精神の鋭どい所のあつた方のやうです、尚ほ続いて読んで行きますと癎癖の強い所があつて、それを侍臣が厳しく諫めたことが書いてあります。
「明和八年予は十余り四ツになれり…………………………予此頃より短気にして僅かのことにも怒りふづくみ、或は人を叱怒し又は肩はり筋いだして理をいひなんとしたり、みな〳〵なけかしとのみいひたり、大塚孝綽ことによくいさめたり水野為長常にいさめて日々のよしあしをいひたり、聞けばいと感じけれどふづくみの情に堪がたきに至る、床に索道のかきし太公望の釣する畵をかけて怒の情おこれば独りそれに打向ひて其情をしづめけれども堪かねたり、ひと日全く怒の情なくくらしたくと思ひしかど終に其頃はなかりき、此くせも十八の歳より洗ひそ〻ぎしやうになりたるこそ稀有なれ、全く左右の直言ありし故なるべし」
之れに依つて見ると此御方は天才を有つて居られて而して或点には余程感情の強い性質を持つて居られたが、之れと同時に大層精神修養に力を尽くされた御方である、だから善い性質の御人が尚ほ努めて修養に意を用ゐ遂に楽翁公の楽翁公たる人格を築き上げたものと見えるのであります。
又た公は世の奢侈を憂へられ之れを禁じ、倹徳をす〻むるを以て治国の第一義とせられたのであります[、]此事に就き撥雲秘録中に公は次の如く記るされました。
「いにしへより治世の第一とするは花奢をしりぞけ末を押へ本をす〻むることにぞあんなれ、然るに宝永正徳の頃より花奢になりもてゆくといへども、前にもいふ如く宝暦明和の頃の二十年は世風くづる〻事早く、前の二十年はくづる〻ことおそかりけり、既に今にも七十ぢ八十ぢの老婆はいづれも銀のかんざし、たいまいの櫛などさしたるは一人もなし………笄なども竹などをさしたりといふ、今の世にては竹の笄など見しものもなく、銀など差す人も稀にて、符のなきたいまいの櫛、笄などさすなり、裏屋なんどに住むものもたいまいのかうがい差すものもあり、衣服などいふも二十年前なかりし品々織出すなり、京縮なんどいふは近き頃出でしを老中重役の面々着たりしかば、越後にて織出す縮は営中へは着ても出でがたき程なりけり、其外女の衣服など畵にかくとも及びがたき縫などして出すなり、既に今はいかなる田舎の山中にても砂糖入りし餅なんどはあり、是等のこと枚挙すべからず」
又た公は今日欧米諸国及び我国に於ても八ケましく論議せらる〻農村荒廃問題即ち人口の都会集中問題に就ても深く心配をせられて次の如く言つて居られます。
「………町方人別の改てふものも只名のみになりければ、いかなるものにても町に住みがたきものはなく、出家の定めもなければ実に放蕩無頼の徒すみよき世界とはなりたり、さるにより在方人別多く减じて今関東の近き村に荒地多く出来たり、やうやく[う]村には名主一人残り其外は皆江戸へ出でぬといふが如く末にのみわしりけり、これによつて其制度なければ費すものかく多く、生ずるものかく少なければ、いかにして生財の道を開き、いかにして物価を平らかにしいかにして治世の御術をなし給はんや、天明午の年諸国人別改められしに前の子の年よりは諸国にて百四十万人减じぬ、この减じたる人皆死うせしにはあらず、只帳外となり又は出家山伏となり、又は無宿となり又は江戸へ出で〻人別にも入らずさまよひありく徒とはなりにけり、七年の間に百四十万人の减じたるは紀綱くづれしか、斯くばかりのわざはひとなり侍るてふことは、何ともおそろしといふもおろかなり」
斯くて公は浮華を却け、節用を専らにし、帰農勧本の必要を主張せられたのであります、之れに依つて見ても如何に公の着眼が遠大であつたかと云ふことが想像せらる〻のであります。
尚ほ今日序ながら茲に御話して置きたひと思ふことは例の尊号事件の一条です、世は尊号美談など〻云ふて、中山大納言が大層偉らい公卿で、又関東では松平越中守が名宰相で、此二人の間に重大なる交渉談判が行なはれたと云ふことを一の美談として言伝へ特に福地源一郎即ち桜痴居士などは尊号美談と題す書物を拵へて一時世人は盛んに之れを愛読しましたが、然かし其書いてある事実は誤りが多く撥雲秘録に依て見ますると、あんな華やかなものではなかつたのです、尊号一件の起つたことは時の天子即ち光格天皇が其御実父に太上天皇の尊号を差上ぐやうと云ふ御考へで、之れを関東へ御相談になつたのが起因であります、其時分には総てさう云ふことは京都と江戸の評議に依て决するやうに相成つて居つたから、武家伝奏を以て関東へ御相談になつた、然るにそれは御宜