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『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.209-215
二九、事業経営に対する理想
凡そ社会に立ちて合本法によりて、一事業或は一会社を経営せんとするには、其の当事者たるものは宜しく立憲国の国務大臣が国民の輿望を負うて国政に参する程の覚悟を以てこれに当らなければならぬ。例へば一会社に於ける重役が、株主から選まれて会社経営の局に当る場合には、会社の重役たる名誉も、会社の資産も、悉く多数株主から自分に嘱託されたものであるとの観念を有ち、自己所有の財産以上の注意を払つて管理しなければならぬ。併し乍ら又一方に於て重役は常に、会社の財産は他人の物であるといふことを深く念頭に置かねばならぬ。それは会社経営上に就いて一朝株主から不信任を抱かれた場合は、何時でも会社を去らなければならぬからである。なぜならば総て重役が其の地位を保ち其の職責を尽して居るのは、必ず多数株主の希望に依るものであるから[、]若し多数人の信任が無くなつた際は、何時でも潔く其の職を去るのが当然のことである。而して斯かる場合には公私の区別が判然として、会社の仕事と自己の身柄と直ちに判別がつき、其の間に聊かも私なく秘密なきことを期さねばならぬ。これ多数株主の輿望を負うて其の任に当る会社重役の、常に心得ざる可らざる肝要の条件であらうと思ふ。
然るに現代に於ける事業界の傾向を見るに、まゝ悪徳重役なるものが出でゝ、多数株主より依託された資産を恰も自己専有の物の如く心得、これを自儘に運用して私利を営まんとするものがある。それが為め会社の内部は一の伏魔殿と化し去り、公私の区別もなく秘密的行動が盛に行はれる様になつてゆく。真に事業界の為に痛嘆すべき現象ではあるまいか。
元来商業は政治などに比較すれば、却て機密抔といふことなしに経営してゆかれる筈のものであらうと思ふ。唯銀行に於ては事業の性質として幾分秘密を守らねばならぬことがある。例へば誰に何程の貸付があるとか、それに対して何ういふ抵当が這入つて居るとかいふ事は、徳義上これを秘密にして置かなければならぬであらう。又一般商売上のことにても、如何に正直を主とせねばならぬからとは云へ、此の品物は何程で買取つたものだが、今これ〳〵に売るから幾らの利益があるといふ様なことを、態々世間へ触れ廻す必要もあるまい。要するに不当なことさへないならば、それが道徳上必ずしも不都合の行為となるものではあるまいと思ふ。併し此等の事以外に於て現在有るものを無いといひ、無いものを有るといふが如き、純然たる嘘を吐くは断じて宜しくない。故に正直正銘の商売には、機密といふ様なことは先づ無いものと見て宜しからう。然るに社会の実際に徴すれば、会社に於て無くてもよい筈の秘密が有つたり、有る可らざる所に私事の行はれるのは如何なる理由であらうか。余はこれを重役に其の人を得ざるの結果と断定するに躊躇せぬのである。
然らば此の禍根は、重役に適任者を得さへすれば自ら絶滅するものであるが、適材を適所に使ふといふことは中々容易な訳のものでなく、現在にても重役としての技倆に欠けた人で其の職に在るものが少くない。例へば会社の取締役若くは監査役などの名を買はんが為に、消閑の手段として名を連ねて居る所謂虚栄的重役なるものがある。彼等の浅薄なる考は厭ふべきものだけれども、其の希望の小さいだけに差したる罪悪を逞うするといふやうな心配はない。それからまた好人物であるけれども、其の代り事業経営の手腕のないものがある。左様いふ人が重役となつて居れば、部下に居る人物の善悪を識別するの能力もなく、帳簿を査察する眼識もない。為に知らず知らずの間に部下の者に愆られ、自分から作つた罪でなくとも、竟に救ふ可からざる窮地に陥らねばならぬ事がある。此は前者に比較すると稍罪は重いが、併し孰れも重役として故意に悪事を為した者で無いことは明かである。然るにそれ等二人の者より更に一歩進んで、その会社を利用して自己の栄達を計る踏台にしようとか、利慾を計る機関にしようとかいふ考を以て重役となる者がある。斯の如きは実に宥す可らざる罪悪であるが、それ等の者の手段としては、株式の相場を釣上げて置かぬと都合が悪いというて、実際は有りもせぬ利益を有る様に見せかけ、虚偽の配当を行うたり、又事実払込まない株金を払込んだ様に装うて、株主の眼を瞞着しようとする者なぞもあるが、此等のやり方は明かに詐欺の行為である。而して彼等の悪手段は未だそれ位では尽きない。その極端なる者に至つては、会社の金を流用して投機をやつたり、自己の事業に投じたりする者もある。これでは最早窃盗と択ぶ所がない。畢竟するに此の種の悪事も、結局其の局に当る者が道徳の修養を欠けるよりして起る弊害で、もしも其の重役が正心誠意事業に忠実であるならば、そんな間違は作り度くも作れるものでない。
自分は常に事業の経営に任じては、其の仕事が国家に必用であつて、又道理に合する様にしてゆき度いと心掛けて来た。仮令其の事業が微々たるものであらうとも、自分の利益は極めて少額であるとしても、国家必要の事業を合理的に経営すれば心は常に楽んで事に任じられる。故に余は論語を以て商売上のバイブルと為し、孔子の道以外には一歩も出まいと努めて来た。それから余が事業上の見解としては、一箇人に利益ある仕事よりも、多数社会を益してゆくものでなければならぬと思ひ、多数社会に利益を与へるには、其の事業が堅固に繁昌してゆかなくてはならぬといふ事を常に心として居た。福沢翁の言に、『書物を著しても、それを多数の人が読む様なものでなくては効能が薄い。著者は常に自己のことよりも国家社会を利するといふ観念を以て筆を執なければならぬ』といふ意味のことが有つたと記憶して居る。事業界のことも亦此の理に外ならぬもので、多く社会を益することでなくては正径な事業とは云はれない。仮に一個人のみ大富豪になつても、社会の多数が為に貧困に陥るやうな事業であつたならばどんなものであらうか。如何に其の人が富を積んでも、其の幸福は継続されないではないか。故に余は国家多数の為に富を致す方法を講じなければ駄目であるとの意見を抱き、明治六年以来専ら銀行業に身を委ねてから、この心は終始一貫して今日迄渝る所が無かつた積りである。
惟ふに国家を自分一個人の家にするといふことは、真正なる立憲国の為政者の為すべきことではない。左様なことが有るとすれば、そは所謂王道に反くものであるから、何人もそれを黙視して置かぬであらう。事業を経営する上にも矢張それと同一の観念が無くてはならぬ。余は実業界に入つて以来未だ一日も此の観念を失つたことはない。現在自分は第一銀行に於て相応の勢力と信用とを維持し、株も一番多く持つて居るから、若し自分が此の際銀行を自由にしようと企つるならば、或る程度迄出来ないことは無からうと思ふ。だが余は明日第一銀行の頭取を罷められても差支無い様にして居る。といふのは第一銀行の業務と渋沢の家事とは塵一本でも混同せず、其の間には劃然たる区別が立ててある。余は自己の地位を利用し、第一銀行の金で私利私慾を計ると云ふやうなことは微塵も無いのみならず、時として私財を割いて迄も第一銀行の為に尽し、其の基礎の安固ならんことを図つて来た。余が実験談を述ぶれば実に上述の如きものである。而して若し一般世人が余の所説の如く、多数社会の富に留意することを根底として、其の事業の経営に任ずるならば、其の間に大なる間違ひの生じ様はなからうと信ずるのである。