デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.502-507(DK010039k) ページ画像

慶応三年丁卯五月十一日(1867年)

是ヨリ先、五月七日徳川昭武、仏帝・魯帝・孛王ト共ニヴエルサイユニ遊ブ。栄一之ニ陪ス。是日昭武ニ随ヒ巴里パツシー郷ペルゴレイズ街五十三番ノ家ニ転宿ス。


■資料

航西日記 巻之三・第一一―一六丁 〔明治四年〕(DK010039k-0001)
第1巻 p.502-504 ページ画像

航西日記 巻之三・第一一―一六丁 〔明治四年〕
○上略 同 ○慶応三年五月 六日 西洋六月八日 晴。午後一時、新旅館を視る、同四時病院を視るに陪す
此の病院は。市中に接し。高敞《しよう》の地に在り。周囲鉄墻にて。屋宇は層階造りなり。入口番卒を置き。各房病者の部類を分ちて上等下等の差別あり。一房毎に病者数十人牀を聯ね臥す。臥牀皆番号あり。臥具都て白布を用ひ専ら清潔を旨とす。看護人《かんご》《カイハウ》は皆尼女の務とす。配剤所食料所。等十分の結構なり。滝泉を掛《かけ》て潅頂《かんちやう》せしむる所。或は浴せしむる所あり。床下蒸気管を通じて。冬月各房を温むる用とし。又一の幽室あり六七箇の臥牀に死屍を載せ。木葢して面部の所は布もて掩ひ側に牓札《はうさつ》《ツケフダ》あり。是皆病者の病源の分明ならず。衆医疑案を存せしものにて。其標札に死者の名年齢より。病の症体を精しく記し。死屍日を経て。必ず其病の在る所より腐敗するをもて。験按発明の一端となすといへり。院の後ろに洗濯場あり。数人其事に従事す。院内遊歩の花園あり。病者の運動に宜しきもの地内を徜徉《しやうやう》《タチマハリ》せしむ。此の病院は巴里市
 - 第1巻 p.503 -ページ画像 
中に。或る富家の寡婦。功徳の為め若干の金を出して。創築せし由にて其写真の大図入口に掲けてあり○凡病を治するは。薬療と摂養とに因るものにして。療治はもとより其学術の研究練磨によるといへども其看護保養の適宜なる資けを得て。順愈追快に及ぶものなるべければ此の病院の趣意療養はさらなり。其看護保養食物の可否。加減の精密にして。且風乾雨湿を計り。其気を抑揚発塞して。其節に適《かな》はしめ。身体運動なさしむるをもて。療養相応じて。愈快せる日を究めて。験を見るといふ。然るに凡人其家に在りて医を請じ。親属愛護して。舐撫し。病者の意を覘《うかゞ》ひ好む所にまかせて薦め。或は過食し。又は乏飢し。発塞をたがへ。気を閉ぢ。精を泄し。漸く心神を労せしめ。却て病を畜積し。遂に不治に至らしめ。医を咎るの類少からず。皆まどへるの甚しきといふべし。故に此の地にては。病者はからず病院に就て療養を請じ。医療の過ちにて夭殞なく。其天然の齢を遂るを得せしむといふ。是人命を重んずるの道といふべし。
同七日 (西洋六月九日) 晴。日曜日休暇。仏帝・魯帝・孛王と倶にウイルサヱルへゆきて遊ぶに陪せり
同八日 (西洋六月十日) 晴。夜九時半。帝宮にて舞躍あり。集会せる人は凡八百人許なり。同二時ばかりに散せり
同九日 (西洋六月十一日) 晴。夜孛国公使館にて舞躍ありて招待せるに陪す。此の日ヘルゴレース街の新館稍々修繕せしとて。附属士官数員引移りぬ。此の夜は仮亭へ先だちて移りし人々の徒然を慰せん為訪ひつどひて。夜もすがら例の論討雑話に耽り。短夜の更行くもしらで。いつか空も明ちかくなりければ。いでやボワデブロンの朝景色を見んとて。ともに打出けるに。曙のえんにおかしく木々の葉も露けく往来の人影もたへて。ゆくゆく互に口すさびなどしつつ川の滸りにいたりけるに水鳥など群れ居て時ならぬ人跫にも驚くけはひもなくて。閑なるさまは。人の害せる心なきに馴れたる。道の傍にえならぬ花など咲つゞけたれども。手折る人さへもなきは。興ある政の先づゆかしくぞおもはる。夫より滝のある所にいたり。人待つ為に設けたる椅子あり。しばらく憩息し日の出る頃に各帰りぬ
同十日 (西洋六月十二日) 晴。無事但新聞を得たり。左の如し
  当月第十一日。英国軍艦アルキユス内海へ向け出帆せり。その船にてはミストルホルトサトウアストン。九番レシメント甲必丹トウント衛兵の号令官甲必丹アフリン。並にレシメント隊の一部 (四十人宛) 及騎兵馬とも乗組せ。公使の到着を待んとす○大阪チフロマチーキ役の尋問英・仏・米・荷の公使とも。十日の内には大阪に向け出帆すべし。其附添人も多数。且大阪にて是を饗遇せる為に大なる用意あるべし。英国軍艦はシリスクにてシルハルリーパークス及妻其児の一人ミストルロユツク。医ウイリスウキンソン。公使館衛その指揮官フラメイ乗組行べし。外略す
同十一日 (西洋六月十三日) 雨。午後二時巴里パツシイ郷ペルゴレイズ街五十三番といふへ転宿せり。取締の小使人を雇はる。一同へ転徙の祝等あり。同時外国局ジユロプロウへ転住の事を達せらる
同十二日 (西洋六月十四日) 曇。無事
 - 第1巻 p.504 -ページ画像 
同十三日 (西洋六月十五日) 曇。プロリヘラルト来る
同十四日 (西洋六月十六日) 雨。教育ミニストルへ教師の事を言遣はさる
同十五日 (西洋六月十七日) 曇。朝ジツクドペルシヤキ来訪す
此の日本邦当卯四月十二日出。横浜よりの新聞紙を得たり
  其略に仏国アミラルローク其公使に従ひ。大阪に赴きし節。受る所の行遇に因りて考ふれば。日本人外国人に対して。懇親の意を表し。且其開化の日々進めるを見るべし (此の他略しぬ)
同十六日 (西洋六月十八日) 晴。夕五時荷蘭留学せる本邦の人々到着せり
同十七日 (西洋六月十九日) 晴。無事


