デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.558-569(DK010045k) ページ画像

慶応三年丁卯九月二十七日(1867年)

是ヨリ先、九月十二日白耳義国ヲ発シテ巴里ニ帰着シ、居ルコト八日、同月二十日徳川昭武ニ随ヒ巴里ヲ発シテ伊太利ニ向フ。同月二十四日国都フロレンスニ着シ、翌日ヨリ国王ノ別宮・議事堂・石細工所等ヲ観ルニ陪ス。是日昭武フロレンスニ於テ国王ヴイクトル・エマヌエル第二世ニ謁ス。国王昭武以下ニ勲章ヲ贈ルコト差アリ、栄一モ亦五等勲章ヲ贈ラル。尋イデ十月朔ミラン・同月五日ピサ等ヲ遊覧スルニ陪ス。


■資料

航西日記 巻之五・第二七―三七丁 〔明治六年〕(DK010045k-0001)
第1巻 p.558-562 ページ画像

航西日記 巻之五・第二七―三七丁 〔明治六年〕
 - 第1巻 p.559 -ページ画像 
同 ○慶年応九月 十二日 西洋十月九日 曇。朝九時。白耳義国を発す。国王の滊車にてカピテインニケイズ同乗し。滊車会所まて。送り来る。夕五時仏都巴里へ帰館
同十三日 西洋十月十日 曇。夕七時白耳義都府に残りし人々跡引纏め帰る
同十四日 西洋十月十一日 曇。無事
同十五日 西洋十月十二日 雨。午後一時。人々博覧会を又看るに陪せり
同十六日 西洋十月十三日 曇。夜七時シルクデアンペラトリースといふ曲馬のある場所にいたり一同見物す
同十七日 西洋十月十四日 曇。朝十時試砲を看るに陪す
同十八日 西洋十月十五日 晴。無事
同十九日 西洋十月十六日 晴。夕四時。白耳義国在留中。附従のカピテインニケイズ来候す
同廿日 西洋十月十七日 曇。暮七時半伊太里国へ発す従行並送行の人々ハ。滊車場まて先発す。此夜ハ車中にて徹し朝六時。アンベリウルといふ所にて。小憩せり
同廿一日 西洋十月十八日 雨。昨夜より峡間を経過し。新寒の添ふを覚ふ。朝来細雨。鉄軌の両傍山壑聳へ危石。怪松。突兀として路畔に蟠る。滊車ハ其洞中を衝通《しやうつう》し。渓端《けいたん》ハ鉄橋を架して通す。行路険峻なれハ。鉄道も亦至て堅牢なり
  此辺都て巌石多く。処々割截洞刳して。桟道を作り滊車を通す。其傍石炭なと出す所あり。霜露早々墜ち木葉紅黄を翻し。山骨青苔を見ハし瀑勢白綫を懸く。車中迅速の眺望といへとも聊趣あり
午後一時サンミセールへ抵り。是より山巓。嶮峻にていまた鉄軌滊車の設なき故。ジリジヤンスといふ旅行馬車にて山頂を踰るなれハ。日暮ては覚束なけれバ。此処に宿んとて家を覓るに。オテルデポストといふ一ツの狭隘なる客舎のみ。漸く一行の膝を容たり
  サンミセールより伊太里国スーザまてモンスニーの諸山連り長蛇のことく。両国の間を中断して峡路険艱。馬車の行程凡十時間。宿すべき所なくスーザよりチユランの滊車ハ。夕五時より発する予定なれバ此処に宿せしなり
第二時半。滊車場にて馬車を雇ひしが、一車のみにて一行を容るゝに足らされバ。半ハ其車のかへり来るを待り。頓《やが》て客舎に至るに。主人打驚きたる体にて。出迎ひやゝ楼上に請しぬ。各始て坐に就くいかにも。陋隘不潔《ろうあいふけつ》を究めたり。夫より又馬車を雇うて村落の風を看る。夕三時頃帰る 此地ハ四囲山巒聳へ巓上にハ不断雪あり眺望する所少し 敞戸《へいこ》も。亦旅況の寂寥を添ひたり
同廿二日 西洋十月十九日 晴。朝六時ジリジヤンスと云。馬車二輌を雇ふて発す
  此ジリジヤンスといふハ。巴里辺にて用ゆる。オムニヽブスといふ車に同しく。其制長大にして。尋常の馬車に異なり。一車に八人又ハ十人を載せ。二階にして。階上に荷物を容る。平垣の地ハ二馬を駕し。険路にハ。六馬。八馬。十二馬を駕し処々に会所ありて。馬を取換へ。又ハ水飼なとして。疲労を助く。頗る簡便なり。先年欧洲滊車発明の前ハ。総て旅行に此馬車を用ひたりし故今も僻郷ハ故態を存すといふ
 - 第1巻 p.560 -ページ画像 
