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『竜門雑誌』第293号(竜門社, 1912.10)p.11-14

講話

◎聖代看斯壮烈人

青淵先生

乃木大将の殉死に就て世間の論ずる所を観るに或説の如きは殉死と云ふことに就ては多少非難なきに非ざれども乃木大将にして始めて可なり、他人之れに傚ふべきに非ずと論ずるもあり、又は絶対に感歎すべき武士的行為にして実に世の中を聳動せしめたる天晴の最期とて限りなき祟敬[崇敬]の心を以て論評するもありて殆ど毎日の新聞、雑誌が其事に就て埋められる程であるから大将の行為は現社会に大なる影響を与へたと謂ひ得るだらうと思ふ。

私の見る処も略後者と同様なれども乃木大将が末期に於ける教訓が尊いと謂ふよりは寧ろ生前の行為こそ真に崇敬すべきものありと思ふ[、]換言すれは[ば]大正元年[九月]十三日迄の乃木大将の行為が純潔で優秀であるから其一死が青天の霹霊[霹靂]の如く世間に厳しい感情を与へたのである、大将の殉死が如何なる動機から起つたに致せ唯その一死丈けが斯くの如く世間に劇しい影響を与へたのではなからう。故に私は前に述べたる点に就て少しく意見を敷衍して見やうと思ふ。但し私は乃木大将とは親しみが厚くなかつたから其性行を審に知らぬけれども殉死後各方面の評論から観察すると実に忠誠無二の人である、廉潔の人である、其一心は唯奉公の念に満たされた人である、而して事に処して常に精神をこれに集中して苟くもせぬ人であると云ふことは総ての行為に於て察知し得らる〻のであります。

殊に軍務的行動に付ては、何物をも犠牲にして君の為め国の為めに尽すと云ふ精神に富まれたことは現に二人の令息が日露戦役にて前後討死された時にも将軍は君国の為めに堅忍其至情を撓めて涙一滴も人に見せなかつた一事に徴しても明であります。

而して将軍は青年の頃より軍人としては事毎に長上の命令に服従して水火の中をも辞せぬと云ふ堅実なる服従気性を持つて居られたと同時に、事の是非善悪に就ての議論には而かも権勢に屈せぬと云ふ凛乎たる意考を持つて居られたやうに見受けられる。夫れかあらぬか、或る塲合に先輩の意見に違つて休職になつた抔と云ふことは蓋し其鞏固の意志に原因せしものと想像される。左らば至つて偏狭な過激な唯感情的の人かと思ふと其間に実に靄然たる君子の風ありて或は諧謔を以て或は温乎たる言動を以て人を懐づけられ自己が率ゐたる兵隊抔に対しても夫れこそ中心[衷心]から其人の苦痛を恕察し又其の戦死に付ては故郷の父母妻子に対して深く衷情を添へて居られた。昔時軍人の美談として世に伝へられて居る呉起が其部下の兵士の創の膿を吸ふて癒して遣つたときに。[、]其武士は大に喜で此創が癒へたらば将軍の為めに戦塲で命を棄てねばならぬと云つて感じた。す


[挿図]

遺墨淋漓泣鬼
神奉公一意了
天真休言国乱
忠臣見聖代看
斯壮烈人

哭乃木大将

青淵老生

栄一 青淵

ると其母の云ふには人情左もあるべき事であるが、汝の兄も其通りにして終に討死したとて歎いたと云ふ話がある。呉起が兵士の膿を吸ふたのは衷心から出たのか或は一の術数でありはせぬかと其母は疑ふて歎いたのではあるまいかと思ふ。然るに乃木将軍に至つては全く天真爛漫たる衷情から部下を労せられたのである[。]単に軍隊に居られる時のみ然るに非ずして学習院に院長として居られた時にも掬する許りの情愛が総ての方面に現はれて居ります。左らば其平生は如何にやと云ふと独り武ばかりを誇りとする人に非ずして文雅にも富まれて居る。如何に忠誠の人でも唯武骨一片で花を見ても面白くない、月を見ても感じもないと云ふ人は困る。強い許りが武夫か、と云ふことは物の本にもあります。彼の薩摩守忠度が討死の際に和歌の詠艸を懐中せられたとか或は八幡太郎義家が勿来関の詠歌の如き一の美談としてあります。昔時の武士が武勇と文雅とを兼ね備へたのは実に奥床しい感がする。然るに乃木将軍は詩歌の道にも長けて然かも高尚な意味を平易の言葉で述べると云ふことが誠に巧みであつた。彼の二百〇三高地に於ける絶句の如き或は又故郷に帰つて故老に逢ふのが心苦しいと云ふ詩の如き又は辞世の歌の如き孰れも真情流露、少しも巧みを弄せず極く滑かに詠まれて居ります。

斯くの如く奉公の念に強い所から不幸にも先帝の崩御に際して最早此世に生き甲斐がないと思はれたのであらう[、]素より将来の軍事に就ても学習院の事務に付ても又目下英吉利の皇族に対する接伴に対しても種々関心の事はありしならむも併し軽重之れに代へ難いと云ふ所から忍び難きを忍びて殉死と決してさてこそ其事が発露したればこそ将軍の心事が隈なく世間に顕はれて実に世界を聳動したのである[、]故に私は思ふ[、]唯其一命を棄てたのが偉いのではなくして六十余歳迄の総ての行動、総ての思想が偉かつたと云ふことを頌讃せねばならぬ。

兎角世の中の青年は人の結末丈けを見てこれを欽羨し其結末を得る原因がどれ程であつたかと云ふことに見到らぬ弊が多くてならぬ。或人は栄達したとか或人は富を得たとか云ふて羨望するけれども其栄達、其富を得る迄の勤勉は容易ならぬ、知識は勿論力行とか忍耐とか、常人の及ばざる刻苦経営の結果であるに相違ない。其智識、其力行、其忍耐と云ふものに想ひ到らぬで只其結果丈けを見て之を羨望するのは謂れないことである。乃木大将に対するも唯其壮烈の一死のみを感歎して其人格と操行とに想到せぬのは恰も人の富貴栄達を見て徒らに其結果を羨望すると同様になりはせぬか。故に私は将軍に対して殉死其者を軽視すると云ふ意味ではないけれども斯くの如く天下をして感動せしめたる所以の者は壮烈無比なる殉死に在りと謂はんよりも寧ろ将軍の平生の心事、平生の行状、之を然らしめたるものなりと解釈したいのであります。因に一言を添へたきは頃日或る有力なる支那人が王子の宅に来遊せし折抦曾て他人より私に宋の文々山の畵像に其自賛の揮毫を托されてありたれば即ち「孔曰成仁、孟曰取義惟其義尽所以至読聖賢書所学何事而今而後庶幾無愧」の文字を記載せし畵幅を其支那人に一覧せしめ後、談将軍の殉死に及びて更に拙作なれども左の一絶を示せしに彼も大に感ずる所ありしと見えて頻に沈吟せられて居つた[、]蓋し文天祥も宋末の忠臣と後世まで称賛せらる〻人なれどもこれを将軍の死の壮烈なるに比すれば文武の差、左もあるべき筈とはいひながら其行き方は実に霄壌の懸隔があるのは取りも直さず帝国と支那との国民の気風を表明するものと云ふて宜からうと思ふ。