デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

2章 青年志士時代
■綱文

第1巻 p.268-276(DK010017k) ページ画像

文久三年癸亥十一月八日(1863年)

渋沢喜作ト共ニ伊勢参宮ト称シ嫌疑ヲ避ケテ出郷シ、江戸ヲ経テ一橋家用人平岡円四郎ノ家来ノ名義ヲ以テ京都ニ赴ク。二十五日京都ニ入リ、志士ト交ハリ、歳末伊勢大神宮ニ参拝ス。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之一・第三二―三三丁〔明治二〇年〕(DK010017k-0001)
第1巻 p.268-269 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述)  巻之一・第三二―三三丁〔明治二〇年〕
○上略 サテ止めるとすれば速に人も離散させむければならぬから夫々に手当などを遣つて解散したが、自分等の身の上も、何とか工夫をせむければならぬといふものは、其頃、幕府に八州取締といふ、丁度今いふ探偵吏の様なものがあつて、其れが少しでも変な風評を聞くと、直に探索をして、忽ち召捕ることになつて居た、既に大橋訥庵を縛した時にも、其連累のものを田舎まで手配りをして探偵をした、自分達も已に捕縛されやうとした危険の場合もあつたが、凡そ事を発しやう
 - 第1巻 p.269 -ページ画像 
といふ際には、気が勝つて居て、八州の五人や七人は、片端から斬殺して仕舞ふといふ勢ひだから、些とも畏れなかつたが、其企てを止めることになると、危険に思はれたから、自分と喜作とは、是から京都へ行くことに定めて、近隣や親類へは、伊勢参宮旁京都見物に往くと吹聴して、故郷を出立したのは十一月の八日であつた、それから江戸に四五日居て、十一月の十四日に江戸を出立しました。
是れが自分の血洗島村の家を出るまでの一段落で、取も直さず農民から浪士とか書生とかいふ様な身分に変じた次第であります。


雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之二・第二―八丁〔明治二〇年〕(DK010017k-0002)
第1巻 p.269-271 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述)  巻之二・第二―八丁〔明治二〇年〕
○上略 十月の二十九日に尾高長七郎が京都から帰つて来て、大和五条の暴挙を見た有様を説て、此事を止めろといつて諫めたのを、自分は大に反対したが、再三再四討論の末、猶退て静思熟慮して見れば、成程此事は暴激に失するといふ事を見出した、実に長七郎のいふ通り、志は尤だが、其志を天下に表白することも出来ず、又万分の一を尽すことも出来ずに、単に流賊一揆と見做されて、幕吏に擒はれて、鼎鑊の刑を受けるといふも好ましくない、シテ見れば此の計画は止めるより外に仕方がない、愈よ止めるとした以上は、一身の処し方は如何したらよからう、元々此身を国家の犠牲に供する積りで一旦家を出た以上は、安閑として居ることは心にすまぬ訳である、又故郷に居ては将来志を伸ばす端緒も得られない、又一つには右の挙動は其時分の探偵吏即ち八州取締が窺ひ知つて、既に手を廻はして居るといふことを少々聞知て居つた、殊に事を発しやうといふ際には、銘々慎みが深いから余り人の耳にも触れぬが、既に其事を止めると、知らず知らず話が漏れて、忽ち露顕するといふことは、随分古今の歴史上にも例の多いことだから、我々が安閑として此地に居るのは、極て危いことである、此上は暫く身を隠して、旅行でもするより外に仕方がない、それにしても旅行の目的は何