デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

2章 青年志士時代
■綱文

第1巻 p.192-217(DK010008k) ページ画像

安政三・四・五・六年丙辰・丁巳・戊午・巳未(1856-1859年)

商用ヲ以テ信濃・上野及ビ武蔵秩父地方ヲ巡回スルコト年ニ四回、時ニ従兄尾高新五郎・同長七郎等ト同行シ、多ク詩文ヲ作ル。又江戸ニ遊ビテ詩文アリ。而シテ家ニ在ル時ハ乃チ書ヲ読ミ、剣ヲ学ビ、志士トノ交遊漸ク広シ。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之一・第一四―一七丁〔明治二〇年〕(DK010008k-0001)
第1巻 p.192-193 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之一・第一四―一七丁〔明治二〇年〕
○上略 其中に世の中が追々騒々敷なつて来て、既に嘉永六癸丑の年には亜米利加のペルリといふ水師提督が、四艘の軍艦を率ひて、伊豆の下田に来て、和親通商の条約を取結ばふといふことを、幕府へ要求しました、サア幕府の混雑といふものは、大変な事で、其時老中の筆頭であつた阿部伊勢守などは、自分でも分別に余つたものとみえて、其頃は慎隠居になつて居た水戸の烈公を、無理に頼んで相談相手に引出すといふ騒ぎ、スルト京都は勿論、諸藩に於ても、或は和議がよいとか攘夷がよいとかいつて、時事を談論するものが忽ち多くなつて、丁度今日世間でやかましい民権論の様に、其処でも此処でも集つて、イヤ伊勢守の処置がわるい、ペルリへはドウ返答するであらう、ナニ到底戦争になるだらう、イヤ幕府が弱いから戦争をすることは出来まい、併し戦争がいやなら、彼の要求に随て、開港をせんければならぬ、モシ其開港通商をするといふ日には、京都は如何であらう、天子様は必らず勅許は遊ばさるまい、抔といふことを頻りに唱へる様になつて来ました、
ソレデ前にも申す通り、百姓といふものは、実に馬鹿馬鹿しいといふ意念が、此の物騒な時勢に促されて、段々増長して来た処から、終に平生誦読した日本外史、又は十八史略などで、漢の高祖は下沛から興つて、四百余州の帝王となり、太閤秀吉は尾州の百姓で、徳川家康は三河の小大名から出たのだ、抔といふことを考へ合せ又太田錦城が梧窓漫筆といふ書に論じた通り、千古の英雄豪傑も、皆自分の友達の様な念慮が生ずる様になつて来た、併しそれは十七の歳から十八十九二十頃まで両三年間のなりゆきであつたが、何分にも父は常に家業の方のみを督励して、書物計り読で居ては、家業の為にならぬと謂はれるので、居常《ふだん》は家業一途に出精して、藍の商売に付ては、年に四度づゝは大抵自分が引受て、信州上州秩父の三箇所を巡廻するので、中々多忙に日を送りました、偖て斯う自分に引受てみれば、商売上の小さい仕事ではあるけれども、亦おのづから商略といふこともあつて中々面白いものだから、彼の農商は馬鹿馬鹿しいといふ意念も全く消滅はせぬけれども、業務に対する慾望で、即ち家業を都合よく遣りたいとか
 - 第1巻 p.193 -ページ画像 
又は最良の藍を製造して、阿州の名産に負けない様にして見たい、などゝいふ志望が起つて、或年近村から多人数の藍を買集めて、其藍を作つた人々を招待して、恰も相撲の番附の様なものを拵へて、藍の良否に応じて席順を定め、一番よい藍を作つた人を一番上席に据ゑて、多人数を饗応したが、来年は今一層良い藍を作る様に注意しやう、抔といつて率先して同業者を奨励した事もあつた。
斯様に一時は実業にも勉強したけれども、其後追々と世間が騒がしくなつて、攘夷に付ての叡慮は確乎として御動きのない趣である、又水戸の烈公も攘夷論を主張されるし、長州も薩摩も同論である、然るに幕府では因循の処置のみ多いから、其中には衝突又は破裂を見るに相違ない、杯といつて時事を談論する書生連、即ち今日も現存して居る薩摩の中井弘だの、又先年死去せしと聞く長州の多賀屋勇だの、其れから山崎の戦争に討死した宇都宮の広田精一、戸田六郎などいふ人々が追々文学の修業とか、何とかいつて出て来るから、詩を作つたり、文を論じたりしながら、時世を談ずる様になつて、人々の話しを聞く度毎に、幕府の政事が衰頽したといふ感じを強くする様になつて来ました。
   ○『渋沢栄一伝稿本』第二章第三五―三六頁、竜門雑誌第三〇九号・第五五―六頁『青淵先生懐旧談』ニモ同様ノ記事アレドモ、前者ハヨリ簡略、後者ハ殆ンド同一ノモノナリ。


省斎文稿 (尾高長七郎著) 省斎文稿序(DK010008k-0002)
第1巻 p.193 ページ画像

省斎文稿(尾高長七郎著)
省斎文稿序
夫天地之生物。有本者。必莫不有末。草木之有花。馬牛之有蹄。皆末也。於学亦然。志仁義。行道徳。其楨幹也。詠詩綴文。其枝葉也。然則本立而後有枝葉華実乎。世儒。或擯詩文曰。聖人之道。経世而巳。何以詩文為焉。是則偏頗功名之学。不知聖人。治己。平天下之道也。或曰。専務記誦詞章。脩身斉家常事也。是則空詩浮文之学。不知篤行有余而後発文雅之文也。又不足論矣。乃其道也者何乎。本孝弟。而末経世。而詩文。則在其人情之所感与所動也。夫不有無本幹。而有枝葉実者也。幹枝相生。而可為完備巳矣。友人省斎君。才富学博。其本既立而旁学枝葉。頃日成冊。記所感動之文章。名曰省斎文稿。属予以序予同省斎君。従学于静屋先生之門。十有余年于玆。固無広覧之知。而有至狭之煩。無一言之可発。雖然。省斎君。於先生。為親弟。義不可辞焉。乃述鄙志而序。于時安政三年歳次丙辰晩夏上浣。武蔵東寧南。
                             渋沢栄一。書淵上書屋之北窓。
   ○『省斎文稿』ハ尾高惇忠ノ弟長七郎ノ詩文集ナリ。省斎ハ長七郎ノ号ナリ惇忠及ビ栄一之ニ序ス。コヽニハ栄一ノ序ノミヲ掲グ。省斎ノ文ニハ「報河田豊書」「金洞紀行序」「渋沢栄一文稿序」「項羽論」等、詩ニハ「春日」「秋日山路」「鎌倉懐古」「秋夜即事」「贈花村生」「別花村生」「上妓楼」「美人半酔」「冬夜即事」「春日閑居」「丁巳除夜」「戊午元旦」「戊午春江都客中之吟見墨夷使節遊金竜山」「東台観花」「有感」「春山暮雨」等アリ。今各詩ニツキ紹介セズ。「渋沢栄一文稿序」中「頃日君文稿成而命序」トアルニヨリ安政三年頃栄一ノ文稿アリシコト知ラル。今アラズ。

