デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.277-283(DK030088k) ページ画像

明治四年辛未十一月二十二日(1871年)

父市郎右衛門逝ク。法諡シテ晩香院藍田青於居士ト曰フ。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第二一―二四丁 〔明治二〇年〕(DK030088k-0001)
第3巻 p.277-278 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第二一―二四丁 〔明治二〇年〕
偖て十五日○十一月 に東京へ帰つた処が、其月十三日に旧里の父が俄に大病だといつて、帰着した其晩に急飛脚が来たから、即刻にも旧里へ出立すべき筈の処が、何分まだ大阪滞在中の復命もせず、且又賜暇の手続も経ねば私に旅行することは出来ぬから、一夜を千秋の思ひで翌日早朝に井上に逢つて、大阪の模様を陳述して直に親病気看護の為め、帰省の許可を得て、即時に東京を出発し、大雨を凌て行程を急がせたが中山道の深谷宿までいつたら、其夜の九時頃になつた、それから深谷の杉田で夜食をして、旧里の家へ着したのは夜の十一時過であつた、父の病気は十三日の夜から発して、一時は脳の刺撃が強くて、殆ど人事不省の大患であつたといふが、此の夜自分が着した頃は大に容体が回復して、気力も聊か生じた様子で、自分が看護の為めに来たのを頗る喜ばれました、去ながら実に由々敷大患であるから、種々に治療の手当をして昼夜看護をしたが、父は自分も這回は余程の重症と思はれた様子で、後々の事など懇切に遺命しられました、其翌十八日の朝までは別に変症も見えなかつたが、其日の昼頃から復た人事不省となられたから、此ぞ一大事であると猶更心を砕いて医薬に手を尽したけれども、如何にせむ次第に危篤に瀕して、終に其月の二十二日、六十三歳を一期に長眠されました、一族の愁傷は申すまでもないが、自分に於ては実に終天の遺憾で、慟哭の至りに堪へられなかつた、憶ひ回らせば九年前に旧里の家を辞して後は、父も老年ながら極めて健全で、家業の製藍は勿論、農桑の事までも自身に担当して、怠らず世話をしられ、気力は少しも昔年に異りなくて、自分が東京に住居の後は度々老後の摂生を勧めて逸居を請ふたれども、何時までも厳格で、官民位地を異にする抔といはれて、折々東京へ来られても自分の家に寝食しられたことさへ、僅かに四五回位の事で、其容貌といひ動作といひ、如何にも老健質であつたから、此の度の大患は実に思ひも寄らぬ驚愕で、別して悲歎を極めたが、去ればといつて一旦幽明を異にした以上は、何程旻天に号泣した処が到底回生の術はないと観念して、懇に葬儀を営み、万端事果てゝ帰京したのは十二月初旬でありました、さてこれは後の話であるが、追々日を積み月を重ぬるに随て、懐旧追慕の情は益々深切になつて来る、然るに父の墳基は故郷にあつて自分は東京に居て仕官の身の上であるから、時々展拝の暇も自由ならぬ仕合だによつて、其翌年に東京の谷中へ招魂の碑を建設して歳時の饗祭に便利を得るやうにしました、全体父の性行は第一回に於て少しばかり御話しをしたが、あれでは首尾が連続したとはいはれぬから今此の処でその碑文を音誦しますから、御聴なさい、
   ○中略、碑文ハ次頁ニ掲グ。
 - 第3巻 p.278 -ページ画像 
これは尾高惇忠の書いて呉れた文であるがこれで何事も其要領が分つて誦読する中にも父の面影か彷彿として見えるやうに覚えます、


晩香渋沢翁招魂碑拓本(DK030088k-0002)
第3巻 p.278 ページ画像

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先考先妣墓碣銘稿本 晩香渋沢翁墓碣銘(DK030088k-0003)
第3巻 p.278-279 ページ画像

