デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第2巻 p.375-377(DK020064k) ページ画像

明治三年庚午四月十二日(1870年)

静岡藩士族前島密租税権正ニ任ズ、是ヨリ栄一前島ト事務ヲ共ニス。


■資料

大蔵省沿革志 本省第三・第三一丁(明治前期 財政経済史料集成 第二巻・第二六八頁〔昭和七年六月〕)(DK020064k-0001)
第2巻 p.376 ページ画像

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鴻爪痕 (前島弥発行)・第二一頁(DK020064k-0002)
第2巻 p.376-377 ページ画像

鴻爪痕 (前島弥発行)・第二一頁
○上略 私が初め大蔵省に任命したのが十一月でありました。前島さんは民部省に最初出たのである。それから三年四月十二日に租税権正になられた。○中略 民部省から大蔵省へ抜擢して五等と云ふのですから、二等許り上げてさうして租税権正に任じた。そこで改正係に私共と共に仕事するやうになつたのです。是が抑々初めてゞあつて同時に仕事をするやうになつた訳であります。それから鉄道の事、租税改正の事と云ふやうな評議を頻りに初めた。鉄道の事に就ても同君は種々欧羅巴のことも知つて御座つたから、改正係に於て調べられたやうに覚えて居ります。それから駅逓を改正しよう、鉄道を作らなければいかぬ、貨幣を改正しようと、斯う云ふやうな各種の改正を考へた。即ち改造係りである、其内に駅逓の事が大変に一つの緊急問題となつた。それは幕府《(マヽ)》の諸藩《(マヽ)》が旅行する時分の制度が大変悪かつた。大勢の供を連れ参勤交替などと称へて加州などでは、何百人と云ふ人が鎧を持ち、弓を持ち、色々な道具を持ち一人の人が数十人の人夫を使ふから、其時には人夫の要ることが中々多い。其人夫に出る事が百姓の一つの稼ぎになつて居つた。農間に出て長持を担いだり、色々な物を担ぐ、其時の賃銀は相当な価があるから農間にやつた。宿駅の近所の村方では御伝馬助郷人足と云つて何処の村では何人、何処の村では何人云ふ割付で出来て居つた。所が貨幣が近頃の有様の様に多くなつて仕舞つて、もとは享保頃の貨幣で定めて居つたもので相当の購買力があつた。然るに貨幣の変更から購買力が減じても、もとゝ同じ金額であるから大変に計算が安くなつて仕舞つた。例へば、給金が米の十円の時は十円で宜いが、米が五十円になれば給金も五十円にして呉れなければならぬ。所が其割合が給金は同じく十円で米が五十円になつたと同じやうなものであるから、給金は却て五分の一にされた訳である。そこで宿駅の人足が段々少なくなつた、酷く困つた。殊に幕府の時分には兎に角幕府の威光で無理に圧迫したけれども、御維新になつてはそんなことは利かなくなつて仕舞つたから、殆んど駅逓が出来なくなつた。同盟罷工と同じやうになつた、敢て同盟罷工と云ふ程でないけれども、さう云ふやうな風になつて仕舞つた。そこで是れは何とか方法を立てなければならぬと云ふのが大蔵省の最も緊急問題となつた。これを改正係で何とかして呉れと云ふことになつた。大隈さんなども是はどうも改正係が考へて呉れなければいかぬ、皆で十分思案して見て呉れと云ふことであつた。私共が幾ら考へて見たけれども、宜い思案もない。所が前島さんが専ら任じて、宜しい己が一つやつて見ようと云ふので、前島さんが其時に矢張り大蔵省駅逓局と云ふものがあつたから租税権正が駅逓権正を兼任してやるやうになつた。是れが五月十日と思ひます。夫等の取調を凡そ斯う云ふ方法にしたら宜からうと云ふこ
 - 第2巻 p.377 -ページ画像 
とを駅逓権正になつてから調べたのでなかつたやうに思ふ。恐らく数ケ月調査をされて是れなら行けるだらうと云ふので取極めたやうに覚えますが、是れで見ると四月十二日に租税権正に任じて、それから五月十日に駅逓権正になられた。丁度一月許りしかなかつた。それから直ぐ六月上野(大蔵大丞)と一緒に英吉利に御出になつたやうであるが、私共は其処は判然と覚えませぬが、もう少し長く御座つたやうに思ふけれども、駅逓権正に任ずると云ふのはさう云ふ事情でありました。
此間が短い時であつたけれども種々御懇意申して接触をしたので、玆に初めて前島君と云ふ御方は実に種々なる方法の立つ御方だと敬服しました。此頃が毎日一緒になりました時であつて、一月であつたか、二月であつたか、仕事をしたやうに覚えて居る。○上略
   ○右ハ栄一ガ前島密ノ追懐ノ為メニ試ミタル談話ノ一節ナリ。