公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第1巻 p.436-450(DK010033k) ページ画像
慶応二年丙寅十一月二十九日(1866年)
是ヨリ先、将軍徳川慶喜弟徳川昭武ヲ明年仏国巴里ニ開カルベキ万国博覧会ニ派遣シ、事畢ルノ後昭武ヲ同国ニ留学セシメントス。是日栄一特ニ内命ヲ承ケテ之ニ随行スルニ決ス。尋デ十二月七日俗事ヲ取扱フ可シトノ命ヲ受ケ、同月二十一日班ヲ勘定格ニ進メラル。此時栄一未ダ男子ナカリシヲ以テ義弟平九郎ヲ養嗣子ト定ム。
雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第一八―二一丁 〔明治二〇年〕(DK010033k-0001)
第1巻 p.436-438 ページ画像
雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第一八―二一丁 〔明治二〇年〕
○上略 然る処其月 ○慶応二年十一月 の廿九日に、原市之進から、急に談ずることがあるから来て呉れい、といふ使者が来た、直にいつて見ると、別の事ではないが、今度千八百六十七年の仏国の博覧会に付て、各国の帝
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王も皆仏国へ会同される趣だによつて、日本からも大君の親戚を派遣するが好いと、仏国公使が建言したから、種々評議の末、水戸の民部公子を御遣しになることに決した、右に付ては外国奉行も附添つてゆくが、其博覧会の礼式がすむと、仏蘭西に留つて学問をさせやうといふ上の思召で、先づ五年か七年は、彼の国に留学の心得である、依て供人も余り多人数は連れられぬ筈である、処が是まで民部公子に附添ふて居た水戸の連中が、公子を一人で外国へ遣るといふことは承知せず、已むを得ず七人丈ケ召連レることに決した、然るに此の七人は素より洋学などを志す人ではなく、昔日の如く外国人を夷狄禽獣とのみ思つて居る変通のない頑固の人々であるから、斯様の人のみを附置くときは、将来の処が覚束ない、尤も民部公子の御伝役には、幕臣の山髙石見守といふ人が命ぜられることではあるが、水戸の七人と相伴つて民部公子に学問させるといふのは、余程困難と思れる、就て上の御内意には、篤太夫こそ此の任は適当で、未来の望みも多いであらうとの御沙汰であるから、拙者も上の御人撰を感服して、足下に充分御内意を伝へますと御受をして置た、速に御受せられよと、降て来た様な話し、自分が其時の嬉しさは、実に何とも譬ふるに物がなかつた。自分が心で思つたには、人といふものは不意に僥倖が来るものだと、速に御受を致しますから、是非御遣しを願ひます、ドノ様な艱苦も決して厭ひませぬと、原市之進に答へまして、さうして出立の時など聞合せますと、左様、マア当年の内であらう、凡そ一箇月内に支度をせねばならぬ、右に付て外国奉行の向山は江戸から直に出立する筈である、又御伝役の山髙は当地に来られたから、万事相談をするがよからう、又水戸より御附の人々は、菊地平八郎・井阪泉太郎・加地権三郎・三輪端蔵・大井六郎左衛門・皆川某・服部潤次郎の七人であるから、是等共引合をつけて、身支度をするが好からうといふから、自分は此の洋行の内命を大に喜んで、郷里の父へも其事を文通したが、喜作は此の時、かの大沢源次郎を江戸へ檻送の為め、附添の御用を負ひて旅行の留守中であつて、何時頃帰つて来るか分らない、併し最初から死生を共にしやうと約束した厚い友人のことだから、海外へ往く前に、是非一度逢いたいと思つて、今度命ぜられた御用の一部始終を認めて、斯様な訳だから、成丈ケ早く帰れるなら帰つて貰ひたい、万一帰りの遅いときには、或は行違つて逢はぬかも知れぬと、急状を出して置いて、夫れから専ら外国行の支度に取掛つた、しかし独身書生の手軽さといふものは、黒羽二重の小袖羽織と、緞子の義経袴一着と今日見るとドンナ貧乏ナ馭者でも穿《はか》ない様ナ靴を買つて、それから曾て大久保源蔵が横浜で買つて来た、ホテル給仕抔が着たと思ふ、燕尾服の古手一枚、尤も股引もチョッキも無いのを譲り受けた、今から思ふと実に可笑しい、其頃は何も様子は知れず、又指図を受ける人もないから、我が思ふ儘の旅装を整へ、夫から京都の借家の始末をして、衣類道具等の片附も大抵終つた処へ、喜作が江戸から帰つて来たから面会の上、丁寧に是までの手続きを話して、自分は幸に此の命を受けたから、誠に高運だが、其れに附ても貴契の身上が思ひ遣られる、トいつて再び浪人になる訳にもいかぬから寧《いつ》そ運を天に任せて、慶喜公に昵近し得
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らるゝ位地を求める様になさい、併しながら徳川の政府はモウ長い事はないから、亡国の臣となることは覚悟をして居なければならぬ、勿論これは海外に居つたからといつても同様である、御互に最初は徳川の幕府を滅する意念で、故郷をも離れた身体であるけれども今日此の位置になつた以上は、急に変換することも出来ぬから、亡国の臣たることを甘んずるより外はないが、それにしても只末路に不体裁な事がないやうにしたい、僕は海外に居り、貴契は御国に居て、其居所は隔絶することになつたが、此の末路に関しては共に能く注意して、耻かしからぬ挙動をして、如何にも有志の丈夫らしく、死ぬべき時には死耻を残さぬやうにしたいものだと、互に後事を談合して告別をした、其他、朋友故旧へも、それぞれ告別したことであるが、余り要用もないから略します。