 - 第1巻 p.194 -ページ画像 

金洞紀行 (尾高惇忠・渋沢栄一著)(DK010008k-0003)
第1巻 p.194-196 ページ画像

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玉石見聞録【栄一による雑記帳→p198】(DK010008k-0004)
第1巻 p.196-198 ページ画像

 玉石見聞録                      (渋沢治太郎氏所蔵)
南遊季候
戊午春三月、共叔父、以業議南自武蔵野而見霞遊於江都、而東到于関宿沿刀根而還焉、於是相謀曰、是行初入南山而探其幽静間雅之趣、又出東海而見漫々広大之状、而東来刀根眺其遥々清絶連智之姿、千態壮観、是業中之遊、商中之楽、嗚呼此行容易乎、宜記所観之花、所過之霞、而伝後、是則少得報陽春之奇観乎、日議定焉、十六日発家、是日天曇、日出没于雲煙中、而春色猶遍四辺、徐歩過矢島村、過村南、有田、総植野菜、時菜花已開、而黄色一面、恰如黄金海有詩、「東郊日暖烟光清、時有流鶯和雉声、徐歩野菜花海裡、薫風吹送黄金香」、日午到深谷駅而飱、出駅、南入林而半里、到上野而憩、過上野而二里半、到荒川、時日申、而雲去風暖、春色入客裘、而川上烟靄溟濛川水遥々、如載取無涯春流者渡川二
 - 第1巻 p.197 -ページ画像 
里、過能増村、又二里、到志賀村、々在両山之間、而両沿之山、嘗多桜樹、往日曾遊時、桜盛開而楽眼、是行又将為以是為一観《(衍)》、時桜已散、又無点花、殆失一楽、唯村西一大桜樹盛開、而其清麗艶濃、殆如慰行人者於是少有散宿志云、日酉到菅谷駅、投于宿川越屋、其夜軽寒、半夜春雨到、過二更而止、十七日美晴、四山無点雲、出駅半里、到千手堂村、過村又二里、到越生町、時日已向午、薫風吹顔、春色粲然、投于太田屋飱、去町半里、到毛呂村、此地往日有碩尚者、善誹徊《(俳諧カ)》、名声遍近邇《(遠)》、而今無、敢不問、過毛呂一里半、有嶺、曰清流峠、嶺上四望、嶺山如眠、近山似笑、若芽之緑、柳色之黄、猶如紅桜白杏紫草、一山之中、恰為五彩之観、而抽蕨之童、歓々喜前、伐木之樵、静々眠後、其幽雅静間、十倍於先日之所目、有詩、軽装三月探芳天。正好杏桜妍且鮮。嶺上艶濃花耶靄。渓間細淡水疑烟。攀霞崖路背負剣。蹈錦橋辺手携篇。一笑間人無辶《(ママ)》慮。吟声誤覚樵夫眠。
攀巌又廻谷入雲烟。更愛嬌花行路連。縁海白描何処杏。紙天黒点誰家燕、送芳淡靄眼堪見。迎客清光手可牽。却愧吾無健筆力。空将春色付徒然。
下嶺曰平沢村、々有《(在カ)》渓間、過村又登嶺、々降凡三四、而末嶺最高、曰飯能峠、而達巓、而飯能有目下、意忽飛、下則又遥有前路、兼程入茶肆而憩、自越生到飯能、曰三里強、然山路嶮蠏早A恰如四里程、出駅一里、曰野田村、過村而又一里、曰笹井、有川、曰入間川、嘗做《(倣カ)》晋将杜元凱伝、以船橋通人、此日前村黒須育観音堂開扉、遠邇聚落、路為喧囂渡橋十丁許、到黒須村、有入間川、陰有茶肆酒舗及旅館、而其室堂之麗、魚肉之美、及至珍菓奇餅之類、其奢侈不可勝言、而管絃之声発戸々、且有嬌妍如妓者、呼行人、恰如江城西北之地、其淫弱殆可厭也、出村、余謂叔父曰、嗚呼天下皆人也、而今此村人、比之其近鄰窮農之民、其貧富奢倹為如何、是何謂乎、叔父曰、是地近鄰嘗少駅、而地又不朴、故軽薄淫靡之気、聚為驕奢、於是侈民傲夫、日以周旋其間、且地於江都、未甚遠、故其豪放奢侈、聞而慣之、見而為之、而到如是者乎、余曰、噫乎、其然乎、然是豈侈民傲夫之罪已乎、其大平年久、無事平安、則百事侈靡、至其飲食器皿之類、漸々走奢侈者、是不可偈《(遏カ)》之勢也、雖然如是地者、豈不可止之勢乎、若上一旦厳法立制而遏止之、則驕風靡然掃地者必也、其民者人之最賤者也、孟子曰、無恒産有恒心者、唯志《(士)》為然、如民則無恒産則無恒心、苟無恒心、放辟邪侈、無所不為、及滔《(陥)》罪又然刑之、嗚乎是無恒心、而放僻邪侈、無所不為者也、豈侈民傲夫之罪已乎、其又上之罪也、最所以不平均之法度使然也乎、弁編論久之、行《(里脱)》半到善蔵新田村、時日已酉、過村五丁許、到藤沢村、而宿増田屋、十八日晴、而旭日入楼窓、客意頻飛、出屋、四面春色無涯、於是共叔父談昨日所記之行、論声驚郷閭、人見以為狂、又可笑也、歩二里、到処沢駅而休、過駅路漸広、是為自江城入甲之本道、車烟馬塵殆暗春光、又行三里、到柳沢而飱、去柳沢三里、到堀内村、村中嘗有祖師、其以近江城、且都人来謁、其堂殆極壮麗、路又為繁華、一里到新宿、是為江都城西之始、有妓楼、嘗以
 - 第1巻 p.198 -ページ画像 
有内藤侯居、名曰内藤新宿、投于扇屋而宿、此地嘗為江城之西口、車馬轣轆、半夜不結夢、十九日未明暁起、闖窓烟霧、茫々不弁咫石《(尺)》、而湿々猶如細雨、発駅到四谷、有門、曰四谷見付、嘗大府所造営殆為壮、入門為麹町、過町又有門、曰半蔵御門、且為本城西之第、一門、堅構壮営、殆驚眼、有溝更深、鴎《(鷗カ)》鷺浮、錦鱗躍、不入門右折、到伊井侯邸前、朱門赫々、猶安勢公黒田侯邸《(安芸公黒田侯邸)》、名霞関、時霧漸消、四望漸弁、而其三侯之邸郭、紅扉発光、墨郭㩮烟《(ママ)》、壮麗殆極絶勝、去霞関、而諸侯伯邸宅不可勝計、余不諳道路、迂路凡一里程、漸達本道、室町自左折行十丁許《(ママ)》、到小舟町而投旅館而休、日午又出館而買履而行、左省右眺、以嘗弁所拮之業、日晩帰館、此夜剔灯記今日之行、偶読所買之艮斎文略、読到東省日録、与吾此行、其月日発時相暗合、又可一笑、二十日晴、冒暁而出、到横山□《(町カ)》求書、而行到両国橋、両国者蓋江城之壮観也、橋上逼《(幅)》一□《(尋カ)》、長三百歩、而東西酒店茶肆商舗陳々錯居其曰両国者嘗以有武総之間也、且為達二総之本道上、是故車烟馬塵及人声、其喧囂殆不可勝《(堪)》也、橋上遥看左右、則諸侯伯之邸第、赫々映水、而墨坨千頃之柳、青々帯霞、近臨水上、隅江颿々、無数之船、間々領春、而流水遥々、浮烟入海、其繁華之状、清絶之姿、是非造化資人功工者、何能臻之也、豈江城□《(之)》壮観已乎、真天下之大観也、而南望遠海、波濤溟濛、帆艢出没、隠見有無、且聞夷船逗留、而奮然睨湖、不覚激傲、観覧久之、行達橋東、有寺曰回光院《(回向院)》、嘗天明中江城有大災、人多死、故為其幽魂飢魄所建也、到本所相生巷而憩、出巷又取前路達橋西、到浅草見付、過柳原巷而到和泉橋、渡橋而右折、行十丁許、到下谷練塀小路、訪友人省斎於海浦章之助居、省斎者故園余郷忘年之益友也、今玆三月上浣、嘗遊以撃剣文学于江城也、其発郷時、過余而語、離情切々、余嘗有送別「思刹《(殺カ)》自今花月美、春風共誰入吟情」之句、
△末渚録ヘ記ス
   ○玉石見聞録ハ縦五寸五分横三寸八分、罫紙上巻三十六枚、下巻四十四枚ノ雑記帳ニシテ、栄一ガ安政四・五年ニ用ヰタルモノナリ。内容ハ詩、紀行文、買物値段留、道中小使留、取引先所書等雑多ナリ。書体モ楷、行、草錯雑ス。南遊紀行ハ即チ見聞録ニ収ムル所ノ紀行文ノ一ニシテ、安政五年三月ノモノナリ。コノ南遊ハ雨夜譚ニモ述べラレズ。