しくあるまいと云ふことを関東から御諫めした、さうして其主張者は越中守であつた、其御諫めした顛末が所謂尊号事件なるものとなつたのであります、而して此問題に就て幕府が之れを承知せぬものだから京都に於ては関白以下夫れ〳〵の役人が種々評議をして、全躰幕府がそれを承認するとかせぬとか云ふのが間違つて居る怪しからぬ次第であると云ふて種々京都の方に議論があつて再三関東へ高圧的の御沙汰があつたが、飽く迄もそれを押し返へして不同意を主張したので、遂に其事に就て深く心配されたる中山大納言及び正親町大納言、それからもう二人ばかりあつたと思ひますが、兎に角此両卿が関東へ下向されて幕府の当局者と大に議論を闘はされると云ふことになつたのであります。伝ふる所によれば之れは幕府が尊号問題に就て再三京都の御沙汰を突返した結果、京都に於ては何か考ふる所があつたと見えて俄然尊号に関する御沙汰を撤回せられ、其れにて万事解决が着いた筈であるにも拘はらず幕府は右撤回の理由を取調ぶる為め非公式的に両卿を関東に召喚したのだと云ふ説もありますが此間に処して楽翁公即ち松平越中守が国家の為め非常なる苦衷を尽くされたと云ふことは陰れもない事実であります、而して両卿の江戸着後将軍に代つて両卿、特に中山卿と論難せられたるは越中守であつて其苦心は蓋し一通りではなかつたのであります、故に事の結果より見れば越中守と云ふ方は天子の孝道を御尽しなさるのをお妨げ申したやうな形ちになつて居るので尊王どころではない甚だ皇室を侮蔑したと見受けられるのですが、然かし其所が大層むづかしい所であつて、従つて其顛末も世の中に知らせぬやうにして仕舞つたやうに見えます[、]全躰此尊号事件と云ふものが単に皇室に関することのみでなくて寧ろ是は関東に関することであつた、其時の将軍は十一代で徳川家斉即ち文恭院と云つた人で、近頃まで世人は之れを大御所様と称なへた御人である、此家斉と云ふ人と松平越中守即ち楽翁公とは従兄弟である[、]八代将軍吉宗の子供の一人が田安家へ行き他の一人は一橋家へ行き、両方とも御孫があつて一橋の方の孫は宗家の相続をした、之れが家斉で[、]一人は田安家の方から松平越中守に養子に行つて老中になつた、さう云ふ関係でありましたから時の将軍家斉と云ふ人と楽翁公とは、年が幾つ違つたかと云ふと丁度十五歳違つて居つた、楽翁公が老中になつたのが三十歳の時で其時に将軍家斉公は十五歳であつた、それから数年経つて多分寛政の五年であつたかと思ひます、家斉公が二十歳程になつて一橋家の我が実父の為めに徳川家累代に未だ曾つて受けたことのない儀同三司と云ふ職を是非貰受けやうと云ふことを思ひ立たれた、近侍の重臣などは将軍の意を迎へる為め熱心に賛成し慫慂したのでありました、其処へ丁度尊号問題の御沙汰があつたので将軍及近侍の士は機乗すべしと私かに喜んだのであります、何となれば、取らんとすれば先づ与へよと云ふ諺の通り、天子の御実父へ太上天皇の尊号を奉ることに賛成し之れを成就せしめて置けば、皇室に其例を開らくことになつて将軍の父へも高位を貰ひ受けるに都合がよいと云ふ[、]悪く申せば自家の為めに尊王をダシにつかはふと云ふ考であつたのです、之を楽翁公は知つて居たから斯くては徳川家をして驕奢に長ぜしめ、家斉将軍の一身を誤るのみでなく、悪くすると天下の害になると云ふことを深く懸念して、遂に尊号問題に不同意を主張し断然京都の御趣意に背いて之れを排斥して仕舞ふた、是が尊号事件の大要であります、此事を研究して見るに段々松平定信即ち楽翁公の苦辛が更に明かになつて来るやうです。
偖て楽翁公が老中になられたのが天明の七年である[、]天明の六年には田沼玄番頭[玄蕃頭]の悪政が極点に達した[、]殊に天明の初年からして数年来引続いて種々なる天変地妖が生じて或は浅間山が大噴火をしたとか、大凶作があるとか、大洪水があるとか、毎歳さう云ふ災害ばかりが続いて来た[、]それと云ふも田沼の悪政に対して所謂天が災を来たらすのだと云ふやうな観念が世人の胸中に生じて来たから、とう〳〵親藩たる御三家に於てもぢつとして之れを見て居ることが出来なくなつて、やかましく言い出し遂に田沼玄番頭[玄蕃頭]は閣老の職を罷められた、其処で生じて来た大問題は此頽廃した幕政を誰に依て回復せしめたら宜からふかと云ふことであつた[、]其時分に松平越中守定信は家抦と云ひ又身分と云ひ申分なく、且つ頗る賢明な人だと云ふことが知られて居つたので、若年にも拘はらず推されて老中の職に就いたのである、越中守は其時に深く覚悟して、愈々職に就いた以上は善政を以て民を済ひ徳川家の勢威を再興したいと云ふ决心から、丁度天明の八年正月の二日に本所の吉祥院に祀れる歓喜天に誓文の如き心願書を捧げた、之れは老中の職に就てから八箇月目のことであります[、]即ち幕府の政治を充分に改革し、人民を塗炭の苦しみより救はんとする熱心なる精神を以て神に祈願を懸けられたのであつて、多分諸君も御承知のことであらうと思いますが、念の為め一寸読み上げて諸君の御聞きに入れます。
