デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 第一国立銀行 株式会社第一銀行
■綱文

第4巻 p.319-351(DK040027k) ページ画像

明治10年1月26日(1877年)


 - 第4巻 p.320 -ページ画像 

是ヨリ先、清国政府我政府ニ壱千万円ノ借款ヲ要請ス。栄一之ニ応ぜンコトヲ大蔵卿大隈重信ニ慫慂シ、其方法ヲ建案ス。此ニ基キ政府ハ栄一並ニ三井物産会社長益田孝ニ借款ノ交渉ヲ委任シ、同行ノ名儀ヲ以テ契約スベキ旨ヲ命ズ。更ニ清国招商局ヨリモ借款ノ交渉アリシカバ政府ハ之ヲモ両人ニ委託セリ。

是日栄一、益田孝ト共ニ上海ニ赴ク。二月十二日海関銀弐百五拾万両ヲ政府ヘ貸付クルノ約成立シテ調印ヲ了セルモ、招商局ヘノ借款ハ不調ニ終リ二十六日帰朝ス。後清国政府モ前約ヲ破棄ス。


■資料

第一銀行五十年史稿 巻三・第四九―五二頁(DK040027k-0001)
第4巻 p.320-321 ページ画像

第一銀行五十年史稿 巻三・第四九―五二頁
    清国政府への貸附金
明治九年七八月の交、清国政府は上海総領事品川忠道を介し、我が政府へ借款の申込あり、陸軍大佐福原和勝・内務省雇英人ピツトマン、其間にありて周旋に努め、議漸く進みしが、我が政府は政府の名を以て其要求に応じ能はざる事情あるのみならず、実際上銀行者の手を経由するの至便なるを知れるがゆゑに、政府は本行をして其衝に当らしめんとす。本行もまた海外発展の動機たるを察し、喜びて之に応じ、貸附金の七分は、華士族の禄券を抵当として、銀行紙幣発行の方法により、華士族中より徴集し、三分は政府より銀貨・銅銭・其他の物品を以て貸附くる事とし、且三井銀行と組合ひて万般の事務を取扱ひ、紙幣発行及其交換の任に当らんと建議したるに、政府は三井銀行の代りに三井物産会社を指名して、同社長益田孝と、本行頭取渋沢栄一とに借款の交渉を委任し、且貸付は本行の名によりて取結ぶべき旨を命令せり。かゝる折りしも、清国招商局よりも借款の交渉ありたれば、政府は此事件をも併せて本行と三井物産会社とに委託すべき内訓に接したれば、渋沢栄一は益田孝と共に、翌十年一月清国に渡航す。大蔵省書記官岩崎小二郎は二人の稟議を聴断し、福原和勝とピツトマンとは、交渉の成立を周旋すべき任務を帯びて其行を倶にせり、かくて頭取の一行は二月上海に着し、清国官吏許厚如の代理者たる何福陰及び英人マンソンと交渉を重ねたる後、遂に海関税を抵当として、海関銀弐百五拾万両を貸付くるの約束成立し、同月十二日光緒二年十二月三十日日本領事館において約定書に記名調印せり。而して此行また同国招商局の借款をも併せて交渉せり。抑も招商局といへるは、鉄道業と海運業とを兼営せる一大商社にして、清国政府の管理に属するも、其資本は官民の合同に係れり。此時汽船購入の資金を我国に仰がんとし、明治九年十月、同局管理の清国官吏朱其詔より、其意を総領事品川忠道に通じたれば品川は、本行をして此需に応ぜしむべきことを政府に建策せる結果、上述の命令に接したるなり。されば頭取等は朱其詔と会見し、海関銀壱百万両貸付の交渉を開き、抵当は必ず海関税たるべしと要求し、彼は招商局所有の土地倉庫並に船舶を以てせんとし、議遂に
 - 第4巻 p.321 -ページ画像 
協はざりき。此の如くにして招商局の借款は不調に属したれども清国政府への貸付は約束成立せるがゆゑに、月末を以て帰朝し、政府に復命する所あり、将に金円の授受に及ばんとするの際、許厚如は其政府より受けたる貸借委任状中、既訂の条約と齟齬する所ありとて、前約を破棄せんことを求めたれば、本行は数十回応答難詰の後、償金弐万五千円を提出せしめて契約を解除せり。○下略


青淵先生伝初稿 第九章下・二二―二八頁〔大正八―一二年〕(DK040027k-0002)
第4巻 p.321-322 ページ画像

青淵先生伝初稿 第九章下・二二―二八頁〔大正八―一二年〕
    清国政府への貸付金につきての交渉
第一国立銀行が清韓両国に支店又は代理店を置きたるも亦此際にあり初め明治九年清国光緒二年七八月の頃、清国政府は上海駐在総領事品川忠道を介して我が政府へ借款を申込みたり。陸軍大佐福原和勝、内務省雇外人ヒツトマン、間にありて周旋せしが、政府は其名によりて之に応ずる能はざる事情ありたれば、内命を先生に伝へて謀る所あり。先生は予ての素志たる海外発展の好機会なりと思ひ、案を具して政府と交渉し、貸付金の七分は、華士族の禄券を抵当として、銀行紙幣発行の方法により、華士族中より募集し、他の三分は、政府より銀貨・銅銭・其他の物品を以てせんとするものにして、三井銀行と組合ひて万般の事務を取扱ひ、且つ紙幣発行及び其交換の任に当らんとす。政府は先生の意見を納れたれども、三井銀行の代りに三井物産会社を指名せるは、蓋し物品貸付の便宜あればなるべし。
    先生の渡清
かくて政府は先生と物産会社長益田孝に委任するに借款交渉の事を以てし、且つ貸付は第一国立銀行の名義によるべきを命令せしかば、明治十年一月二十六日、先生は益田と相携へて渡清の途に上る。而して此談判を監視し、且つ臨時の稟議を聴断せんが為に、大蔵少書記官岩崎小二郎も特選派出を命ぜられ、又最初より此事に鞅掌せる福原和勝及びヒツトマンも、周旋の為に同行せり。先生等は二月三日上海に著し、清国政府の委員許厚如、同国政府の委任を受けたる英人マンソン及び何福蔭等と交渉し、海関税を抵当として、海関銀二百五十万両を貸付くるの議成立し、双方日本領事館に会同して記名鈐印せり。即ち貸方主任としては先生と益田孝、借方主任としては許厚如とマンソンなりき。
    清国招商局への貸付金につき交渉
此時又清国政府の管理せる招商局鉄道と海運とを兼営せる商社にして、其資本は官民の合同に係れりは、船舶購入の資金として、海関銀百万両を借入れんとし、同局管理の任に当れる清国官吏朱其詔より品川総領事に交渉あり、政府先生及び益田に命じ、此行便宜を以て交渉せしむ。よりて先生等は朱其詔とも数次会見して意見を交換せしが、議遂に熟せずして已む、先生又上海の商況視察の内命を帯びたれば、詳に其調査を遂げ、二月二十七日帰朝し直に大蔵卿大隈重信に就きて報告せり。
    貸付金の不調
清国政府は先生等と約束せる貸付金の授受を畢へざるに先ち、許厚如に委任せる権限と該約定書と相牴触する所ありとの理由を以て、破約
 - 第4巻 p.322 -ページ画像 
を申込み来りしかば、遂に二万五千両の償金を出さしめて之を破棄するに至れり。
    日清両国間に於ける為替荷為替の開始
されども先生の旅行は徒労なるにあらず、明治十一年に至り、上海及び香港なる三井物産会社支店を以て第一国立銀行の代理店と為し、為替及び荷為替の取扱を開き、又我が銀貨の流通を図り、両国の通商上多大の便宜を与へたるは、源を此に発せり。然るに幾もなく先生は朝鮮の金融に全力を傾注せんが為に、清国に対しては漸次其手を収むるに至れり。


渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治九年)九月一八日(DK040027k-0003)
第4巻 p.322-324 ページ画像

渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治九年)九月一八日 (大隈侯爵家所蔵)
謹白、頃日数回奉伺高慮候支那政府ヘ貸金ノ事ハ、我賢明ノ政府ニ於テハ、既ニ其得失ヲ御洞察アラセラレ、万々其需ニ応スルノ御決議ニ至ラセラルヽ事ト奉信憑候得共、這回支那政府ノ要求スル金額ハ、殆ント一千万円ノ巨額ト仄聞セシニ付、之ヲ我政府ノ御手限ニ御施行アラセラルヽヨリハ、幸ニ華士族禄券御発行ノ公布モアラセラレタル際ニ付、其禄券ヲ活用シテ徴集ノ方法ヲ設ケラレ候ハヽ、第一此貸金ハ日本人民ヨリスルノ名誉ヲ得、第二内国融通ヲ裨補シ、第三華士族禄券ヲ保持シテ而シテ幾分ノ利益ヲ増サシムルニ付、彼是幾層ノ御都合ト奉存候、因テ井蛙ノ管見御参考ノ万一ニ供シ度、左ニ秩序奉建言候
    第一
  支那政府ヘハ其要求ノ金額ヲ本年ヨリ弐ケ年間ニ貸与スヘク、且其金額ノ七分ハ日本ノ物産諸品米麦石炭漁産海草ノ類三分ハ銀貨銅銭ヲ以テスヘシ、而シテ其債主ハ内国人民ニ徴集シ、モシ能ハサレハ政府ニ引受クルトモ、必其需ニ応スヘキ旨ヲ速ニ御回答アリタキ事
    第二
  利足ハ年九分可成ハ年壱割返消年限ハ貸付タル年ヨリ十ケ年ニテ、弐ケ年ハ利足ノミ、三年目ヨリ元利割済ミノ方法、抵当ハ上海広東ノ税関ニテ可ナリト存候事
   但貸金ニ付約定書案ハ、充分御詮議ノ上、最上ノ手堅キ文書取究メコレアリタク候事
    第三
  貸付ニ用ユル物品供給ノ方法ハ、前以テ其品種ト員額トヲ予定シ且供給ノ期限ヲ設ケ、価格モ前定シ得ラルヘキ丈ハ協議ノ上確定シ、而シテ支那ヘ輸送スルモ我郵船ニテ取計度候事
    第四
  貸金総額凡千万円ノ中三百万円ハ政府ヨリ銀貨銅銭其他ノ物品ヲ以テ付与セラレ、他ノ七百万円ハ華士族禄券ヲ抵当トシテ銀行紙幣発行ノ方法ニヨリ、華士族中ヨリ徴集仕度候事
    第五
  右徴集ノ方法ハ先ツ華士族ノ禄券ヲ有スル者ニ示談シ、其員額中若干ハ此徴集ニ応シテ差出スヘキ高ヲ定メ、而シテ其禄券ノ時価ヲ設ケ、之ヲ抵当ニシテ銀行紙幣発行ノ許可ヲ乞ヒ可申事
   但右紙幣流通ノ手順ハ、他ノ銀行紙幣同様ニシテ、其交換其他
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ノ義務モ之ヲ引受クル銀行等ニ於テ其責ニ任スヘキ事
    第六
  右ノ方法ヲ以テ此貸金ヲ徴集スルトキハ、支那政府ヘ対スル債主ハ、銀行等此事ニ従事スル者ノ名ヲ以テシ、且此徴集ニ応スル華士族ヘハ政府ニテ御保証被下度、然シテ華士族ハ其差出シタル禄券ニ対スル利足ハ、素ヨリ其所有高ニ応シテ之ヲ得ヘク、其上此貸付ニ付テ生スル利足中ノ若干ヲモ収入スヘクシテ、其保証ハ政府之ニ任スルトキハ、詰リ禄券ハ政府ヘ保護預ケトシテ更ニ利益ヲ得ルノ筋ナレハ、勿論此徴集ニ応シ可申奉存候事
   但支那政府ヨリ受取ル利足中ニテ、何分ハ此引受ヲ為ス銀行ヘ付与シ、何分ハ華士族ヘ付与スルトノ分界ハ、前以テ約定スヘク、又政府ヨリ下付セラルヽ元金ニ対スル利足ハ、勿論其都度金額上納スヘキ事
    第七
  前約条ノ手続ヲ以テ此貸金ヲ徴集スルニハ、相当ノ社会中《(マヽ)》ニテ此貸金組合ヲ立テ第一国立銀行三井銀行ノ類其社中ニ於テ万般ノ事務ヲ取扱ヒ且紙幣発行及交換ノ事務ヲモ調理可仕事
    第八
  第三条物品ヲ以テ此貸付ヲ為スノ方法モ、便宜ノ為メ別ニ組合ヲ設ケ、其供給運輸ハ都テ此組合ニテ為取扱、而シテ其代価ハ前条貸金組合ヨリ支度シ、相互ニ約束ヲ設ケテ其事ヲ処置仕度事
   但政府ヨリ此物品中ヘ御付与ナサルヘキ分アレハ、相当ノ価格ヲ定メ、均シク此組合ニ御付与セラレ、其代価ハ貸付組合ヨリ上納可仕候事
    第九
  右ノ方法ニヨレハ、毎事人民社会中ニテ成就スル筋ナリト云トモ其要旨ハ都テ政府ノ御都合ニ従ヒ、毎件両組合ニ御指揮アリテ、其事務ノ調整ヲ要セラレ候ハヽ、其名人民ニシテ其実ハ政府ニコレアリ候間、定備ノ約束ヲ遂ケ、充全ノ了局ヲ得可申候事
右ハ実ニ不容易事柄ニ付、耳聞候以来寤寐忘レ兼候ニ付、敢テ卑考ヲ条陳仕候、尤モ此華士族禄券ニ付テハ、目今種々ノ論説モ有之ニ付、或ハ此禄券抵当ヲ以テ巨大ノ銀行ヲ創立セシメテ、此貸金ヲ為サシムヘキ等ノ議案モ生スヘキヤト奉存候得共、既ニ銀行ト公許セラルヽニハ、只此貸金ノミニテ他ニ其事務ナキハ不相当ニシテ、且之ヲ集合シテ其協議ニ至ラシムルモ多少ノ時日ヲ要スヘクシ《(マヽ)》、仮令ヒ一旦其議ヲ決シテ銀行ヲ創立スルモ、漸次他ノ事務ヲ調理スルハ、担当人ノ能否ニ関シ、其株主タル華士族ハ常ニ其煩累ヲ受ケテ、安堵スル能ハサルノ顧慮アルヘキコトト奉存候間、弥以此禄券ヨリ徴集セラルヽト為サハ、前陳ノ方法却テ名実相当シテ、一段ノ便利ヲ得可申奉存候
更ニ翻案シテ此貸金ハ縦令ヒ政府ノ名ヲ避ケテ人民ヲシテ債主タラシムルモ、紙幣発行ヲ増額スルハ、殊ニ銀行紙幣ヲ要セス、官府ノ紙幣ニテ可ナリトセン乎、是レ其処置ニ於テハ実ニ単一ニシテ煩累ナシト云トモ、或ハ恐ル政府ノ会計上ニ於テ聊カ顧慮スル所ナキ能ハサルヲ、況ンヤ世間流通ノ際ニ於テハ、其資本華士族所有ノ財産ヨリ生ス
 - 第4巻 p.324 -ページ画像 
ルノ便アルヲヤ、若又此貸金ハ政府ニ於テ名実トモニ御管理アラセラルヽニ於テハ、此方法ニ付テ別ニ上言仕候義ハ無之候、只願クハ速ニ支那政府ノ依頼ニ応シ、貸金引受ノ事ヲ御決答アラセラレ、而シテ其方法ニ於テモ、可成ハ前条ノ建案御採用被下度、此段内々奉建言候也
  明治九年九月十八日
                       渋沢栄一
    大隈大蔵卿閣下