巡信紀詩 (尾高惇忠・渋沢栄一著)(DK010008k-0005)
第1巻 p.198-200 ページ画像

巡信紀詩(尾高惇忠・渋沢栄一著)
我与青淵、倶刀陰之耕夫、而鬻藍亦箕裘之業耳、只以論文賦詩為楽、二人之私也、今玆十月以業入信、一蓑単刀、携数巻書、以初六日啓行家厳戒曰、女行装恐半文人、諺曰十月中旬与優人毋話、以所好不可疎家職矣、我曰唯々、拝而発、直至青淵氏而辞、臨発、舅氏戒我与青淵亦如家厳之言、於是拍掌歎曰、今青淵子旅装同我、而舅氏之戒不異、嗚呼父於子、愛而警之切、奚酷相似也、宜服膺而不忘矣、乃連手上途、而詩文之癖、安得不萌乎、至或有途上立談、巌頭把筆、茶肆移〓、旗亭闌更、而未必乗興不賦詩、当是時、倶謂曰、家君之言何如之、信可畏々々、而十四日達上田、屈指較于往巡、日数無違亦焉、於玆可疑、比従前家君与舅氏之行、費日干文詩不尠、何哉其数不違也、乃知、家君嗜酒、舅氏喜茶、以其所好亦移光景也、然則此詩代二家君之酒与茶者
 - 第1巻 p.199 -ページ画像 
也、宜矣若干首、猶信醪之帯臭、濃茶之無味也、雖然行程不違期、則垂戒之賜也、而於俗調拙什之譏、聊有所辞也云、安政五年才次戊午冬十月望前一日、題于信州松尾城下勢州屋西窓之下、武蔵榛沢郡耕夫藍香主人惇孝子行、
     上途口占
 僅整旅装意漸馳。薄游誰識値佳期。
 追随従是信毛路。夜々旗亭賦竹枝。
     鉋水
 水尽寒江平白沙、幾双求樹乱飛鴉。
 風揺枯荻日将晩、烟曳前村漁父家。
     吉井
 吟筆一枝書半肩、熟程又不異郷天。
 蹈尽寒林紅葉路、脱処分明見矢田。
     麻山
 蜿蜒随水一郷閑、桑畔麦隴風色殷。
 自古名称不須説、家々製出麻如山。
     内山峡
 襄山蜿蜒如波浪。西接信山相送迎。奇険就中内山峡。天然崔嵬如刓成。刀陰耕夫青淵子。販鬻向信取路程。小春初八好風景。蒼松紅楓草鞋軽」。三尺腰刀渉桟道。一巻肩書攀崢嶸。渉攀益深険弥酷。奇巌怪石磊々横」。勢衝青天攘臂躋。気穿白雲唾手征。日亭未牌達絶頂。四望風色十分晴」。遠近細弁濃与淡。幾青幾紅更渺茫。始知壮観存奇嶮。探尽真趣游子行」。恍惚此時覚有得。慨然拍掌歎一声」。君不見遁世清心士。吐気呑露求蓬瀛。又不見岌々名利客。朝奔暮走趁浮栄」。不識中間存大道。徒将一隅誤終生。大道由来随処在。天下万事成於誠。父子惟親君臣義。友敬相待弟与兄」。彼輩着眼不到此。可憐自甘払人情」。篇成長吟澗谷応。風捲落葉満山鳴」。
     又
 盤旋書剣天涯賓。程到襄州初苦辛。
 愁殺山巓回首処。一歩又為信路人。
     平賀
 緇衣著甲又無倫。雪夜蔡城埋侠身。
 縷々如見当日事。田翁仔細説行人。
     下県寄木内芳軒
 曾共名勝欽雅風。奇工今見擅詞雄。
 浅間白雪毎田月。二美粲然落筆中。
     望月客舎
 夜寒炉火易成灰。心事紛々不耐裁。
 思殺前渓咽石水。載将無限旅愁来。
     上田懐古
 - 第1巻 p.200 -ページ画像 
 百尋楼郭撑青穹。懐起当年父子雄。半夜危機圧北越。三旬奇策扼山東。籠城堪感士民属。列市可看布帛豊。一点氷心化貔泗w。朔風捲雪飛寒空。
     西原晩望
 草死原頭色半黄。東南千里望渺茫。
 寒郊寂寞人行少。只有孤松饗夕陽。
     横川紅楓
 映水紅楓更絶倫。旅愁今日為君新。
 何図奇険関山路。一片風光慰苦辛。
     鷹巣山北望
 旭光射雪山玲瓏。恰見銀波掀碧空。
 応是北溟鯤羽化。一揺万里撃高風。
     帰郷
 聯歩一旬毛信天。鴻爪到処真遊全。心於富貴無関渉。情与江山有宿縁。満面奇勝入眼福。溢襄好景担吟肩。笑他功利紛々客。徒趁浮栄送歳年。


