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『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.369-377
現時日本の教育界に於て、女子教育は尚幾多の研究を要すべき価値ある問題であると思ふ。忌憚なく言へば日本に於ける女子教育の根本的方針とか、根源となるべき論旨とかいふものは未だ確立して居らぬ様である。学者教育家の間にすら其の意見の統一を欠いて居る位であるから、況や一般家庭なぞに於ては彼の男子に対する教育方針の如く、女子に対しても確固たる意見を以て教育する者の無いのは無理なき事と言はねばなるまい。今学者教育家の説く所を聞くに、或は消極的に論じて『女子に教育は不必要である。女子は家庭の中に居つて家政を掌り、私徳を保つてゆきさへすれば、それ以外別に何等の為すべきことのないものであるから、左様いふ者に高尚な学問などは無用の長物だ』と、何処迄も東洋流の女子教育論を樹てる者もある。また或る者は積極的に論じて、[『]昔の女子ならばいざ知らず、何事も世界的となつて来た今日に処せんとする女子ならば、男子同様の教育を受けて智能の啓発を主とせねばならぬ』といふ議論を樹てゝ居る。斯の如く専門家の間ですらも甲是乙非の論が一定するまでに到つて居らぬ。併し乍ら女子教育界の実際に徴するに、年毎に教師の側に立つ者も進んでゆけば、学ぶ者の方も増加してゆくといふ有様であるから、女子教育に対する根本観念が確立して居らぬながらも、女子教育の必要なることは漸く社会に認められて来たことが推知されるのである。而して仮に女子教育は何処迄も必要である、文明の社会に処すべき女子は文明的な学問が無くてはならぬものであるとすれば、彼の学者教育家が甲是乙非の論中、最も中庸を得て而も穏当なる所を取り、これに拠つて教育方針を確立して行くが正当ではあるまいか。これ実に教育家ならざる余が女子教育に対する私見を述べんと欲する所以である。
姑く古へに遡つて我が国往古女子教育の有様を観るに、ずつと以前彼の王朝時代は中々盛んであつたらしいが、それより武家時代に入るに従つて次第々々に衰退して来た様に見える。王朝時代には女子の間にも立派な者が有つて所謂名媛輩出の時代といふべく、文学の方面なぞに於ては女子の偉人が多かつた。而してそれ等の人々は今日まで美談、逸話、歴史を遺して居るのであるが、併し其の中には才能は秀でゝ居ても婦徳に欠けた者もあつた。彼の紫式部、清少納言、和泉式部、赤染衛門等の如き、就中女流の頭目であつたが、其の文章和歌は後世の模範とするに足るもので、同時に相応な学識が無くては、あれだけのものは書けないといふことも察せられるのである。此の時代は実に女流詩人が輩出して、女子にして左ばかりの名家を出すに至らしめたのは、必竟一面に於て女子教育の盛んであつたことを想像することが出来ると思ふ。併し後世に名を伝へて居る女子は、皆帝室に属した人ばかりであるから、国民一般総てが女子教育に意を用ひて居たとは断言されぬけれども、名も知れぬ婦人の作歌が撰集などに載つて居る所から察すれば、田舎にも矢張相当な教育は行はれて居たことゝ思はれる。総じて何れの代に限らず、都会の風潮は自ら田舎にも伝播するものであるから、都人士間に女子教育が盛んであれば、田舎にも自然にその風が伝つていつたに相違ない。兎に角同じ宮女官女の如き間に於てすらも、武家時代となりての以後よりは、王朝時代の方が知識才能に於て遥に勝れて居たことは事実である。
其の後政権が武門の手に帰してより女子教育も次第に退歩し、封建時代に於ては殆ど之を意に介する者は無くなつたやうな形勢であつた。国民は無闇に豪強ならんを主とし、攻伐を以て賢としたのであるから、弱の肉は強の食となるといふ有様。延いて社会の秩序の如きも大に乱れ、女子は一種の政略的軍略的材料として取扱はるゝ様な事実も出来て来て、女子は恰も一の道具視され、心ならずも嫁入しなければならぬこともあつた。例へば源頼朝が政子と通じたのは、政子其のものゝ才色を重んじたといふよりは、寧ろ其の父なる北条時政に好を通ぜんが為の策略であつて、今日の言葉でいへば政治的結婚であつた。所が政子は案外の才女であつたから、頼朝はこれに依つて大に助けられた点もあつたが、またこれが為に源氏を滅亡に至らせた獅子心中の虫ともなつた。才能は有つたであらうが、婦徳には欠けて居たやうである。其の他織田信長が斎藤道三の娘を妻とし、豊臣秀吉が徳川家康に妹を嫁したるが如き、或は秀忠の娘を秀頼の室に容れたる如きは皆政略的の結婚で、当時斯の如き例は殆ど枚挙に遑なき程であつたが、同時にまた女子が如何に道具視されて居たかゞ推察されるであらう。社会が総て左様いふ風であつたから、自然女子教育なぞは軽視されて居たもので、殆ど男子と同様に教育する事なぞは思ひも寄らぬことであつた、孰れかといへば女子は男子の心を楽ましめ目を慰むる為に使はれて居たから、舞踊とか、糸竹の道とか、或は歌謡の如きものは女子に対する一種の教育として仕込まれたけれども、知識才能の如き方面は閑却され、下級社会の女子なぞになると、恰も情慾を充たす器である位に見られたかも知れぬ程であつた。故に女子を教育して夫婦家を為すの道を知らしむるといふが如きは、殆ど有り得可らざる所のことに属して居たのである。