先考先妣墓碣銘稿本          (渋沢子爵家所蔵)
 晩香渋沢翁墓碣銘
翁諱美雅。小字元輔。長称市郎右衛門。更市郎。渋沢氏。晩香其号。武蔵大里郡八基村血洗島淵上人。考諱敬林。称只右衛門。妣高田氏。翁実同族諱政徳君第三子。敬林君養之。配以長女。為嗣。家世業農兼商。翁既執家務。時或凶歉。或折閲。不少撓。尤用力製藍養蚕。親率家衆。施設有方。又能鑑人。選友。人問経済。則諄諄教訓。一郷敬服。資財漸富積至巨万。屡献金邑主安部侯。賜俸米。列士班。擢為村吏。自組頭進試名主。有暇読書賦俳詩。自奉節約。而賑貧窮。喜捨与。親戚旧故之憂虞。自任保安之。慶応中其子青淵君従徳川民部公。留学仏国。未幾幕府廃。徳川氏不能送学資。君深憂之。遠寄書於翁。謀之。翁奮然鬻家産弁之。会朝廷命公帰国。而事止。嗚呼翁以一農夫。欲挙私産任貴公子遠学大費。非弁財之公私。知事之軽重者。悪能至此。乃知。今日青淵君握大都商権。図一世公益。淵源於翁者深也。明治四年十一月十三日罹疾。青淵君夫妻趨自東京。看護備至。二十二日終不起。享年六十有三。葬先瑩之次。遠邇知与不知。莫不歎惜焉。翁有五男八女。長男即青淵君名栄一。叙従四位勲四等。別成家。長女曰奈可。適
 - 第3巻 p.279 -ページ画像 
吉岡十郎。少女曰禎。養甥須永才三郎。更市郎。配之。承遺業。余皆早世。内外雲仍三十余人。曩建招魂之碑於東京寛永寺。而郷里墓碣磨滅。今玆更建之。属文於惇忠。惇忠在甥行。毎誦遺訓。誥後輩。豈可以不文辞之。仍係銘曰。
  勤倹殖産 捨私奉公 事雖不行 高義何空
  矧青淵君 継志而起 国利民福 拡張亹亹
  有子如斯 翁也弗死
 明治三十一年一月
                  甥  尾高惇忠謹撰
            男従四位勲四等  渋沢栄一拝書
   ○血洗島ニアリ。


渋沢栄一書翰 井上馨宛(明治四年)一一月一七日(DK030088k-0004)
第3巻 p.279 ページ画像

渋沢栄一書翰 井上馨宛(明治四年)一一月一七日 (井上侯爵家所蔵)
拝稟、昨日昇堂蒙御馳担難有奉謝候、ブラガ書状其節奉呈仕候筈之処頓と失念仕乍遅引呈閣下候、内願仕置候老父病気ニ付帰省之義、今暁発途、二十日迄にハ無相違帰京可仕、万一之義有之候とも二十一日まてにハ決而参着之心得ニ御座候、御内頷之程偏ニ奉懇祈候、甚痴情之至ニ候へとも小生草廬を脱し候以来于玆八年、一度も帰省不仕候処全く義絶同様、聊も眷々之遺愛なく、小生之随意に奔走せしめ、老年なから拮据家事を経営いたし呉、旁ら邦家之事迄も苦念いたし候次第、田舎之父老国家之大勢を暁知候義にハ無之候得共、聊草間之俗情を脱し候ものにて、管子之所謂我之父とも可申候、未故是非一度ハ面会いたし度之心情旁奉願候義ニ候間、微情御垂憐可被下候、此義乍贅言聞閣下置候、御諒察伏而奉祈候、いつれ不日拝眉尚奉申上候 頓首百拝
  十一月十七日
                      渋沢栄一
    井上閣下
  再伸、小生郷里ハ元半原藩管下当今川越県下にて武蔵国榛沢郡血洗島村と申田舎にて、中山道深谷宿より壱里程北之刀根川辺ニ御座候、為念申上置候