躋峰巒、渉澗谷、而暢情於詩文之境、是丈夫之一楽㕝、而所不譲南面之楽也、雖然到岌々于名利、汨々于富貴、趁栄求華者、不能知其楽也、若夫〓翔青雲之上、紈絝纏身、冕譌旒笏、一言能動天下、一行必威四海者、如其楽江山之勝、亦不能梦焉也」、戊午孟冬、従藍香兄、以業入信、初発郷、相謂曰、此行紅楓当路、冬景随歩、真業中之好游也哉、宜賦詩報奇観、既而上途、若或有奇険看楓、客舎眺月、携手共攀、並枕相談、神情頓馳、吟意頻飛、往還十余日、今也閲錦嚢、殆満焉、因而吾謂兄曰、余等販鬻之小夫、探奇尋勝其癖也、而所得之詩文、不譲騒客文人何乎、兄曰、夫人有所勤、而楽存于其中、今也業研于内、詩楽于外、行中不費光陰也、何其風流不亦可乎、乃釐其詩成一巻、名曰巡信紀詩矣」、嗚呼衣冦束帯、対案而窮斯道於典墳之上、賦江山於邵荘f之裡者、則風雅之忠臣乎、腰刀肩書、践実行於販鬻之間、綴詩文於丘壑之中者、則風雅之罪人乎、将問之江山、若詩文之陋固、不待江山之裁、而自其責也矣」、于時安政五年戊午孟冬中浣之日、刀寧南之半農青淵栄一、書于襄州安中城下須田氏、
   ○巡信紀詩ノ著者名ヲ示シテ
     武蔵 藍香尾高惇孝
     従遊 青淵渋沢栄一  合述
    トアリ。藍香ノ詩二十九篇、栄一ノ詩十四篇、藍香ノ序ト栄一ノ跋トアリ。序、跋及ビ栄一ノ詩ノミヲ掲ク。上途口占ハ藍香ノ分ニ十月六日上途口占トアリ。栄一ノ詩ニハ同トアリ。


青淵詩存(渋沢栄一遺著) 第四―七丁(DK010008k-0006)
第1巻 p.200-202 ページ画像

青淵詩存(渋沢栄一遺著)  第四―七丁
      和藤森天山先生之韻二首  以下安政至文久
 才大難入世。名声無付与。小園幽趣富。
 泉声与石語。笑他逐鹿間。兎死功狗煮。
 - 第1巻 p.201 -ページ画像 
 不是池中物。儘教住山林。腥風捲東海。
 潜伏遂不浸。誰図神竜意。偏愛九淵深。
     又同尾高鈴木鮫島釈松窓賦
 翻雲覆雨遂如何。又恨危機付逝波。
 別有幽情慰感慨。秋来涼味一般多。
     送尾高東寧遊於信州二首
 鉄石心腸錦繍詩。才如蘇陸是禍基。
 短歌長鋏信州路。空探残春亦一奇。
 機心一点未全抛。汗漫無人憐繋匏。
 櫪驥従来君自重。蘇卿固被妹嫂嘲。
     蚕婦吟為田島九如
 儘教身跡与春違。落尽百花総不知。
 蚕蟻稍長雲満箔。半簾斜日采桑帰。
     江村晩帰
 柳青沙白望依微。陣陣軽風送晩帰。
 日落江村人過少。一壑鴎鷺入霞飛。
     寄題木内氏呑山懐壑楼
 一榻清風絶世塵。朝嵐夕翠入眸新。
 呑山懐壑尋常事。別占堂堂日本春。
     和木内芳軒元夕之韵
 索居何必謂西東。詩酒訂盟六才中。強促腐章又雅興。笑斟一杯是奇逢。庭前梅綻三分雪。楼上月清半夜風。長占与君幽静楽。任佗世事太匆匆。
     又
 未必萍蹤寄朱門。訂盟時又対清樽。
 悠悠客路宵宵夢。遍到千隈第一村。
                 芳軒居在千隈川涯末句故及
     途上
 隔水一村烟模糊。此間可転愛吾廬。
 稚松疎密山高致。自是米家活画図。
     題自著索綯集三首
 自吟自賞又自奇。一任世人呼為痴。
 昼乃往茅宵索綯。索成縷縷幾篇詩。
 筆底走蛇未足奇。誰知我自愛吾痴。
 妙処別存迂拙裏。姿媚嫌佗時様詩。
 才拙眼高又一奇。棲遅欲学少游痴。
 読来休笑雕虫苦。也是感時憂世詩。
     至日夜風雨大到偶用陸放翁韻
 強把離騒慰孤哀。胡塵十丈圧輪台。
 満胸忠憤洩無処。別作瘴風癘雨来。
     弔三島三郎墳墓
 笑将成敗付皇天。赤子投井豈不憐。
 従是世波翻覆甚。欽君大義著先鞭。
     田家感慨
 世末人趨利。姦富恣横行。不奪則不饜。豈遑顧忠誠
 - 第1巻 p.202 -ページ画像 
 果然蠢爾輩。喝声驚昏盲。尸位汝何者。漫成城下盟。
 天権漸売却。銖鎰争軽重。偸安又姑息。将掩天日明。
 天日縦可掩。豈奪忠義晴。感窮情自切。事大志愈精。
 可謂心事非。狂瞽任人評。嗚呼彼冥者。夷貢偏経営。
 不織又不耕。只有繰車鳴。
     咏史二首
 黠略足馭諸弟子。覇図一定又雄哉。
 自家三世好勲績。転作一身景福来。
 擺{2B77C}前埃又後塵。謀窮湊水尽為臣。
 猶余胸裏一盃血。留得芳山五十春。
     赴上毛金山途上
 山勢迤邐水競流。義旗想昔復神州。
 上毛固不等閑地。好捲風雲掃虜首。
     金山拝新田公之故祠
 気勢粛然扼闔州。古祠拝到恰逢秋。
 男児有意勤王事。借問威霊能護不。


芳軒居士遺稿(鑢松塘編録)[(鱸松塘編録)] 巻之上・第一一丁〔明治一一年八月〕(DK010008k-0007)
第1巻 p.202 ページ画像

芳軒居士遺稿(鑢松塘編録)[(鱸松塘編録)]  巻之上・第一一丁〔明治一一年八月〕
    十七夜青淵渋沢君見訪席上同賦用上元韻
美人影落竹門東。剥啄声伝遉€戸中。灯火三年嘗役夢。詞鋒一夜互争雄。引杯幽賞山懸月。看剣高談□生風。秪合沈酣永今夕。任他烏兎太匆々。


