デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.375-384(DK030114k) ページ画像

明治五年壬申五月(1872年)

出納頭得能良介会計ノ記帳ニ洋式ヲ用フルヲ難ジテ、洋式ヲ可トスル栄一ト論争シ、腕力ヲ以テ迫ル。栄一之ニ応フルニ穏言ヲ以テシ、得能ヲシテ暴行ヲ止メシム。


■資料

得能良介君伝 〔大正一〇年一〇月〕 ○第九六頁―一〇二頁 三 渋沢子爵の談話(DK030114k-0001)
第3巻 p.375-377 ページ画像

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得能良介君伝 〔大正一〇年一〇月〕 ○第一七〇頁―一七一頁(DK030114k-0002)
第3巻 p.377-378 ページ画像

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漫談明治初年 (同好史談会編) 第六八―七四頁〔昭和二年一月一日〕 大蔵省で大福帳(DK030114k-0003)
第3巻 p.378-380 ページ画像

漫談明治初年 (同好史談会編) 第六八―七四頁〔昭和二年一月一日〕
  大蔵省で大福帳
○上略
 侯 ○大隈侯 の雄弁で淊々と説得されたので、私も返答に窮して、到頭、大蔵省へ出仕する事になつてしまつた。
 併し、その頃の大蔵省の事務といふものは全く混沌たるもので、凡てが新奇なやり始め、凡て初めからの創造といふ訳だつた。
 伊藤公が大蔵少輔で芳川顕正・福地源一郎・塩田三郎・吉田二郎さん達を随行として、貨幣・銀行・公債・制度其他の取調べの為、海外へ派遣されたのもこの前後だつたのだ。
 そこで、その伊藤公が、伝票法といふものを外国から調査して帰つて来られた。そして将来官庁の帳簿などはこの式にしなければ不可ぬと主張された。つまりその頃は、帳簿と云へば、大福帳を担出す時代で、内閣を初め、各省で要する経費は、一応太政官に申出、其支出を太政官から大蔵省に命ずる仕組になつて居た。がそれは宜いが、これらの支出入を記入する帳簿が、旧式にも旧式な大福帳を使ふことになつてゐたのである。
 痩せても枯れても、一国の経済である。然るに、その出納は、旧式の大福帳とあつては、不便此上もない。そればかりではない、もし誤算でもあつたら騒ぎ、
「何処に間違があるのか」
 - 第3巻 p.379 -ページ画像 
 よつて集つて、此の大福帳を繰ひろげねば分らぬ始末。だが、伝票を用ゐる事になると、記入法は面倒だが、正確にきちんとゆく。
「結構です、早速、此の式でやることにします」
 私は大蔵大丞として、此の伝票法を採用することにした。すると、到る処で不平が出る。
「あゝいふことをされては、面倒で困る」
 馴れない為、非常にむづかしいものゝやうに考へた。
 中にも出納正得能通世氏《(得能通生)》などは、係が係なので、此の伝票の受授が一番頻繁なところから、堪らなくなつて私のところへ怒鳴りこんだ。
 此の人は、鹿児島出身で、西郷従道侯の岳父に当る。
「貴公は、ハイカラの真似ばかりしてゐて、あれは一体何んだ。伝票などいふ小煩雑いことを始めたので、何うにも始末に終へない、従来の方法で結構ぢやないか」
 顔色をかへて声をふるはせてゐる。
「それは、馴れないからである。もう少し辛抱してゐると、何でもなくなる」
「そんな馬鹿なことはない、却て間違ひが起つていけない」
「これは驚き入つた挨拶である、伝票位記入することが出来ぬとあつてよく出納正がつとまりますな、貴公は恥かしいと思ひませぬか」
「何ツ!」
 得能は、勃然として、色をなし、私の傍にすりよつて、肩をついた。
 こゝで、私が怒れば、喧嘩になる。力は私の方が強い、従つて取組合ひになつても、負けはしないが、しかし私は、冷然としていつた。
「得能君、こゝを何処だと思ふか」
「大蔵省だ」
「さうです、役所ですよ、役所の事務について意見があるなら、口がある筈であります、腕力沙汰は、大人気ない」
 冷笑したので、彼は、きまり悪さうに引きあげたが、傍にゐた渡辺清などは、ぷりぷりして怒り出した。
「怪しからん、大蔵大丞は大蔵卿名代の職分である。従つて得能は下僚である。それが、上長官に対して怪しからん振舞をした。許しては置けぬ」
 真赤になつて、怒り出した。
「まアまア」と、私は彼を抑へておいたが、これがいつか大隈侯の耳に入つたと見え私もよび出された。
「何うしたのか」
 質問されたので一通りの弁解をしたが、侯は後になつてから人に語つたと聞いてゐる。
「渋沢は血気な男で、いざとなると腕力を振ひさうだが、あれでなかなか冷静なところがある」
 賞賛して下さつたが、大蔵省創設当時の光景は先づかうした有様だつた。
 得能氏も後には諒解して、私と却て別懇になつたのは不思議である。
 その後、第一国立銀行の創立と共に、私はその頭取となつた関係上
 - 第3巻 p.380 -ページ画像 
官を辞し再び役人にはならない。随分勧められたこともあつたが、一切これを辞してゐる。
 微臣、とるに足らずとは云へ、国家の為御奉公申しあげるのは、私としては他に道ありと信じてゐるからである。                   (渋沢子爵)