昔夢会筆記 中巻・第三三―四一頁 〔大正四年四月〕(DK010033k-0002)
第1巻 p.438-441 ページ画像
昔夢会筆記 中巻・第三三―四一頁 〔大正四年四月〕
○上略
(江間)今日は先づこれで一段落としまして、そこで御前にちよつと申上げて置きますが.民部公子の外国へ御渡海について、前回小林がちよつと伺ひましたことは、深い続きのことではなかつたのですけれども、それらのことは渋沢が能く知つて居るから、あれに聴いたら宜からうといふ御沙汰で、其儘になつて居りました処が、男爵が帰られましてから、あの時の速記を御覧になりまして、どうも私は其時分にはまだ役も下の方であつたから、詳しいことは一向分らぬけれども、併し其渦中に居つたのだから、其時の考で、斯ういふことでは面白くないから、斯うしたら宜からうくらゐのことはあつたといふ話でありましたから、然らば今度昔夢会の開ける折に、其時御経過になつた所の御履歴を、席上で御話し下すつたならば、御前に於かせられても所謂昔夢で、段々御趣味のあることであらうかとも思ひますからと、実は男爵に願つて置きました、先づ記憶して居る所だけ、話の済んだ後で述べて見やうといふ御許諾を得て居るのです、其事を一つこれから願ふことに致しては如何なるものでございませうか。
(公)それは至極宜しからう。
(渋沢)唯今江間氏から申上げましたのは、あれは丁度慶応二年の冬のことでございました、卯年の正月に御国を出立をしまするといふ前の話ですから、慶応二年の年末に起つたことゝ覚えて居ります、私は其御議定になつた御模様などはちつとも知らないで、突然原市之進から呼ばれて、市之進の小屋へ参りましたら、内々お前に意見を聴くが今度民部公子が仏蘭西の博覧会に大使として御越しになる、其礼式が済むと、凡三年、若しくは五年になるかも知れぬが、仏蘭西の学問を学んで御帰りなさる積りである、其時は即ち留学生となつて学業に従事なさる、但仏蘭西の礼問が済んた後で、修好の為め各国を御廻りなさるといふ御都合であるのだ、其国々は判然極まつては居ないけれども、先づ英吉利・独逸・伊太利・和蘭・白耳義・瑞西等の国々であらうと思ふ、それについて水戸からして七人の御附添が極まつたが、これは皆御手許の用を足すのだ、それから御伝役としては山高石見守と
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いふ人が任命されて、此人が其七人の指揮なり、其他公子の御身に属する百事をば総轄する、但外交上のことは、外国奉行向山隼人正が行く、又組頭なり調役なり、其他の役人も相当の人々が行くであらう、其顔触れは残らず分つては居らぬ、お前に命ずるのは、つまり山高の手に属して俗事を取扱ふ即ち会計に書記にといふやうな位置である、此水戸から御附き申すことについては少し事情があるので、それだけのことを一応言うて置かなければならぬ、元来民部公子を海外に出したら宜からうといふ評議については、本国寺の水藩士には大変議論があつて、なかなかそれを纏めるに骨が折れた、外国旅行だから、そんなに沢山連れて行かぬといふ説が外国方ではあるけれども、水藩士の方では、決してさう御手放し申す訳にはいかぬと言うて、或は二十人も三十人も御付き申さうといふ評議であつたけれども、種々の論判から、やつと選つて七人といふことになつた、蓋し此人々は留学などゝいふことにはどうしても同化しない、其時分は同化といふ詞はなかつたやうだが……、それでとかくまだ攘夷といふ感じを持つて居るのでそれを引離して御連れ申す訳にいかない、已むを得ず附添として連れて行く訳であるから、山高も大分骨が折れるであらう、其間には丁度お前は最初は攘夷家であつて、今は攘夷ではいけないと考へついた人で、所謂中間に居るから、斯ういふ人を附けて遣つたら宜からうといふのが内々の思召なんだ、是非永く留学させたいのだから、篤太夫を附けて遣つたら宜くはないかといふことは、打明けて言ふと御沙汰があるのだから、愈受けるなら確定すると斯ういふ私に原市之進から御沙汰でありました、私は真に寝耳に水で、実に変つた話でありましたけれども、心密に嬉しかつたものですから、もう考もへちまもございませぬ、さういうことで私で間に合ふならば、即時に御受を致しまする、いつ立つのでございますか 来年の一月早々の積りであると思ふ、それから先は、愈極まれば大目付の永井主水正が掛りであるから、其指図を受けなければならぬ、尤も山高石見守が大体の指図はするやうになる、斯ういふことに承知しまして、私は愈旅行の仲間に組込まれました、勿論外国方の人々は、博覧会と各国礼問が済むと帰るので、残る所は其七人にお前・山高、其他通訳等について一二の外国方で居る人を残すやうになるかも知れぬが、それも残らず留学生たるや否やは、行つてからの都合だから分らぬが、とにかく七人は行くことに極まつたのだから、其余のことは又旅行先の模様に従つて変更することもあるであらう、礼問中の通訳の人などはどうなりますとか聴くと、京都に来て居るジユリーといふ仏蘭西人、これを公子の案内に遣はすことになる、学校の□《(不明)》師か何かして居つた人である……、それから更に日本の詞の能く出来る、もと長崎に居つたシーボルトといふ人、これはまだ若いけれども、英仏語を能くし、又日本の詞も能く出来るからこれを遣はす、其他に外国方から仏英の通訳官が行くのだから、それらについては一向差支ない、更に御医者で高松凌雲といふ人が行くやうになる、砲術方で木村宗蔵といふ人が、やはり御附の方で召されるやうになる、而して俗事はお前の受持と斯ういふことでございまして、それから私は御受をして置きまして、翌々日であつたか、日は確