家の風(木内四郎編) 第二八―二九頁〔昭和九年一二月〕 一八、尾高藍香先生跋文(DK010008k-0008)
第1巻 p.202 ページ画像

家の風(木内四郎編)  第二八―二九頁〔昭和九年一二月〕
一八、尾高藍香先生跋文
 跋
 木内君寄書。使余跋于其所蔵之孝子不匱巻。披之首弁一斎先生書不匱二字。中者星巌詩伯四時之詩。倶讃君家之徳業也。嗚呼美哉。抑々君之有此属也復宿縁矣。在昔余倶渋沢青淵行商于信中。必訪君家締交君之先考叔諸君子。談毎達旦。明治之初。余為吏巡廻宿君家。而后廿余年忽然続文墨之縁。安知尊先霊所指命耶非歟。回顧余為君家題雲山詩巻。記稼雲詩屋。又跋于此巻。可謂累世神交之所致耳。因賦一律云
  人世交情唯一誠 写文調字始成声
  浅間白雪終天潔 千曲青流万古清
  剪燭高風今幾日 議論経国四旬程
  預期斯会記家牒 藍叟依依尋旧盟
   明治卅三年一月七日。武蔵藍叟尾高惇忠。書於東京深川藍香書屋。時年七十又一 


渋沢栄一伝稿本 第二章・第四一―四二頁〔大正八一―二年〕(DK010008k-0009)
第1巻 p.202-203 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第二章・第四一―四二頁〔大正八一―二年〕
○上略 先生が幼時より膠漆の交を締したるは、従兄尾高新五郎・同長七郎・同渋沢喜作なりき。新五郎は即ち藍香にして、先生の師事する所、長七郎は剣客を以て夙に四方を周遊し、ほゞ時勢に通ず、喜作は先生
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と書剣の師を同じくする竹馬の友なり、先生常に此三人と往来して、文武を講習し知見を磨きたり、尚遊歴諸家の来る時は、就きて教を請へることも亦多かりき。菊池菊城といふ者藍香の家に寓せし時は、就きて論語の講義を聴き、尾張の人中野謙斎の来遊するや、文選・史記の講義を聞き、後又津和野藩士椋木八太郎《クキ》 潜、大橋訥庵の門人にして坂下事変に関係せり。 及び太田玄齢 錦城の子。 薩藩士中井弘 時に鮫島雲城と仮称す。 とも交りて、或は教を請ひ、或は詩文の評正を得たり。これ皆先生二十才以前の事なるが、其後藤森天山 名は大雅、別号を弘庵といふ。 も亦来りしかば、就いて意見を問ひ、且其揮毫などをも請ひたりき。且先生が商用を帯びて旅行する次には、信州の人木内芳軒 名は政元、字は子陽。 上州の人金井烏洲 画を以て名あり、金井之恭の父、烏洲は先生の父晩香翁とも交あり。 武州阿賀野の人桃井八郎 名は之彦、畳山と号す、儀八の長男。 等各地の人々をも訪へり。年やや長じて後、宇都宮藩士広田精一・戸田六郎、長州の人多賀屋勇 長藩の家老毛利内匠の臣。 等の来遊せし時は、置酒会同して詩文を評し、時勢を論じ、遂には幕府の秕政を罵りて、慷慨気を吐くの機会多かりしのみならず塩谷宕陰の隔鞾論、大橋訥庵の闢邪小言、さては阿片戦争の事を記せる清英近世談等を耽読して、意を時事に注ぎたれば、農家の青年は、いつしか天下の志士となり、身を以て国に許さんとするに至る、況や岡部陣屋の一件より、社会改革の大事を痛切に感じたるをや、又況や嘉永以来急激なる世態の変遷は、既に幕府の衰亡を暴露せしに於てをや。