峡路を曲折し。或ハ渓に傍ひて。朝八時一村落に抵る。村中滊車及鉄道を製する器械あり。
是ハ仏国商人の戮力《りく》《チカラアハセ》し。此峡路を開き。巌石の半腹を。洞穿《とうせん》《ホリウガチ》し滊車を。伊太里国まて達せしむことを謀る也とぞ。又馬車通行の路傍にハ。別に小さき鉄軌を作りてあり。是ハ米利堅人《メリケン》の発起にて。従来の峡路に沿ひて。小滊車を通せしめむとて為せるなりとぞ。山行愈深くして道路益険なり。其危巌絶壁石磴縈委《きがんぜつへきせきとうえいい》《イシダン》するに至りてハ。車を棄て徒行攀登《とこうはんとう》《カチニテヨヂ》して絶巓に達すれハ。雲雷を足下に躡《ふみ》。星斗を頂上に捫《もん》す。中腹にハ処々宿雪斑々《はん》として。頗る攀躋《はんせい》《ヨヂノボリ》の渇を医するに足る。嶺頭に人家二三軒あり。馬を代らしめ。又ハ鉄軌工人《てつどう》の憩宿する所なりといふ
  サンミセールよりスーザまで。馬車の馬を替る六次。其始ニ二匹四匹又ハ六匹中ハ八匹。嶮路にいたりてハ。十二匹を駕す。其艱険しるべし
其嶺を下らむとする傍に石柱あり。仏蘭西伊太里の境界なり、其より下りて漸く平夷なり。雲霧消えて。初て伊太里の諸山を望む。夕四時半スーザ滊車会所に抵れバ。伊太里国のコロネールイシヤケエードボヲヤニといふ者迎候せり。直に滊車にうつり。夜七時チユランへ着きホテルデヨーロツパといふ客舎に請し。嚮導使もともとも来り。同所へ滞留せしめむとの王命を述ふ。此夜巴里へ。電線を達す
同廿三日 西洋十月二十日 曇。朝十時。コロネル来り嚮導し。国王の別宮及。古代の戎器を貯ふ所。説法所等巡覧ありて。午後一時帰る
  別宮の玄関及石階とも。総てマルブルといふ。白き石にて 蝋石の類 築き立。最瑩潤光沢あり。宮殿椽角《えんかく》等悉く金を鏤《ちりば》め。巨大の油絵の額を掲け。戎器蔵ハ。諸国より褒め得たる。刀剣甲冑小銃の類多し。其中に御国の騎馬武者の像ありしが。其甲冑の着《つけ》かた。馬具結束の仕方等。多く其実を得す
  此地は当国の故都にて市街も広く諸宮殿抔もいと美麗なり
夕六時七分嚮導とともに。滊車にて同所を発せり
同廿四日 西洋十月二十一日 曇。朝八時伊太里都フロランスへ抵り。カランドホテルデペエイといふ客舎へ着く 但汽車場まて礼式掛りのもの等迎ひ候せり
同廿五日 西洋十月二十二日 雨。朝九時コロネール及礼式掛来り。此地国王の別宮へ嚮導ありて。種々奇物珍器油絵石細工等を見るに陪せり。午後英国在留公使来候す
同廿六日 西洋十月二十三日 曇夜雨。朝八時附従のコロネール及礼式掛御導にて議政堂。并石細工所 モザイクといふ此地石細工名産なり を見るに陪せり。議政堂の中央にハ。当代国王を真写せし油絵を掲け其両沿《べり》にハ。先年伊太里国諸大戦争の図なとを多く掛並へ。会議の式ハ。毎歳十一月より 但西洋暦なり 四月迄。諸民の惣代政府へ加祖《かたん》《シタガウ》の者。また其議に反《はん》せしものを。左右に分ち。中央にハ国王。并貴官にて一の国論を出し是を討論せしめ。其可なるを。折衷《せつちう》《サダム》するといふ。但国論に反せし者ハ左に署し。加祖の者ハ。右に着座せしむといふ 又別に高き桟敷を設け。各国在留の公使を引て其議を与《あつか》り聞《きか》しむ。且其面前の高き桟敷にハ。此地のミヽストル始。貴官の婦女出て是を聴聞《ちやうもん》す。其より細工所を看る。種々珍奇の細工あり
  石細工ハ。此地第一の産にして。黒き硯材様《けんざい》の石に種々の模様を
 - 第1巻 p.561 -ページ画像 
琢《たく》したるものなり。其精巧尤細密にして亦優雅《ゆうが》《ミヤビ》なり。其製造の品ハ食盤。小机。函。石板。及婦女子の胸挂の類多し。一の小函石板を製作するも。五六月を経《へ》る其精密なるに至りてハ。十年十五年の久しきを積て成功を竣《おは》るといふ。紫。碧。紅。白。黄。黒。其余間色の石を聚め。人物鳥獣花卉草木其他種々の形を彫琢す。いつれも瑩滑《えいこつ》《ツヤナメラカ》にして真に迫る