第一国立銀行半季実際考課状 第八回〔明治一〇年上期〕(DK040027k-0004)
第4巻 p.324 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状 第八回〔明治一〇年上期〕
    営業事務之事
○上略
一清国政府ヨリ当銀行ニ対シ借銀ノ要請アルニ因テ、頭取渋沢栄一ハ其専対訂約《(マヽ)》ノ為メ三井物産会社ノ長益田孝ト与ニ一月廿七日当地ヲ発シテ支那上海ニ赴キ、彼ノ官吏許厚如ニ接遇シテ海関銀弐百五拾万両ヲ貸付スヘキ款約ヲ修局シテ二月二十六日帰朝セリ
一右許厚如ハ其政府ヨリ受ケタル貸借委任状ニ於テ既訂ノ款約ニ支牾スルコトヲ唱ヘ、以テ前約ヲ破毀センコトヲ求ム、因テ数十回応答詰責ノ後償金弐万五千両ヲ誅求シテ其求メヲ聴キ、以テ前約ヲ破毀スルコトヲ准ルス
一右貸借ニ係リ其上海旅寓ニ際シ甞テ明治七年松田源五郎外壱名ヲシテ彼地ニ派遣シ其事情ヲ探訪セシメタル記録アルヲ以テ、尚之ニ就テ其実際ヲ探問シ、当行営業上ニ於テ他日為スアルヘキ所ノ考案ヲ得タリ、然レトモ未タ之ヲ処行スルニ至ラス聊カ玆ニ報道スルノミ
○下略


