デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.114-119(DK030031k) ページ画像

明治四年辛未四月二日(1871年)

是ヨリ先大蔵少輔伊藤博文米国ヨリ金貨本位制採用・紙幣発行会社設立ノ事ト並ビテ金札引換公債証書ヲ発行スベキコトヲ大蔵卿伊達宗城ニ建議ス。栄一本年二月三十日大蔵卿・参議大隈重信・少輔井上馨等ト連署及ビ単独ニ伊藤ニ書ヲ送リテ、公債証書及ビ会社紙幣ノ註文ヲ一時見合スベキヲ説キタリシガ、此日連署ノ書状ヲ以テ公債証書二千五百万円、会社紙幣一千万円ノ註文ヲ承認ス。尋イデ同年六月ニモ更ニ連署ノ書状ヲ以テ右ノ件ヲ命ジタリ。


■資料

青淵先生伝初稿 第七章四・第二二―三四頁 〔大正八―一二年〕(DK030031k-0001)
第3巻 p.114-116 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章四・第二二―三四頁 〔大正八―一二年〕
○上略 伊藤博文の建白が政府に到著せるは、明治四年の春なりしが、大蔵省にては直に賛意を表責せず、同年二月二十日《(三)》、先生時に少丞たりが大蔵卿伊達宗城・参議大隈重信・少輔井上馨と連署して在米の伊藤に寄せたる書翰に、「国債証書之法、御申越之通、実に緊要之事件、いづれ此度新旧紙幣交換之際、共に国債法をも興し候様いたし度、乍去下手の順序は、右紙幣之処置、目途相立候上にて不遅事と存候間、即今新約克商会へ註文之儀は御見合有之候而可然と存候。尤貴兄御帰朝後、更に御弁明有之、前条之処分仔細に御商議之上、稍相決し候場合に至り候はゞ、果して御見込之如く、註文いたし候方可然候得ども、現今一途
 - 第3巻 p.115 -ページ画像 
取究候義は、尚御再考有之度候。因に御説明有之候国債証書我邦に相行はれ、多く巨商豪農の手に聚り候上にて、其証書を以て紙幣を発行いたし候義は、至極便利之処置に相聞候得ども、其国体により、人民之権利に差別も有之、一概に彼を以て是に移し候事も如何可有之哉、右等は最重大の事務に候間、いづれにも御帰朝之上、御探討之次第逐一御面議、夫是参酌いたし決定候様仕度と存候」といへり。之によれば、公債は時期を待ちて発行の意志あれども、銀行に至りては寧ろ反対なりしが如し。されば同日先生が伊藤に寄せたる私信に、「紙幣発行之義に付ては、井上君にも品々御見込有之、ナショナルバンク発行紙幣之方法、御同人に於ては未タ逐一了解被成兼候様子、且米国と御国との状情自ら差別可有之、彼の良法も是に不便無之とも難申との懸念有之候よし、夫も御尤千万と被存候得共、尚御帰朝之上御面話にも相成候ハヾ、適宜之御処置可相立と奉仰望候、因而紙幣並国債証書註文之義は、先此度は御見合之積に候間、御了承被下度候、右等巨細之御答は公状にて申上候間、御判覧可被下候」とあるにて、当時の状況を察するに足らん。蓋し伊藤の建議が政府を警醒せる力は大なれども、大蔵の当路者さへ理財の智職尚浅く、公債・銀行等に関して未だ定見を有せざりしかば、其議容易に納れられざりしならん。但し先生の私信が伊藤に左袒の趣あるは、思ふに其滞欧中に於ける実験あればなるべし。然れども伊藤は固く自説を執りて動かず、特に随員吉田二郎を帰国せしめて其説を尽さしめたるが、大隈・井上等は尚疑懼して賛成せず、審議熟案の為に伊藤の帰国を促すと共に、公債証書及び銀行紙幣の製造につきても之を抑止せんとす、此時伊藤は既に米国政府を介して、ニューヨーク紙幣会社と紙幣製造の交渉中なりしを以てなり。然るに同年四月二日に発せし先生等の連署状には、「公債証書並会社発行楮幣註文之儀に付、別紙書状を以其得失を概論いたし、是非とも御帰朝の上更に御面議を遂げ候上にて相決し度段、詳明に縷陳いたし候間、夫々御了解可有之候。乍去吉田二郎口頭に附し御申越之次第も有之、既に予め前書両種製造方、新約克コンチネンタル会社へ御談判も有之、且米国会計事務局官吏も紹介いたし呉候程の義にて、万一悉皆後日の所決に附し候ては、体裁にも相関し候程の義に候はゞ、公債証書の方は、先素より御協議の義にて、唯遅速までの論に候間、凡御申越の三分一積、別紙割合の通、此度註文いたし、夫々確実に約定相成候様致度。○中略 会社発行紙幣の義は、何分此処にては註文不相成様致度候間、是非とも御帰朝の上再議に附し候様御取計有之度、乍去万一其義を得兼候事情も有之候ハヾ、是又御申越の五分一積、別紙割合の通、御申付有之度云々」と見ゆれば、公債証書の件は省議ほゞ之に傾き、唯時機の遅速のみとなりたれども、銀行の事は甚しく躊躇せるを見るべし。此時伊藤に通達せる製造額は、公債証書記名の分一千万円、利息札附公債証書一千五百万円、会社紙幣一千万円にして、此紙幣は将来若し中止に決せば、各為替会社の準備金券に使用するにありしといふ。先生が五月四日重ねて伊藤に寄せたる書中に、「先頃吉田二郎御遣しに付、数件之公務詳細御示諭も有之、二郎口頭よりも更に承知仕、其後品々討論を尽し、漸過便夫々御答申上候に付、最早逐序御処分相
 - 第3巻 p.116 -ページ画像 
成候事と奉存候。何分菲才魯鈍、毎事不行届之至、赧然奉謝候」と見ゆ。これ公債及び銀行の件を指せるなれば、思ふに先生は伊藤と同じ見解を抱き、周旋尽力せるにも拘らず、遂に省議を決すること能はざりしを陳謝せるものに似たり。
是より先、伊藤の証書・紙幣共に中止の命に接するや思へらく、これ衆議を尽せしものにあらず、大隈・井上の臆断に出でたるのみ、且つ二人とても確乎たる定見あるにあらざれば、省議を変更せんこと必ずしも困難ならずと、独断にて其製造に関する交渉を進め、後事を通商正中島信行、及び本国より帰米せる吉田二郎に託して帰朝せるは、同年五月なりき。かくて伊藤は熱心に持説を主張し、省議を翻さんことに努めたる結果、銀行設立の事僅に同意を得たれども、銀行制度に至りては、尚異議あるを免れず。伊藤の提案は、之を紙幣銷却の最良方法なりといふにありしが、反対論者の説は、紙幣銀行は我国情に適せざるが故に、啻其目的を達すること能はざるのみならず、却て中道にして蹉跌し、更に一種の紙幣を増加するの虞あり、銀行を起さんとせば、宜しくゴールドバンク即ち金券銀行の組織に傚ひ、兌換制度を採用せざるべからずと称し、議論紛然たり、大蔵省出仕にして後に少丞に転じたる吉田清成は金券銀行論の牛耳を執れるものなりき。然るに六月の初旬に至りては、省議伊藤説に傾けるものの如く、同月五日先生此時権大丞なりが伊藤・井上と連署して、在米の中島信行に寄たる書中に、「公債証書は委細取調の上更に達すべければ、暫く之を措き、会社紙幣の製造を以て主眼となし、別紙約定書の例に従ひ、コンチネンタルバンク社中と契約を締結すべし」といひ、併せて其製造額は一千万円なるべきことを達せしが、十五日先生は又公債証書記名の分一千万円、利足札附の分一千五百万円製造の命を中島に伝へたり。公債証書製造の事は此際確定せるなるべしといへども、銀行設立の事は尚決したるにあらず、唯便宜既に交渉の成立せる紙幣製造の約定を結びたるのみ。○下略