徳川昭武滞欧記録 第一・第一七一―一七九頁〔昭和七年二月〕(DK010039k-0002)
第1巻 p.504-506 ページ画像

徳川昭武滞欧記録 第一・第一七一―一七九頁〔昭和七年二月〕
  二 巴里に於て民部大輔旅舎借入の証書 (慶応三年四月)
 一千八百六十七年第五月七日巴里斯の諸証書類請合人モツシユールドラパルムの請合にて巴里斯アムペラトリス街五拾番に在る家屋借渡之儀に付日本 大君殿下の全権ミニストル向山隼人正閣下とマタームフランセスラジウイルと取替したる証書
魯西亜皇帝のヱイドドカムにて、此度借し渡すへき家屋の持主モツシユールレヲンブランスラジウイルの妻にして、魯西亜ミンクス部に其夫と共に在住すへき筈なれとも、当時巴里斯フヲーブールサントノレー街七拾三番に在るマダムソフヒープランセフスラヂウイル下に姓名を記せる巴里斯諸証書類請合人モツシユルドラパルム、及其同職にてモツシユールヂユプランを証人として云ふ
マダムプランセツスラヂウイル其夫より得たる格別なる免許に従ひ、且記名の証書類請合人モツシユールドラパルムの先役たるモツシユールパゴイン千八百五十八年第十二月十五日に書き認めたる証書之趣に頼り、方今巴里斯カプユシアン通り拾弐番グランドホテルに在る日本
 大君殿下の全権ミニストル向山隼人正閣下に、巴里斯の中古昔のハツシー村第十六部アムペラトリース街に向ひ、後面はペルゴレース街に向ひ、右はモツシユールハルドンに隣し、左はモツシユールヂユボーに隣し二千七十四メートルの広さある地所、并に地底にて大なる土台の上に立たる丸柱の上に造営せる家屋・厩・馬車置場に門番所・馬具置場其外借主の方にて已に見分したるに付十分に知るへき諸部分及諸附属物をは、少しも残らす借し渡すことを証す
右は千八百六十七年第七月一日より三箇年、六箇年、九箇年の間借し渡すへし、尤双方にて此契約を止めんと欲せは、三箇年又は六箇年の期限より六箇月前に書面を以て其趣を一方へ知らしむへし、又借主の方は鏡及壁紙の備方出来以第右日付《(マヽ)》の前に此家屋に入るへし、尤其借料は下に記す割合を以、転住の日より之れを払ふへし
契約の箇条
此証書に附属せる左の箇条は、借り主之方にて相違なく取行ふへし
第一。右家屋其外は、方今在る所のまゝの有様にて借受、転住より八日の後、双方の建築は両人にて双方出し合せの入費を以て手入れ為し、此証書の期限に至り、右家屋を戻す節は其手入れを為したる時
 - 第1巻 p.505 -ページ画像 
と同し有様にて戻すへし
第二。借料を償ひ、且此証書にて約する所を十分に取行ひ得るに当る程の貴き家財其外を備へ置くへし
第三。門又は窓の運上は、勿論其外右地所家屋に付差出すへき市中取締諸入用、水及ガスの入費、下水運上并に一箇月八十フランク宛の門番人給金を払ふへし
第四。方今借し渡す家屋地所、又は向後付加ふへき家屋地所に、持主の意に随ひ入用又は切要なりと思ふへき大なる手入を為さしむへし尤其手入を絶間なく取行ひ、決して三箇月より長く続くへからさるへし
第五。借し渡したる家屋を破り、又は壁を穿つことなすへからす、又サロンの壁に針を打つへからす、画額は天井の下に在る三角形の物に掛くへし
第六。此度の家屋、火災請合料を払ふへし
第七。家屋は常に修復を為し置き、此証書の期限に至て之れを方今の如き有様にて戻すへし、又湿気強く且寒冷なる天気には善く之れを温むへし
第八。右家屋の番人は決して暇を遣すへからす、門番人を択み、又入れ代るはマダムフランセツスラジウイルの為すへき事なり、尤門番人は正直にして勤務をなし、若し借主の方にて相当の事にて門番を入代へんと欲せは其通りになすへし
第九。右家屋に在る六万フランクに下らさるへき家財を、ユムパギーゼネラル又はコムパキールソレール又はコムパキーレイギールに火災請合を為さしむへし、若し又万一右の請合の品物焼失したる時は借主の入費にて此証書に載する通りの借料に当る程の高を償として差出すへし
