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『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.289-297

三九、就職難善後策

誤れる学生の抱負と教育の方針

 経済界に需要供給の原則がある如く、実社会に投じて活動しつゝある人間にも亦此の原則が応用される様である。言ふ迄もなく社会に於ける事業には一定の範囲があつて、使ふだけの人物を雇入れるとそれ以上は不必要になる。然るに一方人物は年々歳々沢山の学校で養成するから、未だ完全に発達せぬ我が実業界には、迚もそれ等の人々を満足させるやうに使ひ切ることは不可能である。殊に今日の時代は高等教育を受けた人物の供給が過多になつて居る傾が見える。学生は一般に高等の教育を受けて、高尚の事業に従事したいとの希望を持つてかゝるから、忽ち其処に供給過多を生じなければ止まぬことになつて仕舞ふ。学生が斯の如き希望を抱くのは、個人としては勿論嘉すべき心掛であるが、これを一般社会から観、或は国家的に打算したら如何であらうか。余は必ずしも喜ぶ可き現象として迎へることは出来ないやうに思はれる。要するに社会は千遍一律のものではない。従つてこれに要する人物にも色々の種類が必要で、高ければ一会社の社長たる人物、卑くければ仕丁たり車夫たる者も必要である。人を使役する側の人物が必要であると同時に、人に使役されて能く働く人も亦大に必要である。而して人を使役する側の人は少数なのに反し、人に使役される人は無限の需用がある。されば学生の此の需用多き人に使役さるゝ側の人物たらんと志しさへすれば、今日の社会と雖も未だ人物に過剰を生ずる様なことはあるまいと考へる。然るに今日の学生の一般は、其の少数しか必要とされない人を使役する側の人物たらんと志して居る。詰り学問して高尚な理窟を知つて来たから、馬鹿らしくて人の下なぞに使はれることは出来ないやうになつて仕舞つて居る。同時に教育の方針も亦若干其の意義を取り違へ、無暗と詰込主義の知識教育で能事足れりとするから、同一類型の人物ばかり出来上り、精神修養を閑却した悲しさには、人に屈するといふことを知らぬので、徒らに気位ばかり高くなつてゆくのだ。斯の如くんば人物の供給過剰も寧ろ当然のことではあるまいか。

寺小屋教育と英独の教育

 今更、寺小屋時代の教育を例に引いて論ずる訳ではないが、人物養成の点は不完全ながらも昔の方が甘くいつて居た。今日に比較すれば教育の方法なぞは極めて簡単なもので、教科書といつた所で高尚なのが四書五経に八大家文位が関の山であつたが、それに依つて養成された人物は、決して同一類型のものばかりでは無かつた。それは勿論教育の方針が全然違つて居たからではあらうけれども、学生は各其の長ずる所に向うて進み、十人十色の人物となつて現れたのであつた。例へば秀才はどん〳〵上達して高等の仕事に向うたが、愚鈍の者は非望を抱かずに下賤の仕事に安んじてゆくといふ風であつたから、人物の応用に困るといふやうな心配は少かつた。しかるに今日では教育の方法は極めてよいが、其の精神を履き違へて居る為に、学生は自己の才不才、適不適をも弁へず、彼も人なり我も人なり、彼と同一教育を受けた以上、彼のやる位のことは自分にもやれるとの自負心を起し、自ら卑しい仕事に甘んずる者が少いといふ傾向である。これ昔の教育が百人中一人の秀才を出したに反し、今日は九十九人の普通的人物をつくるといふ教育法の長所ではあるが、遺憾ながら其の精神を誤つたので、遂に現在の如く中流以上の人物の供給過剰を見るの結果を齎したのである。併し同じ教育の方針を取りつゝある欧米先進国の有様を見るに、教育に因つて斯かる弊害を生ずる様なことは少い様に思ふ。殊に英国の如きは我国に於ける現時の状態とは大に違うて、十分なる常識の発達に意を用ひ[、]人格ある人物をつくるといふ点に注意して居る様に見える。固より教育のことに関して其の多くを知らぬ余の如き者の容易に容喙さるべき問題ではないが、大体から観て今日の様な結果を得る教育は、余り完全なものであるとは云はれまいと思ふ。

人に使はれる人物が欲しい

 併し乍らそれ等は一に教育の罪とはいへ、余は今日の青年にも其の罪の一半を分けて貰はなくてはならぬことゝ思ふ。諸君に学問の素養があるからというて、直ちに人に使役される様な仕事に就くことを嫌ふのは甚だ間違である。希くは自ら自己の力量程度を考へて、相当の職に就くことが出来たら、それに甘んずる様にして貰ひ度い。余は現在人に使はれる階級の人物たることに甘んずる人を最う少し多く欲しい。兎角孰れの会社を見ても、上に立つ者は一人か二人で、下に立つて働く者は沢山に居る。将校は立派な人が沢山あつても、完全な兵卒が無かつたら充分なる戦争は出来ぬであらう。余は今の場合、将校たらんよりも兵卒たるの心掛を持つ人を沢山に希望する。使ふ人ばかりが如何に殖えて見た所で、事業界が発展を遂ぐるといふことは望まれない。同時にこれに使はれる人も伴はなくてはならぬから、余は此の際実力を持つた使はれる人の殖えることを切望して止まぬ。左様なれば誰か就職を難ずるの要があらう。のみならず、其の暁に於ては国家社会の発達も極めて円滑に理想的にゆくことが出来ようと思ふ。

