出典を読む
『竜門雑誌』第319号(竜門社, 1914.12)p.11-13
◎青年に与ふ
青淵先生
本篇は雑誌「先声」記者が青年の今昔に就て青淵先生の意見を問ひて十一月発行の同誌上に掲載せるものなり(編者識)
昔の青年と今の青年とは、昔の社会と今の社会と異なるが如くに異なる。予が二十四五歳の頃即ち明治維新前の青年と現代の青年とは、其境遇、其教育を全然異にしてゐるが為めに、何れが優り何れが劣つてゐるという事は、一口には言へない。一部の人士は昔の青年は意気も有り、抱負も有りて今の青年より遥に偉かつた。今の青年は軽浮で、元気が無いと云ふが、一概にさうばかりも言へまいと思ふ。何となれば昔の小数[少数]の偉い青年と現今の一般青年とを比較して彼是言ふ事は少しく誤つてゐる。今の青年の中にも偉い者もあれば、昔の青年にも偉くない者も有つた。維新前は士農工商の階級は極めて厳格であつた。武士の中にも上士と下士といふが如き階級が有り、百姓町人の間にも代々土地の素封家で庄屋を勤めてゐるやうな家柄と、普通の百姓町人とは自ら其気風教育に異なる所が有つた。如斯有様であつたから、昔の青年と云つても武士と上流の百姓町人と一般の百姓町人とは其教育も異つてゐた。
昔の武士及び上流の百姓町人は其青年時代に多く漢学教育を受けた。初めは小学とか孝経とか近思録とか、更に進んでは論語大学孟子等を修め、一方身体の鍛練と共に武士的精神を鼓吹した。而して一般の町人百姓は如何なる教育を受けたかと云へば、極めて卑近な実語教とか庭訓往来とか、又加减乗除の九九等を学んだのに過ぎない。従つて高尚な漢学教育を受けた武士は理想も高く。[、]見識も有つたものであるが、百姓町人は通俗な手習に過ぎなかつたので、概して無学者が多かつた。然るに今は四民平等となり、貴賤貧富の差別無く、悉く教育を受くる事となつた。岩崎、三井の息子も九尺二間の長屋の息子も皆同一の教育を受くるといふ有様であるから、其多数の青年中の品性の劣等な学問の出来ない青年の有るのは、蓋し已を得ない事である。故に今の一般の青年と昔の少数なる武士階級の青年とを比較して彼是と非難するは、当を得ない事である。
現今でも高等教育を受けた青年の中には昔の青年に比較して毫しも遜色の無い偉い者がいくらも有る。昔は少数でも善いから偉い者を出すといふ天才教育であつたが、今は多数の者を平均して啓発するといふ常識的教育となつてゐるのである。昔の青年は良師を選ぶといふ事に非常に苦心してたもので、有名な熊沢蕃山の如きは中江藤樹の許へ行つて其門人たらん事を請ひ願つたが許されず、三日間其軒端を去らなかつたので、藤樹も其熱誠に感じて遂に門人にしたといふ程である。其他新井白石の木下順庵に於ける、林道春の藤原惺窩に於けるが如きは、皆其良師を選んで学を修め、徳を磨いたのである。
然るに現代青年の師弟関係は全く乱れて仕舞つた。美はしい師弟の情に乏しいのは寒心の至りである。今の青年は自分の師匠を尊敬して居らぬ。或学校の生徒の如きは、其教師を観る事、恰も落語師か講談師かの如く、講義が下手いとか、趣味が無いとか、生徒として有るまじき事を口にしてゐる。
此れは一面より観れは[ば]学科の制度が昔と異なり、多くの教師に接する為めであらうが、総て今の師弟の関係は乱れてゐる。同時に教師も亦子弟を愛して居らぬといふ嫌ひも有るのである。要するに青年は良師に接して自己の品性を陶冶しなければならない。昔の学問と今の学問とを比較して見ると、昔は心の学問を専一にしたが、現今は知識を得る事にのみ力を注いでゐる。昔は読む書籍其者が悉く精神修養を説いてゐるから自然と之を実践する様になつたのである。修身斉家と言ひ、治国平天下と云ひ、人道の大義を教へたものである。
論語にも『孝悌而好犯上者鮮矣。不好犯上而[好]作乱者未之有也』と云ひ、『事君能致其身』と云ひて、忠孝主義を述べ、且つ仁義礼智信の教訓を敷衍しては、また同情心、廉恥心を喚起させる様にし、又礼節を重んずる様にし、或は勤倹生活の貴ぶべき事を教へたものであるから、昔の青年は自然と身を修むると共に、常に天下国家の事を憂ひ、朴実にして廉恥を重んじ、信義を貴ぶといふ気風が盛んであつた。
反之現今の教育は智育を重んずる結果、既に小学校の時代から多くの学科を学び、更に中学大学に進んで益々多くの知識を積めども、精神の修養を等閑に附して、心の学問に力を尽さないから、青年の品性上大に憂ふべきものが有る。
現代の青年は学問を修める目的を誤つてゐる。論語にも『古之学者為己今之学者為人』と云つて嘆じてあるが、移して以て今の時代に当て嵌める事が出来る。今の青年は唯学問の為めに学問をしてゐるのである。初めより確然たる目的が無く漠然と学問する結果、実際社会に出てから、我は何の為めに学びしやといふが如き疑惑に襲はれる青年が往々にしてある。学問すれば誰でも皆偉い者になれるといふ一種の迷信の為めに自己の境遇生活状態をも顧みないで、分不相応の学問をする結果、後悔するが如き事があるのである。故に一般の青年は自己の資力に応じて小学校を卒業すると夫々の専問[専門]教育に投じて実際的技術を修むべきである。又高等の教育を受くる者も未だ中学時代に於て、将来は如何なる専問[専門]学科を修むベきかといふ確然たる目的を定むる事が必要である。浅薄なる虚栄心の為めに修学の法を誤まらば、是れ実に青年一身を誤まるのみならず、国家元気の衰退を招く基である[。]