青淵先生六十年史 第二巻・第四四三―四八五頁 〔明治三三年〕(DK040027k-0005)
第4巻 p.324-339 ページ画像

青淵先生六十年史 第二巻・第四四三―四八五頁〔明治三三年〕
    清国政府ヘ貸付金事務考課状
明治十年一月二十五日ノ命令書ニヨリテ清国政府ヘ貸付金ノ事務取扱方ヲ領承シ、彼ノ地ニ出張シテ之ヲ談判シ之ヲ結約シタルニ付、其事務ノ要件ヲ左ニ条陳シテ謹テ復命仕候
    一行発程及帰朝ノ事
貸付金ハ第一国立銀行ノ名義ヲ以テスヘキニ付キ、此ノ談判ノ当務ハ同行頭取渋沢栄一三井物産会社長益田孝ノ両人ニ専任セラレ、而シテ其談判ニ際シテ実況ヲ監視シ且臨時両人ヨリ稟議ヲ聴断スル為メ大蔵少書記官岩崎小二郎ニ特撰派出ヲ命セラレ、三人派遣中ノ要件モ整束セシニ付、明治十年一月廿六日ヲ以テ東京ヲ発程シ同日午後四時ニ横浜港ヲ抜錨セリ
此ノ貸付ニ付最初ヨリ従事勉力セラレタル陸軍大佐福原和勝、及内務省御雇英人ヒツトマン氏モ亦此ノ談判ノ調成ヲ周旋ノ為メニ前ノ三人ト与ニ発程同行セリ、一行ノ五人ハ一月廿八日払暁ニ神戸港ニ着シ、直ニ上陸シテ大阪ニ赴キ同所ノ事務ヲ弁理シ、同夜神戸ヘ帰港シテ本船ニ乗組ミ午前一時ニ同地ヲ発シ廿九日夜下ノ関ニテ暫時碇泊シ、三十日午後八時長崎港ニ着シ直ニ上陸シテ同港ニ一泊シ、要務ヲ弁理シ一月三十一日夜本船ヘ帰リ午前一時ニ抜錨シテ二月三日午前七時清国
 - 第4巻 p.325 -ページ画像 
上海港ニ安着セリ
上海上陸ノ後直ニ日本領事館ニ到リ品川総領事ニ面接シテ大蔵卿ヨリノ伝命ヲ達シ、且此ノ貸付金ニ付テ爾来ノ事情ヲ詳細ニ演述シ而シテ向後此ノ談判ノ便宜ヲ協議シ、畢リテ岩崎、渋沢、益田ノ三人ハ此ノ談判中上海ニアル広業商会ノ支店ニ投宿スルコトニ定メ、福原和勝ハ曾テ此ノ地ニ僑居スル所ノ家ニ帰リヒツトマンハ其友人某氏ヘ投宿セリ
一行ノ上海ニ抵ルヤ、夙ニ已ニ人ノ聞知スル所ト為ルヲ以テ、曾テ此ノ貸付金ニ関与シテ清国政府ヨリ其代理ヲ任セラレタル英商「リイテイウエンス」社中ノ支配人マンソン氏、及清国人何福蔭ハ直ニ領事館ニ来リテ一行ノ到着ヲ訪ヒ、且其借銀ノ要件ヲ面晤センコトヲ乞フニ付、品川総領事ハ既ニ三人ト協議セシ趣旨ニヨリテ明日ヨリ其談判ニ及フヘシト答ヘタリ
是ヲ以テマンソン何福蔭ノ両氏ハ二月四日ヨリ広業会社ニ来リテ此ノ談判ヲ始メ、爾来相往来シ、而シテヒツトマン氏ハ常ニ其間ニアリテ拮据其協議ヲ賛成シ、物品交付ニ付テノ各件モ漸次談合了結セシニヨリ、貸借双方ニ於テ信守スヘキ約款ハ上海ニアル英人ノ状師レイネリ氏ニ委シ、英語ヲ以テ之ヲ草シ之ヲ此ノ約定ノ根拠トシ、加フルニ日本語清国語ノ両通ヲ副ユルコトヽ定メ、二月十二日ニ至リテ諸般ノ事務ヲ整束シ、其夜二時ヲ以テ貸借約定ノ主任及干与ノ各員共日本領事館ニ会同シ、約定書ニ記名鈐印セリ
貸付金ノ結約既済ニ付、岩崎、渋沢、益田ノ三人ハ本月十四日ヲ以テ発程帰朝ノコトヲ決シ、十三日ニ旅装ヲ理シ諸方ノ音信告別等ヲモ弁理シテ十四日午前十一時三菱会社ノ汽船名護屋丸ニ搭シ午後一時上海ヲ発シタリ、陸軍大佐福原和勝ハ本官緊要ノ事務アリテ帰朝スヘキニ付三人ト同行シ、ヒツトマン氏ハ上海ニ滞在セリ、二月十六日午前十一時長崎ニ着シ一同上陸シテ旗亭ニ投シ、且此ノ事務ニ付テ同港ニテ要用ナル各件ヲ弁理スル為メ次便ノ汽船来着マテ此ノ地ニ滞在ノコトヲ決シ、三人ハ即日ヨリ其事務ニ就テ諸件ヲ調査シ、廿一日広島丸ニ航シ廿三日午後六時神戸ニ着シ、直ニ上陸シテ三人ハ即夜夜汽車ニ駕シテ大阪ニ抵ル、福原大佐ハ本務ニ就クヲ以テ神戸ニテ分袂セリ
大阪ノ事務ハ廿四日廿五日ノ両日ヲ以テ弁理セシニ付、廿五日夜七時半大阪ヲ発シテ神戸ニ到リ十一時ニ本船ニ乗組ミ午前一時ニ解纜シ、廿七日午前十時横浜ヘ着帆シ午後二時半ノ汽車ニ乗シテ東京ニ帰着直ニ大隈大蔵卿閣下ニ伺候ス、時ニ松方大蔵大輔殿、郷国債局長殿ニモ来会セラレ貸付金約定ノ顛末及旅中ノ景状ヲ面前ニ於テ陳述ス
右発程ヨリ帰朝ノ日マテノ枢要ニシテ而シテ日常ノ庶務ヲ弁理シ、及他人ト応接談判セシ詳細ハ、次ノ結約順序、及別冊旅中日記ヲ以テ上申仕候
    貸付金結約順序之事
貸付金ノ案件ハ昨年七八月ノ間ニ起リテ爾来我大蔵卿閣下ハ文書電信ヲ以テ屡々之ヲ品川総領事及ヒツトマン氏ヘ応答スト雖モ、彼ヨリ請求ノ事項ニ於テ頗ル糢稜ノ所為アルヲ以テ大蔵卿閣下ハ既ニ之ヲ厭ヒ一月廿三日ノ電信ニテ品川ヲ経テ断然此ノ談判ヲ拒絶シ、而シテ三人