渋沢栄一 書翰 芝崎確次郎宛日付不詳(DK030088k-0005)
第3巻 p.279-280 ページ画像

渋沢栄一 書翰 芝崎確次郎宛日付不詳 (芝崎猪根吉氏所蔵)
尾高にハ別ニ書状不遣候間、もし面会候ハヽ、今日之容躰を委敷申通し、同人暫時東京へ滞留候ハヽ、杉浦への書状ハ同人持参いたし、書中之義を取計呉候様可申述事
 但出立後ならハ夫迄之事
角次郎ハ留守いたし、昇之助ハ於千代に附添可罷越事
 但友吉も召連可申事、尤も都合次第之事
子供ハ於千代之考ニ従ひ、乳母も同様之事
留守中之取締尤も専一之事
大切之書類其外ハ土蔵入ニ可致事
医者ハ不及心配事
三野村へも両三日帰京延引之義可申通事
留守中もし差支候ハヽ杉浦へ相頼可申事
 - 第3巻 p.280 -ページ画像 
於千代衣服抔も成丈手軽ニ可致、併両掛所持ニ候ハヽ少々ハ可然事土産物ハ何か少々宛持越し度、併夫もさして心配ニ不及事
着替壱弐枚袴羽織壱揃位持越し可申事
右之外心附候義ハ可然取計申事
   ○右ハ栄一ガ当時ノ秘書役タル芝崎確次郎ニ宛テ書置キタルモノナリ。日附明カナラザレドモ出発当日ノモノナラン。


渋沢栄一書翰 芝崎確次郎宛(明治四年)一一月二三日(DK030088k-0006)
第3巻 p.280 ページ画像

渋沢栄一書翰 芝崎確次郎宛(明治四年)一一月二三日 (芝崎猪根吉氏所蔵)
柴崎角次郎殿
留守中無別条一入勉力之事と遥察候、病人も療養不叶、昨廿二日死去、遺憾此事ニ候、妻も無事廿二日夜着いたし候、帰京ハ来廿九日頃と存候、夫迄之処別而留守を心附候様可被成候、火盗とも能々取締有之度候
女児病後別而御心附可被成、もし不快ならは師岡を頼み、療治を受可申候
別封杉浦へ頼み相届候様可致候、井上岡本行とも同様杉浦へ頼候方可然候、宜申述、百事同人に依り指揮を乞候様可被成候、一同無異事、御休心可被下候、右申入度 匆々
  十一月廿三日
                         栄一
    角次郎殿


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第一七―一八丁 〔明治三三年〕(DK030088k-0007)
第3巻 p.280-281 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第一七―一八丁 〔明治三三年〕
○上略 この年の冬の頃。大人にハ公事にて大坂に赴かせ給ひけるが。そがかへさの船路におはします頃。十一月中頃ばかりにやありけん。いづこも嵐のいといとう吹きあれて。ともに港を出たる船のくつがへれるもありなど聞えけれバ。母君を始めまゐらせ。人々胸をいためけるに。其月十五日に大人にハ恙なく帰らせ給ひけれバ。たれもたれも眉を開きてよるこびあふをりしも。其夜郷里より祖父君病ませ給ひていとあつしく見えさせ給ふよし告げ来にければ。驚かせ給ふこと一方ならず。大人ハ其あくる日の朝まだき。官への返り事聞え上させ給ひ。さらに御暇たまはりて。郷里の家へといそぎ立たせ給ひけり。其夜更たけて中の家に至りつき給ひけるに。門の前に砂を盛り。番手桶をすゑ。(こは其かみ貴人を家に迎ふる時の礼なりとぞ)親族の人々うやうやしく出で迎へたりけれバ。大人ハ人々にむかひ。父君御病重くして事しげかるべき折から。かゝる設して誰をか迎へんとハし給ふぞ。ととがめ給ひけれバ。祖母君の、こハ御身が来り給ふよし聞かせ給ひ。彼をそのかみの栄治郎とな思ひそ。朝廷に仕うまつる官人なれバ。うからなりとて事そぎてゐやをな失ひそ。とかたく戒め給ひ。盛砂の事など御親らさしづし給ふにこそ。御心安からしめんとてかくハなしつるなれ。と宣ふに。ものがたき御気性の常にかはらずまします事の。先づいとたのミある心地し給ひけりとぞ。祖父君ハ大人の来ましゝを深くよろこばせ給ひ。御けしきよ
 - 第3巻 p.281 -ページ画像 
げに見えさせ給ひけれバ。かくてハやうやうにさわやぎ給はんとて。猶も医療に力を尽し給ひけるかひもなく。十八日の頃よりふたゝび御病重りて。その月二十二日終にはかなくならせ給ひぬ。御歳六十三にぞならせ給ひける。母者ハわらはと糸子とをともなハせられ。大人より三日ばかりおくれて郷里におもむかせ給ひけり。其頃ハまだ蒸汽車ハさらなり。馬車人力車だにもなかりけれバ。ひたすら駕籠をいそがしけれど道の程はかどらず。中の家に至りける頃ハ。祖父君にハはや人心地もなくならせ給ひける時なりけるぞ口惜しかりける。
されバ祖母君を始めまゐらせ人々の御なげきたとへんにものもなく。わきて大人ハ年頃御心をのミわづらはし奉り。御孝養尽させ給ふ日のいとはづかなりしをぞ。かへすがへすうらみおぼしめされける。げに此時の御かなしみの程ハ。雨夜譚よみてもいかばかりかハとこそおしはかられ参らすれ。御なげきハもとよりつきん期もあるべきならねど。さりとてさてあるべきにあらねバ。御あとのいとなみいとねもころにとり行はせられ。十二月の始つかた大人と母君とハ東京にぞ帰らせ給ひけるが。此時かねて定め置き給ひし如く。須永氏に嫁ぎ給ひし祖父君の末の御妹の御子。須永伝蔵ぬしの御弟君をむかへて中の家をつがしめ給ふ事になし給ひけり。


