デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.528-542(DK030133k) ページ画像

明治五年壬申十月一日(1872年)

大蔵省、銀行諸般ノ事務ヲ諮訽セントシテ、横浜東洋銀行ノ書記タリシ英人アレクサンダー・アーレン・シヤンド Alexander Allen Shandヲ向フ三箇年ノ契約ヲ以テ紙幣頭附属書記官ニ任命ス。栄一之ニ与ル。


■資料

青淵先生伝初稿 第七章五・第一一―第一二頁〔大正八―一二年〕(DK030133k-0001)
第3巻 p.528 ページ画像

青淵先生伝初稿  第七章五・第一一―第一二頁〔大正八―一二年〕
国立銀行条例既に布かれて其創立を見んとする時に当り、大蔵省の官吏に斯業の経験ある者なく、之が監督及び処務の方法につきて、望洋の歎なきこと能はず、此に於て先生等相謀り、横浜東洋銀行の書記たりし英人シヤンドを聘用して、銀行諸般の事務を諮詢せんとし、明治五年十月一日、向ふ三箇年の契約を以て、シヤンドを紙幣寮附属書記官に任命せり。爾来シヤンドは明治十年一月まで其職を奉じ、銀行の検査報告帳簿を始め、銀行事務の指導と改良とに尽力せる外、銀行大意・銀行簿記精法等有用の書をも著せり、シヤンドが斯業に関する智識普及の功労は没すべからざるものあり。


銀行課第一次報告 自明治六年七月至明治一二年六月 第二―四頁〔明治一三年〕(DK030133k-0002)
第3巻 p.528-529 ページ画像

銀行課第一次報告  自明治六年七月至明治一二年六月 第二―四頁〔明治一三年〕
銀行ノ我国ニ興ルヤ実ニ創始ノ事業ナルヲ以テ、明治五年七月銀行学士英人アルレン・シヤンド氏ヲ紙幣寮ニ聘シテ、銀行諸般ノ事務ヲ諮詢シ、銀行必須ノ書ヲ草セシム、即チ銀行大意、及銀行簿記精法是ナリ、且銀行雑誌ノ如キモ亦其材ヲ同氏ノ著書ニ採ル者多シ、加ルニ学局ノ設立生徒ノ陶冶ニ至リテモ同氏ノ指授ニ出ルモノ少シトセス、同七年四月銀行学局ヲ当課ニ開キ、学員十名ヲ挙ケ、簿記法及経済学等銀行必須ノ諸学科ヲ学ハシム、同八年二月又自費通学生二十名ヲ募集シ、銀行営業上稍卑近ノ学科ヲ教授ス、蓋シ普通ノ学術アルモノハ世間其人ニ乏シカラスト雖モ、其能ク銀行ノ事業ニ通スル者ニ至テハ実ニ寥々タリ、此ノ際ニ於テ特ニ其人ヲ陶成スルニアラサレハ、則チ他日銀行事務ノ拡張ヲ望ムモ得ヘカラス、是レ学局ノ設ケアル所以ナリ、同九年七月学員若干名其業ヲ卒ヘテ紙幣寮ニ採用セラルヽヤ、学局ヲ廃シ、更ニ翻訳掛ヲ置キ通学生徒ノ教授ハ該掛ヲシテ之ヲ兼掌セシム、翌十年一月当課ノ本省ニ遷ルニ当リ、一時其教授ヲ休メ、二月
 - 第3巻 p.529 -ページ画像 
ニ至リ更ニ伝習所ヲ開キ、再ヒ通学生徒ヲ集メ、主トシテ簿記法ヲ学ハシメ、兼テ従来教授スル所ノ学科ヲ斟酌シテ之ヲ授ク、又同時ニ各銀行ノ請ニヨリ其社員ニ伝習スル事ヲ許シ、其他府県銀行掛吏員ノ来学スルモノ亦少カラス、十二年六月ニ至テ前後学徒ノ惣員ヲ通計スルニ無慮三百有余名皆其業ヲ卒ヘ、各其学ブ所ヲ諸官庁若ハ各銀行ニ実行スルニ及ヘリ、是ヲ以テ之ヲ観レハ我銀行ノ基本ハ右等学徒ニヨリテ建立シタリト云モ決シテ過言ニアラサルヘシ
顧フニ我銀行創始以来未タ数年ヲ出スシテ今日ノ進歩ヲ致ス所以ノモノハ、固ヨリ当局者ノ勉励ニ由ルト雖モ「シヤンド」氏ノ功居多ナリト謂ハサルヘカラス、氏ハ十年一月即チ当課ノ本省ニ遷ルニ際シ辞シテ其国ニ帰レリ


明治貨政考要 下編・第二八七―二八八頁〔明治二〇年五月〕(明治前期 財政経済史料集成 第一三巻・第四七〇―四七一頁〔昭和九年七月〕)(DK030133k-0003)
第3巻 p.529-530 ページ画像

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世外侯事歴 維新財政談 下・第三一四―三二〇頁 〔大正一〇年九月〕 二八 国立銀行の創設(DK030133k-0004)
第3巻 p.530 ページ画像

