出典を読む
『竜門雑誌』第327号(竜門社, 1915.08)p.20-22
説話
◎人格の標凖
青淵先生
本篇は八月一日発行の雑誌「向上」に青淵先生の談として掲載せるものなり(編者識)
人は万物の霊長であるといふ事は、人皆自ら信じて居る処である。同じく霊長であるならば、人々相互の間に何等差違なかるべき筈なるに、世間多数の人を見れば、上を見るも方図がなく、下を見るも際限なしと云ふて居る。現に我々の交際する人々は、上王公貴人より、下匹夫匹婦に至るまで、其差違亦甚しいのである。一郷一村に見るも、既に大分の差があり、一県、一州に見れば、其差更に多きく、之を一国に見れば益々懸隔して、殆んど底止する処なきに至るのである。人既に其智愚尊卑に於て、斯様に差等を有すとせば、其の価値を定むるも亦容易の事では無い。况や之に明確なる標凖を付するに於てをやである。然し人は動物中の霊長として之を認むるならば、其間自ら優劣のあるべき筈である。殊に人は棺を蓋ふて後論定まるといふ古言より見れば、何処かに標凖の定め得る点があると思はれる。
人を見て万人一様なりとするにも一理ある。万人皆相同じからずとするのも亦論拠がある。随て人の真価を定むるにも此両者の論理を研究して、適当の判断を下さねばならぬから随分困難の事ではあるが、其標凖を立つる前に、如何なる者を人といふか。先づ其れを定めてか〻らねばなるまいと思ふ。然し是が中々の困難事で、人と禽獣とは何処が違ふかと言ふやうな問題も、昔は簡単に説明されたであらうが、学問の進歩に従つて、それすら益々複雑な説明を要するに至つたのである。昔欧洲の或国王が、人類天然の言語は、如何なるものであるかを知りたいと思つて、二人の嬰児を一室に収容し、人間の言語を少しも聞かせないやうにして、何等の教育も与へずに置き、成長の後、連れ出して見たが、二人とも少しも人間らしい言語を発する事が出来ず、唯獣のやうな不明瞭な音を発するのみであつたと言ふ。是は事実か否かは知らないが人間と禽獣との相違は、極めて僅少に過ぎぬといふ事は、此一話によつても解るのである。四肢五体具足して人間の形を成して居るからとて、我々は是を以て直に人なりと言ふことは出来ぬのである。人の禽獣に異る所は、徳を修め、智を啓き、世に有益なる貢献を為し得るに至つて初めて其れが真人と認めらる〻のである。一言にして謂へば、万物の霊長たる能力ある者に就てのみ、初めて人たるの真価ありと言ひ度いのである、従つて人の真価を極むる標凖も、此意味に就て論ぜんとするのである。
古来歴史中の人々何者か能く人として価値ある生活を為したであらう。往昔支那の周時代にあつては、文武両王並び起つて、殷王の無道を誅し、天下を統一して専ら徳政を施かれた。而して後世文武両王を以て、道徳高き聖主と称して居る、して見れば文武両王の如きは、功名も富貴も共に得られた人と言ふ可きである。然るに文王武王周公孔子と並び称せられて居る夫子は如何である。亦聖人として崇められ、孔夫子に対して四配と謂へる顔回曾子子思孟子の如きも、聖人に亜ぐものとして推称せられて居るに拘らず、是等の人々は終生道の為めに天下に遊説して、其一生を捧げたものであるけれども戦国の際一小国家すら、自ら有することは出来なかつた、されば徳に於ては文武に譲らずして其名も亦高いものであつたが、富買[富貴]といふ方面から之を物質的に評するならば、実に雲泥霄壌の差ありて比較にならないのである。故に若し、富を標凖として人の真価を論ずれば、孔子は確に下級生である。然し孔子自身は果して左様に下級生と感じたであらうか。文王、武王、周公、孔子皆其分に満足して、其生を終つたとするならば、富を以て人の真価の標凖とし、孔子を以て人間の下級生なりと為すのは、適当な評価と言ひ得るであらうか。是を以て人を評価するの困難を知る可きである。善く其人の以てする所を視、其由る所を観て而して後其人の行為が世道人心に如何なる効果ありしかを察せざれば、之を評定することは出来ぬと思ふ。
我邦の歴史上の人物に就て見るも、亦其感なき能はざるものがある。藤原時平と、菅原道真、足利尊氏と楠木正成、何れを高価に評定し、何れを低価とすべき歟、時平も尊氏と共に富に於ては成功者であつた。然し今日から見れば、時平の名は道真の誠忠を顕す対象としてのみ評さる〻に過ぎない。之に反して道真の名は、児童走卒と雖も尚能く之を記憶して居るのである。然らば何れを果して真価ある者と目すべきであらう歟、尊氏、正成二氏に就て見るも同様である。蓋し人を評して其優劣を論ずることは、世間の人の好む所であるが、能く其真相を穿つの困難は是を以ても知らる〻のであるから、人の真価といふ者は容易に判定さるべきものでは無い。真に人を評論せんとならば其富貴功名に属する所謂成敗を第二に置きて、能く其人の世に尽したる精神と其社会に影響する効果によつて其人の価値を定むる標凖を認めらるべきものであらうと思ふ。