処がよからうか、様々相談もしたが、結局京都は輦轂の下で、諸藩も大に目をつけて、少し志のあるものは、皆京都に輻輳する時節であるから、京都へ行くのが上策であらうといふので、同姓の喜作と共に京都に出立することに決定しました、是はたしか十一月の二日三日の頃と記憶して居ます、其時、尾高惇忠は自分より十才程年長で、且ツ父は既になくなつて、其身が一家の戸主であるから、家政万端の責任があるに因て、自分等と共に家出する訳にはゆかぬから、種々将来の事までも相談して、跡の始末を託しました、又長七郎は元来撃剣家で、此頃京都から帰宅した計りだから、直ぐに京都へ引返すのも面白くなからうといふので、是は玆に留まつて撃剣の指南をしながら、其中に時機を見て、ゆるゆる京都へ来るがよからうと話し合ひをして、自分と喜作とは十一月の八日に故郷を立つて、十三日まで江戸に逗留して、夫れぞれの準備をしたが、愈々十四日に江戸を発足して、其日は東海道程ケ谷宿に一泊したやうに覚えて居ます。
そこで此の京都行の手続きは、如何したかといふに、其頃、一橋家の用人に平岡円四郎といふ人があつて、幕吏の中では随分気象のある人で、書生談などが至て好きであつたから、自分と喜作とは、其前から
 - 第1巻 p.270 -ページ画像 
度々訪問して、余程懇意になつて居ました、或時、平岡のいふには、足下等は農民の家に生れたといふことであるが、段々説を聞て談じ合つてみると、至て面白い心掛で、実に国家の為めに力を尽すといふ精神が見えるが、残念なことには身分が農民では仕方がない、幸に一橋家には仕官の途もあらうと思ふし、又拙者も心配してやらうから、直に仕官しては如何だといふ勧めがあつたことがある、其時に自分等の考へは、前に申した、一ツの目論見があつたから、それには一橋の家来と名を借りて居つたならば、刀剣を帯して歩行くにも、又は槍を持つにも着込みを用意するにも、多人数を集めるにも、都て人の怪みを招くことが少ない、農民風情では帯刀も憚からねばならぬ制度の下に居る時だから、是は好機会だと思つて、右の平岡に別して懇親して居た、其等の縁故からして、京都へゆく時にも、平岡の家来といふことに仕やうと思つたが、此の時に平岡は既に一橋公の御供で、九月に京都へいつて、留守であつたから、其留守宅を尋ねて、細君に其事情を述べて、京都へ行く為めに当家の御家来の積りにして先触を出すから此事を許可して下さいといつた処が、細君のいふには、兼て円四郎の申付には、乃公が留守に両人が来て、家来にして貰ひたいといつたら許しても宜いといふことであつたから、其義ならば差支ない、承知したといはれたから、両人は平岡円四郎の家来といふ名目で歩行きました、何分素浪人では道中で嫌疑される虞れがあつたが、苟も一橋の家来といへば、容易に捕縛される掛念がないといふので、其予防をしたのであります、
偖てその道中も何事なしに京都へ到着したのは、十一月の廿五日と覚えて居る、勿論道中は格別いそがなかつたが、併し別に遊山見物の為めに往く訳でないから、只通常の道を歩行ていつた、京都へ着したならば、天下の英雄豪傑といはれる人が大勢集つて居て、頻りに天下の大勢に注目して居るから、何ぞ好い機会が見出さるゝであらうといふ思惑であつたけれども、着すると直に彼の平岡円四郎を尋ね、又其他一橋の家来で二三の知人を尋ねた、固より京都へいつたのは一橋家へ仕官する望みではなく、唯々京都の形勢を察しやうといふ目的であるから、頻りに天下の有志家に交りを求めて居たが、玆に一ツの御話があります、
