デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
■綱文

第1巻 p.335-338(DK010024k) ページ画像

慶応元年乙丑一月十五日(1865年)

小十人並ニ進ミ、御用談所調方出役ヲ兼ヌ。栄一身ヲ持スルコト謹厳ニシテ、上司ノ深ク信任スル
 - 第1巻 p.336 -ページ画像 
所トナル。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之二・第三九―四五丁〔明治二〇年〕(DK010024k-0001)
第1巻 p.336-337 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之二・第三九―四五丁〔明治二〇年〕
上略 偖て此の暴挙鎮定の後は、薩州藩も公武合体の説に力を尽すといふ有様になつて来たから、自然と守衛総督の一橋も威勢が増すやうな姿になつて、其周旋方、即ち御用談所詰の役人などは、各藩の周旋方から尊敬せられたから、交際も段々繁多になつて来た、尤も初の中は各藩の有志者が出て居て、専ら交際場裏に周旋の労を取つたことであつたが、此の頃では、諸藩共追々留守居が周旋方を兼ねるやうになつて、是等の人々は、世にいふ交際上手といふので、或は何処の御門の固めを止めて貰ひたいとか、又は藩主が上京したから、天機伺ひの時の心添へを頼むとかいつて、一橋の家来に懇親を求めやうといふので、イヤ誰が着京したに付、一夕祇園町へ案内をするとか、誰が帰国するから留別の讌を張るため、栂尾へ来て呉れとか、或は誰が一寸御目に掛りたいから、一夕何処の宴会に出て下さいとかいふ有様で、此の交際が最も盛んに行はれて来ました、
○中略
かくて其歳も暮れて、明くれば慶応元年の正月となつたが、前にもいふ通り、昨年から京都の形勢は稍や小康を偸むといふ有様で、一橋と諸藩との交際は益々繁雑になつて来たが、其頃では黒川嘉兵衛が用人の筆頭で、御用談所の事務を全権で支配して居り、又川村正平は自分等より一級上の身分で、同じく御用談所出役であつて、常に此の交際上の事に奔走された、自分等も矢張黒川などの下役だから、宴会毎に必らず随行して、大抵毎晩のやうに、今夜は筑前藩の御馳走、明夕は加州藩の招待、明後夕は彦根の岡本半助が木屋町の何亭へ招くとか、其間稀には真実国家を憂る有志輩も出て来て、外国の形勢は如何、政府の職分は斯くありたいものだ抔と、談論する相手がない訳ではないが、多くは酒杯の間に往来して、花を評し柳を品するのを、此の上もない快事とするもの計りだから、自分は微しこれを厭ふたが、併し此等は藩と藩との交際宴会で、固より自分等が主となる訳ではなく、只々黒川の随従役で、酒の坐敷の御取持をするといふまでの事ではあるが、毎夜の様に祇園町とか木屋町とかいふ場所で、酒杯の席に陪するのが、職分の様になつて来ては、自然と浮薄の風に流れ易い虞れもあるから其頃両人は、此の際別して倹素を守つて、極めて謹直にしやうと、堅く約束を仕て置たから、如何に緑酒紅灯の歌吹海に游泳したからといつて、自身の催しから遊興などしたことは一度もなく、酒は素より飲まず、婦人にも一切接せぬといふ、頗る堅固な覚悟であつた、黒川はモウ五十近い年格好であつたが、自分は二十五六の血気盛んな時分で諸藩の人の能く遊ぶ中に交つて居て少しも遊惰の様子もなく、芸者などとハ一度も訝しい様子がない処から、如何してさう出来るかと、人にいはれる様であつた、
自分が二十六の年の正月であつたと覚えて居るが、何んでも極寒い時分のことであつた、例の通り夜十二時過ぎに、鴨東の或家へ黒川に随
 - 第1巻 p.337 -ページ画像 
行して来て、酒宴も散んじてモウ寝やうといふことになると、自分がいつも寝る部屋でなく、其晩に限つて別室へ案内して行くから、伴はれて行つてみると、臥具が備つて其所に婦人が一人居るから、ハテ不思議なことだと思つて、これは如何いふ訳かと、仲居に尋ねて見ると大夫さんが(黒川を指していふことで一橋の大夫といふ尊称である)あなたに御気の毒だから、女を一人とりもつとの事でありますといふから、自分は怫然として怒気を発し黙つて着物を着かへて、女共が大騒ぎして留めるのを振りきつて今夜は急に用があつて帰らんければならぬから、若し大夫が尋ねたら急用が出来て帰つたと、さういつて呉れといひ捨てゝ、スタスタ三条の小橋まで帰つて来ると、跡から黒川がオイオイと頻りに呼ぶから、待て居ると、マア同行しやうといつて、二人連れ立て、ブラブラ歩行て来ながら、黒川のいふには、今頃一人で足下の小屋へ帰つても困らうから、乃公の旅宿に泊らぬかといふから、其れはあり難いといつて泊ることになると、黒川は真面目になつて、今夜は誠に失礼した、定めて立腹であらうといふから、否、決して立腹は致しませぬが、両三年の間は心に誓つた事がありますから、其故、大夫が折角の御厚意を空しくして、誠に相すみませぬと挨拶をした、処が黒川は、イヤ甚だ耻入つた次第であつた、ドウカ人はさうありたいもの、実にそれでこそ大事が頼めるといつて大に感賞しられた事があつた、何時までも感心されてハ居ないけれども
是れは素より瑣細な事であるけれども、おのづから黒川始め重役の信用を得て、成程これは堅固で、用立つ人だと思はれたものと見える、ソレカラ丑年の二月頃に、再び役が進んで、即ち小十人といふ身分になり、食禄も加増して、十七石五人扶持で、月俸が十三両弐分となり御目見以上の身になつた、此までは御用談所下役であつたが、今度は下役がとれて、出役といふ位置に進んだのであります、昨年始めて奉公してから、一年ばかりの間に、二級を進められたが、其勤労はなかなかのものであつた、御用談所の方も引続て出役を勤めて居たが、何一つ効能もなく、諸藩から京都へ出て来る奴も、出て来る奴も、皆俗にいふ世の中を泳ぐ連中のみで、通常の交際上手の先生ばかりであるから、斯んな連中と共に酒を飲んで、表面《うはべ》すべりの慷慨談をしたとて何の為めにもならぬから、何か微しく世の中に効能のある様な仕事をせんければ、奉公した甲斐はないが、何とかよい工夫はあるまいかと色々考て居たが一ツの趣向が浮んで来た。


