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『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.193-201
『武士道』は日本民族の精華である。桜花が日本の誇であるが如く、武士道も亦日本の誇である。今や『武士道』なる語は独り日本人の口頭に云々さるゝばかりでなく、世界各国人が等しくその研究を試みつゝある。彼の日清、日露の両戦役を経たる後に於ての武士道は、世界人に依つて重んぜらるゝ所の一問題となつて来た。
偖、『武士道』なる語の士人間に云ひ囃さるゝ様になつたのは、徳川家康が幕府を江戸に創建した後のことであるらしい。それ以前鎌倉時代から武士の道は有つたものだが、『武士道』といふ立派な名称は未だついて居らなかつたやうに思はれる。俗に所謂『刀の手前』とか、或は『弓矢の道』などいふ言葉は武士道に等しきもので、即ち武士たるものゝ去就進退を決すべき標目としてあつた。然らば武士道とは何であるかといふに、武士が他に対して自己の態度を決定すべき場合に、不善、不義、背徳、無道を避けて、正道、仁義、徳操に就かんとする堅固なる道心、崇高なる観念であつて、礼儀廉耻を真髄とし、これに任俠の意義を包含させたものであると謂ふことが出来よう。故に腰に両刀を手挟む以上は、受けまじきもの、取る可からざるものは、如何なる場合にも必ずこれを斥け、また徳義上若くは自己の職責上為さねばならぬ事ならば、仮令如何なる困難辛苦に遭遇するとも、一命を抛つて迄も必ずこれを成し遂げなければ已まぬとの決心を持つたものだ。『刀の手前捨て置かれぬ』とか、『弓矢の道が立たぬ』とかいふことは、かゝる場合に際して武士たる者の取る可き道を云うたもので、此の心が行となり、而して其の行が能く道に適ひ、機に応じて造次顛沛、これを誤ることなきを武士の本領とし、武士たるものは競うて此の理想郷に心身を置かんと志した。例へば武士に於ける武士道は仏者の悟道、クリスト教者の天国の如きものであつたのである。
古来武士道の典型と称すべき佳話は士人間には沢山にある。就中彼の阿部豊後守忠秋が三代将軍家光を諫めたことなどは、明かに武士道の一端を発揮したものであらうと思ふ。忠秋は後に世に聞えた名相になつたが、青年の時に主君家光が年少の客気に駆られて暴慢の挙動あることを深く憂へ、如何にもして此の悪癖を諫止したいと心掛けて居た。然るに当時将軍家にては毎年正月道場開の当日に於て、治に居て乱を忘れぬ心から、将軍自ら道場に出でゝ臣下と太刀合を試むるを例としたが、臣下は君の権威に阿諛して態と負ける様な風を生じたので、折角の太刀合も一の形式となつて仕舞つた。忠秋は此の弊習を見て独り君に事ふる所以の道に非ずと為し、心私かに苦々しく思うて居たが[、]一年家光は臣下の偽負に勝ち誇り、忠秋にも一太刀参れと強ひた。忠秋は再三固辞したけれども、どうしても聞かれない。然らば是非に及ばぬ故、斯かる機会を以て日頃の暴慢を諫め申さうとの意を決して腕に任せて将軍を打ち負した。所が果して家光の激怒に触れ遂に疎外されて仕舞うたが、忠秋は固より自ら期する所であるから深く謹慎の意を表して居た。其の時宿老大久保彦左衛門のみは痛く忠秋の心事を諒とし、機を見て将軍の憤を釈いてやらねばならぬと折を待つて居た。しかるに其の年夏隅田川の大洪水に際し、将軍自ら馬を水辺に立てゝ逆巻く激浪を乗切らうと焦つた時、彦左衛門は好機逸す可らずと為し[、]目配して代りて忠秋に隅田川乗切りの偉功を樹てしめた。此の有様を打眺めたる家光は始めて自己の非行を後悔し、『斯かる危険を冐しても人に遅れを取らじとの覚悟は立派なものだ。道場開の節余を打負したのも、彼は余が足らぬ所を励まさんとの誠意であつたに相違ない。其の心情を悟らずして、却て之を疎んじたのは一に吾が過であつた』と、再び忠秋を重用したといふ話がある。これは坊間に伝へらるゝ所で、必ずしも事実であつたか如何かは断言し難いが、兎に角武士道は忠秋の行為の如くあるべきものだとの例証としては適切なものである。如何に君に疎まれ誠意を誤解されたからとて、徒らに自己の運命を儚みて、自暴自棄に陥るは武士たるものゝ真面目ではない。忠秋が洪水中に馬を乗り入れたのは、君に疎外されたのを儚く思うて潔く君前に最期を遂げ度いといふやうな悲観的なる挙動ではなかつた。勿論左様の場合必死の覚悟を以てかゝつたには相違ないが、予て亦水練の嗜みもありて、必ず激流乗切りの成算があつたに相違ない。此処で君の怒を解かなくては折角の我が誠意も無になる。必ず此の一挙はやり遂げねばならぬとの決心でやつたものである。忠秋の心事が左様いふ所に在つたればこそ、初めて武士道の典型として世に持て囃されるので、若し彼が自暴自棄に馬を乗り入れたもので、精神は其処に無かつたとすれば、斯かる偉功を奏することは出来ないであらう。尤も是だけのことでは、未だ以て武士道の真諦を説明するには足らぬけれども、確かに其の一端だけは窺ふことが出来るであらうと思ふ。