世外侯事歴  維新財政談 下・第三一四―三二〇頁〔大正一〇年九月〕
  二八 国立銀行の創設
         男爵 渋沢栄一 益田孝 男爵 松尾臣善
         伯爵 芳川顕正 大谷靖    佐伯惟馨 談話
         伯爵 井上馨
○上略
益田君 明治六年になつて、印刷局紙幣寮にシヤンドを御雇になつたのですが、亜米利加の銀行組織ぢやいかぬと云ふ論で、兎に角一時ずつとナシヨナル・バンクが……
渋沢男 シヤンドなども、矢張り吉田さんの説です。畢竟、吉田さんの説は或はシヤンドの説だつたかも知れませぬ。
益田君 大隈さんが大蔵卿になつてから、ナシヨナル・バンクを起す為に居たやうです。
渋沢男 居りました、私の銀行の検査に二度来ましたです、例のお宮のやうな銀行で事務を執つて居る時分に、二度か三度あの人の検査を受けました。あの人は検査に来ては、いろいろ聴くのです、さうして手帳に書く、だから次に来た時に困つてしまふ。此前に貴所斯う云つたなどと云つて、此方はさう細かに前に言つた事を覚えては居らぬし、その事で二度ばかりやられた事があります。
○中略
芳川伯 私は七年の春正月に、大蔵省を去つて工部省に参りました。それ迄は紙幣寮で、私が権頭で銀行の事務を取扱ひ、五年五月に紙幣頭となつて、それから始めて全権となり、傍ら銀行の事を取扱ふ事になつた。それで私の案で銀行条例といふものを拵へた。○中略 銀行は出来たけれども、さて記帳のこと、ブツク・キーピングの事が一向分らない。そこで香港上海銀行のシヤンドといふ者を聘して、銀行事務を伝習さした。簿記制法などゝ云ふ者を編纂して、紙幣寮で実習させることにした。マア是等の為に横帳といふものが無くなつて、今日の銀行の簿記法といふものが、始まつたと云ふ様な事です。○中略 長岡の人で小林雄七郎、後に代議士になつた。それから梅浦精一などが、私の下に居て、練習生になつて居つた。さう云ふやうな風に、吾輩の下に五六人、第二段のハイカラを集めて居つた。それをシヤンドに附けてやらした。 ○下略



〔参考〕竜門雑誌 第二六五号・第三三―三五頁〔明治四三年六月〕 ◎京都徒弟講習所に於て(青淵先生)(DK030133k-0005)
第3巻 p.530-532 ページ画像

竜門雑誌  第二六五号・第三三―三五頁〔明治四三年六月〕
 - 第3巻 p.531 -ページ画像 
 ◎京都徒弟講習所に於て (青淵先生)
     本篇は四月二十五日京都徒弟講習所に於て演説せられたるものなり。
○上略
当初国立銀行の始まる時分は銀行に付て何ういふ学問をして善いといふことが少しも解らなかつたが、例へば帳簿の記入に付ても誰も其記載法を知らなかつた、そこで国立銀行の出来るといふ時に――今も仍ほ其人は現存して英吉利の「パースバンク」の支配人をして居りませうが、アレキサンドル・アルレン・シヤンドといふ人が横浜の「チヤーターバンク」といふ銀行に雇はれて居つた。此シヤンドと云ふ人が銀行事務に精通して居るといふので大蔵省の雇とした、銀行の簿記といふものを第一に此人に教授して貰つた、京都のお方でも古いお人はシヤンド直伝の者があるでせうが、私共第一の高弟であつた。シヤンドに簿記又は銀行経営の事を教はつた人の一番筆頭であつた。第一銀行などは其後各銀行が成立する間即ち明治九年より十一年まで始終簿記に付ては下稽古所で講習所的のことまで致しました、銀行が出来て帳簿の記入法に困ると云つて大蔵省に来る、実際の取扱を知らんで困るといふから一通りのことを教へて遣る、けれども大蔵省へ大勢来ては困るから第一銀行に広い場所があるから帳簿の教授をするが宜からうと云ふことであつた。又シヤンドが簿記精法といふ書物を著述して其頃は銀行者は悉く之を読んだが今日は読む人も無いと思ふ。簿記に複記法又は単記法と云ふ二様の別があつた、此複記法単記法といふ名を覚えるさへも其頃は容易でなかつたものである、(今では何でもない事だ)。収入支払の文字さへ好く理解せられなかつた、出たものには必ず入がついて双方対照して「バランス」が合つたといふ、「バランス」とは一体何だか夫すら好く解らなかつた。今お話しするやうな事は貴下方は日々取扱つて口癖のやうに覚えて居るから夫式の事は小供でも知つてると言はれ様が、私等は其頃も小供では無かつた、大供であつたが実に解らぬで困つた。其時にシヤンド無かりせば日本の簿記法は今日の如くには発達しない、詰り貴下方はシヤンドの流を汲で今日の如く簿記法を覚えたのである。其際に私共が骨を折つたからである、故に貴下方から充分に礼を言はれても宜いやうな功労があらうと思ふ。(拍手起る)
夫から私がシヤンドに八釜しく小言を云はれたのは銀行者の心得である、通常の計算は簿記精法で追々進歩しましたが、併し簿記精法だけで営業が出来たのでない、或は手形の流通、「チエツキ」の取扱と云ふものも追々に「シヤンド」及其以外に向つて私共同志者と共に骨を折つて其方法を講究した其中に段々と力ある人智慧ある人が輩出して今日までになつたのである、決して一人の力で進んで来たのでありませぬ、更に一層深く其根原から云ふと私はシヤンドに屡々銀行営業の実際を検査を受けて種々八釜しく言はれたが其事を玆にお話して置きたいと思ふ。
総て英吉利の銀行の経営は彼様かと思ひましたが、此シヤンドに検査を受けるに就て銀行の職務上の注意と云ふものは実に綿密であつた、貸金などは一々検査を受けますと、幾ら貸して居るか何ういふ相手に
 - 第3巻 p.532 -ページ画像 
貸してあるか、例へば何ういふ商人であるか、商人ならば輸入商人か輸出商人か……其時分には割引手形はありませぬ、皆抵当貸ばかりであつたが、各種の取引に対して総て丁寧に事情を聞く、さうして之は何う云う性質の人である、此貸金は何う云う事に使はれる金かといふことを穿鑿した、夫れはシヤンドが独り私の銀行へ来て爾う云うことを八釜しく言つたばかりで無く他の銀行へ行つても帳面の記入法以外に取引の仕方、例へば預金があると此相手は何ういふものであるか、始終来る人か、一時的に来たものであるかと委しく取調べて仮初にも其答が鈍ると貴下方は盲人のやうな事をして居るといふ、又夫が立派に説明が出来ると成程と云ふて承知する、少しボンヤリした答だと小言を言ふ、今考へて見ると私は大変利益があつたと思ふ、成程あゝ云ふ覚悟でなければ銀行者はいけない、諸君の中には詰り溷へ捨てるやうな金でも抵当さへあれば夫で宜いぢやないかと云ふか知れぬが夫は大なる誤解である、なぜならば銀行は商人の枢軸に立つ可きもので商業界の基礎に成る可きものである、銀行の経営に依て一国の商業の信用を発達させる事も出来る、又反対に衰頽さする事も出来る、斯う考へて見ると銀行事業は帳面を綿密に記する、手形を上手に取扱ふ、利息を早く計算してやるのみならず実地の取扱以外に大体の経済上に心を用ゐなければならぬものである、即ち銀行の心掛が善ければ其地方の商売が穏健に発達して行く、之に反して銀行の心掛が悪ければ其地方の商人をして浮れさせるやうにもなる、又は萎縮させるやうにもなる、玆に於て銀行業は大に注意しなければならぬ事業であるが、シヤンドは其時には夫程迄には言はなかつた、前申す如く何う云う取引であるかと云ふことを検査の時に常に八釜しく言はれたのは私は今日になつて知らぬのでは無い、数年前から変な事ばかりいはれたと思つたが、玆が銀行者の最も注意しなければならぬ事で、英吉利の銀行業者が始終注意の厚い所が事実に於て明瞭であると斯う思つたのであります。