 - 第4巻 p.326 -ページ画像 
ノ此ノ行アルハ殊ニ銀行ノ其支店ヲ上海ニ設立スル為メナレハ彼ヨリ尚此ノ談判ヲ望ムモ直ニ前議ニ接続スルハ我ニ於テ之ヲ好マサルニ付須ラク其議ヲ更始スヘキコトヽシ、着後品川ヘ其理由ヲ演述シ同氏ハ其趣旨ヲ以テ許厚如等ヘ通知スヘキコトニ談決ス
然而シテ三人ハ其旅寓ニ投スルノ後更ニ相議シテ曰、我儕ノ此ノ地ニ来着スル已ニ外人ノ探知スル所トナルヤ必セリ、故ニ卒然此ノ地ニ於テ此ノ議ヲ起サハ或ハ外人ノ妨害ヲ受クルモ亦識ル可ラス、如カス飄然寧波若シクハ其他ノ地ニ赴キ先ツ外人ノ探偵ヲ避ケ、許厚如等切ニ此ノ借銀ヲ要望セハ宜シク来議セシメンニハト、品川ノ来リ見ルニ及ンテ之ヲ同氏ニ詢ル、品川曰、許厚如ノ此ノ借銀ヲ望ムニ切ナルハ決シテ疑点ナシ、既ニ過頃拒絶ノ電報ノ達スルヤ驚愕狼狽其面ニ顕ハル故ニ兄等寧波ニ赴カハ彼亦必ス之ニ従ハン、若シ然ラハ此ノ事却テ暴露シテ人ノ之ヲ探偵スルモ亦随テ多カラン、如カス静ニ此ノ地ニ於テ此ノ談判ヲ為シテ速ニ之ヲ結了センニハト、依テ此ノ議ヲ歇ム
品川総領事ノ通知ニヨリ英商マンソン氏、清国人何福蔭ハヒツトマン氏同伴ニテ旅寓ニ来訪ス(二月四日)且ツ曰、此ノ事務ノ専任タル許厚如ハ現ニ蘇州ニ在リテ不日帰港スヘシ、然レトモ借銀ノ要件ニ於テハマンソン氏何福蔭ハ協議シテ之ヲ決スルヲ得ルニ付逐件此ノ議ヲ約定スヘシト、是ニ於テ三人ハ本日ヲ以テ始テ此ノ貸付金談判ノ端緒ヲ開ク三人ハ先ツ此ノ貸付金ニ付テ緊要ナル左ノ数項ヲ両氏ニ問フ
一借銀ノ総額ハ海関テール弐百五拾万両トシテ此ノ約定ヲ結フヤ
一総額中ヘ日本米三十万石ヲ加フルコトヲ首肯スルヤ
一右米ノ品柄ハ日本平均良米ヲ以テスヘキニ付之ヲ承諾スルヤ
一米ノ外ニ銅鉄石炭小麦其他精製藍及海産茶等ノ各品ヲモ受取ルヤ
一日本定位銀貨ハ少クモ三万拾両ノ額ヲ此ノ中ニ加ヘテ受取ルヤ
一物産其他ヲ以テ交付スル額ヲ除キテ総額ニ充ツル所ハ洋銀又ハ日本貿易銀ヲシテ我ノ都合ヲ以貸与スヘキニ付之ヲ承諾スルヤ
一海関テールハ凡四拾万両ヲ以テシ日本旧銅貨ハ凡五万円ヲ以テスヘシ
一返済期限利息ノ割合海関テール上海テール及洋銀貿易銀等ノ比較ハ曾テ論及セシ所ヲ以テスヘシト雖モ返却ノ際上海規銀ノ相場ニヨリテハ我ノ都合ヲ以テ銀塊ニテ受取ルコトヲ望ムヘシ故ニ其量目品位等ヲ確定シテ此ノ約定ニ明記スルヲ要ス
一貸金ノ抵当タル海関証票ハ曾テ東京銀行ニ出シタル品ト等シキカ且其一枚ノ金額ハ多クモ五千両迄ノ額ニシテ証票払込ノ期限ニ至ラハ之ヲ其海関ノ税銀ニ収入スルコトヲ明記スルヤ
右ノ数項ヲ談判シ、且此ノ談判調成セハ其約定書ハ老練ノ外国状師ヲ我ニ雇フテ之ヲ草セシメ、其原書ハ英文ヲ根拠トシ並ニ日本文清国文ヲ副フヘキコトヽシ、而シテ物品ヲ交付スルニ付テノ手続等ニ談及シ米及銅鉄小麦ノ見本ヲ一覧セシム、マンソン何福蔭ノ両氏ハ物品ノ見本ヲ一覧シテ右問ノ数項ニ答フルニ左ノ数件ヲ以テス
一借銀ノ総額ハ海関テール弐百五拾万両ヲ以テ此ノ約ヲ結フヘシ
一米ハ三拾万石ヲ加フルコトヲ承諾スト雖モ三陸米又ハ北越米ノ如キ下等ノ品ヲ除キ日本良米ヲ以テスルヲ要ス
 - 第4巻 p.327 -ページ画像 
一米ハ必ス外国ニ輸出スヘシ貸主ノ許可ヲ得ルニアラサルヨリハ日本ニテ売却セサルヘシ
一銅ハ丁銅鋳形銅ヲ以テ先ツ其額及価格ヲ議定スヘシ荒銅ノ如キハ追テ時価ニヨリテ其受取方ヲ協議スヘシ而シテ鉄ハ即今売却ノ見込ニ乏シキヨリ之ヲ除クヘシ
一石炭ハ更ニ売却ノ見込ヲ定メテ其額ト価格トヲ議定スヘシ小麦ハ至少ノ高ナラテハ之ヲ受取ルニ難カルヘシ精製藍ハ未タ清国地方ニ其方法ヲ知ラサレハ之ヲ売却スルノ途ナキニ付之ヲ除キ海産ハ追テ其時価ニヨリテ受取方ヲ協議スヘシ茶ハ其製ニヨリテ充分売却ノ見込アルヘシ
一定位銀貨ハ三拾万両ノ額ニテハ多キニ過キテ受取ルコトヲ難ンスルニ付其額ヲ減少スヘシ
一海関テールハ素ヨリ望ム処ニシテ日本旧銅貨モ可成丈ケ其額ノ増加スルヲ好トス
一総額中物品ヲ以テスル額ヲ除クノ外洋銀又ハ貿易銀ヲ以テ貸主ノ都合ニヨリ交付スルコトハ之ヲ承諾スヘシ