青淵先生伝初稿 第七章六・第二二―二七頁 〔大正八―一二年〕(DK030114k-0004)
第3巻 p.380 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章六・第二二―二七頁 〔大正八―一二年〕
初め先生が大蔵省事務章程を起草せし時、各寮司の職制及び事務章程をも立案せり。今出納寮事務章程を按ずるに、「凡そ金穀を出納するには、其高の多少に拘はらず、都て卿輔調印の伝票を以て、伝票とは、納入証書の本紙に等しき副紙を添へて、検査・正算・記録の各寮司を通覧する証票をいふ、其廻達の次第は、伝票課の章程に詳なり 卿輔承諾の証拠を徴して之を領収交付す」と見ゆ、実に明治四年四月十五日制定する所なり。此伝票制度は先生が大蔵大丞たりし時、米国の式に傚ひ、伊藤・井上等と議して定めたるものにて、実に一新例を開きしものなりき。されば制定の当時は、出納寮の官吏等此事に慣れず、屡々過失せるにより、先生は之を戒飭せることも多かりしが、明治五年五月の頃、出納頭得能通生 後に良介と称す 先生 時に少輔事務取扱 を省中なる其室に訪ひ、伝票制度の不便を説き、「かゝる悪制度を採用せるが為に、出納寮の吏員は過失を重ぬるに至る、畢竟足下が入らざる事を立案せるが為なり」とて、憤怒して先生を罵れり。先生徐に答へて曰く、「事務章程は予の立案する所なれども、上司の命に従ひて筆を採り、又上司の決を経て行へるものなり、足下の言によりて停廃すべきにあらず、且つ足下が不便なる悪制度と言ふは実際に通ぜざるが為のみ」と、諄々として其説を進めんとせしに、得能は聴きも入れず、勃然起ちて先生を突飛ばし、将に一撃を加へんとす。先生推さるゝがまゝに二三歩を退き、怒を押へて色を正くして曰く、「此処は官衙なるぞ、車夫・馬丁に斉しき行動をなすは何事ぞ、事の是非は議論によりて決すべし」といへるに、得能はさすがに暴行を敢てするの勇気なく、悄然として退去せりといふ。かくて先生は得能の罪を問ふの意もなかりしが、同僚等は上司に対する暴行を不問に附するは、官規を紊すものなりとて、処罰を唱へて已まず。井上 時に大蔵大輔 も亦捨て置き難しと考へたれば、遂に太政官に上申して、五月二十二日其職を免じたるは、蓋し先生の志にあらざりしなり。抑も明治政府は薩長二藩の士を中堅として、土肥二藩の士之に加はり、以て枢要の地位を占む。先生は旧幕府の出身を以て、累進して井上馨と共に省中の全権たり、殊に大蔵の上長官たりし伊達宗城・大隈重信・伊藤博文等とも肝胆相照らし、言聞かれ説行はれたれば、藩閥の末流は之を見て、心に不快の念を抱く者尠からず、旧薩藩士たる得能通生の暴行も、此感情を有せる結果なりといふ。それ先生が卓絶せる技能と明暢なる智弁とは、能く人を服するの力あり、建設的事業に富める明治初年の政府には、実に先生の手腕を要すること切なるが故に、彼等の猜疑も遂に先生の地位を動かすこと能はざりき。


竜門雑誌 第六一五号・第一―五頁 〔昭和一四年一二月〕 青淵先生と得能良介氏との衝突その他(林経明談)(DK030114k-0005)
第3巻 p.380-384 ページ画像

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