先程申した通り、既に暴発をしやうといふ考へからして、止むことを得ず、藍の商ひに取扱つた金の内で、或は刀を買つたり着込みを作つたり、其他、種々の事に使用したから、此事を後に父に打明けて、ドウカ許容して下さいといつた、其金高は凡そ百五六十両ばかりであつた、併し一身の遊興に金銀を費すといふことは、是まで一切なかつたから、父も此事を許諾して、其れは止むことを得ないから、家の経費と見做すといはれました、それで又京都へ立たうといふ時に、再び家へ帰るか帰らぬか知れぬから、若し困ることがあつてはならぬ、金がいるなら幾らでも持てゆけ、又向ふへいつた後も、此身代は其方の身代だから不道理の事に使はぬ以上は、決して惜みはせぬから、入用があつたら、必らずさういつてよこせ、送つて遣る、と父が惜気もなく親切にいつて呉れられた、併し自分は金はいらぬけれども、道中少し
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もなしでは困ります、金の入用な程に此身体が保つか、若しくは此家の金を当てにせずと活計が立つ様になるか、何れにしても自分の身体は短い中に始末が附かぬければなりませぬから、只当坐の入費に百両丈けの金を下さいといつたら、宜しい、持てゆけといふことで、百両貰つたことを覚えて居る、処がモウ明日にも死なうといふ様な考へだから、其以前とは丸で反対で、江戸に遊んで居る間には、或は芳原へいつた事もあり、其他、無駄な事にも使つて、忽ち二十四五両の金がなくなつて仕舞つた、それから其残金を持つて、京都へ来てからは、頼復次郎を尋ねるとか、又は宮原の塾を尋ねるとか、或は何処に何藩の周旋方が居るから尋ねるとか、何処に名高い慷慨家が居るから訪問しやうとかいつて、互に相往来して居たから、自から入費も掛り勝で京都へ来て一月余りは、そんな事で至極面白く遊んで居た、併し眼目とする幕政を覆さうといふ一条に付ては、其端緒にだも出会することは出来ない、只彼方此方を歩行いて見ても、只通常の評判を聞くのみで、或は叡慮は飽までも攘夷を御主張なさるが、幕府が擁蔽し奉るから、御趣意が明白に分らぬとか、又は薩摩と長州とは到底親睦することは出来ぬとか、或は界町御門の固めを長州が止られて、今では会津が守護職となつて勢力を得て居るから、有志家の頭はあがらぬ、抔といふ評判ばかりで、是れぞといふ機会を、見付ることが出来ずに居ました、
其れゆゑ、其歳の冬押詰つてから、只斯うやつて遊んで居ても詰らぬから、今の内に何処かへ旅行でもしやうかといふことを、喜作と申合せて、先づ伊勢参宮がよからうといつて、同道で出立した、其時分には尊王家が伊勢の神廟を拝するのは、国民の義務といふ程であつたから、其れで伊勢神廟を拝して、序でに奈良大阪あたりの名所古跡も見て来る筈で、十二月の中旬に京都を出掛けた、寒い時分でもあり、今日の様に汽車や人力車のある道中でもなかつたから、甚だ不便利であつたが、併し向ふ見ずの強い気象を持つて居る時分であつたから、随分面白く伊勢参宮をして、再び京都へ帰つて来て、正月も無事で済むだ、京都に居るうちは、頻りに平岡円四郎を尋問して、一橋公の朝廷を奉戴せらるゝ有様から、諸藩に対する交際の振合、又攘夷鎖港の問題は幕府が朝旨を奉じて為し遂る決意であるか、抔といふことを聞合せることに汲々として居た中に、不測一つの珍事が生じて来ました、


雨夜譚会談話筆記 上・第二〇九―二一〇頁〔大正一五年―昭和二年一一月〕(DK010017k-0003)
第1巻 p.271-272 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  上・第二〇九―二一〇頁〔大正一五年―昭和二年一一月〕