〔参考〕竜門雑誌 第三〇四号・第二二―二四頁〔大正二年九月〕 ◎銀行業の沿革(青淵先生)(DK030133k-0006)
第3巻 p.532-534 ページ画像

竜門雑誌  第三〇四号・第二二―二四頁〔大正二年九月〕
 ◎銀行業の沿革 (青淵先生)
   此の稿は大正二年八月七日午後『銀行雑誌』記者が青淵先生を訪ひ一般財界に関する諸種の御説を拝聴したる後此の稿の掲載を許可せられたるものなりとて八月発行の同誌上に掲載せるものなり。
○上略
其時分、大蔵省では銀行を創立すると同時に、帳簿を新式の組立にしなければならぬと云ふので、私が官にある時に、英吉利人のシヤンドと云ふ人が横浜の「チヤーターバンク《(マヽ)》」に勤めて居つた、其シヤンド氏を傭つて、簿記法を教授して貰つた、独り実地に教へるばかりでなしに、一の簿記の書物を作つた、今は諸君もこれを読むお方はありますまい、簿記精法と云ふのであります、其時に私も多数の青年諸氏と共に単記法・複記法と云ふものを習ふたのであります、私でも二重に附けると云ふやうな、そんな手数の掛つたことをする必要は無いと云つて十日ばかりも稽古をすると悧巧さうなことを云つたことを、今も
 - 第3巻 p.533 -ページ画像 
覚えて居ります、其シヤンド氏が簿記を教へるばかりでなく、四五年の間は大蔵省の銀行を監督する人となつて引続いて銀行に検査に来て呉れました、私は数回シヤンド氏に銀行の営業検査を受けたので所謂英国人直伝の方でありますから諸君から見ると威張られるのでありますが、其受けた検査と云ふものは頗る妙であつた、今日はあんな馬鹿らしいことはありませぬが。併しシヤンドと云ふ人は余程綿密で、悪く申せば干渉であつた、当初ゆゑにあのやうなことをしたのか私も細かに覚えませぬが、何でも二た月に一度ぐらゐは来られた、国立銀行の制度でありますから、政府の干渉が非常に強かつた、殊に金貨の引換と云ふことがありましたから、尚更に重視したのであつたらうと思ひます、銀行の得意が出来て来るに従つて預金高も多くなり、融通もするやうになつて参りましたから是が検査に来て、主なる対手に対して其貸借の理由を質す、今日あんな事をして居たならば銀行検査に一年も掛らなければならぬが、其時はシャンド氏も暇でありましたからやつたのでありませう、預つた方はどう云ふ訳であつたか、又どう云ふ訳で金を貸したかと叮嚀に質されたのであります。それに対して諄諄と説明をする、或る場合には其時の返答を書いて置く、此前には斯う云つたと云ふて尋ねる、併し当方はそれまでは覚えて居りませぬから言ふことが違ふと、帳面を見て、前の答と違ふといふて、厳しい質問をされることもあつた。要するに、其趣意は成たけ金融を為すは性質を審かにして置かなくちやならぬ、どう云ふ筋に出すと云ふことだけは必ず明らかにして置かなければならぬ、唯だ利息が取れる元金が返るのだ、それ以上は何でも構はぬと云ふ主義は銀行者の取るべきものでない、此金はどのやうな所に向くのであると云ふ事だけは如何に堅固な得意先でも知つて置く必要があると云ふことは、根本の道理であると云ふて居つたのであります、今日に於ては成り得べき丈取引の数の多くなる事を求むるのでありますが、其時分は洵に数が少なかつたからである、或る一口には大きな高の取引もあつたけれども、平均して数の少ないのは不健全な病的な経営であるから、是ではいけませぬと云つて諌めて呉れました、併し、病的であると言はれても、まだ病的と云ふまでに至らぬので、実は子供である、是から先き段々と知らせて行くのである、さうして銀行と云ふものは安心なものであると云ふことが多くの人に理解され、銀行の事務と云ふものは便利なものである、銀行に依らねば商売は出来ぬと云ふことが分つて来なければいかぬ、若し分つても尚斯の如くであつたならば、それこそ病的であるけれども、今直ぐ知らぬ者に対して、病的であると云ふ譴責は無理であると云つて弁解したこともあつたのであります、故に英吉利の銀行の大趣意と云ふものは、凡そ金融をなしたならば、其金融の働きはどういふものであると云ふことは銀行者としては必ず知つて置くべきである、又預金をする人がどう云ふ事情で預金するのであると云ふことは如何に多くても知悉して置くべきものであると云ふことを原則として居つたやうに見えましたが、是れは今日諸君も十分御承知になつて居られる事と思ひます、堅実な銀行であつたならば、其得意の考へは千軒でも万軒でも、大体は分るに違ないのであります、是は銀行者
 - 第3巻 p.534 -ページ画像 
としての一つの注意すべき事であらうと思ふのであります。