同廿七日 西洋十月二十四日 晴。朝七時礼式掛来りて。国王謁見の事を談す。同十時王車二輌を備て。公使を迎ふ。嘗て国情云々告け 蓋羅馬の事件なり 諸式儀仗省略の事を請ける。故に従者も稍減し。午後第一時事畢りて帰宿す。夕六時附従のコロ子ール来り謝し。王命を述て曰。今日公子并伝従の人々をして。烟波絶域に臨み。比鄰親睦の好を結ひ給ふこと。全く御国の厚誼の遠きに及ふ所深く感戴に堪へす。因ていさゝか其意を謝せん為め。此地の貴重のデコラアシヨンさし贈るよし。尤伝従陪行の人々へも。其等級を以て贈り来る。暮七時半。附従コロ子ール礼式掛の者郷導にて。劇を看る。一同陪せり。国王の桟敷へ請し。謁見の時会せし。第一等の礼式掛及陸軍惣督等来り。さまさま饗応して。夜十一時帰館
同廿八日 西洋十月二十五日 晴。夕三時。馬車にて郊外を看る。アルノといふ。都府東北より出る川に添ひて。樹木繁茂し遊歩佳地なり○当時意太里国にハ故ゼ子ラールたりし。ガルバルシーといふもの。羅馬廃滅。仏法掃除各国門地閥閲の旧習を洗除し。全欧洲をして。尽く共和政治たらしむるの説を唱へ。此国政府貴官の者も多く是に同意し。頻りに国王に逼りしか。其淵源深くして。猶次第に滋蔓し。已に仏蘭西より羅馬へ。加勢の為め。人数を繰出し。伊太里へ戦使を出し。羅馬に代り戦争に及んとせり。国王にハ素より。仏国に。戦争の意なけれハ。辞を構へて時機を延したるに。ガルバルシーの奇計にて。国民愈々騒擾《いよ》し。挙て羅馬を攻襲《こうしう》の勢をなし。其中にハ羅馬に潜入して処々侵掠に及しもありて。仏国よりも亦頻りに兵を送る聞へあり。自然和議破れなバ。一乱に及ぶべしと騒然たり
同廿九日 西洋十月二十六日 晴。午後一時半都府東北の山々を見るに陪す。夜九時英国ミニストル書記官来候す。同時滊車にて。別都ミランといふ所へ発す
十月朔日 西洋十月二十七日 晴。朝十時ミランへ抵る。即時太子の伝ゼ子ラール来り安着を賀す
  此ミランハ。意太里国一ケの別都にて。頗る富繞の地なり。市街も広く民戸も稠《しげ》く。故に太子別業とす。往に意太里王チユランの都をフロランスに移せしが。其地陋隘なれハ。再ひ此地に移さんと欲せしが。其費用巨多を患て。未果なりといふ
客舎の前に。仮山水を築きし諸人遊憩の地あり。此遊憩場ハ市人挙醵して造築せしなりといふ 今日ハ日曜なれバ此園に闔都の児女等群集せり。午後三時公使遊覧の為め。太子より。馬車二輌壮麗なるを備へ。ゼ子ラール郷導にて市中処々を見るに陪す。児女等蝟集して道路を遮る郷導鳴鞭して夕五時帰る。ゼ子ラール等へ夜餐を具す。太子の使者来り。明日此地の囿苑にて。共に畋猟せんと請ふ
 - 第1巻 p.562 -ページ画像 
同二日 西洋十月二十八日 雨天なれハ。午前十一時公使太子の居館を訪ふて。今日の畋猟を止めぬ。午時太子も公使の旅館に来り告別す。夜九時公使滊車にて此地を発し。フロランスへ帰る
同三日 西洋十月二十九日 晴。英国ミニストル来賀し。且マルマ島へ巡覧の事を本国王より申越されたるよしを述ふ。尤此地瀕境へ軍艦をよせ迎へんと致せり
同四日 西洋十月三十日 晴。午後三時市中遊覧に陪す
同五日 西洋十月三十一日 晴。朝六時郷導来り滊車にて。ヒーサといふ地の囿苑にて。畋猟するを観るに陪す。途中都府有名の寺院梵刹を見る。中にも。丸き塔の高二十間余なるが。最壮麗にして斜に聳立せる裊々として。微風にも堪さらむかと疑ふはかりにて実に奇製なり。夫より畋猟を観る
  此日の猟ハ。騎馬の勢子二十人許。四方より逐廻し銃手ハ。小さき松の枝にて作れる小屋に潜みて其来るを要撃す。此時鹿六足を得たり
夕四時畢り滊車にて夜七時帰る。騎馬勢子等其外夫々へ賜物あり


渋沢栄一 御用日記(DK010045k-0002)
第1巻 p.562-567 ページ画像

渋沢栄一 御用日記
○上略
 九月十二日 ○慶応三年 曇 水         十月九日