然らば婦人は彼の封建時代に於ける如く無教育にして、寧ろ侮蔑的に取扱つて置けばそれで宜しいのであらうか。それとも相当なる教育を施し、修身斉家の道を教へねばならぬのであらうか。これ言はずとも知れ切つた問題で、教育は仮令女子だからとて、決して疎かにすることは出来ないのである。それに就いて、余は先づ婦人の天職たる子供の育生といふことに関して少しく考慮して見る必要があらうと思ふ。
凡そ婦人と其の子供とは如何なる関係を持つものであるかといふに、之を統計的に研究して見れば、善良なる婦人の腹から善良なる子供が多く生れ、優れた婦人の教養に因つて優秀の人才が出来るものである。その最も適切な例は彼の孟子の母の如き、ワシントンの母の如き夫れであるが、我が国に於ても楠正行の母、中江藤樹の母の如き亦皆賢母として人に知らるゝものであつた。近くは伊藤公、桂公の母堂の如きも賢母であつたと聞いて居る。兎に角優秀の人才は其の家庭に於て賢明なる母親に撫育された例は非常に多い。偉人の生れ賢哲の世に出づるは婦徳に因る所が多いといふことは、独り余一家の言ではないのである。して見れば婦人を教育して其の智能を啓発し婦徳を養成せしむるは、独り教育された婦人一人の為のみならず、間接には善良なる国民を養成すべき素因となる訳であるから、女子教育は決して忽諸に附することが出来ないものであるといふことになるのである。然り矣、女子教育の重んずべき所以は未だそれのみにては尽きない。余は更に女子教育の必要なる理由を次に述べて見ようと思ふ。
明治以前の日本の女子教育は専ら其の教育を支那思想に取つたものであつた。然るに支那の女子に対する思想は消極的方針で、女子は貞操なれ、従順なれ、緻密なれ、優美なれ、耐忍なれと教へたが、斯く精神的に教育することに重きを置いたにも拘らず、智慧とか学問とか道理とかいふ方面に向つての知識に就いては褒めも教へもしなかつた。幕府時代の日本の女子も主として此の思想の下に教育されたもので、貝原益軒の『女大学』は其の時代に於ける唯一最上の教科書であつた。即ち智の方は一切閑却され、消極的に自己を慎むことにばかり重きを置いたものである。而して左様いふ教育をされて来た婦人が今日の社会の大部分を占めて居る。明治時代になつてから女子教育も進化したとはいへ、未だそれ等教育を受けた婦人の勢力は微々たる者で、社会に於ける婦人の実体は『女大学』以上を出ることの出来ぬものと言ふも敢て過言では無からうと思ふ。故に今日の社会に婦人教育が盛んであるとは謂つても、尚未だ充分其の効果を社会に認識せしむるには至らぬ。謂はゞ女子教育の過渡期であるから、その道に携はる者は其の可否を能く論断し講究しなくてはならぬではないか。況や昔の『腹は借りもの』といふ様なことは口にだもすべからざる今日、又云うてはならぬ今日であるとすれば、女子は全く昔日の如く侮蔑視、嘲弄視することは出来ないことゝ考へられる。
婦人に対する態度を耶蘇教的に論じて云々することは姑く別とするも、人間の真正なる道義心に訴へて、女子を道具視して善いものであらうか。人類社会に於て男子が重んずべきものとすれば、女子も矢張社会を組織する上に其の一半の責を負うて立つ者だから、男子同様重んずべきものでは無からうか。既に支那の先哲も『男女室に居るは人の大倫なり』と云うてある。言ふ迄も無く女子も社会の一員、国家の一分子である。果して然らば女子に対する旧来の侮蔑的観念を除却し、女子も男子同様国民としての才能、智徳を与へ、倶に共に相助けて事を為さしめたならば、従来五千万の国民中二千五百万人しか用を為さなかつたものが、更に二千五百万人を活用せしめることゝなるのではないか。これ大に婦人教育を起さねばならぬといふ根源論で、今や日を追うて女子教育の盛大になつで[て]行くのも、全く此処に起因することゝ思ふ。斯く観じ来れば、女子教育の必要なることは炤々として明かなる理由がある。故に余は彼の女子教育不必要論者に左担[左袒]することが出来ぬと共に、大に女子教育必要論を絶叫せんと欲する者である。