藍香翁 (塚原蓼洲著) 第三四―四二頁〔明治四二年三月〕(DK010008k-0010)
第1巻 p.203-205 ページ画像

藍香翁(塚原蓼洲著)  第三四―四二頁〔明治四二年三月〕
      (五)小梁山泊
前既に言へりき。翁が父君に伴はれて水戸の追鳥狩を見られし時其の景象の勇壮なるに感じて、爾来その学風をさへに自から水戸派のものに変ぜられしを。然も当時の水戸派なる学風は、最も壮年有為の士に喜ばるゝものなりき。すなはち其の論に、策に、詩に、文に言ふところは、決して紆余曲折なる情実を容さず、総て是れ単刀直入なり。所謂る神州の正気を真額《まっこう》にして醜夷が醒臭を国内に絶んとするものなり。文恬武熙を戒飭して、皇威を四表に光被せんとするものなり。其質や直にして、其気や鋭なり。其論や正しうして、其鋒や剛し。されば翁も此等の議論を歓びて、其の常に手にせらるゝ書は藤田東湖氏の『新策』なり。『常陸帯《ひたちおび》』なり。其口に唱ふる所は会沢正志氏の『新論』なり。此等の論策に随喜せられし翁は、当時浦賀に乗り込みたる米艦に対する幕吏が挙動を慊らずとして、慷慨の気焔は殆んど嚮《むか》ひ邇《ちか》づくべからざるが如きものありしと云ふ。便《すなは》ち其論に曰く、国は鑚さゞる可らず、夷は攘はざる可らず、彼の求むる所に応じて和親通商を許すは、城下の盟を為すに均し。国家の汚辱何者か之に加へんや。抑も我に戦うべき気力有りての後に、初めて彼と真正の和を結ぶを得む。若し否らざらむか、是れ和親に非ずして、屈従なり。犬豕の前に屈従する、豈に神州人民の能く堪ふる所ならんや。との主意なりき。故に当時の翁の眼に映ぜる、かの和親を是とせる幕府の吏員は、皆是れ国家を誤まるの姦賊にして、其の鎖攘を主張せる水戸派の人士は、天晴《あぱ》れ神州の精華を発揮する忠臣なりき。されば渋沢男爵は嘗て人に語りて曰く、
 - 第1巻 p.204 -ページ画像 
翁をして、当日、此の慷慨無らしめば、栄一も安然として血洗島の百姓になつて居たのである。渋沢をして今日の地位に到らしめたるは、全く翁が水戸学問に感化せられた其の余波であると。或は然らんか。而して此時は、血気方《まさ》に剛《こは》しと云ふ翁が二十五六の時なり。
翁の熱衷は恁く燃るが如くなれども、其躬《み》は亦た尾高家の心棒なり、家には、前に言ふ、田地あり、商売あり、親《しん》に奉ずるの勤と、債を済《な》すの務とあり、未だ身を以て国事にのみ任ずべからず。玆に於てか翁の弟長七郎氏は、翁の内命を承けて江戸に出で、一面には当時の有為の士と交遊し、一面には幕府が施政の形情を視察するの任に当られぬ。而して翁の門下たる今の男爵 栄一君 と、渋沢喜作氏 宗助氏の別家長兵衛氏の子。とは翁を輔《たす》けて郷里に在り。すなはち翁を中心としたる小梁山泊は、此土《こゝ》にも那《か》の蓼児洼也《りやうじのまた》似たる刀水の浜に結ばれたり。倘《も》し夫れ当時の翁をかの義盟の主たる及時雨宋公明《きうじうさうこうめい》其人に擬せんか、男爵は便ち其の帷幄に参謀長たる智多星呉用《ちたせいごよう》にして、喜作氏は豹子頭林沖《へうしとうりんちう》の位置ならん。然も長七郎氏は、那《か》の菜園子《さいえんし》が順柔為す無きの比に非ずして、実に霹靂火秦明的《へきれきくわしんめい》の勇威と、青面献楊志的《せいめんじうやうし》の本事とありき。いでや些しく這《こ》の好漢長七郎氏に就て語る所あらん哉。
長七郎氏、名は弘孝《ひろたか》 後弘忠と改む 東寧 東寧は、蓋し刀根の音通 と号す。翁の次弟にして、翁より弱《わか》きこと八才。其の人と為りや魁偉、面冠玉の如し。膂力無双最も撃剣に長じて、其の成童たるや既に抜群の手腕あり。且つ文学を嗜みて、造詣浅からず。然も性農商たるに安んぜざるもの有るをもて十七八才の頃よりして、北は両毛の山河を踏み、南は東都の名家を訪うて、其の文武の業をのみ励まれたりき。その両野の遊歴に際して、翁が送別の詩あり、こゝに録す。
       送家弟東寧遊両毛
  丈夫有弁菽麦知、豈無英志軽遠離。宜矣家弟負書剣、一朝果見脱頴錐。離筵不図生壮烈、勧盃慇懃重以辞。丈夫漫遊非偶爾、努力将躬奉明時。学文李唐吉備氏、講武鞍馬源牛児、大江評政鎌倉府、加藤虜王高勾麗。千古歴々皆如此、丈夫心事其在玆。嗚呼自古丈夫有所憾、忠孝如何公与私。今吾与爾在内外、丈夫心事無所覊。顕親揚名爾所職、節用奉養吾為之。行矣勉哉文也武、此行三旬幾奔馳。討論名士可有得、吾亦刮目待帰期。
見るべし、翁は祖父母両親に孝養せむが為め、家を守りて、更に家弟を督励して、名を揚げ親を顕はさしめむとす。啻に其の所親に厚きのみならず、亦た其の思慮の周到なる、算、遺す無しとも謂ふべき哉。かくて長七郎氏は江戸に趨けり。乃ち文学をば下谷練塀小路《ねりべいこうぢ》なる海保章之助氏 南総武射郡北清村の人、漁村と号す、太田錦城の門、慶応二年歿す が塾に脩め。武技をば同所和泉橋なる伊庭軍兵衛氏が門に学びたり。 氏が此行は別に撃剣の師渋沢氏の慫慂もありしなり、其事は下文に見ゆ。 抑も当時の幕政なるものを云へば、曩に阿部勢州、機敏の才と円満の量とをもて外交の衝に当りたれども、其の措置、海内の志士をして悦服せしむるに足らず、鎖攘の論は天下に囂すしくして、終に其職を退くの己むを得ざるに至らしめたり。之に続で堀田備州、和親勅許の一案を持して京師に上りしが、失敗し。其後を承けたる井伊大老、大有
 - 第1巻 p.205 -ページ画像 
為の資を以て事を武断に裁せんとしたれども、半途に僵れ。其の前後間部総州の戊午 安政五年 の大獄を起すあり。更に安藤対州の其策を継ぐあるも海内の憂国家、慨世家たる者は悉く皆其の挙措を非として、『人心の土崩、政府の瓦解』なる語は、凡そ国事を論ずる者の、之を口にし是を筆にして憚らず、或は憤り、或は憂ふるものなりき。翁の如きも同じく然り。其の初に於ては、此の土崩を殆《あやぶ》み、此の瓦解を惧れて只管神州の陵夷。特に外国に迫られたる城下の盟をのみ之れ憂へられたるが。其の憂ふるや、唯是れ其の情勢を余所《よそ》より観て、之を胸裏に悶々すと云ふに止まりて、躬其間《み》に処して、此の危機を斡旋せんと迄にはあらざりき。此れ亦た勢の然《さ》も有るべきものにして、仮令其の高見卓識、百世を透見するの明を持せらるゝも、身は是れ草莾の農估にして、かの政府なる者とは上下雲壌の距離《へだて》あり。所謂る望むべくして攀づべからず。然れども、かの江戸なる長七郎氏が間断なき報道、即ち外交の優柔、志士の処刑、施政の姑息等、其他百般の情報を耳にせらるゝに及むで、乃公出でずんば皇国を奈何《いかん》との観念は、磅礴乎として彼の小聚義庁裏に充盈せり。換言すれば、翁及び男爵、喜作氏ともに、最早や尋常の農估として、藍を製り、蚕を養ひ、鋤鍬を手にして耕作し、徒《たゞ》に領主に年貢を納むるのみの良民たるに甘んずべからざる時勢の切迫を感受せられぬ、と謂ふに在り。即ち、翁が長七郎氏に贈られたる左の一詩、以て当時の事情を推すべきか。
   賦示家弟東寧 藍香
 正気堂々感聖神。丈夫心事見天真。何図挫狄尊王計。却及吾人処士身。
猶ほ渋沢男爵は、当日《このひ》に於ける其の心事と事実とを記者に語られぬ。其言に曰く、
 かく幕政の振はざるを私共は実に憤り、且つ慨《なげ》いたです。なれども其の憤慨は別に誰から言附られたと云ふでも無い。申さば酔興の、自称の慷慨家!今お話し申すと誠に好笑《をか》しな事の様ではあるけれど、其の時分には、我々が棄てゝ置けば国家は何う為らう?、倒れて仕舞うで有らうと信じたから、自分では如何にも道理ある思案、国家に対する大義務だと思ふて、乃公達《おれ》が有るからこそ日本の維持も出来るもの、と云ふ位に考へて居《をツ》たのです。其処で、唯だ外部で評議する計りでは不可《ゆか》ぬ、自己自身《おのれ》が其間に立つて、是非とも此の攘夷をさせねばならぬと云ふ息込で、切《しき》りに彼の長七郎に江戸の模様を探索させ、我々は田舎に居つて、日夜其の工夫を凝らし、猶ほ恁《か》く働らけ、恁《か》う探れ、と指図をして、彼を其の慷慨の代表人として置いたのです……。
男爵の談は、今より五十年前の当時を真に目に睹るが如きものあり。当日の慷慨家は実に其の自称なり。自称なるが故に後来の栄達や、利益やは、其の眼中に在る無し。有る無きを以て其論や純一なり。純一の極は腕力となる。今や其の事を腕力に訴へむとせるの機は、不意《ゆくりな》くも来れるなり。