青淵先生伝初稿 第七章二・第二一―三三頁 〔大正八―一二年〕(DK030088k-0008)
第3巻 p.281-283 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章二・第二一―三三頁 〔大正八―一二年〕
先生は父君の病篤しと聞くや、翌暁井上を訪ひ、在阪中取扱へる事務の大要を報告して暇を請ひ、即日郷里に向ふ。折しも風雨いと烈しかりしが、駕籠を飛ばせて血洗島に著したるは午後の十一時頃なりき。先生駕籠より立ち出でゝ見るに、門の前には砂を盛り番手桶をすゑ、親族の人々慇懃に出で迎ふるなど、旧幕時代高官に対する礼を執りたれば、不審に堪へず、「父君の御病重しと聞く、定めて事繁かるべきにかゝる設備せるは誰を迎へんとするか」と尋ぬれば、母君傍より、「こは御身が帰り給ふよしを父君の聞かせ給ひ、彼をば昔の栄治郎と思ふべからず、今は朝廷に仕へまつる重き官人なれば、相当の礼を以てせんこそ肝要なれとて、自ら指図ありてかくはなしたるなり」といふにぞ、先生は物堅き昔気質の尚存するを心に感じつゝ、病床に入りて見《マミ》えたるに、病は十三日の夜より発し、一時は脳の為にや人事不省の事もありたれども、此日はやゝ快方に向ひ、気分も慥なりければ、いたく先生の帰省を喜べり。これより先生は日夕枕頭に侍して看護手を尽したるに、十八日に至りて再び重態となり、二十二日遂に起たず、享年六十有三。
翁は謹直方正にして、一言一行苟もせず、身を持すること極めて厳恪なりしかど、一面には慈愛に富み、温情甚だ濃なりき。素より処世の途に長じて、衰微せる家道を復興し、経済に通じて農商の業に努力し、郷党の間に徳望の厚かりしことなどは、皆既に述べたる所なるが、文久三年の暮、先生が渋沢喜作と共に上国に走るや、家庭に於ては業務の補助者を失ひたりしかば、翁夫妻は自ら田畠を耕し、藍を作り、養蚕を営み且は其販売の為に各地に旅行するなど、すべて一手に経営せし辛苦は大方ならず、然れども翁は思ひ切りのよき性質なれば、絶え
 - 第3巻 p.282 -ページ画像 
て之を口にすることなく、自然の運命に安んじて、鋭意産業に努めたるが、維新の後には名を市郎と改めて、蚕卵紙の輸出に従ひ、同族渋沢宗助等と謀り、古河市兵衛の手を経て外商に売込みたることも尠からず、宗助は之が為に商店を横浜に設くるに至れり。今明治二年八月の仕切書を見るに、翁の製造に係る蚕卵紙五百六十枚にして、此売却代洋銀千四百五十六枚二枚六分替なりき。当時先生静岡なる商法会所にありたれば、此議に参与せるなるべし。先生は文久以来国事に奔走して家を顧みざりしが、巴里より帰りて静岡に移住するに及びては、世は方に泰平ならんとし、一身の境遇も漸く安静なるを得たれば、此後は屡々郷里に父母を帰省し、重ねて孝養を尽すの機会を得たり。