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に覚えませぬが……、其命令を受けたのは京都であつたやうに覚えて居ります、あの時分には京都へ入らしつて御出ででございますが、それから何でも永井主水正に引合つて、それから外国奉行支配調役で杉浦愛蔵といふ人が来て居りました、これらの人に会つて、やがて山高石見守に面会致し、続いて水戸から行く御附の人々に引合ふといふやうなことで、何でも一月早々に出立するといふことに極まつたやうですが、其時分には仏国人に何等さういふことがあるといふことは、承らずにしまひました、唯其時分の評判に、頻にレオンロセスといふ人は所謂幕府方であつて、英吉利の其時の公使はパークスでございましたが、パークスはとかく幕府に対してかれこれと苦情を言ふけれどもロセスは幕府に同情を表する方の側であつて、英仏で自ら其意思を異にして居るとは、世評もさうであつたし、外国方の人、若しくは山高あたりの認め方もさうでありました、それで民部公子の御出立といふことは、勿論幕府の中で種々評議して極めたことではあるけれども、其中には仏蘭西政府とは大分消息があるのだ、レオンロセスといふ人は、三世ナポレオンには厚く信ぜられて、種々なる内命を蒙つて居る人である、それらの話合から今度公子が御出でになるのだから、御出になつたら、ナポレオンは殆ど我が養子の如く思うて、深く御世話申すであらうといふやうな話は、殆ど公然の秘密と言うても宜いくらゐに、私は承知して居たのであります、併し其ロセスが一緒に行くといふことは、其時分には何等聞込はございませぬ、唯それなりで旅立の支度をしたやうに記憶して居ります、何でも差向いて困つたのが、御衣服と御髪を始終上げなくてはならぬ、御附の人は一通り自分の髪は出来るけれども、其時分の髪は大きくて、なかなか月代を剃つたり髪を結うたりすることは、本職でなければいかぬといふのが一つと、それから今一つは、汚れた著物の洗濯をしなければならぬ、新しい著物の仕立もしなければならぬ、あちらへ行つた上は洋服を著なければならぬが、先づ重立つた時は日本の礼服を用ゐたい、それには仕立屋もなくてはならぬ、と言つて仕立屋と髪結と二人連れて行くといふことは困る、さういふことはお前が心配しなければならぬといふことで、すぐ困つてしまつた、そこで水戸の御附の人に相談すると、丁度それまで髪を結つて居つた綱吉といふ者がある、これは仕立も出来るし髪も結へるし、至極宜からうといふことで、其男を私の手に属して連れて行くことになりました、さて其七人の人々は、菊地平八郎・井阪泉太郎・梶権三郎・大井六郎左衛門・皆川源吾・三輪端蔵・服部潤次郎斯ういふ人々であつた、それから確には覚えませぬが、正月になつてからでした、長鯨丸で神戸から横浜へ来て、横浜に暫く御滞在で、其間にちよつと公子は小石川の御屋形へ御越しになつたかと思ひますが其辺のことは能く覚えませぬ、横浜で御出立前の御世話をした人は、会計に関する人では小栗上野介、外国奉行では川勝近江守、成島甲子太郎……、成島は其時は騎兵頭でありました……、其他にもございましたらうが、能く記憶して居りませぬ、右等の人々と種々引合ひまして、さうして支度が整うて出立といふ順序でございました、外国方で重なる人は、向山隼人正・田辺太一・杉浦愛蔵、これらが一番重立つ
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人で職分も相当の位置に居りました、それから会計方で日比野清作・生島孫太郎、徒目付といふ者は参りませぬで、御小人目付の中山某、通弁では保科信太郎・山内文次郎、此保科といふ人は陸軍の人でありましてとうとう死にました、山内といふ人は、現に宮内省に居ります山内勝明氏でございます、それから唯今大磯あたりに居ります山内六三郎、今日は堤雲と号します、それから先頃死にました名村泰蔵……、名村吾八と申しました、それに箕作麟祥・あれが箕作貞三と申しました、一行の人数は総勢二十八人でございました、多少忘れて居る者もございますが、概略其やうな顔触れで……、
(公)ロセスは一緒に行つたんではないね、
(渋沢)一緒には参りませぬ、ロセスが一緒に行くといふ話は、どうもございませぬでした、唯其時に横須賀造船所にウイルニーといふ仏人が技師長をして居りました、其人が横須賀のことについて常に協力して居ると言うた汽船会社の役員で、グレーといふ人がありまして、此グレーもやはり同行致しました、それは御一行についての用向ではなくて、つまり横須賀との関係で、原料か何かの注文を引受けて、それを取りに参るので、途中一緒に参りました、故に此横須賀のことについては、小栗其他川勝などゝいふ人々が、仏蘭西人との間に、拡張といふことについて色々話合うて居られた様子は、外国奉行の手からも承りましたやうに覚えて居ります、旁想像致しますと、少くとも今の公子の入らつしやるのは、仏蘭西に向つて情意を繋ぎ、懇親を厚うし、続いて仏蘭西の力をば成るべく日本に及ぼして、場合に依つては其政治関係から、商売人に資本を造船所に入れさせるといふやうなことを、為し得ベくんば進めるといふ意味まで含蓄して居たと言うても大事なからうと存じます、けれどもそれらはいはゞ内輪の意味に属することで、表面何もございませぬで参りました。○下略