〔参考〕竜門雑誌 第三四九号・第九〇―九二号〔大正六年六月〕 ◎青淵先生に贈れるシヤンド氏の返書(DK030133k-0007)
第3巻 p.534-535 ページ画像

竜門雑誌  第三四九号・第九〇―九二号〔大正六年六月〕
    ◎青淵先生に贈れるシヤンド氏の返書
   左の書翰は青淵先生より在倫敦シヤンド氏に贈られたる書翰の返書にして、これを前号に掲載せる同氏の佐々木勇之助君に贈れる返書と対比すれば興更に深きものを覚ゆ。意は自ら文中にあり、敢て贅せず。
 拝啓客歳閣下七十有七の高齢に達せられたるを機会として十二月三十一日付を以て久々にて小生へ宛て御懇書を賜はり候段誠に忝けなく謹んで御礼申上候、定めし閣下の寿を奉祝致す為めには内外幾多の知友より祝辞を呈したることならんと存じ候儘小生もそれ等の祝辞に加へて一言玆に誠実なる賀意を表し奉り候、尚ほ之れと同時に小生は閣下が今般幾久しく御健康と御幸福とを享受せられんことを切に祈り申候
 日取りより申せば閣下の御懇書に対しては既に御返事をば疾くに差上げざるべからざる筈に有之候へ共、実際閣下より御送り被下たる右御書柬は漸く今を去る一週間前に始めて小生の手に到着致したる次第にて為めに御挨拶も相後れ甚だ不本意に存じ居候閣下よりの御書面と殆と同じ頃の日付を以て佐々木勇之助様より御発信の御手紙は疾くに小生の手へ届き小生よりも既に御返事を差上げたるに拘はらず、閣下よりの御手紙が斯くも遅着致したるは甚だ不思議の様に考へられ候へ共矢張り目下の戦争に基因する不慮の変に遭遇したるものなるべしと想像仕候、現に御芳書の如き太たく海水に湿りたる形迹有之、郵便局は「開封の儘到着せるを以て更に本局に於て封箴を施せり」てふ印判を封筒に押捺して小生の手許へ配達致し参り候様の次第にて、御書柬のインキも甚だしく散り居候へ共幸に通読に妨げなかりしは何よりの事と存じ申候
 小生は御懇書を一読して閣下及第一銀行重役方が今も尚ほ小生を御記憶被下候事を承知し深く御好意に感佩致し申候
 小生の大蔵省に御雇たるの任期は小生の任務が最も必要視せられんとする時期に於て満了致し、其後小生は帰英仕候へ共彼の西南戦争の平定後大隈伯は特に書を寄せて小生に再び日本へ渡来すべき旨を勧告致され候、蓋し其用向は横浜正金銀行創立の計画に就て小生の手を藉らんと欲せられたるが為めなりと推測致し申候へ共、小生は熟行《(考)》の末遂に伯の招きを謝し其儘英国に留まり申候、右は小生心中に於て聊か遺憾なりと考へざるに非ざりしも、然し意外にも伯の招に応ぜずして英国に在りしことは矢張り日本の為めに大に役立ち候ことゝ相成り候ものから、右小生の遺憾は為めに大に慰められ申候、即ち日露戦争当時に於て日本政府が初めて二種の六分利付公債を当市場に募集せられ候際の如き、我パアス銀行の重役共は之れに応募するの危険なきや否やを深く憂慮して決着に躊躇致候、而して小生は其節日本財政状態の決して危険ならざる旨を説明して遂に応募せしめ候などは、小生が遠く英国に在りて日本の益を謀り得たる一例に御座候
 嗚呼思へば之等の事も皆な昔の夢に有之候、年々馬齢を加へて小生も本年七十四歳の高齢と相成り申候ものから、先般来当銀行頭取に対
 - 第3巻 p.535 -ページ画像 
して辞職許可ありたき旨申出で居り候へ共今に聞届けられ申さず、当分は尚ほ在職せざるべからざる模様に御座候、幸にして小生も亦閣下と同様至極健康に起居致し居り候条、其点何卒御安堵被下度謹で奉願候
 小生は常に興味を以て日本の事物を観察致居候特に目下の大戦に当り日本が聯合諸国と協力して醜陋なる独逸を膺懲するの任務を分担せられつゝあるを最も喜ぶものに御座候、思ふに此大戦争も最早や峠を越したる様に有之候間、遠からず平和の克復を見るべしと存じ候、目下の最大危険は独逸の潜航艇襲撃に有之候へ共之れとても追々屏息せしむるの時機に達すべしと存候
 小生は東京にて発行せらるゝ「ジヤパン・マガジーン」と申す雑誌を購読致居り候ものから閣下の尊名が該誌の所々に散見致すを常に認め居り候
 日米両国の親交増進の為め閣下が並々ならぬ御尽力を試み居られ候段、小生の深く敬服致す所に有之候、小生は閣下の御努力が良好なる結果によりて酬いられんことを切に祈るものに御座候
 閣下が最後に英国を御訪問相成り候節は同夫人御同伴にて小生を御訪ね被下、其節の事は小生今尚ほ鮮やかに記憶致居候、而して閣下の御健康の壮なると日英両国の親善を図るに御熱心なるとより察すれば小生は閣下が今一度位英国を御訪問相成る如き事は決して絶無の事に非ずと存じ居候
 男爵夫人の御健康も閣下同様御良好に渡らせらるべきを小生は信じ居候、何卒小生よりの敬意を令夫人に御鳳声被下度伏て御願申上候
 此書面の「タイプライト」は小生自信にて試み候ものから、至極拙劣の出来栄と相成り申訳無之候
 終に臨み閣下を初めとして第一銀行の重役方及び使用人各位に対して深厚なる敬意を表し、併せて第一銀行の今後益々隆盛を極められんことを祈り申候 敬具
 一九一七年四月五日
            倫敦アツパー・ノーウツド
              ビウラ・ヒル六十二番戸
                   エ・アラン・シヤンド
  東京 渋沢男爵閣下