○上略 此に暴挙断念と云ふことになつたのです。然らば此先どうしたら宜からう、と云ふのは此姿で愚図々々して居ると必ず何かの為に検挙を受けて捕縛されると云ふことに陥るに相違ない。それで死ぬのも気が利かないから、どうせ死ぬならば身を転じて何か好い機会があつたらそれに投じよう、それには家を去つたが一番宜いと云ふ考になつたのが二十四の冬であつたのです。今考へて見ると此時家を去ることを親が許して呉れたのは、私は今も尚ほ我子を能く知つて呉れたと真に敬服するのです。世間では親孝行と云ふと子がするものと思ふけれども、私はさうでないと思ふ。あれは親孝行は親が子にさせるので、子
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がするのじやない。親が子に孝行をされたいから、孝行をする子にして出してやるのだと申されたのです。斯う言つて私を出されたのを今も尚ほ名言と深く思うて居ります。それで家を去つたのが私が百姓から浪人に成変はる一転化である。
   ○右ハ栄一ガ下村宏氏ノ問ニ答ヘタル談話ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第四四四号・第一―四頁〔大正一四年九月〕 諸々の回顧(四)(青淵先生)(DK010017k-0004)
第1巻 p.272-273 ページ画像

竜門雑誌  第四四四号・第一―四頁〔大正一四年九月〕
 諸々の回顧 (四)(青淵先生)
  命の親平岡円四郎氏
       一
 昔のことを話すと若い人達から「また繰り言か」と云はれる虞れがあるけれど、若い人達も軈ては老人となり同様のことを繰返すやうになるのであるから、年寄の言ふことだとて徒らに軽侮してはならぬ。老人は種々の変化に遭遇して経験を経て居る。其時代が如何に平和であつても長い間には色々のことに出合ふものである。況んやそれが騒騒しい時代であつたなら種々の変化に会ひ多くの経験をするものである。私の場合には青年の時に封建の制度が王政復古となり、三百年来の鎖国が一転して開国となつて欧米諸国の仲間入りをするやうになりそれから六十年も経過した。私は今八十六才であるから、相当に長命でそれだけ色々のことがあつたのである、然し私の一生と云ふても八十年か九十年で、天地の悠久から見れば実に短いと云はねばならぬ、が又短いとは云へ人が其間世の中の変化に遭遇すれば、その影響を受けずには居られず、また自分の体にも変化は免れなかつたのである。
 二十四才の時家郷を離れて以来、日本の事態は最も急速に移つて行つたので、その間に私の接した人は決して少数ではない。当初には、援助を受けたり、叱られたり、また訓戒せられた先輩が多かつた。その中にも一ツ橋家の平岡円四郎と云ふ人は、謂はゞ私の命の恩人であり、且つ無名の一青年であつた私をよく引立てゝくれた、私にとつては忘るゝ能はざる人であるから、今日はその人の話をしやう。
       二
 平岡円四郎氏は岡本近江守、号を華亭と云つた人の息として、旗本の家に生れ平岡家に養子となつた人で、易や老子を読んだ、当時としては変つた学問を好んだ人である。私が江戸で平岡氏に近づきになつたのは、先輩河村恵十郎と云う人の紹介で早くから刺を通じて居た。然し一方は立派な武士であるのに、私共は一介の青年であつたから左程親しい交際は出来ない訳であるが、先方は愛すべき青年だと云ふ態度で接して呉れて居た。屡々云ふ通り私共は攘夷論者であつたので、その方面から外交問題などを大いに論じ、氏から宥められたことも度々あつた。そして又氏は私達の素性を聞いたりなどしたが、身分の如何に拘らず新しい為すあるの人物を求めて使はうとして居たらしかつた。平岡氏と談ずるに当つて私共は「慶喜公を佐ける貴方の意見はどうだ」とか「幕政は如何すればよいか」等に付て時々論じ合つたのであつたが、文久三年九月頃一ツ橋家は京都へ御守衛総督として詰めることになつたので、丁度江戸に居た私共は、根岸の御行の松の傍にあ