一返済ニ銀塊ヲ以テスルコトアルカ為メニ其量目品位ヲ約書ニ明記スルニハ清国通用ノテール銀ヲ以テ其量目品位等ヲ詳悉シ且従前ノ慣法ニ因リテ其時価ヲ以テ通用スル所ト銀塊ノ実物トノ較量ヲ明カニスルヲ要スト雖モ当港ノ各商估ハ未タ之ヲ詳悉スルモノナキニ付宜シク外国銀行ニ就テ之ヲ審聴シテ後之ヲ論及スヘシ
一抵当タル海関証票ハ曾テ東洋銀行ニ出シタルト同様ニシ且其額モ五千両以下ニスヘシ
右ノ談判ニ於テ貸借双方ノ思量スル大要ハ甚タ隔絶セスト雖モ米穀ノ受渡シ手続及定位銀価ノ員額ヲ定メ、銅・石炭・小麦・海産・茶等ノ価格ト員額トヲ論定スルニ於テハ多少其所見ヲ異ニスルニ付、之ヲ協議スルニ至ルハ亦数回ノ論弁ヲ要セサル可ラス、然リ而シテ其最要ノ件タル返済ノ時ニ用フヘキ銀塊ノ量目品位ヲ論定セサレハ縦令他ノ百事協議ニ至ルモ此ノ結約ヲ為ス可ラサルニ付、三人ハマンソン、何福蔭ノ両氏ヘ其趣ヲ演述シ、明日ヨリ各自ニ之ヲ調査スルコトヲ約シテ当日ノ談判ヲ歇ム
清国通用銀塊ノ量目品位ヲ考定シ、及海関証票ノ真物ヲ一見セン為メニ三人ハ在上海ノ東洋銀行ニ抵リ(二月五日)支配人ハリソン及横浜同出店ノ支配人ロヘルトソンニ面会シ(ロヘルトソンハ其所用ニヨリテ一月ヨリ此ノ地ニ滞在セリ)海関証票ノ真書ヲ一覧シテ其交収ノ手続ヲ問フ、ロヘルトソン曰此ノ証票ノ信憑スルニ足ルハ既ニ其表面ノ期ニ抵レハ海関税ニ充ツルノ明文アリ、加之該海関ノ理事官タル欧洲人之ニ調印スルニハ北京ニ在ルハルト氏ノ命令ニ出ツルモノナレハ、今清国政府ノ貸金ヲ為シ、此ノ証票ヲ抵当トスルニ於テ当行ノ収入セシ者ノ如クセハ敢テ関心ナカルヘシ、且夫レ貸付金ニ生スル毎年ノ利子ノ如キモ同シク此ノ証票ヲ交収スルヲ以テ可トス、然リ而シテ此ノ証票ハ其所持人ノ名ヲ記スヘキ地ヲ空白ニシテ随意之ヲ記入セシムルノ製ナレハ即チ其之ヲ売買授受スルモ亦随意タルモノナリト、依テ第一国立銀行ハ此ノ海関証票ヲ以テ更ニ公債ヲ募ラント欲セハ此ノ証票ヲ抵当ニ公債証書ヲ発行スルコトヲ得ヘキ
 - 第4巻 p.328 -ページ画像 
ヤト問フ、同氏答フルニ此ノ証票ニ署名ナキヲ以テ之ヲ抵当トシテ公債ヲ募ルハ敢テ約定書中明記セスト雖モ聊カ妨ケナキヲ以テス
玆ニ又銀塊ノ量目品位ヲ審問スルト雖モ別ニ調査シタル計算ノナキヲ以テ、乃チ同氏ニ告別シテ帰寓セリ
爾後マンソンハヒツトマンヲ伴ヒ旅寓ヘ来訪ス、然レトモ銀塊ノ調査未タ詳悉ナラサルヲ以テ其談他ノ物件交付ノ事ニ及ホスヲ得ス、只々昨日ノ談判中我ヨリ要求セシ定位銀貨ノ額三拾万両ハ之ヲ受取ルモノトシテ其弐拾万両ハ再ヒ我ニ返戻シ、其間幾分ノ差金ヲ出スヘシト云フ、是ニ於テ三人ハ窃ニ相議シテ曰、今此ノ定位銀貨ノ多量ヲ強ルモ之ヲシテ清国地方ニ流通スル能ハサレハ我ニ於テハ僅カニ其返戻ニ付テ差金ヲ得ルノ小益アルノミ、如カス此ノ額ヲ減シテ之レニ代フルニ他ノ利スル所アランニハト、依テ此ノ貸付金ニ付第一国立銀行ハ内地ニ公債ヲ募ルコトヲ要スルヲ以テ其募集費トシテ幾許ヲ出スヤヲマンソンニ試問シ、且告テ曰吾輩今此ノ貸付金ヲ議スル其要固ヨリ定位銀貨ヲ交付シテ清国ノ金融ヲ賛ケ物品ヲ輸送シテ両国商業ノ盛ンナランコトヲ計ルニ在リ、然ラサレハ何ソ斯ク低利ノ金ヲ貸付スルコトヲ為サンヤト、而シテ同氏更ニ審按シテ回答スヘキコトヲ約シ畢テ帰ル
銀塊ノ量目品位ノ通法ヲ詳悉センカ為メ益田孝ハ再ヒ東洋銀行ニ抵リ、支配人ハリソンニ面会シ且其金庫出納ヲ管掌スル清国人ニ就テ之ヲ審聴シ、大ニ得ル所アルヲ以テ帰寓後其計算ヲ為シ、明日マンソンニ示シテ之ヲ協議スヘキコトヽス(計算書ハ別紙ヲ副テ上申ス)マンソン、ヒツトマン来訪ス(二月六日)示スニ同氏ノ調査セシ銀塊ノ計算ヲ以テス、我ノ計算セシモノト瑣少ノ差異アルノミ、因テ此ノ貸付金返還ノ際ニ貸主モシ上海規銀ノ相場ヲ以テ受取ルヲ好マス、其銀塊ノ実物ヲ以テセント欲スルトキハ其調査シタル量目ト品位ヲ明記シ、其定限ニヨリテ之ヲ計算シテ受取ルヘキコトヲ約定書中ニ掲載スヘキコトヲ議定ス
右ノ要件ヲ協議シテ後マンソンハ定位銀貨ノ額ヲ減却スル為メ公債募集費ヲ出スノ談ニ及ヒ我ノ覓ムル所ノ額ヲ問フ、答ルニ銀貨ノ交付ハ其半額ヲ減シテ公債募集費ハ海関テール壱万五千両ヲ払フヘキコトヲ以テス、是ニ於テ談論数回我モ聊カ之ヲ退歩シ、定位銀貨ハ拾万両ヲ交付シ、公債募集費ハ壱万両ヲ払フヘキコトヲ切言ス、マンソン猶前意ヲ執ツテ之ニ従ハスト雖モ復タ何氏ニ詢リテ後之ヲ決定スヘキコトヲ約ス