朝九時発軔之滊車御乗組、夕五時巴里御帰館、尤此日は為御見送カピテインニケイズ罷越御同車ニ而二度目の会所迄御送り申上る、滊車は国王の車ニ而御送申上る、夕五時巴里御帰着
渋沢篤太夫儀御取寄品不着ニ付御跡残いたし、本日十二時到着ニ付蒸気車会所江罷越、請取方取計、夫より御付添之甲必丹其外共被下物取調之上引渡す、其夜同所一宿いたす
 九月十三日 曇 木               十月十日
朝九時渋沢篤太夫ブリツセル発、第五時巴里着、夜六時過石見守・俊太郎・篤太夫御用ニ付シヤルグラン隼人正旅宿江罷越す
 九月十四日 曇 金               十月十一日
朝荷蘭赤松大三郎より為替金之儀ニ付篤太夫江書状差越す、第三時石見守コロ子ル御供ホワテブロン御越し、第四時御帰館、夜九時隼人正安芸守御旅館江罷出る、御老中若年寄より被進御品安芸守持参差出す
夜、石見守・篤太夫シヤルグラン江罷越す
 九月十五日 雨 土              十月十二日
第一時、隼人正・安芸守・三田伊右衛門・フロリへラルトシベリヨン等御供博覧会御越、夕五時御帰館、第二時石見守シーホルト以太里公使館江罷越、同国御越之儀引合およふ、夜、石見守・篤太夫シヤルグラン江罷越す
 九月十六日 曇 日               十月十三日
御旅中諸勘定向取調篤太夫より田辺太一江引渡す、御有金御入費共積訳取調いたす
夜七時シルクデアンパラトリース御越、安芸守・石見守其外生徒共御供、十一時過御帰館
 - 第1巻 p.563 -ページ画像 
 九月十七日 曇 月              十月十四日
午後伊太里在留之公使同国御越之儀ニ付罷出、御答申上る、本月廿日御出立御越之積申談罷帰る、夕四時試砲御越、第三時石見守・篤太夫御入用筋御用談ニ付シヤルグラン罷越す
 九月十八日 晴 火              十月十五日
昼十二時伊太里公使館江同国御越之儀ニ付御道筋并人数書相添書状差越す、御入費之儀ニ付石見守・篤太夫シヤルグラン罷越す
 九月十九日 晴 水              十月十六日
朝御乗馬御越、夕方白耳義国御滞在中御附添之カヒテインニケイズ罷出る、同国王女太子江被遣之御品引渡す、御巡国御入用日比野清作より篤太夫請取
 九月廿日 曇 木               十月十七日
朝御国行御用状差出す、第一時保科俊太郎・渋沢篤太夫巴里在留荷蘭公使館江罷越し、同国御越中御付添せしコロ子ルカツパルレン江被下物引渡す
此夕意太里国御越之手筈兼而御治定なりしかは、夕八時御旅館御出発尤御供方并滊車場迄御見送之者等は七時半より御旅館を発しカールデリヨンニ而御待申上る、無程御越ニ而八時四十分発軔之滊車御乗組ニ而御発し相成 此夜、隼人正・三田伊右衛門・田辺太一・木村宗三其外御旅館御留守之者外国局之者一同御見送申上る、会津藩二人唐津藩壱人も御見送申上る 此夜滊車中御徹夜、翌暁六時頃アンベリウルといふ処ニ而御茶被召上、暫時御休息
 九月廿一日 雨 金              十月十八日
昨夜より行路の澗峡に入りしかは新寒稍増して衾被の薄きを覚ゆ、朝来細雨如針殊に鉄路の両沿は総而山岳の蒼々峩々として或は危巌怪石の突兀として途頭にせ蟠し処は滊車其洞中を横衝してこれを過り、其渓澗之深潭ニは鉄橋を架して是を通し、行程愈嶮峻にして鉄路愈堅牢なり 此辺は惣而巌山ニ而処々に石炭を生せり、木々は漸霜紅を帯て各処に其眺を改め、雨中滊車中の眺望其清閑之余味あり 第一時サンミセイル御着、午餐、鉄道も此所限ニ而是より先は馬車ニ而山中を越ゆるなれば夜中の行程不便なるへしとて此日は同所御一泊と相定め、午餐中同所客舎を求めしに邑中僅壱軒の客舎ヲテルデポストといふ而已ニ而家を挙て一行の人を宿するに足るへしといふ サンミセイルより意太里国スーザー迄行程凡十時其間宿すへきの地なく、且スーザーよりチユラン之滊車は第五時発軔の例なれは、此夜馬車中に徹夜しぬるも其益なしとて其夜は同処ニ一泊いたす 二時半頃ガールニ而馬車を雇へしが壱車而已ニ而一行を駕する能ハされば、半は公子に供して半は其馬車の再び還り来るを待れり、ガールより右に折して隘衢を行過て一の往還に出、又右に折して客舎に至る、客舎の主人驚きたる体ニ而相迎ひ、やかて楼上に誘引し各其部屋に附しか陋隘いわんかたもなく尤不潔を極めたり、御着後馬車を雇へ邑中四山の風色を御遊覧、夕三時頃御帰館 此地四面峯巒崔嵬として最高の嶺には既に積雪あり 陋屋之風寒衾被の薄きを恐れしか幸に此夜は寒気弛にして一同安然の想をなせり