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つた平岡氏の邸へ暇乞ひに行つたものである。すると平岡氏は種々話の末「江戸でまごまごして居ては駄目だぞ、早く京都へ来たらよからう」と云はれたので、私共は「貴方の御家来にしてくれますか」と云ひ、平岡氏の家来として考へてもよいと云う程度の許しを受けた。その時はまた攘夷論に就て議論し、烈公のお思召を実行したらどうか、と主張したりしたが例の暴挙のことは聞かせるべきでないとして語らなかつた。で平岡氏は九月初めであつたが、慶喜公のお伴をして京都へ上つて行つた。
 私共はその後多少の計画を進めて居た処が、尾高長七郎が京都の事情を見て、夜を日に次いで帰り、暴挙の行ふべからざることを力説した。従つて尾高惇忠先生も之を聞き、野心や慾心からと誤解されて死んではならぬ、同志の考は安藤対島守とか、井伊掃部頭とかを切ると云ふやうなことでなく、純然たる国家の改革であつて、少しも自己の利益の為めではないのであるから、自利や感情の為めと云はれては残念であるので中止する外はないと、長七郎の説に服従した。そして着込六十枚ばかりと刀剣其他の道具類は兎に角処分した。が私共はどうしても家に居ることが出来ず、予て親の許しは受けて居たから、伊勢参宮と京都見物を名として、渋沢喜作と二人で上洛することにして郷里を出発し、十一月末に京都に着いたのであつた。此旅行は平岡円四郎氏の家来と称していつたのである。
       三
 そうして直ちに平岡氏を訪ね、珠数屋町の或る寺院で御目にかゝつた。丁度当時一ツ橋家は本願寺に仮宿して居られたが、後三条通りの若州屋敷へ移つた。私と喜作とが京都へ行つたのは一ツ橋家へ仕官する望みではなく、唯京都の形勢を視察しようと云ふのであるから、頻りに天下の有志家に交りを求めて居た。即ち頼支峰の門人であつた松本暢とか、石橋とかまた各地から京都に来て居た鈴木(会津)岩佐(桑名)沖(遠州)花房(備前)などゝいふ人達と往来して、大いに時事を談じて居た。また三日目五日目くらいには平岡氏を訪ねて居る内、一ツ橋の黒川嘉兵衛、猪飼勝三郎、榎本亨造、松浦作十郎などのお役人とも近づきになり「俺の家へも来い」などゝ云はれるやうになつた。平岡氏は折もあつたら、私共を何時までもぶらぶらさせて置かず、使はうと考へて居たらしい。処が翌年春二月になつて平岡氏の親切から危うかつた生命を完うするやうなことが出来た。○下略


渋沢栄一伝稿本 第四章・第八三―八六頁〔大正八―一二年〕(DK010017k-0005)
第1巻 p.273-275 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第四章・第八三―八六頁〔大正八―一二年〕
先生が幕府の嫌疑を避けて上国に走らんとするや、表には伊勢参宮を為し京都をも遊覧すべしとのみ告げて、其心衷を語らざれども、晩香翁はかの九月十三日の談話によりて、ほゞ先生の為さんとする所を解したれば、辞別の際の如き、相共に断腸の思ひありしなるべし。其時先生は、かねて軍用金として消費せる百五十両の始末を告げて罪を請へるに、翁は何気なく「それも已むを得ざる事なり、家の経費と見做すべければ、心配するに及ばず」とて、意に介せざるものゝ如く、却て別に百両を出し「道中の雑用にせよ」とて之を与へたり、嘗ては僅