第十。庭及庭中の植込を其まゝに為し置き、若し木の枯るゝことあらは新に木を植付るへし
第十一。正直にして行業のよき貴き人にあらされは、此証書を後日に至り引受せしむへからす、但し其引受人となるへきものはマダムプランセツスラジウイルの承知を得、同人へ対し必す借料を渡すへしとの請合を為すを要とす
第十二。此証書の入費且証書書料をマダムへ払ふへし
    借し渡さる部分之事
ベルゴレース街より入り、玄関前の右手の方に在る二箇の部屋は、マダムプランセツスラジウイルの保ち置く所なり、此部屋は家財の置場に用ひんとするものにて、他人え借し渡すことを為さゝるへし、此部屋に在る家財は持主の引受にして、借主の方にては其附属の者のなせる仕業は別段其外総て引受となることなかるへし
    借料之事
此証書に従ひ、払ふへき借料は、諸税金額を除き壱箇年三万フランクなるへし、これは毎年三箇月毎に、則第一月一日、第四月一日、第七月一日、第十月一日に払ふへし、先つ其初度払方は千八百六十七年第十月一日になし、夫より証書の期限まて三箇月毎に払ふへし
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マダムプランセツスラジウイルは、此証書の期限に至るまて地税又は大なる手入の外は、入費を出す事あるまし
一 双方慥に契約して曰く、借料払方は巴里斯に於てシヨウセーダンテン街廿八番に在るモツシユルドラパルムの役所に於て為すへし
二 如何なる命令書法律第後日生《(マヽ)》することありとも、借料払方の貨幣は、方今用ふる量目に協ふたる金銀の正しき通用金なるへくして、モツシユール向山は、決して此一事に付ては利益を得ることをなすましと契約す
三 万一上に記せる期限に至り、借料を払ふ事なく且持主の方より払ふへしとの催促あるより、十五日を過るとも之を払はさる時は、別段公事裁断の事なく持主の定に随ひ、此証書廃物となり、其前に払ふたる総借料はマダムプランセツスラジウイルの方へ償金として得置くの十分なる理ありとす、後日に至り双方にて議論の起らさらしめんか為め、今双方にて取極め曰く、此証書の事に付、持主の出すへき別段入用は、門番の給料共一箇年二千フランク程となるへしとマダムプランセツスラジウイルはサロンの火焼所の上、寝間食事の間に鏡を備へ、且スチユツクと云へるものにて飾れる外の部は、相当なる紙を以て飾るへき事を約す
    前払ふ事
マダムプランセツスラジウイル、向山隼人正閣下の方より六箇月借料前払として、壱万五千フランクを慥に落手したり、之れは此証書期限の終る前、六箇月借料にて償ふへし
借料払方之儀は、前に載する通りの定則を変する様借主より云出すことなるへし
此契約を為すため、双方にて択みたる塲所左の如し
 マダムプランセツスラジウイルは、シヲーセーダンタン街弐拾八番に在るモツシユールトラパルムの役所に於て
 モツシユール向山隼人正は、リユウサントノレー街百六拾三番に在るモツシユールヂユプランの役所に於て
 此証書はマダムプランセツスラジウイルの方は、其住家に於て、又向山閣下及モツシユール山内の方はカプユシアーン通りグランドホテルにおゐて、大君の炮兵リユウテナンにて仏蘭西学に熟達するを以て日本使節通弁官の職を行ひ、現今巴里斯カプユシアーン通十二番グラドホテルに在る山内文次郎を証人として、一千八百六十七年第五月七日之れを認む、証書類請合人の立合にて此証書を読上げ、通弁官其通弁を為したる後、双方其姓名を自記し、且証書請合人及通弁官も同様其姓名を自記したり、此証書の元文の縁に左の語を記す
 巴里斯第一の役所にして千八百六十七年第五月八日一号九十四第二部と書込、且五百八十五フランク四十四サンチム、又其十分一にして五十八フランク五十五サンチムを落手したり
                      トラパルム自記