○昔夢会筆記ハ、栄一ガ徳川慶喜公伝ヲ編纂スルニ当リ、其資料ニ供センガタメニ、慶喜公ヲ中心トシテ二十数回ニ亘り座談会ヲ開催シ、其速記ヲ纏メテ大正四年部数ヲ限定シテ印刷ニ附セルモノナリ。上中下三巻ヨリ成ル。
渋沢栄一伝稿本 第五章・第一五〇―第一五二頁〔大正八―一二年〕(DK010033k-0003)
第1巻 p.441-442 ページ画像
渋沢栄一伝稿本 第五章・第一五〇―第一五二頁〔大正八―一二年〕
仏蘭西皇帝ナポレオン三世は、其志東洋に存せしかば、夙に日本に流眄し、幕府の歓心を求むるに急なり、されば同国公使レオン・ロツシユは皇帝の旨を含みて幕府に好意を表し、幕府も親密に交りて、ロツシユの信用は他国公使の上に出で、外交問題についても、先づ仏国に謀りて其援助を請ふを常とす。英国公使パークスの推測によれば、仏帝は日本を一種の保護国の如くせんとの野心を有したるなりといへり、其真偽は定かならざれども、尠くとも東洋に於て事を行ふの基礎を置かんとしたるは、疑ふベからざるが如し。かゝる折しも同国政府は、西暦千八百六十七年 我が慶応三年 を以て、万国大博覧会を巴里に開催せんとし、日本の参加を促したり、これ実に慶応二年六月の事なり。ロツシユ其間にありて慫慂斡旋に力め、且此機会を利用して、日本大君の連枝を同地に派遣し、国交の親善を図るべしと勧告せしかば、慶喜公は其言を納れ、博覧会への出品を承諾すると共に、公の弟徳川昭武
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徳川斉昭の第十八男、此年十二月九日出でて清水家を相続す、時に年十五 を仏国に派遣し、兼ねて欧洲の締盟国を訪問して交誼を厚くし、然る後、仏国に留学せしむるの議を決したり。かくて其年の十一月二十八日昭武に仏国派遣の公命下りしが、尋で先生も亦随行の内命に接したり。 渋沢家文書御用留
十一月二十九日先生は原市之進 此時幕府に召されて目付の職たり の招きによりて其邸に赴けるに、市之進は詳に昭武海外派遣の事情を語り、且告げて曰く、「公子の洋行につきては、水戸藩士の間に非常の反対ありしが、とにかく異議も収まりて事決したれば、公子の御世話すべき為に、同藩士七名に随行を命じたり。然るに此人々は頑固の質にして、更に攘夷の志を捨てざる者なれば、将来公子の留学につきても種々の障り多かるベし。因りて公の御内意に、篤太夫は嘗て攘夷論者たりしこともあれば、中にありて調停せんに適任ならん、殊に有為の材なれば、彼が前途の為にも、海外に遊学せしむベしとの仰せなり。幸ひ庶務会計の任に当るべき者を要すれば、足下之を担当せよ」といふにぞ、先生大に喜びて、即座に命を拝したり。蓋し先生は既に望を幕府に絶ち、再び浪人生活に復せんかとさへ考へたる際なれば、此外遊こそ今の苦境を脱して、他日の発展を期待すべき最善の機会なりと感じたるなれ。此内命は実に天来の福音なりき、先生が将来社会の先覚として、一世を指導するに至れる基因は、全く此行に発したるものなればなり。
越えて十二月七日、先生は昭武に附添ひて俗事を取扱ふベしとの命を拝し 二十一日更に班を勘定格に進めらる。此時先生は女子一人のみにて男子なかりしかば「御用中重病又は不時の煩等にて勤仕し難き様の事あらば、弟平九郎 時に十九才 を養子として家督を相続せしめたき」旨を願ひしに、允許あり。乃ち平九郎を以て養嗣子と定む。当時之を見立養子と唱へ、万一の際、家名相続の用意となす、先生亦此習慣に従へるなり。先生の願書に、私弟渋沢平九郎と見ゆ、実は藍香及び夫人の弟にして義弟に当れり。○御用留。渋沢家文書
雨夜譚会談話筆記 下・第六〇九―六一九頁 〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010033k-0004)
第1巻 p.442-444 ページ画像
雨夜譚会談話筆記 下・第六〇九―六一九頁 〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
一、渋沢平九郎に就て
先生「○中略 不本意で煩悩して居る中に慶喜公の弟様の民部様が突然千八百六十七年仏蘭西に開かれる博覧会に、アンバザドルとして行かれる事になつた。此事に就いて原氏から私に相談があつた。原氏は御目附役を勤めて居つたが、其の実は帷幄の中に在つて、それ以上の事をやつて居つた。或る日原氏が是非私に会ひ度いと言つて来た。そして訪問すると、私に民部様のお伴をして仏蘭西に行く気はないかと言ひ且『実は此事は私一個の私案ではない。将軍の御心配になつて居られる事だから、軽卒に考へをきめないやうに、熟考の上で、イエス、ノーをはつきり返事して呉れ』と、勿体附けての話であつた。私は前にも云ふたやうに其頃慶喜公の宗家御継承に不満を抱いて居つたのであるが、彼れ是れ申す身分でないと諦めて居つた矢先きで、仏蘭西行きを命ぜられる事は、暗夜に光明を得た感じがあつた。原氏の話では『民部様の御伴として七人程行く事になつた。実を言ふと先方で民部様は稽古をなさる事になるかも知れぬ。