 九月廿二日 曇 土              十月十九日
払暁より旅装を理し、朝六時御出発、いと大きなる弐輌の馬車を雇へ サンミセールよりスーザ迄山路嶮峻にしていまた鉄路の設なければ行人の此路を取るは総而此馬車もて山路を越へさるを得す 一行乗組し上に諸荷物を載せたり、其馬車はジリジヤンとて巴里辺ニ而用ゆるヲムニブスといふ車に同しく、行路悪しけれハ六馬、或は八馬を駕せり、
 - 第1巻 p.564 -ページ画像 
客舎を発して峡路を曲折し、或は渓に添へ又は坂を攀ち、八時頃一村落にいたる、村中滊車及鉄道を製する器械あり、こは仏国商人の戮力して滊車を此峡路に開き、いと広大なる巌山の半腹を洞し、滊車を平垣に意太里国迄達せしめんとする為に右の器械等を開きしにて、未成なれとも日を追て其成功を見へしといふ、又馬車通行之路傍には別に小さき鉄路を造作しあり、是は米利堅人の発起にして従来の峡路に添て小滊車をこの山に通せしめんとする為なりといふ、其危巌の崔嵬たる処はこれを洞突し、崕峡の懸絶せし処はこれを桟架し、其精其巧実に天造を自製せんとす、山行の深きに随ひ峡路も嶮峻なり、霜を帯る葉は微紅錦を畳み、巌に咽ふ泉は純白素簾を劃せり、満山総而巌石ニ而、高聳骨立し、尤松檜之樹多し、峡路の稍窮まりし処より、攀躋凡一時程尤嶮岨にして且高し、漸にして絶巓に達す 其攀躋の尤急岨なる処は馬車の労を助けんとて公子始車を降り、徒歩にてこれを攀たり、此日は空曇り山中は雲烟にて四望弁し難けれとも、奇峯懸崕の雲霧に出没して、其貌を改むるも頗る雅興を添たり、山の中腹には新雪処々に堆く、攀躋の疲労せし頃は積雪を取りて渇に饗す、其味清絶なりし 絶巓に二三の人家あり、馬車の替馬を出し、及鉄路を造れる工人の泊する家なりといふ サンミセイールよりスーガ迄馬車の馬を替ること六次、其初は六疋中は七疋、嶮峻の処は拾弐疋を駕せり 其巓窮て降らんとする路傍に石抗あり、仏蘭西・伊太里両国境の封柱なりといふ、夫より山路下低して漸平夷なり、下阪の半より雲霧晴て初而意太里の諸山を見る、其眺望絶佳なり、夕四時半スーザ滊車会所御着之ところ、意太里国為御迎コロ子ルイシヤクエードボヲヤニといふ者罷出て御安着を祝す、直ニ滊車御乗組、夜七時チユラン御着、ホテルデヨウロツパといふ客舎御投館、御案内之使者も御供して罷越、明日御遊覧のため同所御滞留あり度儀国王より申越されし旨申上罷帰る、此夜巴里江電信差出す、今日当地御休息、明日フロランス御越之儀申遣す
 九月廿三日 曇 日              十月二十日
朝十一時コロ子ル罷出、御案内申上一同御供にて本地国王の別宮及古代の武器貯所其外説法所等御巡覧、第一時御帰館 別宮の玄関及階子共総而マルブルといふ白き石ニ而築立尤美麗なり、其宮殿は総而金ニ而類鏤し、巨大なる油絵の懸額あり、武器蔵所には諸国より集めたる刀剣甲冑小銃の彫多し、其中に御国騎馬武者のありしか其甲冑の着し方馬具結束之法多く其実を得されは、これを御説示ありしかは御案内之者喜んて拝謝せり 夕六時同所御出発、滊車会所江御越、六時廿分発軔之滊車御乗組、尤御附添せし使番も御同車申上る、翌廿四日朝八時都府フロランス御着、ガラントヲテルデペユイといふ客舎御投館、滊車場迄礼式懸シバリヱーキユーリヨウチニ外壱人御出迎申上る
 九月廿四日 曇 月             十月二十一日