〔参考〕竜門雑誌 第四六六号・第一―八頁〔昭和二年七月〕 旧友アーラン・シヤンド(青淵先生)(DK030133k-0008)
第3巻 p.535-540 ページ画像

竜門雑誌  第四六六号・第一―八頁〔昭和二年七月〕
  旧友アーラン・シヤンド(青淵先生)
    一
 私が大蔵省の役人をして居た時に、新しく銀行条例を作り新銀行の制度や組織の基礎を定めることに努力したことは、前にも話したと思ひますが、当時は何分帳簿の付方を知らないし、伝票の意味も未だ明瞭でなかつたのであります。又銀行の業務たる預金の取扱とか、割引手形の制度に至つては殆ど雲を掴む様な有様であつたので、こんなことでは困ると云ふ所から、大蔵大輔あつた井上(馨)さんが主張し、玆に銀行の実務に通じた外人を雇ふことになり、選ばれて聘せられた
 - 第3巻 p.536 -ページ画像 
のが英国人シヤンド氏でありました。確か明治五年のことゝ記憶して居ります。誰の周旋でどう云ふ順序で大蔵省へは入つたのか、其辺の事情は詳しく知りませんが、其時分横浜にあつたチヤータード・バンクの人で、其銀行での地位はどうであつたか、兎に角銀行業務を心得た実際家であつて、学者とは云へないように思へたが、事務には熟練した人で、年齢は私より二つか三つか下でありました。
 斯様な訳でシヤンド氏と私とは明治五年頃から直接の交渉があつた。そしてシヤンド氏との話は、海老原と云ふ人の通訳によつたが、色々の事柄に就て話しました、此の海老原と云ふのは、私より一つ二つ若い人であつたけれど、誠に優しい男で、自分の意見を交へることなく、よく叮寧に通訳してくれました。
    二
 扨て少しく話が後戻りを致しますが、明治三年の冬伊藤(博文)さんが米国へ行つた其の用向は、日本の新らしい財政経済の事務を、欧米式に変へる必要からでありました。此時大蔵省の省議として伊藤さんを特に米国へ派遣するがよい、と建議したのであるが、其の意見書は私が筆を執りました。そして伊藤さんが、米国の事情を取調べて帰朝したのは、明治四年四、五月の交で、其主たるものは(一)太政官札の兌換制度と金融の組織としての銀行問題。(二)貨幣制度の問題。(三)公債発行の問題。(四)従来大宝令に依つた各省の組織を欧洲式の職制に改める方法等でありました。伊藤さんと共々に調査に行つたのは福地源一郎、芳川顕正、吉田二郎の諸氏で、陸奥宗光氏も中途から調査員の一人となつたと思ひます。右調査事項の中でも、銀行の問題は緊急を要するものとされましたが、帰朝と同時に伊藤さんは、大阪造幣局長に左遷せられた為め、改革の仕事は伊藤さんが担当することが出来ずに、井上さんの手でやることになり、井上さんが指図をし、実際の仕事は私がしたのであります。伊藤さんの調査研究して来た銀行制度の骨組に依つて、之を日本に於て用ひられるやう立案しました。即ち私が心配し福地氏を重に使ひ、芳川氏なども加はつたと思ひます。かくして出来たのが米国式の国立銀行に則つた、日本最初の銀行条例であります。
 シヤンド氏を大蔵省で傭つたのは、此時のことであつて、何も彼も新らしいことのみであるから、並大抵の苦心ではなかつた。例へば今の決算報告書のことを、考課状と称へたが、これは書経であつたと思ふが「三年にして課を考す」とあるからと云ふのでさう決め、又銀行と云ふ名称などもバンクと云ふ言葉を訳すのに種々協議したが、金行と呼ぶのも変だと云ふことゝ、東洋では銀を本位貨幣として居る処から、銀行と定めたような訳であります。
    三
 其の後私が第一銀行の経営に任ずるようになつてからも交渉があり、殊に簿記のことゝか、貸借対照表や決算報告の作り方とか、又為替、割引等の実務に就て、銀行の若い人々に教授をして貰ひました。第一銀行の現頭取佐々木勇之助君や長谷川一彦、熊谷辰太郎の諸君は親しく教を受けた人々であります。シヤンド氏は簿記の普及に資する
 - 第3巻 p.537 -ページ画像 
為め「簿記精法」と云ふ書物を著して居りますが、其の中に「銀行成規」と云ふ項があり、それには銀行業者に対する訓戒が多々ありました。之れは英蘭銀行の重役であつたギルバートと云ふ人の言ふた所だと書いて居りますが、私などは誠に尤であると思ひ遵奉したものであります。私の記憶にある三四のものを挙げて見ますと
 一、銀行業者は叮寧にして然も遅滞なく事務を採ることに注意すべし。
 二、銀行業者は政治の有様を詳細に知つて然も政治に立入るべからず。
 三、銀行業者は其の貸付たる資金の使途を知る明識あるべし。
 四、銀行業者は貸付を謝絶して而も相手方をして憤激せしめざる親切と雅量とを持つべし。