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に一両余の本箱を購ひしを烈火の如く憤れる翁が、今はかゝる多額の消費を咎めずして、なほ旅費を給するなど、殆ど別人の観あり、以て翁の倹約が、奢侈を制し分を守るの誠意に出で、義理の存する所には数百金を抛つを惜まざりしを見るべし。先生も此意外の恵与にはいたく感激せりといふ。かく父君との間には諒解を得たれども、母君を始め夫人には其実を告げざりしに、母君は別に之を怪まず、普通遊覧旅行の門立を送るが如くなりければ、心安く別を告げたれども、さすがに夫人のみは事の尋常ならざるを察し、先生を一室に招じて声をひそめ「此たび伊勢参宮なさるゝ由の仰せなれども、そは人目を避けんが為にて、実は深き思召あるものゝ如く、重ねて御姿を拝せん折のありやなしやとさへ思ひ煩はるゝを、何事も打明けて語り給はぬは、余りにつれなき御心ならずや」と、涙ながらに訴へたり。先生も是にはいたく心を動かし、今は秘すべきにあらずと思ひければ、一通りの事情を語り聞かせたる後、「かゝる上は再会の期なからんも知るべからざれども今は死生共に運命に任すの外なし、両親への孝養は我に代りて尽されよ」など、心をこめて慰撫せしに、夫人は既に覚悟やなしたりけん「仰の趣確に承りぬ、かねて思ひ定めしこともあれば、十分に注意して御留守を守るべし、家の事などは御心にかけ給はず、御国の為に力を致されんこそ願はしけれ」と、固き決心を示して先生を励ましければ、先生も密に其心中を察し、暗涙を催しながら、今は心にかゝるふしもあらずと、いたく夫人のけなげなる決心を喜び、「幸にして生命を完くせば、喜び御身に見えん」とて袂を分ちしが、行末の料り難き旅路なれば、送るも送らるゝも共に涙にくれたりけん。
かくて先生は文久三年十一月八日、先づ隣村藍香の許に抵り、此処にて武士の姿に改め、喜作と共に上京の途に上る。此行もとより尋常の旅にあらず、途中の危難も測り難ければ、かねて相約し置きたる平岡円四郎の家来の名義を藉るは此時なりとて、先づ江戸に赴けり。此時円四郎は既に慶喜公に随ひて京都にありしかば、先生が其門を叩ける時は不在なりしが、夫人出でゝ接見して曰く「主人発途の際、他日渋沢等来りて請ふことあらば、余の家来といふ名義を借すことを許せと言ひ遺したり」とて、即座に先生の請を承諾し、円四郎の家臣として道中の宿駅、関所などへの先触をも発することを許せしが、当時一橋家は幕府の宗室として勢威強く、其家中の輩は、軽輩微賤の者なりとも世の敬畏する所なれば、先生等今は前途の危懼もなく、十四日江戸を発して東海道を西上せり。
十一月二十五日先生等無事に京都に著し、直に円四郎を訪ひて其厚意を謝したるが、折しも慶喜公は本願寺を旅館とせしかば、其附近なる珠数屋町に仮寓を定め、頻に有志の輩と往来して形勢を探れり。此際交際せるは、一橋家中の士の外に、壬生藩士松本暢・処士頼支峰・及び暢の友人なる医師鈴木瑞真・同岩佐玄策等にして、程経て又越前藩士松平正直・備前藩士花房義質とも交れり、花房・松平の二人は孰れも其藩の周旋方なりき。当時の京都は去る八月十八日の政変以来小康を得て、比較的無事なりしかば、同年の暮には二人相携へて伊勢の両宮を参拝し、奈良・大阪等を歴遊して、十二月晦日京都に帰る。蓋し
 - 第1巻 p.275 -ページ画像 
伊勢参宮は其頃尊攘の志士間に流行せしことなれば、先生も亦之に傚へるなるべし。


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第五―六丁〔明治三三年〕(DK010017k-0006)
第1巻 p.275 ページ画像

はゝその落葉(穂積歌子著)巻の一・第五―六丁〔明治三三年〕