午後巴里江御用状差出す 終日御休息、記事なし
 九月廿五日 雨 火             十月二十二日
朝九時コロ子ル及礼式懸之者罷出、本地国王の別宮御覧に入るとて石見守・俊太郎・凌雲・御扈従向両人シーボルト御供別にて、種々奇珍の品・油絵・石細工等御一覧、十二日御帰館、午後英国在留公使罷出る
 九月廿六日 曇夜雨 水           十月二十三日
朝九時御附添コロ子ル及礼式懸御案内、本地議政堂并本国名産の石細工 モザイクといふ 等御覧に入るとて石見守・俊太郎・篤太夫御雇の者両人シーボルト御供に而御越、昨日御覧ありし国王別宮の続きなる広大なる
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堂宇江御案内、油絵御一覧、夫より議政堂御越、議政堂の中央には国王の油絵を懸け、其左右に諸人の会議所を設け、其両面は大きなる油絵の懸額あり、先年意太里国戦争の図なりといふ、会議の式は年々洋暦十一月より四月迄諸民の惣代政府江加担之者及其議に反せし者を左右に分ち、中央に而国王及諸貴官ニ而一の国論を出し是を討議せしめ其可なるを折衷するといふ 国議に反せし者は其左に位し加担の者其右に着座すといふ 又別に高き桟敷を設け置、各国より在留之公使を引て其議を与聞かしむ、且其面前の高き桟敷には本国ミニストル始貴官之婦女罷出て、これを聴聞すといふ、御一覧後石細工所御越種々奇珍之細工御一覧 石細工は本国第一の名産ニ而黒き硯石様の石に種々の模様を琢き出したるもの也、其精巧緻密ニ而製作も甚緩優なり、其製作し出す品は食盤・小机・筐石板及婦人の胸掛の類多し、一の小筐石板を製するも五六ケ月を経て其功を遂く、其精密なるは十年十五年の歳月を積て其成功を果す、紫青紅白黄黒種々の石品を集め人物・樹木・果花其他種々の模様を琢出す、其美麗にして真に迫る彫刻画描の比にあらす 昼十二時御帰館
 九月廿七日 晴 木              十月廿四日
此日国王御逢之積、礼式懸之者申上、朝十時王車弐輌を備へ御迎申上る、尤国情云々も有之、不表立様御逢致度因て御陪従人数可成丈御減し被下度申聞、石見守御雇両人シーボルト御供、十一時御逢済御帰館 御逢の手続は別ニ記したれはここに略す 夕六時御附添コロ子ル罷出、今日御懇篤之御逢相済絶境隔地比隣の御親睦を結ふことを得るは全
大君殿下御厚意且公子遠路御来臨あられし為なれは、右拝謝の意を表するため、同国貴重のデコラシヨン差上度国王申越候旨申上る、尤石見守・俊太郎・凌雲・篤太夫へも其等を以被相送る、夕七時半劇場御越、御附添コロ子ル礼式懸之者御案内、石見守以下一同御供王家の桟敷ニ而御覧、御逢之節御取扱申上し第一等礼式懸及陸軍惣督等罷出て御挨拶申上る、夜十一時御帰館
 九月廿八日 晴 金              十月廿五日
明廿九日本地御出立、ミラン御越之積ニ付御滞在中御取扱ありしコロ子ル礼式懸之者江被下物取調、夜御同案之夜餐被下被遣品は石見守より引渡す、一同拝舞して御礼申上る
礼式懸ソンヱキセランスルヂユクドサルテラナ同ルマントメナブレア江御滞在中の挨拶として石見守より名札差越す、夕三時馬車ニ而都府外の郊御遊覧、五時過御帰館 郊はアルノといふ都府、東北の山より流出する河に沿ふて樹木繁茂して頗る遊歩に宜し 当時意太里国には元同国セ子ラル相勤めし、ガルハルシーといふ羅馬廃滅仏法掃除之説を唱へ、意太里政府貴官之者にも同説の者多く、頻に国王に迫りしに其淵源尤深かりしかば、其説次第に延蔓し仏蘭西国より羅馬加勢のため人数差出し、意太里江戦使を越し、羅馬に代て戦争可及旨被申越、国王にも固より仏国と戦争の意なければ夫是時機相延し候処、ガルバルシーの奇計にて国民頻りに騒擾し、挙て羅馬攻襲の勢をなし、其中には羅馬に潜入して処々攻撃およひしよし、遂に仏国との和議破るれは国を挙て仏国と戦はざるを得さるとて、国王は更なり政府も大に騒擾し、討論日夜止ますといふ