 斯の如く何れも凡庸な言葉であるけれども、よく考へると悉く意味深長で、謂ひ得て妙と申さねばなりません。其他にも尚ほあつたやうに思ひますが、尤もな実践すべき訓戒のみでありました。
 先日も銀行倶楽部の新旧大蔵大臣招待晩餐会で申したことでありますが、昔私達がシヤンド氏から受けた銀行検査は、実に厳格で今日の大蔵省の検査などとは比較にならぬもので、あゝまでしなくてもよからうと思はれる程でありました、即ち「此取引はどうなつて居るか」「其の貸金は心配ないか」「目的と違つた方面へ金が使用されては居ないか」等急所急所を問はれる、而も答を明細に書つけて置いて別の日に質問し、私の答が前の時と相違して居ると「此前には貴方は斯う云はれたではないか」と云ふ風で、意味が徹底しないと、幾度でも聞き返し、何処までも綿密に調べました。
    四
 それから特筆しなければならぬと思ふのは、シヤンド氏の注告により、第一銀行の上海支店設置計劃を中止したことであります。明治九年支那の奥地に饑饉があつたので、左宗棠から日本へ借金を申込んできました。当時大蔵省の主脳であつた大隈(重信)さんは、それに就て「金は政府から融通するから名義だけ第一銀行が債権者になつてくれぬか」と私に相談があつて、愈々実行することになり、其の交渉の為め、私は三井の益田孝氏や大蔵省書記官等と共に、上海へ行つた、然し此の借款の件は結局に於て実行に至らなかつたのであります。私は此時海外発展の必要を考へついて、第一銀行上海支店設置の計劃を進めやうとした、するとシヤンド氏が反対を唱へ、意見書を私の手許まで出しました。其の大意は
  新銀行の制度に依つて文明的にやらうとするには、其の基礎を固める必要がある。然るに日本の銀行はまだ基礎が固つて居ると云へない。而も普通銀行と為替銀行とは全然趣を異にする、即ち普通銀行は手堅いけれど、為替銀行は時に暴利がある代りに、非常な損失を醸すことがある。普通銀行が為替銀行を兼営することには困難が多い。而して東洋の事態は銀価の変動が甚だしく、其の動きを予め知ることが難しいから、為替を取扱ふことは危険千万である。第一銀行は普通銀行であつて内地の金融に力を尽すこと
 - 第3巻 p.538 -ページ画像 
を本分とする、今玆に為替の取扱を目的とする海外支店を上海に置くことは切に止めねばならぬ。
 と云ふのであつた。私は予てどうかして支那に手をつけたいと望んで居たのであるが、シヤンド氏の意見は極めて妥当であつたから、之に従つて第一銀行の上海支店は中止しました。若し此時第一銀行が上海に支店を開いたとし、変動の激しい海外為替の取扱ひを為したと仮定したならば、果してどう云ふ結果になつて居たらうか、勿論断定する限りではないけれども、或は恐る今日の如き発展は不可能であつたのではあるまいかと。故に此の点はシヤンド氏の賜であつたと申しても過言ではありません。
    五
 其後明治三十五年に、私が東京商業会議所会頭として渡英しました際、クリスタル・パーレスへ行く途中で、シヤンド氏の宅を訪問して午餐の招待を受けましたが、親切に近くの図書館など案内して呉れたりしました。又別の日にはパース・バンクへ来いと云ふので訪ねて行き、其処の他の重役に紹介されたりしたが、それ以来会ふ機会がないのであります。然し時々手紙の往復はして、情宜を通じて居ります。
先日も次のやうな手紙を寄こしました。
  拝啓昨年十二月十四日附の興深き尊書落手衷心より欣喜仕候、然ば小生老境に入り候為め、冬季を温暖の地に過し候方好都合なるを以て、数年来仏国南部又は伊国北部に避寒致し、此間到着の信書類は小生の帰来まで其儘留め置く事に致居候為め、閣下の温情に溢るゝ御書面に対しても御回答遷延致候次第に御座候
  小生が初めて閣下の知遇を忝ふせしは、大蔵省に出仕したる千八百七十二年又は千八百七十三年頃の事に候。時の大蔵卿は大隈氏に有之大輔は井上馨氏、少輔は閣下に候ひき、閣下は第一国立銀行頭取に就任の為め、其地位を辞せられたるも、小生は各種の問題を商議する為め屡閣下と愉快なる会見を致候、小生は薩摩騒動勃発の当時日本を去り申候、同戦役後大隈氏は小生に対し再び日本へ渡航致候様勧誘せられ、小生も殆ど応諾せん許りに傾き候得共、終に故国に留る事と決定仕候、英国の詩人沙翁は申し候
  「荒削は人間がせうとも、所詮の仕上は神力ぢやわい」