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それで思慮ある人をと云ふので、種々考へた上篤太夫がよからうと云ふ話が出た。それで撰り抜きの者として御申附け下さるものと思つて呉れ。又自分としても君の名指しをするに就て、表向の用を弁じて貰ふ外、民部様に学問をおさせ申すに役立てる考へであるから、其処を酌んで引受けて呉れ』との事であつた。私は之を聞いて大変喜んで早速『御引受しますが、其出発は何時ですか』と尋ねると、来年の春との事である。『私は今日からでも差支ありません。喜んで参ります』と答へると、原氏は『何うも君の話振りが変だが、後になつて厭だなどと言つては大変困る。冗談でないのだから、其積りで答へて呉れ。本当に行くのか』と言ふ。真に喜んで居る。本当に行く決心であると答へると、原氏がそれではキツト行くねと念を押した。そして『君は従来攘夷論者であつたから、自分は仏蘭西行きに就ては充分君を説得しなければならぬと覚悟をして居つたところ、如何にも待つてましたと云ふ風に承諾したから変に思はれる』と不審らしい顔付であつた。そこで私は『私は此頃全く目的が外れて、一命を捨てやうか、百姓しやうかとさへ迷つて居つた次第で、仏蘭西行の命を受けることは真に喜ばしい。のみならず最早日本は欧米を排斥する時代でない。寧ろ砲術医術等に付ては大に学ばねばならぬと近頃漸く悟つて来て居た所で、今度仏蘭西へ行つて、親しく種々のことを見聞することが出来るのは幸である』と云つた。京都を発つたのは其年の十二月で愈々日本を出発したのは翌年一月であつた。平九郎に就て前置が大変長くなつたが、私が仏蘭西に行くに就ては、其頃の法律の規定によつて相続者を定めなければならなかつた。所謂『嗣無ければ国除かる』で一家の相続者が無ければ其家が断絶する事になつて居つた。それでは気の毒だからと云ふので海外旅行者の為めに特に見立養子の方法が許されて居た。之れは変則である。けれども特に恩典があつたのである。私も仏蘭西に行くに就て別に良案がなかつたので、手紙で平九郎を見立養子にする事を言つてやった。此時は事が少し急であつた為め、京都で届出をしてから、所謂事後承諾を求める為め郷里に手紙を出して、其の返事を待たずして出掛けた。平九郎は私の留守中江戸に出て本銀町辺に家を持つて居つたとの事であるが、私は此の点に就ては審かに知らない。其後ち彰義隊に加はり、上野の戦争の後振武軍に加担して飯能に立籠つた。振武軍とは藍香翁の命名で、喜作が之を率ゐて兵を挙げたのである。藍香翁は平九郎にとつては長兄であるし、平九郎は殆んど父同様に事へ親しんで居つたし、喜作に対しても目上の親戚として尊敬の念を持つてゐたから、振武軍に加担したものと思はれる。同志は飯能に集つて戦つたが忽ち敗戦して離散し、藍香翁と喜作とは伊香保へ隠れ、平九郎は越生から秩父へ通る黒山通りを落ち延びんとした。その時官軍に誰何されて、之れと戦ひ敵を斬り伏せたが、股に鉄砲の丸を受けて、身体の自由を失つたので、官軍に捕へられるよりはと覚悟して腹を切つた。私は其後そこへ行つて見たが、何でも川があつて其辺りに石がある。其処が平九郎の切腹の場所だと聞いた。今から考へると、振武軍のやり方は少々拙づかつた
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のではなからうか、自惚れるではないが、私だつたらもつと外にやり方もあつたらうと思ふ。平九郎にしても早まり過ぎはしなかつたか、軽卒に失したとの憾みはないでもない。今から考へると残念千万である。平九郎の人と為りに就ては、風采、容貌共に秀でて誠に気立てが善かつた。然し磊落とか云つた点はなく、深い思慮の念を欠いて居つた。撃剣は大変勝れて、私等と一処に稽古してゐた頃は十五、六才であつたが年若にしては余程強かつた」
渋沢栄一 書翰 千代子夫人宛 ○慶応三年一月九日(DK010033k-0005)
第1巻 p.444-445 ページ画像
渋沢栄一 書翰 千代子夫人宛(穂積男爵家所蔵)
○慶応三年一月九日
お千代とのえまへる 篤太夫より
一ふて申あけまいらせ候、時分からさむさつよく候へともいよいよおんかわりのふ御くらし可被成、めてたくそんしまいらせ候、こなたかわりのふくらしおり候あいた、此段御安心可被下候、さてはこなた事そんしよらすけつこふにおふせつけられ、
民部大輔様と申
上様御弟子様え御附添、フランス国え御つかへ被 仰付、両三年かの国えまへり候間このたんさよふ御しよふちなされ度そんしまいらせ候、誠ニおもへかけなき事ニ而さぞさぞ御たまけなされへくさりなから月日のたつははやきものニ候へば、いつれそのうち御めもしいたすへくそんしおり候あへた、それおたのしみ被成候様たのみまいらせ候、つゐて此品三種さし上申候間、御内々ニ而御しまいおきなされたく候、紙入壱ツ小はん弐枚、弐ツさげきんちやく壱ツ、さんごしの玉弐ツ附ニ候間、御改之上御請取可被成候、尤右送方は成一郎様ニたのみ置候間、御同人よりさし上可申、そのせつ御うけとり被成候、やまやま申上度候へとも、とりいそきあらあらめてたくかしく
睦月九日 とく太夫より
おちよとのえ
尚々御身の上御大切ニ御まちなされ度候、此方には更ニわすれ申候日無之候あいた、御まい様にも御みさお御つのり被成候様たのみあけまいらせ候かしく、
○慶応三年一月九日
おんしきひらき
一筆申あけ示しまいらせ候、いまた余寒つよく候へとも、いよいよその御さわりものふおんくらしなされへくめてたくそんしまいらせ候、つきにこのもとかわりのふくらしおり候あいた、御あんい被下度候、さて此度は不存寄フランス国え御使被 仰付、正月三日京都罷出、兵庫より御船ニ而今九日横浜迄罷越、明後十一日出立いたし候、およそ三年もかゝり可申候間、随分御大切ニ留守いたしくれ候様たのみまいらせ候、
- 第1巻 p.445 -ページ画像