○上略 其年の冬十一月八日大人と成一郎ぬしとは。いよいよ何時を限りともなきのみかは。空しき名のみ郷里に聞ゆる時もありぬべしてふ御覚悟もて。家を出させ給ふ事とはなりぬ。このうき別れに母君はめゝしう打なげきなどもし給はず。御留守はつとめてよう守り参らすべければ御心安かれ。といといさぎよう仰せられて。かひがひしう旅の調度ども取りそろへ給ひける御心の中よそもいかなりけん。大人も成一郎ぬしも。此程の事につきてはまことの母君たちにすらつゝみかくさせ給ふ事も。尾高の我祖母君には打あけ聞え給ひ。此度の御旅立もよの人々には伊勢に詣づるよしに云ひなし給ひければ。手計村の家にて武士の姿にとりよそひ給ひけり。それも人めを憚りてければ。十一月八日の朝しのゝめの頃尾高の伯父君ひとり起出で給ひ。御手づから饂飩をあたゝめてまゐらせ給ひ。御二方を出立せ給ひけりとぞ。


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の二・第三二―三三丁〔明治三三年〕(DK010017k-0007)
第1巻 p.275-276 ページ画像

はゝその落葉(穂積歌子著)巻の二・第三二―三三丁〔明治三三年〕
○上略 文久三年の十一月始めつかた。大人は成一郎ぬしと共に。世には伊勢に詣づるよし云ひなし給ひて血洗島なる家を出させ給ひけり。御門出の前の日ばかりの程とかや。大人はぬりごめのうちにて旅の調度ともこれかれ用意し給ひければ。母君も御傍にてかにかくとまかなひ給ひつゝ。これもかれもとて衣あまた行李のうちに納め給ふを。しばしが程のたびねなればさばかりあまたの衣は要せじ。そが中三つが一つは残しおかばや。帰り来て後にこそ。と宣ふ大人が御面せを母君はつくづく打まもり給ひ。はらはらと落る涙をかきはらひつゝやをらしづかに宣ひけるは。わらはが君にかしづき参らすこと今は五つ年になり侍りぬ。されば君が此年頃世のさまを憂ひ給ひ。時しあらば身を犠牲にして。御国の為に尽さばやと思ひはかり給ふ御志の程を。いかでか知らで候べき。さるからに今日の如きうき別れのあるべき事はかねてより覚悟なし侍りぬ。去ぬる後の月見の夜よもすがら父君と打かたらひ給ひし折は。いまだ産屋にありてふしどをはなれざりしかば。談らひ給ふことのよしは承らん様もなかりしかど其事がらは押しはかりて知り侍りつれば。ひとり泣きつゝ長き夜をまどろみもせであかしにき。また去にし月の末つかたいよいよ事をあげんとはかり給ひつる頃は。もし事の破れとならば一家親族残りなく罪にかゝりて重きとがめにあふなるべし。よしそれも国の為に誠心尽すますらをが妻子といはれんには何かいとふべき。いさぎよくこそ命を捨てめとさへ思ひ定め候ひき。されどことにいでゝとかく聞え参らせぬは。いたづらに御心を煩はし奉らじと思へばなりけり。わらは数ならねども君が妻にて。御志を合せ給ふ惇忠長七郎らが妹にはべり。まことをあかし給ふともいかでわりなくとゞめ申すべき。さるを君には御心づよく明日を別れの今日までも。知らず顔にもてなし給ひ。御心にもなきなぐさめごと承はるこそうらめしけれ。とて打泣せ給ひければ。大人御かたちをあらた
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め給ひ。御身が真心を今までも知らざりしと云ふにはあらねど。去る日父君に身のいとまを申し乞ひまつりける折。この事は汝が母にな告げそ後に吾より事よく語り聞ゆべしと仰せられき。さるを御身に告げんにはいかに日頃は雄々しくとも。別れを惜しむなげきのあまりつひに母君にも知られ参らせわりなくとゞめ給ふ事もやおこらん。など思ひ過しつるよりの事にて。もとより心へだてゝのわざにはあらねば。つらしとな思ひうとみ給ひそ。まことや御身が云はるゝ如くこたび家をはなれんにはふたゝびかへらぬ事もやあらん。もしさることあらんには我にかはりて父母の君にまめやかに仕へまつり。歌をはぐゝみたてゝよ。とつゆもかくさずかたらせ給ひねもごろに家の事どもゆだねさせ給ひけりとぞ。