  而して沙翁の此言の偽ならざる事を証明する著しき事件起り候、日本は露国と開戦し、公債募集の為め倫敦に財務官を派遣致候、同財務官は努力致候へども成功せざりしが為め小生のもとに参り候、かくて小生の銀行は所要の公債を悉皆募集する事に成功致候、小生は当時の光景を鮮に記憶致居候、会合せる重役は小生に対し、契約履行に付日本は充分に信頼し得るや否やと質問致候間、小生は躊躇なく「確に」と答へ申候、然るに当時倫敦に於ける小生の知人中には一人として斯る自信を以て之を断言し得たる者無之候ひき、故に若し小生が日本に再度赴任したらんには、結果は甚しく異りしならんと存候、真に今日に於ても殆ど変らざる確信を有する者に候、小生等は貴国政府の為めに同種の数多き業務を遂行し、貴我の関係は極めて円満に経過致候
 - 第3巻 p.539 -ページ画像 
  閣下の参加せられし徳川民部公子の仏蘭西旅行の為め、小生微力相尽し候事も亦事実に候、当時小生は横浜に於けるチヤータード マーカンチール バンク オブ インデイア ロンドン エンド チヤイナに在勤罷在り、同行に於て多分日比野(清作ナラン栄一註)氏と覚え候が、一行中役人の一人の為めに信用状を発行致候、後年小生が閣下と如此親交を結ばんとは当時に於ては存じもかけざりし処に御座候、閣下の御経験は古く且つ興味ある封建時代に遡るものに候へば若し回想録をものせられ候はゞ興味深きことゝ存候
  小生は佐々木氏、須藤時一郎氏、熊谷氏等に関し明確なる記憶を有し居候、右の内後記の御両人は御在世ならざるやを恐れ候、須藤氏は快活且賢明の士にして、閣下の如く仏国に赴かれし人に候、同氏も公子の一行に加はられたることゝ推察致候(須藤氏の欧州行は民部公子の時とは時代を異にせしもシヤンド氏は同時と覚居られしなるべし。栄一註)貴国は今や財政的苦難の真只中に有之候のみならず、我国と同様支那動乱により苦悩しつゝ有之候処、右は近く終局を見ることを得ざるやを憂慮罷在候、ポルシエヴヰツクスは世界の大なる煩ひ並に本源に候へども、之を標榜する露国政府は持続すべしとも思はれず候、支那国民の大部分は無知なる為め無邪気に有之、且自然平和好愛的なれば、彼等の為めに小生は五国の協調が堅実に行はれ、忍耐を以て協商せられん事を希望罷在候
  右得貴意度如斯御座候 敬具
   尚々阪谷男爵閣下によろしく御伝声被下度候
 此手紙には返事を書かうと思つて居りますが、多忙の為めまだ書いて居りません。文中シヤンド氏は西南戦争の時、英国へ帰つたやうにあるが、何分老年の人であるから、少しく記憶に誤りがあるのではあるまいか。それから日露戦争の折公債の募集に行つた財務官と云ふのは、高橋是清氏のことであらうと思ふが、明治十年以前の日本のことしか知らぬシヤンド氏が、二十数年後の明治三十七年頃、日本の契約履行に付「確に」と答へたと云ふのも少しく変に聞へるやうであります。それは兎に角私は高橋氏が倫敦へ公債募集に赴くのを送つて「やがて咲く春の色香を異国《とつくに》にまづ手折ませ山咲の花」と歌を作つたことがあります。これは井上(馨)さんが、上の句は忘れましたが「渡りて聞かん雁《かりがね》の声」と歌つたので余り露骨で面白くないではないか、何とか工夫がありさうなものである、とて私も作らうと云ふことになり詠んだもので、井上さんに見せたら「自分で作つたのではあるまい」などと云つたことがあります。それから又日比野とあるのは、日比野清作氏で幕府の勘定方に居り、民部公子一行の計算の方を担当した人であります。又佐々木とは現在の第一銀行頭取で、熊谷は永く第一銀行の重役であつた辰太郎氏のことであります。尚ほ須藤氏が私と共に民部公子に従つて仏国へ赴いたとあるのは間違で、須藤氏が外国へ行つたのは全く時代が異つて居ります。
    六
 斯様にシヤンド氏と私との関係は、相当に古く深いので、凡そ五十数年来の友人でありまして令尚ほ文通して居ると云ふのは頗る珍らしいことであると申さねばなりますまい。殊に私は米国に多数の知人が
 - 第3巻 p.540 -ページ画像 
居ますのに、英国には甚だ少いので、シヤンド氏とは旧い友人としても、英国の知人としても一層懇親でありたいと望んで居るのであります。
 シヤンド氏は大手腕家と云ふやうな人ではなかつたが、其の業に精しく而も緻密で且つ自信が強く、何事も親切に思ふことを忌憚なく述べる人で、私は此点に敬服して居ります。誠に此様な人を本当の是々非々主義の人だと云ふのでありませう。又我が銀行業が英国流の健実な預金銀行主義で経営せられ、遂に今日の隆盛を見るに到つたのに対して、シヤンド氏の力が与つて大きかつたとも考へられるのでありまして、此点から考へると、我が銀行業の恩人の一人であると申してよからうと思ひます。 (七月二日談話)
  ○竜門雑誌、第四八七号(昭和四年四月)所載「新日本建設時代に於ける英国人の貢献」―パークス氏及びシヤンド氏に就て―ニモ、シヤンドニ就キ詳細ナル談話アリ。


