デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.143-144(DK030040k) ページ画像

明治四年辛未五月四日(1871年)

在米大蔵少輔伊藤博文ニ書ヲ寄セテ公債証書及ビ銀行紙幣ノ図案ニ付キ報告ス。以後図案ニ変更アリシモ、栄一終始之ニ与ル。


■資料

青淵先生伝初稿 第七章五・第三―九頁〔大正八―一二年〕(DK030040k-0001)
第3巻 p.143-144 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章五・第三―九頁〔大正八―一二年〕
銀行紙幣に印刷せる各種の図様も亦先生の選定に係れり。初め大蔵省が公債証書及び紙幣の製造を伊藤に指令するや明治四年四月、尋で五月四日其図案等をも送付せり、其時先生より伊藤への書中に「証書・紙幣へ相用候写真の義は、先別紙の通見込相立差上申候、是も品々愚考いたし候へとも図画は所詮難相用被存候間、是非名公・巨卿之影相へ景色を添差上可申と心配いたし、予め手筈相整候処、尚又異議を生し、遂ニ尋常の写真とのみ相成候。右様の次第に付、何事も意外に出、其上大隈は多忙、井上は先達てより山口藩へ罷越、彼是と唯小生而已区々従事いたし候間、実に不都合千万に御座候。尚其辺の景状は、吉田二郎口頭より御聞取御諒察可被下候。」又其別紙にも「公債証書其外へ可相用写真並書込文字の儀は、種々工夫いたし、建議の次第も有之候得共、何分廟議因循にて、遂に郵船開帆之期限迄其儘打捨居、何様切迫いたし候ても、更に御下知無之、無拠先別紙写真取揃、乍不都合差進し候間、可然御取計被下度、尤写真中、是非条公、岩公辺御対話の模様、又は宝器の類相加へ度積の処、総て御許容無之候。」など見えたるにて、先生の意見が廟堂の納るゝ所とならざりしを知るべし。文中別紙といへるもの今伝はらざれとも、是より先四月二十四日、大蔵省より太政官に稟議せる写真模様書の文書に左の記事あり、
 姓名記載並に利息札付国債証書都合七種、
  景色・人物を併写する図画を、右証書上段の中央に挿入す。
  右納言以上議政の模様と、皇城の景色を併写し、並に皇城中最も景色の所に於て、伶人奏楽の図を写す、但毎種其色人物の位置を異にすべし。
 会社発行紙幣四種、
  表面下段右の方に大蔵卿の写真像を挿入し、左の方に皇城の小景色を摸し、裏面に皇城の大景色を刻す、但景色は四種其模様を異にす。
然るに太政官は之に対して、「写真模様の儀は、人物等相除き、都て景色の方相用可申事」と、指令ありしかば、先生等は此指令に基きて選定せり。伊藤への書中に「尋常の写真とのみ相成候」といへるは、此事を指せるならん。然るに廟議又変じて、先生の主張は或程度まで行はれしものゝ如く、其後紙幣の図案として数種の図絵を中島信行に送りたるに、中島は三韓征伐・天の岩戸開・二図の外は、皆粗雑にして用ゐ難ければ、古来の英雄・豪傑の図画、又は三職太政大臣・左右大臣・参議諸省長官の写真等可なるべし」と言ひ、発生は更に井上等と謀り、蒙古襲来楠公迎輦等、数種の古画を摸写して逓送せり。かくて議幾度か改まり、
 - 第3巻 p.144 -ページ画像 
最後に決定せるもの左の如し。
  種類   表面図様            裏面図様
 壱円札  右方 為朝 左方 兵船     元寇撃退
 弐円札  右方 新田義貞刀ヲ投シテ海神ニ祷ル  皇城(旧江戸城)見付
      左方 児島高徳桜樹ニ詩ヲ題ス
 五円札  右方 田植 左方 稲苅     日本橋 皇城櫓及富士山遠望
 拾円札  右方 左方 天岩戸開      神功皇后征韓
 弐拾円札 右方 素戔雄尊 左方 八頭蛇  大己貴二神ニ矛ヲ授ク