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『竜門雑誌』第321号(竜門社, 1915.02)p.21-22

演説及談話

◎東京市養育院に於て

青淵先生

左の一篇は一月十三日青淵先生が東京市養育院事務室楼上に於て職員一同に対し事務上将来の心得方を訓話されたるものにて同院より寄せられたるものなり(編者識)

各職員諸氏余は茲に諸氏一同と共に大正四年の春を迎へたるを喜ぶと同時に諸氏の健康幸福を祈り併せて新らしき希望を以て諸氏を迎へねばならぬのである。开はいふまでもなく諸氏が現在に従事し居らるる本院当面の職務たる即ち感化救済事業であるが、森羅万象年と共に新なると同様諸氏の執られつ〻ある事業も亦此際是非とも新らしき色彩と新らしき開展とを目標として行進せねばならぬ。凡そ業は勤むるに精しく嬉むに荒さむといふが万事が即ちそれである若し大なる趣味と大なる感興とを以て事業を迎へられたならば仮令如何に忙はしく又如何程煩はしくとも倦怠若しくは厭忌といふ如き自己が苦痛を感ずる気分の生ずべき理由はない。若し又これに反して全然没趣味を以てイヤ〳〵ながら事務に従ふといふ塲合には必ず先づ倦怠を生じ次で厭忌を生じ次で不平を生じ最後には自分其職を抛たねばならぬやうになるは蓋し数の自然である。前者は精神潑溂として愉快の中に趣味なるものを発見しこの趣味よりして無限の感興を惹起し感興は軈て事業の展開を宣言することに到る事業の展開は即ち社会に公益を与ふることになる。後者は精神萎縮して怏々欝々倦怠より困憊を醸し困憊はやがて其身の滅亡を意味することになる。仮に前者と後者とを対照して其孰れを執るかを諸氏に試問したならば前者を執ることの最も賢しこく後者を執ることの最も愚なるを明答せらるることであらう。又能く世人が口癖のやうに運の善悪といふことを説くが抑も人生の運といふものは十中の一二或は予定があるかも知れぬ。併しながら仮令これが予定なりとして見た所で自ら努力して運なるものを開拓せねば决してこれを把持するといふことは不可能である。愉快に事務を執りつ〻一方には大なる幸福を把持すると不愉快に事務を執りつ〻一方大なる災厄を招致すると其はじめ啻に天淵のみであるまい。諸氏も亦必ず其一方を捨て〻他の一方を把持せられんことを熱望するならむ。而して諸氏が銘々其事業上に大なる趣味と大なる感興とを有たるると同時に其内容の充実を期さねばならぬ。况して救済事業の如きは其性質上注意の上にも猶一層の注意を払ひ努めて其内容の豊富ならんことに於て遺憾なきを期すべきである。されば其内容にのみ腐心して形式を疎外視することもよろしくない凡そ各種の事業として内外共に権衡を欠いてはならぬ。要するに単に其表面を衒はんが為め徒に形式にのみ囚はるるといふことは最も注意してこれを避けねばならぬ[。]更にいふまでもなきことながら本院には現に二千五六百人の窮民が収容してある其中には時に除外例として善因却て悪果を結びて窮民たり行旅病人たるものなきにあらざるも其多くは所謂自業自得の輩である。併しながら彼等を自業自得の者なりとして同情を以て臨まぬは甚だよろしくない。夫れ吾人の須臾も離るべからざる人道なるものは一に忠恕に存するものであるから孰れも其職務に忠実にして而して且仁愛の念に富まねばならぬ。余は敢て彼等を飽くまで優遇せよとはいわぬがこれに臨むに常に憐愍の情を欠いてはならぬといふのである諸氏は呉れ〳〵もこの道を体得してこれを執務現実せねばならぬ[。]又医務に従事せらる〻諸氏に於ても収容の患者を以て単に自己研究の資料となすにこれ努むるならば开は甚だ遺憾の極みである。研究さる〻も程度問題であるから絶対にわるいとは言はぬが医員諸氏に於ては患者を治療するといふことが当面の義務と信じて勉励せらる〻ことを望むのである。又看護婦の人々にあつても同様であつて患者へ対しては誠に親切に取扱はれたきものである。彼等には精神上欠陥する所が多い社会の落伍者敗残者としてこれに同情するといふことが前に申した忠恕である。忠恕は即ち人の歩むべき道にして立身の基礎つまりは其人の幸運を把持することになる[。]茲に年の改まると共に諸氏が日常執りつ〻ある事業の上にも亦一段の進捗を企望して一言を述べたのである。

それ唯忠恕のみ(成敗と運命)

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