東湖会講演集 第一―六頁〔大正一三年一〇月〕【元来私は埼玉県での…】(DK010008k-0011)
第1巻 p.205-207 ページ画像

東湖会講演集  第一―六頁〔大正一三年一〇月〕
 - 第1巻 p.206 -ページ画像 
○上略 元来私は埼玉県での農家に生れて、深い学問を致した訳でもありませぬので、特に東湖先生に学んだなどと云ふこともありませぬ。去りながら少年の時分に私が漢籍の素読を受けたのが、私の居宅に近い村塾で、私より十年の長者であつた尾高惇忠と云ふ人でありました。此尾高は少年より水戸学問を好むで十五六才の頃烈公の追鳥狩を拝見しました。
 此の追鳥狩と云ふのは、閲兵調練の方法で、烈公は鎧を着し馬に跨つて之を統監されました。当時の世の中は泰平の余弊を受けて、幕府を首め、諸藩共に、武家が淫靡に流れ、驕奢遊蕩の風に染つて居つた際でありましたから、烈公は痛く之を慨し、斯様な時勢を矯正して士気を鼓舞振作する為に、此の実物教訓をなされたものと見えます。其後も此追鳥狩は水戸藩年中行事の一として、毎年三月頃に行はれたやうに聞いて居ります。私の素読の師は当時未だ十五の少年でありましたが、夫れを拝見して深く感激し、成程斯様でなければ成らぬと云ふ観念が、余程強く頭脳に這入つたのでありませう。此事を談する時は実に慷慨淋漓満腔の熱血を以てしましたから、私共も亦非常に感動したのであります。
 追鳥狩の事は天保の末から弘化の始でありましたが、軈て嘉永六年には亜米利加から「コモンドル、ペリー」が来朝し、玆に外国との接衝が始まりましたから、当時の一般の人心は針で刺されたやうな感じを与へられて、烈公の御企図の通り日本が泰平の夢を貪つて居ることが出来ぬと云ふことを覚つたのです。此有様が農民たる私共をも深く感化したのであります。夫れ故に私共は我が日本は到底此儘にしては居られぬ。烈公若くは東湖先生の主義、即ち水戸学に依つて国政の建直しを致さなければならぬと云ふやうな意念が起りまして、詰り水戸学は自然と日本に於て最も時機に適するものだ、と思つたのであります。況んや水戸藩祖よりして皇室に対して尊崇の念が強かつたのであります。
 次に述ぶることは或は事実ではないかも知れぬが、水戸義公は常に家人又は臣下に示されるには、万一にも後日幕府が朝廷に対して臣節を奉ぜぬやうな場合が起つたならば水戸藩は「大義親を滅す」と云ふ覚悟をせねばならぬと内訓されたと云ふことを、私は聞込んで、其頃尊王攘夷に熱中する私共は益々水戸学を崇拝すると同時に、烈公の人と為りを深く欽仰し、併せて東湖先生を敬慕し、其の著作の常陸帯や回天詩史抔を愛読したものであります。常陸帯は烈公が水戸家御相続当時からの有様を記事体に書かれた二冊の書籍であります。又回天詩史は一篇の七言古詩でありますが、実に先生の艱難辛苦を吟詠された深い意味を含んで居るものであつて、私は今日も尚之を暗誦することが出来ます。――
  三決死矣而不死、二十五回渡刀水、五乞間地不得間、三十九年七処徒、邦家隆替非偶然、人生得失豈徒爾、自驚塵垢盈皮膚、猶余忠義塡骨髄、嫖姚定遠不可期、丘明馬遷空自企、苟明大義正人心、(皇道何憂不興起、《(一句脱)》)斯心奮発誓神明、古人云斃而後已、――
 - 第1巻 p.207 -ページ画像 
 左様に先生を欽慕して居りましたけれども私は前に述べた如き農民で素より深い学問もなく、又水戸に遊んだこともありませぬので、終に藤田先生の謦咳には接することが出来ずに仕舞ひました。○下略
   ○右ハ、栄一ガ大正十一年十一月二十五日東京会館ニ開カレタル東湖先生記念講演会ニ於テ『開会の辞』トシテ試ミタル一節ナリ。


斯文 第一三編・第七号・第一〇―一一頁〔昭和六年七月〕 【日本外史の教訓】(DK010008k-0012)
第1巻 p.207 ページ画像

斯文 第一三編・第七号・第一〇―一一頁〔昭和六年七月〕
頼山陽は良史であり、又、日本外史は好著である。自分も初めは我国の英雄の事蹟が知り度くて日本外史を読んだのであつたが、読んで居る内に段々面白くなつて、山陽の議論に釣り込まれて、いつしか尊王論に耳を傾ける様になり、山陽詩鈔を愛読し、楠公に関する詩などは大抵暗誦して居つた。今でも湊川の詩の後半はなほ覚えて居る。
その頃は外患が漸く急にして、自分たちは、幕府の態度が如何に優柔不断で、唯外国の命に是れ遵ふを憤り、漢学者流の攘夷論にかぶれ、一旗挙げる計画までした。○下略
○斯文ノ右ノ号ハ頼山陽先生百年祭記念号ニシテ、栄一ハ需ニ応ジ『日本外史の教訓』ト題シ談話セシナリ。


雨夜譚会談話筆記 下・第七七八―七八一頁 〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010008k-0013)
第1巻 p.207-208 ページ画像

雨夜譚会談話筆記   下・第七七八―七八一頁 〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
先生が青年時代に信州へ旅行された時、峠の一軒家に詮方なく宿泊されたに就いて
先生「これは覚えてゐるヨ。上州から信州に越えるには峠が幾つもあつたヨ。九つかあつた。その主なものが、碓氷峠その南に香坂峠、志賀峠、内山峠、戸沢峠と順に南の方に在つた。あの時は私が二十一か二の年だつたと思ふ。大変雪が降る日で、その為に時間を思違へて仕舞つてネ、まだ早いだらうと思つて、実は上州に泊ればよかつたのを今一息だ、折角だから香坂峠を越えようとさきへ行つた。あの時は一人だつた。峠を登る時分はまだ明るくてよかつたが、下りかけると大変な雪で道がわからなくなつた。吹雪ではなかつたが積る雪で道が覆はれて仕舞つた。一本道で雪さへなかつたら、迷ふやうな事はなかつたのだが、何分人が通つた跡はなし、それに曲りくねつた道で曲り角へ行くと見当がつかずに、真直ぐ行つて仕舞ふものだから、ぼくりと落込む。そんな時は大抵の人があせるものださうだ。さうすると何度もそんな事を繰返して元気がなくなつて、まいつて仕舞ふさうだ。私もあの時ばかりはこれは駄目だ、死んで仕舞ひはせぬかと真に心細くなつたヨ。三度か雪に体がはまつてへとへとになつて、漸く草鞋を売る家に辿り着いたヨ。此家は香坂の村にまだはいらない山ぎわにあつた。何でも小さな家で、老人夫婦が居つたヨ。私が『実は上州の方から峠を越えて来たが、雪でひどいめに遭つて動けないから泊めて呉れ』と頼むと『無鉄砲な事をなさつたものだ。こんな日に、それも暮れ方に峠を越す人なんぞありやしない。それでも此処迄でも来られて、まアよかつた』と云つて家に入れて呉れたから、私がすぐ炉のそばへ寄らうとすると『それはいけない。そんな事をすると大変だ。あちらに藁があるから暫く
 - 第1巻 p.208 -ページ画像 
の間寒からうが、それでもかけて休んでおいでなさい』と、如何にも私が泊るのを厭がるやうな素振りのやうに思はれた。けれどもあとで聞いて見ると、矢張凍えた体をすぐ火のそばへ持つて行くとひぶくれになり、ひどい目に遭ふので禁物ださうで其為めに火の傍へ寄せ付けないのであつた。その中に雑炊が出来たからと云ふので、これで腹をこしらへた。それからその夜は粗末な木綿蒲団の中に寒い夢を結んだ。翌朝になつて見ると足が大変痛んでネ、動き度くなかつたが、其処に何時迄も居る訳にも行かず、足をひきずつて出掛けた。本当にあの時はモー助からないと思つたヨ。」