渋沢栄一伝稿本 第四章・第一一五頁〔大正八―一二年〕(DK010024k-0002)
第1巻 p.337 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第四章・第一一五頁〔大正八―一二年〕
慶応元年先生年二十六、此年正月十五日格式進められて小十人並となり、御用談所調方出役に進み、食禄十七石・五人扶持・月手当十三両二分を賜ふ。小十人並は御目見以上と唱へ、君公に進謁し得る身分なれば、先生の地位は従来の如き微賤の者にあらず、食禄こそ少けれ、今は推しも推されもせぬ一橋家の侍として、世に立つことを得たるなり。○下略


渋沢栄一 書翰 (千代子夫人宛)(慶応元年)一月二一日(DK010024k-0003)
第1巻 p.337-338 ページ画像

渋沢栄一 書翰 (千代子夫人宛)(慶応元年)一月二一日
 - 第1巻 p.338 -ページ画像 
                    (男爵穂積重遠氏所蔵)
其後は打たへ書通も不致候、いよいよあいかわることなくおんくらし可被成、めてたくそんじ候、此方事も無事御奉公致居候、御あんしんなされべく候、さてまた此度結構ニ被 仰付ありかたき事ニ候、右御ひろういたし候、おんよろこび可被成候、此方事其後まことニ大丈夫ニ而、一日平臥いたし候事も無之候、此段御しんはへ被下間敷候、永々之留守中さぞ御くろふおんさつし申候、其中には此方へ相のぼせ申候事にも相成可申、それお御たのしみくらしおり候様たのみあけ申候、ちかころハきものも多分入用ニ而世話しき事ニ候、足袋下帯なとあかつき候にはまことにこまり入申候、右ニ付衣類壱ツ太織縞壱疋織紺三反申越候《是は》足袋ニいたし候品ニ候間、相成ハ手計御母様ニたのみ、足袋ニ仕立、十足斗御送被下度候、何か都合ニなり候品有之ハ御送り被下度候、兎角心ならぬ事のみ可有之候へとも、気をながく、あいまち可被成候、その中にハよきことも可有之候間、時節ニしたかへ候事かんしんとそんし申候、いろいろ申入度事とも山々有之候へとも、尚後便可申越、まつはあらあらめてたくかしく、
    正月廿一日認
                              篤太夫
     お千代とのえ
  ○本紙尚々書破損シテ読ミ難シ。