此度右御用被 仰付候ニ付、不存寄品々結構ニ被 仰付、難有次第御よろこひ被下度候、且又此度フランスえ罷越候ニ付而は、見当養子無之而は不相成□《(候カ)》ニ付、平九郎事養子之つもりニいたし置候間、左よふ御承知可被成候、いつれ成一郎様江戸表え御かへり被成候ハゝ、そのもと并平九郎は江戸表え引取候積ニ、成一郎様えたのミ置候間、右ニ御承知可被成候 月日ははやきものニ候あいた、その中ニはかへり可申、それまてを御楽み御待被成度候、申こし度事は山々御座候へとも、とりいそきあらあらふてとめまいらせ候、かしく
正月九日
篤太夫
お千代とのえ
尚々少々なから金子五両さし上候あいた、御落手可被成候、委細事からは亀太郎え御聴取可被下候、山々申上度候へともまことに取いそきゆい、あらあらかしく
はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第八―九丁 〔明治三三年〕(DK010033k-0006)
第1巻 p.445 ページ画像
はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第八―九丁 〔明治三三年〕
○上略 大人洋行なし給ふにつき其頃の掟にて。平九郎君を見立養子と云ふに定め給ひけり。出でゝ仕へハし給はざりけれど若干の禄をうけ給ひ。ことし秋の頃江戸に出で白銀町のほとりに家を借りて住ませ給ひけり。
〔参考〕徳川昭武滞欧記録 第一―二頁 〔昭和七年二月〕(DK010033k-0007)
第1巻 p.445 ページ画像
徳川昭武滞欧記録 第一―二頁 〔昭和七年二月〕
一 松平民部大輔仏国へ派遣の旨水戸藩家老への達書
慶応二年十一月廿八日
丙寅十一月廿八日
(巻表)
〔水戸殿家老衆へ
松平民部大輔
来年於仏蘭西国博覧会有之候に付、為 御使被差遣候旨被仰出之
○
丙寅十一月廿八日
(巻表)
〔水戸殿家老衆へ
松平民部大輔
来年於仏蘭西国博覧会有之候に付、為 御使被差遣候旨被仰出之、
右之通被 仰出候間、其段民部大輔へ御申越可被成候様被申上候事
右十一月廿八日水戸殿家老へ美濃守殿御直渡御列座《(下欠)》
前日家老衆罷出候儀達之
〔参考〕徳川昭武滞欧記録 第一・第七四―第七八頁〔昭和七年二月〕(DK010033k-0008)
第1巻 p.445-446 ページ画像
徳川昭武滞欧記録 第一・第七四―第七八頁〔昭和七年二月〕
六 民部大輔持参の国書・老中書翰写仏国公使へ送致の件
- 第1巻 p.446 -ページ画像
慶応三年正月八日
丁卯正月八日
仏蘭西全権ミニストル
ヱキセルレンシー
レオンロセスへ
以書翰申入候、先般申入置候通、徳川民部大輔殿使節として貴国都府へ被相越候に付、持参可被致国書并予等より貴国執政へ之書翰写両通差進申候、拝具謹言、
慶応三年丁卯正月八日 井上河内守花押
稲葉美濃守花押
松平周防守花押
小笠原壱岐守花押
○
丁卯正月八日
恭しく ユーエマーイエステイト仏蘭西国帝に白す、今般貴国都府に於て宇内各州の産物を蒐集し、博覧会の挙ありときく、定て同盟の国々顕貴集会あらん事と遥に欣羨にたへす、依て余か弟徳川民部大輔をして余か代りとして同盟の親誼を表せしむ、いまた少年にて諸事不馴の事に候間、厚く垂教を乞ふ、且右礼典畢て其都府に留学せしめ度、宜く教育あられ度、猶追々生徒も差渡すへく候間、其筋へ命令あられん事を乞ふ、併て貴下の幸福を祝し、貴国人民の安全を祈る 不宜《(宣)》、
慶応三年丁卯正月
源慶喜
○
丁卯正八日
ヱキセルレンシー
仏蘭西外国事務大臣へ
以書翰申入候、今般貴国都府におゐて博覧会の挙あり、極て天下の大観なれは、同盟の国々顕貴のものを集会せしむる趣に付、我か 大君殿下にも舎弟徳川民部大輔殿を名代として貴国都府へ差遣され、同盟の親誼を表せられ、且是まて貴政府より我国へ対し、格別の懇親を尽されたれは、右之厚情をも謝せしめられんとす、此段セイネマーイエステイト皇帝へ陳せられ、信用あられん事を望む、尤民部大輔殿少年にて諸事行届かさる儀もこれあるへく候間、其段差含まれ、滞りなく礼典を遂候様いたし度、且御同人右礼典畢て其都府に留学せられ、其外生徒も追々差渡すへく候間、偏に其許の周旋を頼入度候、右 大君殿下の命を以て申入候、拝具謹言
井上河内守花押
稲葉美濃守花押
松平周防守花押
小笠原壱岐守花押
○此記録全三巻悉ク此件ニ関スル参考資料トナル可キモノナレドモ、コヽニハ特ニ重要ナルモノノミヲ掲グ。
- 第1巻 p.447 -ページ画像
〔参考〕徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著) 巻四・第四八八―四九七頁 〔大正六年七月〕(DK010033k-0009)
第1巻 p.447-450 ページ画像
徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著) 巻四・第四八八―四九七頁 〔大正六年七月〕