 九月廿九日 晴 土              十月廿六日
第一時半都府東北の山眺望に佳なるとて御附添コロ子ル御案内、石見守・凌雲・御扈従両人シーボルト御供ニ而御越、夕四時御帰館
夜九時英国より在留之ミニストル書記官差出し、本国より申越之旨有之候
 - 第1巻 p.566 -ページ画像 
ニ付、公子意太里近海之英国所領之マルタ島江御遊覧被下度、尤軍艦を以御迎申上候旨申上る、尤本夜は意太里別都ミランといふ地御越之積兼而御手筈相成ぬれば、来十月二日再ひ本地江御帰之上御越可相成旨御答相成、夜九時半御旅館御発し滊車御乗組、十時十五分発軔、其夜滊車中御徹夜、翌朝十時ミラン御着、ヲテルカブウルといふ客舎御投館
 十月朔 晴 日                十月廿七日
朝十時ミラン御着、直ニ太子附之セ子ラール罷出て御安着を祝す、明日太子御逢仕度旨申来る、ミランは意太里国一箇の都府ニ而殷富之地なり、街衢も広く人口も稠密なり、市戸の布置佳麗にして生業も富饒の様子なり、先年意太里王チヱランの都をフロランスに移せしかフロランスハ街衢陋隘にて都府に便ならされば再ひ此地に移さん《(と脱カ)》欲せしが、其経費の多きを患ふていまた其意を果さすといふ、客舎の前に市人戮力して造りたる広き園あり、奇草佳樹を植並へ、処々に石泉を注て頗る遊歩によし、此日は日曜日なれは遊歩ながら我公子を見んとて闔郷の女児客舎の前に充満せり、第三時太子より馬車二輌を差越し、其セ子ラール罷出て市中御遊覧之儀申上る、石見守・俊太郎・凌雲・篤太夫御小姓両人シーホルト御供、市街御遊覧夕五時御帰館
此夕御案内之セ子ラアール江御同案之夜餐被下、太子より使者を遣し明日太子の旅宿ニ而御逢之上御誘引申上、本地の囿ニ而畋猟相催御慰申上度旨申越す
 十月二日 雨 月               十月廿八日
昨夜より雨降出し御催之猟御越相成兼ぬれは、朝十一時石見守シーホルト御小姓両人御供太子の宿所御越御逢有之、昼十二時太子御旅館迄訊問、暫時御雑話申上引取第一時
大君殿下之御写真、公子の御写真共御送相成、夕方太子写真二枚為御礼差上る 夜九時発軔之滊車御乗組、滊車中御通夜、翌暁七時半フロランス御着、最前御投宿ありし客舎江御投館
 十月三日 晴 火               十月廿九日
御着後直ニ英国之ミニストル罷出、御機嫌を伺ふ、且マルタ島御越之儀英国女王申越せし旨申上、則当地近港江軍艦ニ而御迎申上候積、右軍艦未着ニ付暫時御休息相願度由申上る、巴里より御用状到来いたす、荷蘭カツペルレン被下物之謝状差越す
 十月四日 晴 水                十月卅日
朝巴里江御用状差出す、英国より御招待ニ付公子マルタ島御越可相成旨申遣す、第三時市中の囿園御遊覧石見守御扈従之者両人シーホルト御供、第四時頃御帰館
 十月五日 晴 木              十月三十一日
朝六時御旅館御発し蒸気車ニ而ビイザといふ地御越、王家之囿ニ至る、第九時十五分同所御着、滊車場には其地畋猟之事を宰する者罷出て御迎申上る、直ニ馬車御乗組、当地有名なる寺院御案内御覧、此寺院中にある丸き塔頗る奇製ニ而其造立斜にして転せんとする者の如し、高さ弐拾間余もありて尤壮牢なり、御一覧後客舎御越ニ而午餐、十一時客舎を発し、王家之苑に御越御休息、夫より畋猟御催之ところ、いまた勢
 - 第1巻 p.567 -ページ画像 
子人数整わすとて山林中御遊歩、第二時頃より御猟 此日の猟は、騎馬の勢子二十人計四方より駈逐し、銃を取る人は小さき松枝にて作りたる小屋ニ潜居し、其逃去る処を射る此日の獲鹿六頭なりし 第四時御済馬車ニ而滊車場御越、第五時発軔、夜七時四十分御帰館 此日騎馬の勢子其外御取扱之もの江被下物いたす
○下略


渋沢栄一 書翰 赤松大三郎宛 (慶応三年)九月一四日(DK010045k-0003)
第1巻 p.567 ページ画像

渋沢栄一 書翰 赤松大三郎宛 (慶応三年)九月一四日 (男爵赤松範一氏蔵)