「天明八年正月二日松平越中守儀奉懸一命心願仕候当年米穀融通宜しく格別の高値無之下々難儀不仕安堵静謐仕幷に金穀御融通宜く御威信御仁恵下々へ行届候様に越中守一命は勿論之事妻子の一命にも奉懸候て必死に奉心願候事 右条々不相調下々困窮御威信御仁徳不行届人々解体仕候儀に御座候は〻゙ 只今の内に私死去仕候様に奉願候生ながらへ候ても中興の功出来不仕汚名相流し候よりは只今の英功を養家の幸並に一時の忠に仕候へば死去仕候方反て忠孝に相叶ひ候儀と被存候 右の仕合に付以御憐愍金穀融通下々不及困窮御威信御仁恵行届中興全く成就候儀偏に奉心願候敬白[」]
実に一読涙下だる底の熱血を籠めたる誓文であります、之れを見れば楽翁公は命懸けの覚悟で責任の地位に坐したので理想的政治家と云ふのは斯かる人物のことを申すのでありませう。
偖て斯くの如き覚悟で政抦を執り、諸般の改良も稍や端緒に就いた時に思掛けなくも前申す尊号事件が起つたのである[、]即ち将軍家に於て其実父の為めに前例以上の待遇を朝廷に望むと云ふ意思があつて、其望を遂ぐるに就ては先づ第一に新天子の御実父を太上天皇に崇め奉つて、其を例として将軍家の実父にもさう云ふ高位を貰ひたいと云ふ考であつたから楽翁公は之れは所謂名を正しくせぬ仕方であると云ふことを深く考慮された[、]是が尊号一件の始である故に其ことが終ると間もなく楽翁公は職を辞した、将軍家に於ても此事件から多少不快に感じて居たのでありませう、若し時の将軍が楽翁公をして其職に留まらしめんと希望したならば無理にも止めたかも知れぬけれども左はなく辞職を許しました、さりながら辞職後も殆んど十四五年間は丁度今言えば元老のやうな位地で政治のことに相談に与かつて居りましす[た]が、其後は全く天下の政治に関係を絶つて其れから尚ほ十四五年も経過して七十二歳で薨去になりました、故に尊号一件と云ふものは実に公一生中の困難事であつたことは此書物に依ても見えまするのですが、是等のことは余り世間に今まで広く知られて居りませぬ、今日と雖も極めて秘書として松平家に存されてあるのを、深い縁故ある江間政発氏が写取り置きましたる為め幸に私は之れを見るを得たのでございます、右様の書物であるから公会の席で御話することは憚り多いかも知れませぬが、此前々の会にも私は申したことでありますか[が]、楽翁公は唯だ慈善とか又は節倹とかに御注意が行届いたばかりでなく深く徳川家の将来を慮つた偉人であるが、其苦心された事抦を文書に認めた儘単に之れを家に伝えて世に公けにせず、俗に申す椽の下で力持をして仕舞つた所が寧ろ大功績であると思ひます、総して世の中は兎角自分に先見の明もなく才識乏しいに拘はらず、あの時の乃公は斯く将来を見透ほしたとか、或は斯かる功績を遂げたとか自分で自個吹聴したがるのが一般の人情である、それ程結構な品物でなくとも無闇に立派な広告をする[、]其実物を見ると凡庸であるが百倍にも二百倍にも嵩をかけて吹き立てるのが世の中の常であるが、楽翁公のなされ方は全く之れと反対で、事実御尽しなされた所の功業も成るべく之れを晦まして人に知れぬやうになし、所謂椽の下で力持をすると云ふ犠牲的観念の最も強い御方であつた、之れは真に床しいこと貴いことであり、其人格の如何に高かつたかと云ふことも之れに依つて想見せらる〻のであります。
先刻来段々佐久間君戸川君から各方面に於ける楽翁公の働きを賞賛されましたが、私は又見えぬ所即ち陰れたる所に公の大なる功績が存して居ると云ふことを御話し致したのであります、想像ばかりでは御話が抽象的になりますから、丁度斯かる書物があつた為に一部を読むで其一端を茲に御披露致したのであります、若し時間の余裕が御座いますれば他の部分をも読みまして尚ほ種々の方面に於ける公の余影を察見したいのでありますが、段々薄暮になつて参りましたから遺憾ながら今日は之れで止めまして他日又機会を得て御話し申上ること〻致します。