これを要するに、武士道の神髄は正義、廉直、義俠、敢為、礼譲等の美風を加味したもので、一言にしてこれを武士道と唱へるけれども、其の内容に至りては中々複雑した道徳である。而して余が甚だ遺憾に思ふのは、此の日本の精華たる武士道が、古来専ら士人社会にのみ行はれて、殖産功利に身を委ねたる商業者間に、其の気風の甚だ乏しかつた一事である。古への商工業者は武士道の如きものに対する観念を著しく誤解し、正義、廉直、義俠、敢為、礼譲等のことを旨とせんには、商売は立ち行かぬものと考へ、彼の『武士は喰はねど高楊枝』といふが如き気風は、商工者に取つての禁物であつた。惟ふにこれは時勢の然らしめた所もあつたであらう。けれども士人に武士道が必要であつた如く、商工業者にも亦その道が無くては叶はぬことで、商工業者に道徳はいらぬなぞとは飛んでも無い間違であつた。
蓋し封建時代に於て、武士道と殖産功利の道と相背馳するが如く解せられたのは、猶彼の儒者が仁と富とは並び行はれざるものゝ如く心得たと同一の誤謬であつて、両者共に毫も相背馳するものでないとの理由は、今日既に世人の認容し了解された所であらうと思ふ。孔子の所謂『富と貴とは是れ人の欲する所也、其の道を以てせずして之を得れば処らざる也。貧と賤とは是れ人の悪む所也、其の道を以てせずして之を得るも去らざる也』とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義俠等に適合するものではあるまいか。孔子の訓に於て、賢者が貧賤に処して其の道を易へぬといふのは、恰も武士が戦場に臨んで敵に後を見せざるの覚悟と相似たもので、又彼の其の道を以てするに非ざれば、仮令富貴を得ることが有つても安んじてこれに処らぬと曰ふのは、これ亦古へ武士が其の道を以てせざれば一毫も取らなかつた意気と、その軌を一にするものと謂つて宜しからう。果して然らば富貴は聖賢も亦これを望み、貧賤は聖賢も亦これを欲しなかつたけれども、唯彼の人々は道義を本とし富貴貧賤を末としたが、古への商工業者はこれを反対にしたから、遂に富貴貧賤を本として道義を末とするやうになつて仕舞つた。誤解も亦甚しいではないか。
想ふに此の武士道は、啻に儒者とか武士とかいふ側の人々に於てのみ行はるゝものではなく、文明国に於ける商工業者の、拠りて以て立つ可き道も茲に存在することゝ考へる。彼の泰西の商工業者が、互に個人間の約束を尊重し、仮令其の間に損益はあるとしても、一度約束した以上は必ずこれを履行して前約に背反せぬといふのは、徳義心の堅固なる、正義廉直の観念の発動に外ならぬことである。然るに日本に於ける商工業者は尚未だ旧来の慣習を全く脱することが出来ず、動ともすれば道徳的観念を無視して、一時の利に趨らんとするの傾向があつて困る。欧米人も常に日本人が此の欠点あることを批難し、商取引に於て日本人に絶対の信用を置かぬのは、我が国の商工業者に取つて非常な損失である。凡そ人としてその処生の本旨を忘れ、非道を行うても私利私慾を充たさうとすることが有つたり、或は権勢に媚び謟うても其の身の栄達を計らんと欲するは、これ実に人間行為の標準を無視したもので、斯の如きは決して其の身、其の地位を永遠に維持する所以の道では無いのである。苟も世に処し身を立てようと志すならば、其の職業の何たるを問はず、身分の如何を顧みず、終始自力を本位として須臾も道に背かざることに意を専らにし、然る後に自ら富み且つ栄ゆるの計を怠らざるこそ、真に人間の意義あり価値ある生活といふことが出来よう。今や武士道は移して以て直に実業道とするがよい。日本人は飽く迄大和魂の権化たる武士道を以て立たねばならぬ。商業にまれ工業にまれ、此の心を以て心とせば、戦争に於て日本が常に世界の優位を占めつゝあるが如く、商工業に於ても亦世界に勇を競ふに至るであらう。実業家は宜しく旧来の悪思想を一洗し去り、新時代の活舞台に於て、古へ武士が戦場に駆馳したるが如き心掛を以て大に世界に活躍して貰ひ度い。余は武士道と実業道とは何処迄も一致しなければならぬもの、又一致し得べきものであることを主張するのである。