原市之進、名は忠成、 初名忠敬 字は仲寧、伍軒と号し、又尚不愧斎と称す、水戸藩士原十左衛門 雅言、勘定奉行禄百五十石 の第二子なり、文政十三年正月六日水戸に生る、幼名は小能、弘化三年十二月、元服して任蔵と称し安政六年十月市之進と改む。幼にして頴敏、初め弘道館に学び、又会沢恒蔵 安憩斎 に就きて経史を修め、 年譜 従兄藤田誠之進に師事す、 誠之進の母丹氏は十左衛門の兄弟なり。○殉難録稿。東湖全集 弘化元年、烈公幕譴に触れ、藤田・会沢等皆罪を得、一藩の士、其寃を雪がんとして奔走せし時、市之進の父兄 兄は熊之介忠愛といふ も罪を蒙りしが、市之進時に年十五、よく家事を整理して、益読書に勤む、嘉永二年、文を青山量太郎 延光 に学び、射御、兵法、皆其師に就く、五年十二月、烈公の許を得て江戸に遊び、贄を羽倉外記 用九簡堂 に執り、塩谷甲蔵 世弘宕陰 藤森恭助 大雅弘庵 等に従遊し、学業大に進む、翌年昌平校に入る。同六年露使プーチヤチン長崎に来り、筒井肥前守・川路左衛門尉・古賀謹一郎 増、謹堂 等、応接の為出張を命ぜらるゝや、誠之進は市之進に外国の事情を知らしめんが為に、左衛門尉に従行せしむ、此行西遊記の著あり。帰府の後又昌平校に学びたるに安政二年、藩命によりて帰藩し、三年正月、水戸の五軒町に菁莪塾を開きて生徒に教授す、嚮に誠之進及び茅根伊予之介 泰、寒録 相続で塾を設けて生徒に授けしも、共に幾ならずして江戸に去る、市之進が塾を開くに及び、二人の門弟皆従遊し、諸藩の子弟来り遊ぶ者亦多く、毎に五六百人を下らず、其盛なること近古比なし、人呼びて伍軒先生といひき。市之進講学の要は経済実用を主とし、詩文は達意を勉め、彫絵を以て工を為さず、是を以て子弟皆道義を講じ気節を励む。水藩憂国慷慨の士、多く其門に出づ。安政五年勅諚の水戸に下るや、市之進其廻達を主張し、九月十五日同志十五人を拉して江戸に潜行し、斡旋甚だ力む。万延元年の春、幕府勅諚の還納を水戸に迫るに及び、市之進其不可なること十条を列挙して幕府に建言せしも、表面に立ちては運動せざりしが如し。 年譜。尚不愧斎存稿 此頃水藩の激徒、長藩の激徒と謀り、文久元年八月、密に成破条約を結びし後は、市之進は水戸にありて、内外気脈を通じて、窃に志士の糾合に勉めしものゝ如く、諸生を江戸に遣りて形勢を窺はしめたるが、同二年正月遂に坂下門外の変あり、其斬奸状は市之進の筆なりと伝ふるものあれども確ならず。 防長回天史。佳谷信順日記。水戸小史 此年勅使東下すること再度、幕府は命を奉じて公を後見職に、松平春岳を政事総裁職に任じ、幕政を改革して攘夷の勅を奉じ尊王の実を挙げんと勉む、市之進謂へらく、時運を挽回するは此時なりと、梅沢孫太郎と共に、執政大場一真斎・武田耕雲を佐け、星馳して江戸に赴き、諸藩士と交通して、力を国事に尽す。十二月奥祐筆頭取となり、大番に班す、時に公上京の命を受け、水戸中納言に告別の為に小石川邸に臨み給ひし時、市之進始めて公に謁し、改革につきて進言する所あり、公嘉納し給ふ、是れ市之進が公の眷遇を蒙る始めなりといふ。 年譜。督府記略 明くれば文久三年春、水戸中納言、将軍家茂公に随ひて上京するに定まりたれば、市之進は執政大場一真斎、中山与三左衛門と共に先発せしが、四月中納言帰府の時も命によりて京都に留
- 第1巻 p.448 -ページ画像
まり、縉紳の間に周旋し、又屡公に進言せり、所謂本国寺党の一人なり。 尚不愧斎存稿。水応藩党争始末 元治元年四月、公禁裏御守衛総督たるに及び、選ばれて一橋家に入る、 御雇といふ 六月平岡円四郎暗殺せられて後は、用人黒川嘉兵衛事を用ゐたれども、其勢力は漸次市之進の手に帰し、長兵の撃攘、海津の出陣等、常に公を賛けて功あり。市之進は嚮に耕雲斎等と事を共にせしに、其投降するを見て之を救はざりしとて咎むる者あれども、其事情は既に本伝に記せるが如し、而して市之進は、陰に人をして其遺孤を匿して之を収養せしめたるを見ば、其志の存する所知るべし。 尚不愧斎存稿序 此時幕府は、内雄藩の制馭に苦しみ、外外交の困難に疲れ、天下益多事にして、気運既に幕府に利ならざれば、市之進の才略も意の如くなること能はず、嘗て歎じて曰く「自然の大勢は循環流動転変して窮り無く、其潜会黙移常に人の意外に出づ、故に其事に処し其局に当る者、或は之を知るに及ばず、知りても制するに及ばざるものあり」と。慶応元年四月、公の駕に随へる途上、馬より落ちて背髄を傷め、困臥するもの旬日、間を得て督府紀略二巻を著せり、其言に曰く「興山公宗室の賢を以て独り大任に当る、其国家の為に力を尽し、時運を挽回し、横潰を遏むる所以の者、其事跡余親しく之を見る」 ○中略 九月十四日一橋家御側御用取扱を命ぜられ、十一月九日幕府より三十人扶持を賜はる、十一日公の命にて、御雇中席順等本役御用人の通り心得ベしと伝へられ、威権益重し。二年七月将軍家茂公薨去によりて、公宗家を継ぎ給ひし日 八月二十日 奥番格奥詰となり、食禄五十俵を賜ひ、布衣の班に進み、又目付に任ぜられ、百俵を増し賜ふ、一日に五たび遷ること、栄遇比なし。 尚不愧斎存稿。年譜 十二月公将軍宣下を拝し給ふ、是より先に、大久保一蔵強藩の威を負ひて幕府に反対し、公郷・大名、皆憚りて其議に同じけるが、市之進は二条関白、賀陽宮を始として、遊説開導最も力を尽しければ、いたく薩長諸藩に忌憚せられたり。十二月孝明天皇崩ず、市之進公の命を承け、山陵乃葬祭の事を掌り、一に古典に復す、識者称して盛挙となす、山陵功竣るに及び公時服を賜ひて之を賞し、尋で第を二条に賜ふ。 年譜 三年五月兵庫開港の議に、公時藩以下の異論を排して漸く勅許を得たるも、亦市之進斡旋の力多きに居る。 第二十四章参照 斯くて八月十四日の朝、市之進は出仕せんとして結髪せる時、本国寺の遊撃隊某と称して、二人来り訪ふ者あり、家士之を次室に導きたるに、二人忽ち刀を抜き市之進の室に闖入して、背後より首を切つて去る、家士も亦傷けらる。若党小原多三郎等二人を追ひ、二条城の側、板倉伊賀守の邸前にて斬殺し、市之進の首を奮ひて還る。二人は鈴木豊次郎、依田雄太郎といひ、与党の板倉邸に自首せる者を鈴木恒太郎といふ、皆幕府の小臣なり。 明治前記。川瀬教文日記抄 三人の懐中せる状に、市之進及梅沢孫太郎が罪を数へて「先帝の叡慮を顧みず、公をして兵庫開港の勅許を奏請せしめたるは、乱臣賊子なり」といへり。然れども別に其原因あることは、上に記せるが如し。或は伝ふ、旗本の士山岡鉄太郎 高歩鉄舟 中条金之助、榊原采女、小草滝三郎、松岡万、関口艮吉 隆吉 等江戸にあり、市之進を目して公の英明を覆ふの奸物となし、誓つて之を除かんとす、乃ち兵庫開港の件を以て其主罪に挙げ、依田雄太郎等三人の壮士を誘ひて刺客の任に当