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の二・第五二―五三丁〔明治三三年〕(DK010008k-0014)
第1巻 p.208 ページ画像

はゝその落葉(穂積歌子著)巻の二・第五二―五三丁〔明治三三年〕
母君若き人々に語らせ給ひけるは。我が中の家の父君は常に藍作をいそしみ給ひ作りたる藍を多く信濃に送らせ給ひけれは。そが事によりて春秋ごとに必ずかの国に旅し給ひけり。寒き国なれば春の旅には雪ををかし給ふ事もしばしばなりしが。或る年尾高の兄君と共に行かせ給ひける時。内山峠を越えさせ給ふ折しも雪いと深く。道埋れて行方も知られず。足の立てどもあらざりければ。惇忠君には父君に先立ち道に臥しつゝかよひぢを作りて導き参らせけりとぞ。さるは常に親に孝ふかき御さがなれば。叔父君にもかく懇にはおはせしなり。又一とせ我か夫尾高の兄君とともに旅し給ひし時。道の程便宜ありて兄君とはしばらく別れ。一人にて香坂峠を越え給ふに。麓よりしてふりいでたる雪。登るまにまにますます甚しく。今はほとほとたどり難き程にさへなりにければ。山中に立てるかたばかりなるあばらやに入り一夜の宿をこひ給ひ。御身凍えて我にもあらねば。とりあへず囲炉裏の傍に依らんとするに。あるじはいそぎ之をとゞめて。先づそが傍につみおきたる藁の中に入りてふさしめ参らせ。そが上につゞれの衣などおほひ参らせ。ややしばしありていさゝか人ごゝろつき給ふさまをみて。粥すゝめなどし。さてのち囲炉裏につく事をも許し申してけり。こはかばかり凍えたりし時。たゞちに囲炉裏によりて身をあたゝむれば。必ずいみじき疾をおこすものなればなりとぞ。父君をはじめ参らせ。人々はかばかり御身をいたづかせ給ひしなり。これを思はゞ今の若人たち都の街の往かひにつよき雨風ををかすなどは何ばかりの事にもあらじを。など常にはげましいましめ給ひき。


上田毎日新聞 第三六四六号〔昭和一三年三月一〇日〕 渋沢翁信仰の風邪観音(DK010008k-0015)
第1巻 p.208-209 ページ画像

上田毎日新聞   第三六四六号〔昭和一三年三月一〇日〕
  渋沢翁信仰の風邪観音
神川村岩下土肥甫氏方裏にある福聚山無量庵準眡観世音大菩薩の縁日は十七日であるが流行性感冒の多い今年はこの祠が一名感冒即滅無量功徳開運延命厄除受福の観世音として知られてゐるので最近祈願にくる者が非常に多いこの祠は次のような逸話もあるので紹介してみよう
 故渋沢栄一子爵が大成を志して苦闘してゐた廿才頃(安政六年)は上小地方《(上田地方カ)》へ家業の藍玉を背負つて行商に来られたものであるがその頃悪い感冒が流行栄一氏も冒され難儀したので岩下の観音様へ願をかけた所ケロリと全快丁度その時この観音様へ六百巻の大般若経奉納
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の計画があつたので功徳に感じた栄一氏は父市郎左衛門氏《(市郎右衛門)》の名前で一巻を寄進し巻頭に祖父市郎左衛門安知《(市郎右衛門安知)》の戒名を書いて納めた
尚この観音様には寛文十亥五月十七日開祖釣月了雲大和尚の位碑もあり今から二百六十五年前に建立されたもので上田築城の宝永二年以来代々領主の御尊霊と云ふ位牌もあるので可成り由緒あるもの


雨夜譚会談話筆記 下・第七〇四―七〇六頁〔昭和二年二月―昭和五年七月〕(DK010008k-0016)
第1巻 p.209 ページ画像

雨夜譚会談話筆記   下・第七〇四―七〇六頁〔昭和二年二月―昭和五年七月〕
佐治「碁は如何でございましたか」
先生「碁はやりました○中略将棊に就ては面白い話がある。将棊は喜作が大変好きで、又可成り自信もあつたやうだ。或る時、喜作が江戸へ出ての帰りに、途々将棊指しと一緒になつて、大宮で二人が宿に泊ると将棊の先生、盤を持つて来て、一盤やらうと云ふので、まだ日の暮れない中に指し始めた。するとネ、先生飛車、角行、香車と三チヨー降ろして来た。喜作も自信があるので、そんなに降さなくともいゝ。此方も万更素人でもないからと云つた。すると先生が『段は』と聞く、喜作が段はないと答へると、それでは構はんと、きかないで、喜作は一盤まかしてやらうと思つて、やつて見ると負けた。又やつて又負かされた。後で聞いて見ると、此人は加藤何とか云ふ三段だつたそうであるが、此先生が其時喜作に『貴様は本当に稽古したのではない。降し将棊に、貴君のやうに来るのは定石外れだ。あの時は斯うすればよかつたのだ、それでも素人では強い方だ………』などゝ散々冷かされたそうだ。それから喜作が自分の田舎には、自分の外に同じ位の指し手が居るから、是非来るやうにと云つて別れたそうだが、暫くして此先生が村へやつて来たので、私もやつて見たが、飛車、角行、二チヨー降しで私も勝てなかつた。其後土居某と云ふ五段が村へ来たので、日を定めて私と喜作が教はつた。
○下略
  ○栄一ノコノ談話ノ年代明カナラザレドモ恐ラクコノ時代ノコトナラン。


中信毎日新聞 第六八〇一号〔昭和一六年九月二四日〕 青年渋沢栄一の遍歴と其後年の感化影響(二)(山岡竜三)(DK010008k-0017)
第1巻 p.209-210 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕竜門雑誌 第五七八号・第二〇―二八頁〔昭和一一年一一月〕 青淵先生筆写攘夷論文献に就いて(土屋喬雄)(DK010008k-0018)
第1巻 p.210-217 ページ画像

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