〔参考〕竜門雑誌 第四六七号・第七三―七六頁〔昭和二年八月〕 シヤンド氏の思ひ出(佐々木勇之助)(DK030133k-0009)
第3巻 p.540-542 ページ画像

竜門雑誌  第四六七号・第七三―七六頁〔昭和二年八月〕
  シヤンド氏の思ひ出  (佐々木勇之助)
 アーラン・シヤンド氏に就て、青淵先生は本誌前号に、種々の御感想や思ひ出を語つて居られましたが、実際あの通りであると思ひます。私がシヤンド氏に初めて会つたのは、明治七年頃、氏が我が大蔵省紙幣寮 後の印刷局 に招聘せられ、銀行事務の手続を調査して居られた時分のことでありました。其頃紙幣寮には銀行学局と云ふ一局を設けられ、銀行事務を練習する生徒を養成せられたのでありましたが、後に正金銀行の重役となられた山川勇木君、戸次兵吉君抔は其生徒でありました。而して第一銀行からも野間益之助、熊谷辰太郎、本山七郎兵衛の三君が、開業前より簿記の稽古に往つたのであります。私は国立銀行の開業当時には、御用方即ち大蔵省の金銭を取扱ふ掛の帳簿をつけて居りましたから、シヤンド氏からは直接に教を受けず、シヤンド氏の著「簿記精法」に由り、帳面課長たりし野間広之助氏より教を受けたのであります。其後野間氏が歿し、熊谷氏が課長となつた時分には、私も営業部の帳面方となりました。然るに或る帳簿の記入方に就て、少し判らないことがあつたので、課長の熊谷氏と私とで教へを受けに行きました処、氏の事務室は印刷局の一部、昔の大名屋敷の長屋の二三室を板敷にした至つて粗末な処でありましたが、其処へストーブや粗末なデスクを置いて一向構はず調べ物をして居られたのには誠に敬服致しました。後翌八年であつたと思ひますが、銀行へ検査に来られて帳簿の記入方其他精密な検査を行はれました其節は熊谷氏は已に大阪に転任し、私が課長となり、其次に長谷川一彦氏が帳面方の一人で居られましたから、両人で教を受けたのであります。其節シヤンド氏は毎日或は隔日位に銀行へ出張して来られて、種々手を取つて教へられたのでありまして、其の通訳は中原国之助と云ふ米国の銀行にて修業し、当時紙幣寮の役人となつて居た人が同行せられたので、私と長谷川氏とは少なからず益を受けたのであります。
 一体シヤンド氏は極めて真面目で、非常に親切な方で、何事にも熱心に而も綿密な人でありました。曾て半期の決算の仕方を教へられて
 - 第3巻 p.541 -ページ画像 
[img写真]アーラン・シヤンド氏
居た時「之れだけは書かずに置け明日来て教へるから」と云つて居たのを、私達は「やつてしまはねばなるまい」とて長谷川氏と共に書き上げて置いた所、氏は翌日来て「此まゝにして置けと云ふのに付けてしまつた」とて、非常に小言を言はれ青淵先生から云ひ訳をしてもらつたことがあつたのをよく記憶して居ります。
 何んでも紙幣寮を辞してからは、倫敦のアライアンス バンクの支配人となり、後其の銀行がパース バンクに合併せられてから、此方へ移り、次で取締役になつたので、日露戦争の折日本の外債募集に尽力したり、青淵先生が訪英せられた時御面会になつたのも、其のパース バンクに居られた時分でありました。又氏が大蔵省へ雇聘せらるる前は、横浜のチヤータード マーカンチール バンク オブ インデイア ロンドン エンド チャイナと云ふ銀行に居られたと云ふことですが、此銀行は早く解散してしまつたので、今日のチャータードバンクとは全然別のものであります。
 シヤンド氏の名は余り今日の日本人の間に知られて居りませんが、日本の銀行業にとつては少なからぬ貢献をした人で、明治初年の国立銀行条例こそ米国式であつたが、営業の仕方や、帳簿の付方などはシヤンド氏を師とした関係で、英国流であつたのであります。故に日本の銀行の組織が英国風であるのは之が為めであります。今でこそさうではないが、当時米国流の帳簿の雛形を中原国之助氏から見せられましたが、英国流に比して粗雑であるやうに思はれました。尚ほ日本人の銀行家で英国へ赴いた人々は、大抵氏のお世話になつたやうでありますから、シヤンド氏の日本の銀行界に尽した功績は頗る大であると申さねばなりません。そして現在も健康を保つて居られると云ふのは頗る結構な事であると思ひます。更に銀行のみでなく、曾て田口卯吉氏が紙幣寮に勤務して居られた頃、シヤンド氏が倫敦「エコノミスト」を示し英国には此の如き雑誌があり、経済上の事柄を論評して居る、日本にも斯う云ふものが出来なくてはいけないと云はれたので、後に自ら「東京経済雑誌」を経営する様になつたと、田口氏が話されたことがありました。
 此処に掲げた写真は、以前第一銀行五十年史に挿入する積りで、一葉の写真を同氏より貰ひ受けて居た処、十二年の震火災で遺憾ながら
 - 第3巻 p.542 -ページ画像 
焼失したので、其後更に寄贈のことを御頼みして置いた、すると同氏の命に依り先般写真屋から直接送つて来たものでありまして、最近の写真であるやうに思はれます。私は同氏に別れてから五十年近くなりますが、此の写真を見て同氏壮年時代の面影が少なからず思ひ出されます。以上誠に簡単な思ひ出話に過ぎませんが、青淵先生のお話もあることでありますから、此の写真の説明位になれば本懐であります。


〔参考〕竜門雑誌 第四九九号 第二八頁〔昭和五年四月〕 アラン・シヤンド翁逝く(DK030133k-0010)
第3巻 p.542 ページ画像

竜門雑誌 第四九九号  第二八頁〔昭和五年四月〕
  アラン・シヤンド翁逝く
 日本の親友として朝野多数の人々に記憶されて居る英国のアラン・シヤンド翁は明治初年大蔵省のお雇となり、我国銀行制度の創始に与つて力があり、青淵先生や佐々木第一銀行頭取等と親交ある人であるが、高齢と共に近年非常に衰弱し、昨年の冬は南欧に避寒して居たが、四月十二日英国パークストンの別荘で八十六歳の高齢を以て死去したと云ふことである。翁は日露戦争当時にはパース銀行の重役として我国の外債募集に非常に努力した人で、最近はウエストミンスター銀行の重役を勤めて居た。


〔参考〕明治文化発祥記念誌 (大日本文明協会発行) 第三八頁〔大正一三年一二月〕(DK030133k-0011)
第3巻 p.542 ページ画像

明治文化発祥記念誌 (大日本文明協会発行) 第三八頁〔大正一三年一二月〕
  明治文化 に寄与せる 欧米人の略歴
 シヤンド(英人)Alexander Allen Shand
 氏は英国に生れ、経済学財政学に通じ殊に銀行学をもつて専門とした。早く横浜東洋銀行の書記として本邦に渡来した人である。明治七年紙幣頭外国書記官兼顧問長《(五)》として傭入られし時は年齢僅に三十歳であつた。明治十年一月に紙幣寮の紙幣局と改称せらるゝや氏は一時新に設置された銀行局に入つた。氏は在任中銀行検査、報告、帳簿其他銀行事務の改良に尽力したのみでなく銀行大意及び銀行簿記精法等銀行必須の書を著述し斯業に関する知識を国民に注入した。又明治七年四月銀行課中に銀行学局の開設を見るや氏の指授に出づるもの多く、後に銀行雑誌の刊行に当つては材料を氏の著書より取りしもの少くない。氏の帰国に臨んで大蔵卿は特に贐を贈つて其功労を謝した。後氏は本国に帰り「パース」銀行倫敦ロムパート町支店長となり、明治三十二年本邦公債を同地に於て募集するに際し頗る斡旋する所あつた。