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らしむ、雄太郎等間行して京都に入り、遂に兇行に及べるなり。雄太郎江戸を発するの翌日、鉄太郎は同志と共に薄井督太郎 竜之、信濃飯田の人 と会し、始めて市之進の人物と其政見とを聞き、決して邪謀の臣にあらざるを暁り、刺客を放ちたるを悔いたれども、今や既に及ばず、一代の俊才市之進をして、空しく兇刃の下に、非命の最後を遂げしめたるが其原因は全く誤解に出でたるなりと。 薄井竜之談話 又曰く、旗本の士高橋伊勢守 精一泥舟 目付たらんことを望みて得ず、是れ必ず市之進の妨害ならんと猜し、兵庫開港の物議紛興せるを奇貨として、罪を市之進・孫太郎に帰し、稠人の中にて罵りければ、壮士等之に煽動せられて、遂に兇行に及べるなりともいひ、又本国寺詰の水戸藩士中にも去年より市之進を除かんと計る者あり、彼の三人が七月十日を発せしは、水戸藩士中にも知る者ありしとも伝説せり。孰れにもせよ、群小の大局に通ぜざる者、往々大事を誤ること此の如し。鈴木恒太郎の糾弾せられし時、市之進が国家の為に夙夜匪躬の節を尽せしこと、又兵庫開港の忌むベからざることを聞くに及びて、大に其非行を悔ひ、従容として死に就けりといふ。 伍軒先生遭変始末 公、市之進の死を聞き、いたく哀悼し給ひ、有司に命じて厚く葬事を資けしめ、之を東山長楽寺に葬る、享年三十八。 年譜 明治三十五年一月、特旨を以て従四位を贈らる。 殉難烈士伝 配松本氏一女あり、兄忠愛の子貞を以て嗣となせしも、故ありて離別し、其嗣遂に絶つ。 年譜 市之進状貌雄偉、眉目清秀、沈毅にして才略あり、巧に鋒鋩を露さずしてよく功を奏するを以て、薩長諸藩は固より、幕府、水藩にも、陰険なりとて猜忌する者多かりき。 水応小史 後年重野安繹 成斎 市之進の遺稿に序して曰く「仲寧性縝密、識老いて気静なり、色喜慍なし、耆宿達官、一見して其偉器なるを知る、而して世の慣々者は則ち所謂らく、其中深文測るべからずと是れ仲寧の大に用ゐらるゝ所以にして、又其奇禍に罹る所以なり」と、 尚不愧斎存稿 実に適評といふベし。
市之進の死するや、松平春岳之を悼みて「世の風聞は種々あれども頗る人材なり、惜むベし、外藩人の所為かと思ひしに、豈図らんや幕臣の所為なりと、わけて痛歎の至なり」といひ。 続再夢紀事 川路敬斎 聖謨 も亦、「市之進は先年余が長崎に伴ひし末頼しき人物なり、永く存命せば君徳をも補ふこと多かるべきに、いと惜しきことなり、旗本、御家人の面々も、忠義と思ひて大の不忠をなすことあれば、よくよく心得ありたきことなり」といへり。 川路聖謨之生涯 川瀬教文は世説の妄を弁じて曰く「中根長十郎の横死が平岡円四郎の言に出で、円四郎の死が原市之進の言に出づといへるを真とせば、市之進の横死も、天道は還るを好む、所謂爾に出づるものは爾に反れるなり。然れども余は能く其為人を知る、一橋公も嘗て市之進の誠忠を賞せられしことあり、決してさることを為す者にあらず、市之進の公に於ける、寵遇最も優渥、幕臣之を猜忌し、江戸にある者は事情に通ぜずして、嫉悪殊に甚し、其害に遭ふ、或は教唆に出づるものならん、若し刺客をして市之進に面接し、時勢の切迫せる情実を聞かしめば、亦了解する所あるも知るべからず。兵庫開港の事たる、年来の難題にして、橋公の賢明なるも変故積重の後を承け、事情錯雑の衝に当らせられ、難を排し紛を解き
- 第1巻 p.450 -ページ画像
諸老臣と共に計画弥縫無事に局を終へ給ひし御苦心の内情は、余嘗て窃に市之進より聞きて、共に将来の事を憂慮したることあり、然るに罪を市之進一人に帰するは酷なり」といへり。 川瀬教文日記抄 是等の諸説、以て其寃を解くに足らん。
岩倉友山の洛北岩倉村に幽居するや、市之進は潜に招かれて其邸に赴けること再三なり、香川敬三当時小林彦次郎と称し、同席にて市之進に面せることありしといふ。 香川敬三贈原百之書翰然れども之を以て友山と公との間に往復ありしが如く推すは誤なり、公は毫も関り給はざりしと仰せられき。 昔夢会筆記 市之進死後、其在職中の書類数多ありしを、之を預れる親戚、斯かる機密書類を存するは宜しからずとて、皆寸断して棄てたれば、今は存するものなしといふ。 原百之談話
〔参考〕阪谷希八郎 書翰 柴原某宛 (慶応三年)一月二九日(DK010033k-0010)
第1巻 p.450 ページ画像
阪谷希八郎 書翰 柴原某宛 (慶応三年)一月二九日 (阪谷子爵家所蔵)
○上略 御藩より外国遊学の人出候由是亦妙々渋沢篤太夫ナル人物民部公ニ陪シ御勘定格ニなり雑費方ニてフラス《(マヽ)》エ最早出立の由也、何分愉快々々、唯金銀物価の平均立デハ人心も平均下致、又洋を開くニ胡服より掛ル卓見有之事と存候得共、甚人心ニ関し開ケ方わるくと存候、何れ開ケルニ相違なし、此開キ方分別アル事ニ存候得共、是ハ上の人の事也唯大本の立方大事と相考迂腐の上言仕候とても行れまじ又達不達も不可斗候得共、達方ハ随分考て出候迂腐の極唯是一片丹心為日本外無他御内見可被下又御伝観ハちと憚り候 ○下略
正月廿九日
希八郎拝
柴原大兄