銀塊ノ量目品位ハ既ニ其調査ニヨリテ稍々決定シ、而シテ定位銀貨減却ノコトモ之ニ代ルニ公債集募ヲ以テスルコトニ至リシニ付、諸物品ヲ交付スヘキ員額及其価格ヲ定ムルノ案件ハ左ノ数項ヲ以テマンソンヘ試問ス
一石炭ハ三池毎月三千噸唐津千噸多久千噸今福千噸ニシテ合計六千噸之ヲ六箇月交付シテ三万六千噸トシ其価格ハ三池洋銀四弗弐拾五セント多久四弗七拾五セント唐津四弗半今福四弗トシ各々長崎港ニ於テ引渡スヘシ若シ満島ヘ本船ヲ送ルコトヲ得ハ其運送費トシテ幾分ヲ価格中ヨリ減却スヘシ
一銅ハ丁銅鋳形銅ニテ其員額ヲ壱百万斤トシ丁銅ハ弐拾四弗鋳形銅ハ弐拾三弗トシ各々日本開港場渡シタルヘシ
 - 第4巻 p.329 -ページ画像 
一小麦ハ員額ヲ五万石トシ壱石ヲ百拾斤ト定メ其価格ハ三弗三拾セントタルヘシ
一海産及茶ノ類ハ他日其品ニ就テ時価ヲ協議セハ之ヲ加入スヘシ
一利足ノ起算ハ物品ヲ交付セシ日ヲ以テスヘシ
一海関証票ト交換スヘキ海関テール又ハ貿易銀洋銀ノ類ヲ除クノ外物品ニテ交付スルモノハ素ヨリ証票整束ノ前タレハ其交付ノ額ニ照ラシテ其時々正貨又ハ確実ナル一時ノ抵当品ヲ徴スヘシ
一海関証票交収ノ後万一紛失スルコトアレハ清国政府ハ更ニ其代リヲ作リテ交付スヘキコトヲモ約定書中ニ掲載スヘシ
一該証票ヲ以テ抵当トシタル金額ハ向来モシ清国ノ戦時ニ際シ且其戦争ハ証票所持人ノ自国トノ間ニ起リタルコトナリトモ清国ハ之ニ関セス約款ニ照ラシテ貸金ヲ還済スヘキコトヲ約定書中ニ掲載スヘシ
一貸付金(正貨物品共)ノ全額ヲ交付スルハ約定書調印ノ日ヨリ六箇月間ヲ以テスヘシ其返済ハ明年十一月ヨリ始メ十箇年賦タルヘシ而シテ利息ハ本額ニ対シ百両ニ付八両五分ト定メ毎年五月十一月ニ之ヲ払フモノトスヘシ
一約定書調印ノ後清国政府ハ抵当ノ海関証票ヲ出ス為メ該海関アル地方ノ各官憲ニ示令ヲ為スヘシ
一物品ヲ交付スル日本諸港ハ東京・横浜・四日市・大阪・兵庫・下ノ関、長崎ノ七港タルヘシ
一物品輸送ノ船舶ハ可成丈我三菱会社ノ汽船ヲ以テスヘシ
一物品輸出入ニ付テ日本、清国トモ其海関ニ納ムル関税ハ双方共ニ之ヲ免除スルコトニ弁理スヘシ
一約定書調印ノ後之ヲ履行セサレハ其違約ノ者ヨリ海関テール拾万両ノ償金ヲ出スコトヲ約定書中ニ掲載スヘシ而シテ此ノ違約万一清国政府ニアリテ其前ニ交付セシ物品アレハ其代価ハ既ニ正貨又ハ一時ノ抵当ヲ以テ受取ルヘキニ付之ヲ以テ売却セシモノトシテ此ノ違約ノ処分ニ及フヘシ
右ノ数項ハマンソン氏略々之ニ同意ノ趣ヲ述ヘ、只々石炭ノ価格ハ尚売却ノ場所ヲ定ムル為メ暫ク之ヲ猶予シ、且其価格モ一層減却センコトヲ要シ、鋳形銅ノ価格モ両三日ヲ稽延シ而シテ小麦ノ員数ハ五万石ニテハ之ヲ受取リ得サルニ付更ニ其額ト価トヲ減センコトヲ乞フ、マンソン氏ハ右ノ答弁ヲ為シテ又左ノ二項ノコトヲ述フ
一「リイデイウエンス」商会ノ此ノ貸付金ニ付テ清国政府ノ代理人ト為リテ日本ヨリ交付スル物品ノ売却ヲ弁理スルハ自家緊要ノ件タレハ既ニ此ノ借款ニ於テ許厚如カ受領シタル所ノ金幇弁ノ委任状ノ本書ハ同商会ニ保持セリ而シテ弥々此ノ約ヲ結フニ於テハ同商会ハ更ニ此ノ委任状ヲ以テ英国領事ヲ経由シテ清国官署ニ照会シ此ノ委任状ノ確信スヘキ証拠ヲ徴スヘシ
一此ノ約定ヲシテ完然結了セシムル為メニ約定書中記載スヘキ違約ノ償金拾万両ノ外双方トモニ各々五万両ヲ現金ヲ以テ外国銀行ヘ出シ置クヘシ
是ニ於テ三人ハ其言ニ従ヒ彼レ若シ直ニ之ヲ出サハ第一国立銀行モ亦現金ヲ出スヘシト答ヘ、談判畢リテマンソン、ヒツトマンハ帰宿セリ
 - 第4巻 p.330 -ページ画像 
マンソン氏トノ談判略々其要ヲ尽セシニ付三人ハ約定書(日本語)ヲ草案シ、曾テ彼レニテ草案セシ英国語ノ約定書ニ比較シテ其差謬アル処ヲ抹書シ、之ヲ携帯シヒツトマンヲ伴ヒテ状師レイネー氏ヲ訪ヒ(二月七日)草案ヲ示シテ終日其事ヲ議ス
右ノ草案中ニ於テレイネー氏ノ摘撥指評セシ要件ハ左ノ如クニシテ、且是ヨリ先キレイネー氏ハ澳国領事館ノ書記ハース氏ニ就テ海関証票ノ性質ヲ究明セリ
一原案許厚如トアル文字ハ改メテ清国政府トスヘシ
一日本米ハ之ヲ輸出スルヲ要スルニヨリ再ヒ之ヲ輸入スヘカラサルノ字ヲ加フヘシ
一海関証票ハ固ヨリ売買譲受ヲ得ヘキ性質ヲ有スルニ付其相続人モ之ヲ有シテ同等ノ権利アル云々ノ字ヲ記入スルハ無用ノ弁タルヘシ