西暦十月七日御差立之貴翰同月十一日巴里表相達拝誦仕候、爾後御清穆可被成御座奉万寿候、民部公子益御健康随而御陪従一同無異罷在候是御休神可被下候、巴里在留之者一同平寧外々勿労高意、然者為替金請取処之儀ニ付御問合申上彼是御面倒多謝仕候、右は其節孛都ニ而差支可申と存候故申上候儀、帰仏之上は別ニ差支も有之間敷、近々其会所江罷越、例の手形仏貨に引替候積ニ御座候、此段御安意可被下候、公子孛国行之儀白耳義より御越候積ブリツセルニ而も其国の公使江引合手筈いたし置候処、先方差支之旨ニ而御出立前日に至り被相断、因而一ト先帰仏と相定申候、其段も早速可申上候処、何々取紛れ延引仕候、御書中右旨趣新聞紙中御承知之儀却而不煩黄口候、公子も両三日御休息尚又以太里国御越之積ニ候、尤以太里御済之上、兼而手筈通英国御越、始終御旅中に当年を相過可申、旅況御垂憐可被下候、御供方ハ矢張先達而之通之積ニ御座候
近々博覧会ニ付御出巴之由前条以太里行相成候ハヽ駈違拝眉相成兼候儀と存候
辰下追々薄寒折角御調護専一奉存候、前段之旨趣伊東林二兄へもよろしく御伝声奉希候、尚後鴻縷々可申上候、頓首白
  九月十四日
                      篤太夫
    大三郎様
       貴下
  御端書逐一拝承仕候、石州御頼之絵図及荷蘭貨幣之代は百六拾フランク余に当り候、ギユルデン御出立之前夜石州之サルヲンニ而差上申候
  右は小生存違歟も不相分候得共、多分右ニ存居候、尚御勘考可被下候


(日比野清作) 各国江公使御巡行御留守中日記(DK010045k-0004)
第1巻 p.567-568 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

高松凌雲翁経歴談 第三七―三八頁 〔明治四五年四月〕(DK010045k-0005)
第1巻 p.568 ページ画像

高松凌雲翁経歴談 第三七―三八頁 〔明治四五年四月〕
○上略
二十七日 ○慶応三年九月 民部公子、国王に会見せらる。同日公子を始め、一行中、山高石見守・保科俊太郎・渋沢篤太夫・高松凌雲等に勲章を贈らる。同夜は国王の招きにて皆々羽織袴を着し、勲章を佩び、劇場を見る。恐く彼が為に見られしなる可く今にして之を思へば、其奇なる一笑す可し。


(山高信離手稿) 航梯日乗(DK010045k-0006)
第1巻 p.568-569 ページ画像

(山高信離手稿) 航梯日乗 (男爵赤松範一氏所蔵)
○上略
九月廿日 ○慶応三年 夕八時半巴里斯御出立、伊太里江被為赴、此度も向山ハハ《(衍)》猶当地ニ御用有て御附添不申上、如先石見守・俊太郎・凌雲・篤太夫シーボルト御附四人ニ而御出立、蒸気会所は不残御見送申上、徹夜御乗車也
○中略
廿七日 十時ニコロ子ール并礼式掛王家の車二輌を備へて為御迎参上、右車ニ而王宮へ御出、此度は御懇親の御尋問のみ、且自国多事の折柄ニ付、都而礼式を殺し可申とて、直チニ王の居間へ御通被成、此席へは石見守通弁シーホルト耳御附添、彼の方士官も尽ク次の間ニ扣へ罷在ものなり、尤右の通礼式もなきものなれハ平の御服ニ而被為入御供ハ石見守シーホルト御附両人ハ御扣処迄なり、居間おゐて暫時御対話、御退出かけ御案内のセ子ラール公子へ申上ニハ、此度御尋問の処国王尤も満足いたされ候ニ付、於自国尤も所貴重の第一等の功牌を進上被致度由ニ御坐候、右相応《(当)》に御挨拶被遊而御退参、第七時半コロ子ール礼式掛為御迎参上、コロ子ール功牌持参、公子へ差上第二等頚ニ
 - 第1巻 p.569 -ページ画像 
かくる所の功牌を石見守其次なるを俊太郎・凌雲・篤太夫・シーホルト四人江国王より此度御附添自国迄被参しを謝せんとて各位ニ差贈る旨申出、公子御受納相成義ニ付一同も受納せり、其形は如図絵器ニして玉縁ハ金緒ハ萌黄なり、形いつれも同様ニ而大小あるもの也、今宵ハ御兼約の通芝居見物、各右の功牌を帯可罷越、曾てなき物を附たれハいとおかしきもの也○下略