高松凌雲翁経歴談 第二九頁〔明治四五年四月〕(DK010039k-0003)
第1巻 p.506-507 ページ画像

高松凌雲翁経歴談 第二九頁〔明治四五年四月〕
 - 第1巻 p.507 -ページ画像 
○上略
四月《(五)》 ○慶応三年 十一日 Rue de porgolise à Côte de Lavenue imperatuise と云所に旅館を定め、之に移転し、教師を雇聘し、民部公子を首として一同仏蘭私語を学ぶ。
○下略



〔参考〕渋沢栄一 書翰 千代子夫人宛 (慶応三年)五月十五日(DK010039k-0004)
第1巻 p.507 ページ画像

渋沢栄一 書翰 千代子夫人宛 (慶応三年)五月十五日 (穂積男爵家所蔵)
一ふて申示しまいらせ候、時分からあつさ相成候ところ御かわりのふ可被暮目出度そんしまいらせ候こなた事誠ニ大丈夫ニ而ふらんすのはりすと申都ニ罷在候、御あんし被下間敷候、永々の留守居に両親の御厄抱抔《(介カ)》、その御身ひとつニかけ候は如何にも御さつし申候得共、今更いたし方も無之次第、よろしく御こらへ被下度候、京都在勤中は品ニより呼登せ御目もしと楽居候ところ、不得其意ついに又かゝる遠方え罷こし、夢にさへも届き兼候波路しかしわかれあれは逢ふ事もある世の道理、四五年之御辛抱ひとへに御頼申上候、先達も亀太郎へ申含メ差遣し候とふり成一郎様江戸江御帰りニ相成候ハヽ、いつれそた《(な)》た事も江戸住居ニいたさせ度相談いたし置候、其上此度こなた同道の人々にたなべ太一杉浦愛蔵抔と申人極心切之人ニ候間、此人々江戸え帰り候ハヽ、成一郎も談し、そなた事ハ江戸ニ而こなた帰国を待候様取斗候つもりニ候それを楽居折角身を大切ニなされ候様呉々もねんしまいらせ候、兼而こなた心は承知之通ニ而、たとへ十年か二十年とても相替なき赤心、唯々可憐はそなた事ニ候得共、国の為とそんし候ハヽ辛抱もなるべく、能々御了簡短気《たんき》なきよふ被成度呉々ねんしまいらせ候、申あけ度事ハ山々候得共あらあら筆とめまいらせ候かしく
(慶応三)五月十五日
                     とく太夫より
    おちよとの江
  うた事随分大切ニ可被成候、手計母上様兄様にもよろしく御伝へ可被成両親えの孝養はひとへに御頼申上候