されば翁も昔年の労苦を忘れ、今日の安栄を楽みしが、先生の地位次第に栄達し、大蔵省の高官に列せるを見ては、其情愛は更に切なるものあり、然れども慇懃は却て加はり、先生を殿といひ、夫人を奥様と呼ぶに至りしかば、夫人も余りの事に、昔の如く呼ばせ給へと幾度か請ひ望みしに、翁は容易に肯ぜず、「我は栄治郎に田舎の家を堅く守らしむべき教育を施せるのみ、彼が今日の栄達を得たるは、全く彼れ自身の才覚による、殊に高位高官を賜はりて陛下に仕へまつる朝臣なれば、いかでか軽々しく其名を呼ぶへき」とて、遂に之を改めざりしといふ。翁より先生に寄せたる書翰を見るに、其措辞用語極めて鄭重にして我子に対するが如くならず、先生の帰郷するや、重患の際ながら盛砂をなし、手桶を並べしめたるなど、皆此気象によれるなり、以て翁の面目を察すべし。翁歿するの後先生概ね東京に在りて帰展意の如くならざるが故に、翌五年十一月谷中なる渋沢家の兆域に招魂の碑を建てゝ、歳時の饗祭に便にせり。
初め文久年間先生が晩香翁の膝下を辞するや、素より生還を期せず、且つ累を父母に及ぼさんことを恐れ、切に勘当廃嫡を望みたれども、翁之を許さゞりしは既に前章に述べたり。爾来翁は別に後嗣を定むるの意なく、家を挙げて先生に譲らんと欲したるものゝ如し。然るに明治元年の暮に至り、岡部藩は翁に命ずるに、先生が前年一橋家へ御貰請になりたる故を以て、村方の人別より除くべき旨を伝へしかば、已むを得ず同年十一月人別帳より除きたり。かくて先生は法制上血洗島住人たるの資格を失ひしが、先生を相続者となさんとする翁の意志は依然として替らざりき。其後先生は或は静岡藩に仕へ或は大蔵省に仕官するなど、地位の向上すると共に郷里に帰りて家業を守る能はざる事情益々明白となりしかば、先生は翁に語りて、「妹貞子に養子を迎へ余に代りて家業を承けしめ、孝養をも致さしめん」と請ひたれども、之をも肯はず。かゝる次第にて後嗣の問題未だ決せざるの際、はしなくも明治四年翁の大患を見るに至りしかば、先生は看護の間を候ひ、切に養子の必要を説きしが、翁はなほ賛同せず、「此家は御身の承くべきものなれば、余の亡き跡の事どもは只御身の処分に任せんのみ」といへり。先生乃ち意を決し、かねて此人ならばと心に思ひ定めたる従弟須永才三郎を指名して、妹に配せんことを懇願したるに、翁始めて首肯し、宜しく頼むといへるにぞ、先生は更に母君とも謀り妹とも相談し、翁の葬儀を了れる後、之を内外に披露せり。才三郎は先先の叔
 - 第3巻 p.283 -ページ画像 
母が須永惣次郎に嫁して生める所にして、須永於菟之輔の弟なり、渋沢家を承くるの後、名を市郎と改めたるが、市郎は相続の際先生の言に従ひ、爾後藍の製造販売は全く廃業し、唯農をのみ本業として家産を守ることを務めたりといふ。