貨政考要 下編・第二〇六―二〇七頁〔明治二〇年〕(明治前期 財政経済史料集成 第一三巻・第四一七―四一八頁〔昭和九年七月〕)(DK030031k-0002)
第3巻 p.116-119 ページ画像

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世外井上公伝 第二巻・第一六一―一六四頁 〔昭和八年二月〕(DK030031k-0003)
第3巻 p.119 ページ画像

世外井上公伝 第二巻・第一六一―一六四頁〔昭和八年二月〕
  第九節 国債の創設
   一、内国債
 政府が始めて国債を負うたのは、廃藩置県の結果諸藩の負債を引受けた時であつた。抑々この起債をなすについては、政府は如何にして取扱ふべきか、予め研究もしたであらうし、又十分成案が出来たから決行したことに相違はない。然らば国債法の事は、いつ頃から準備に取かゝつたか。それは明確にはいへぬが、三年末に在米中の大蔵少輔伊藤博文が、国債証書の説明をして来てゐるやうであるから、その頃が最も古いかと思ふ。伊藤の通信に対して公等の答書は四年二月三十日に出てゐるが、その書中に、「国債証書之法、御申越之通実ニ緊要之事件、いづれ此度新旧紙幣交換之際、共ニ国債法をも起し候様いたし度、」とあり、又、「御説明有之候国債証書、我邦に相行われ、多く巨商豪農の手に聚り候上にて、其証書を以て紙幣を発行いたし候義は、至極便利之処置に相聞候得ども、其国体ニより、人民之権利に差別も有之、一概に彼を以て是に移し候事も如何可有之哉。右等は最重大の事務に候間、いづれニも御帰朝之上、御探討之次第逐一御面議、夫是参酌いたし、決定候様仕度被存候。」大蔵省文書とある。而して同日附、渋沢栄一大蔵権大丞から伊藤に送つた書翰中に、この度は国債証書の注文は見合せの積りであるから、承知してくれよと述べてゐる。然るに四月一日附、公等から伊藤に出した書中には、国債証書の注文を認めてゐるのを見れば、その間伊藤は米国から建議して、注文を取計らふやうに至つたものと解せられる。この時発行することに決した数は、姓名記載公債証書一千万円・利札附公債証書一千五百万円で、総計二千五百万円であつた。○下略