 しかし一面から観察すれば、一般社会が未だ完全なる発達を遂げない中に、教育の方が先に進み、一般に高等教育を授け過ぎて寧ろ供給過多の感がある。社会の設備さへ整うて来るならば、今日位の学校卒業生は幾らも用ふべき道はあらうと思ふ。就中商工業の如きは発達せしめんとすれば、此の上未だ無限に各種の事業が興り得るであらう。それ等が一々企業されて欧米諸国に遜色なき実業国となる迄には、人物は未だ〳〵沢山の需用がある。唯目下社会の状態が其処迄に進歩して居らぬのは、今日の学生に取つて不幸であると謂はゞいへることであるかも知れぬ。

余が商科大学設立に奔走せし理由

 けれども学問其のものから観れば、部分的にはもつと高尚な教育が必要であると思ふ。如何となれば高遠な学問を研鑚するだけの資格ある人士が出て、人に使はれる人以外に、人を使ふといふ側に立つには、其の人は部下に使ふものよりも更に深い研究がしてなくてはならぬ。よし人を使ふ側の人にならなくとも、一生を研究に委ねるといふ人もなくては、万物更に進歩といふことがない。此の理由からして層一層高尚な学問も部分的には必要であるのだ。自分が商科大学設立の為に、久しい以前から苦心し奔走したる如きは詰り此の例に漏れぬものである。その頃の商業学校には高等商業学校といふものは有つたが、大学組織にはなつて居らなかつた。しかるに同じ実業の中に工科大学、農科大学が設けられてあるにも拘らず、独り商科大学の無かつたのは頗る権衡を失つて居ると思つた。これは恰も政治、法律、工業、農業なぞに比較して、商業が卑しい者であるとの見解で斯く階級を設けられ、従つて商業には最高の教育は不必要であると決められた様に見えた。世間からの解釈は兎に角、文部当局者の心中が甚だ面白くない。余が年来商科大学の設立に力を入れたのも全くそれが為であつた。尤も自分は斯く言ふからとて、商業に従事する者には悉く大学課程を履ませ度いと希望するものではない。若し商科大学を設けた所で学生が皆大学に志したならば、矢張今日の供給過多の原因が此処にも一つ殖えることになるから、国家的に打算して賀すべき事実ではないのである。唯余が希望する所は、商業にも大学が出来たならば、他の科学に於て然る可き人物がある如く、商売人にも然るべき人物が出来るからとの意で、誰にも彼にも商科大学に入学することを勧めるものでは無かつたのである。しかし此の希望は今日漸く達せらるゝことゝなつた。兎に角高尚にして人の上に立つべき人を養成することも、人に使はるゝ多数人の養成と同等に亦必要欠くべからざる所である。

事実は案外楽観すべきもの

 思はず教育論に花を咲かせたが、再び本論に立ち帰り、さて現今学校出身者の就職難に就いては其の原因を教育の欠点と、学生の誤れる懐抱とに帰したが、余は更に尚一つの一時的原因あることを説かねばならぬ。それは何かといふに、経済社会の状況が与つて一時的に影響を及ぼしたことである。曩に社会が頻りに学校出身者を要望し歓迎して、これを求むることが甚だ急であつた為に、此の需用を充たすべく各処に各種の俄仕立の学校が設立され、漸次に其の要求を満足せしめた。しかるに需用者側は略其の要求を充たしたにも拘らず、学校側は尚引続き夥多の卒業生を作つたので、忽ちにして其処に多数の過剰を生じたのであつた。故に前にも述べた如く、社会が一層の発展を遂げ、経済界の状況が一段の活気を呈する迄は、過剰の現状はこれを如何ともすることは出来まい。去り乍ら茲に一つの楽観すべきことは、世の統計家が唱ふる如く、卒業生の余剰が果してそれ程にあるか如何かといふ事である。世人の多くは学校の報告書から推断して、卒業生の三分の一が会社銀行或は諸官省役所に採用されたることを知り、而して他の三分の二は今尚過剰しつゝある人員であると即断して仕舞ふ。併しこれは余りに早計ではあるまいか。卒業生でも会社や役所に奉職して居る者は直ちに知れるけれども、他の個人の商店に入つた者とか、独立経営を始めたものとか、乃至郷里に帰つて父祖の業を継いだものとかに対しては、殆ど統計的に之を知るの便がない。それ等の学生も矢張純然たる就業者ではないか。して見れば無職で徒手遊食して居る者は案外少いかも知れぬ。学校を出た者は必ず役人になるとか、会社員になるとか即断するのは間違で、社会は広い。仕事は幾らもある。それ等の仕事に必ず従事して、何かしらやつて居るに相違ない。現に余が直接に知つて居る埼玉県出身者の如きは、何時も残つて居る者が余りない様である。若し余が此の想像にして当れりとせば、相当に教育を受けた者がそれだけ社会に殖えたことになるから、社会の分子は年毎に高等教育化されてゆく訳で、事実斯くあるならば必ずしも悲観すべきことでは無いと思ふ。

結論

 兎に角若し過剰であるとしても、それは一に教育の仕方に改良を望み、二に学生の心掛を改め、三に社会状態の隆昌なるべきを期し、四に従来過多に養成し来つた学生に幾分手心を加へて、秀才のみを選ぶといふ様な方法を取つたならば、近き将来に於て就職難は根絶するであらう。果して左様いふ時代が来るならば、これ独り学生其のものゝ幸福たるのみならず、国家の為め大に慶賀すべき現象である。就職難の善後策に就いて評論すれば尚言ふべき点はあらうと思ふが、今は其の大体論に止めて置く。希くは当事者及び学生の猛省を促し度いのである。

人物過剰の一大原因(教育と情誼)

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