一爰ニ交収スル海関証票ハ向キニ該海関証票ヲ以テ抵当トシタル東洋銀行並「チヤーデンマテソン」商会ノ分ヲ除クノ外該海関ノ収税ヲ先取スルノ権ヲ有スルノ字ヲ加フヘシ
一原案ニ此ノ貸付金ノ約定書ハ海関証票ヲ授受シタル後ハ完了セシモノトアルト雖モ此ノ貸付金ハ還済ノ際銀塊ヲ以テスルノ要件ヲ加ヘタルモノナレハ到底十箇年賦皆済ニ至ラサレハ此ノ約定書モ亦完了セサルモノタルヘシ
一第一国立銀行ニ於テ他日此ノ海関証票ヲ抵当トシテ公債ヲ募集スルハ素ヨリ其便宜ニ任セテ之ヲ為スヘキモノニシテ只々此ノ抵当ニ於テ其関係ヲ有スル迄ナレハ今此ノ約定書ニ其事ヲ明記セハ他日其事ニ及フニ際シ更ニ其順序ヲ清国政府ニ照会セサル可ラサルノ煩冗ヲ来タスヘシ故ニ此ノ約定書ニハ之ヲ記載スルヲ要セス但第一国立銀行カ其公債ヲ興スニ於テハ此ノ約定書ニ明文ナキヲ以テ聊モ妨ケナカルヘシ
一物品受渡シノ際ニ其価格又ハ品柄ニ付テ若シ双方ノ間ニ異論ヲ生スルトキハ双方ニテ一人宛ヲ撰ヒ(第一国立銀行ハ日本人ヲ撰ヒ彼方ハ英人ヲ撰テ可ナラン)之ヲ決セシム若シ二人ニテ決セサルトキハ其二人ハ更ニ他ノ一人ヲ撰テ之ヲ決セシムヘシ
一双方ノ違約アランコトヲ予防シテ各々五万テールノ現金ヲ外国銀行ニ預ケ置クコトハ最大難事ニシテ他日若シ紛紜ヲ生スルコトアラハ到底裁判シ得サルノ件ニ至ラン既ニ四年前ニ上海ニ在ル「チヤーデンマテソン」商会ニ於テ此ノ同例ノ約アリシカ終ニ其異論ヲ了局スルヲ得サリキ故ニ此ノ一項ニ於テハ更ニ思考シテ便宜ノ方法ヲ注擬スヘシ
右ノ案件ヲ議定シテ後レイネーハ約定書ノ文字ヲ悉ク法律ニ照シテ抹書シ、明後日ハ必ス草定スヘキコトヲ約セリ
三人ハ状師レイネーニ托スル要件ヲ了シ、帰途「リイテイウエンス」商会ヲ訪ヒマンソンヲ見ル、マンソンハ借款中ノ旧銅貨及補助銀貨ハ我ノ望ニヨリテ上海ニ於テ之ヲ受取ル可キコトヲ約ス
マンソンハ又公債発行ノ要費壱万テールノ多額ナルコトヲ論シテ之ヲ減センコトヲ乞フ、三人ハ他ノ物品交付ノ員額及其価格モ決定セスシテ独リ此ノ要費減却ヲ談スルハ不急ノコトタルヲ以テス、同氏大ニ困
 - 第4巻 p.331 -ページ画像 
却ノ色アリ、因テ明日ヲ約シテ三人ハ旅寓ニ帰ル
石炭ノ価格ヲ定メ小麦ノ員額ヲ決シ鉄ヲ此ノ物品中ニ加ヘンカ為メ、各々其見本ヲ携ヘテ益田孝ハマンソンヲ訪フ(二月八日)談判数刻ニシテ未タ之ヲ議定シ得サルニヨリ今夕マンソンノ我旅寓ニ来ランコトヲ約シテ帰ル
午後六時マンソン、ヒツトマンヲ伴テ旅寓ニ来ル、三人延見シテ左ノ数項ヲ談判ス
一マンソン曰此ノ貸付金ヲ返還スルトキ銀塊ヲ以テスルニ其量目品位ノ計算双方ノ間ニ於テ凡ソ千分八ノ差異アリ故ニ之ヲ折半シテ各々其四ヲ増減シ此ノ定量ノ限度ヲ決スヘシト三人稍々之ニ同ス
一マンソン曰石炭ハ全額ヲ壱万五千噸ト定メ而シテ三池ヲ三弗五拾セント、唐津多久ハ三弗七拾五セント、今福ハ三弗五拾セントノ価格ヲ以テスヘシト三人ハ答フルニ石炭ノ全額ハ三万六千噸ニシテ三池ハ四弗、唐津ハ四弗三拾セント、多久ハ四弗七拾五セント、今福ハ三弗七拾五セントタルヘキヲ以テマンソン未タ之ニ同セス
一マンソン曰銅ハ全額ヲ百万斤トシ丁銅ハ弐拾四弗鋳形銅弐拾三弗ト定ムヘシト三人之ニ同ス
一マンソンハ我説着ヲ被リ曲従シテ曰小麦ハ壱万石ニ減却シ壱石ノ斤量ヲ弐百拾斤トシ其価ハ三弗弐拾五セントニ定メント三人之ニ同シ長崎ニ於テ交付スヘキコトニ決議ス
此ノ他ノ数項ハ既ニ前日ノ談判ニ於テ議定シ、且其約定書モ明日ハ草定スヘキニ付三人ハマンソンニ詰ルニ彼ノ許厚如ノ都テ此ノ借款ノ要件ヲ領諾スルヤ否ヲ以テス、マンソン答フルニ今夕若クハ明日ヲ期シテ決判スヘキヲ約シテ帰ル
英語ノ約定書草案ハ本日脱稿ノ約ナリシニ(二月九日)此ノ日ヒツトマン旅寓ニ来リ告テ曰、右ノ約定書文案ハレイネー氏再按調査スルヲ以テ更ニ一日ヲ延シ明日脱稿スヘシ故ニヒツトマンハ傍ラ之ヲ浄書シテ携ヘ来ルヘシト、此ノ約束ニ従テ三人ハ旅寓ニ於テ之ヲ待ツヘキコトナルニ他ニ要件アリテ清国人朱其詔ヲ普国商会ミラー氏ノ宅ニ於テ接見シタルニ付其帰途三人ハ状師レイネー氏ヲ訪ヒ(二月十日)ヒツトマンモ来会シテ約定書ノ要件ヲ議シ、海関証票ノコトハ条約書ニ記入センコトヲ再求シ、レイネー氏之ヲ諾セリ因テ其草案ノ未定稿ナルヲ一覧シ更ニ明日ノ脱稿ヲ約ス、時ニレイネー氏ハ曾テ難事トセシ違約予防金ノ件ヲ按定シテ三人ニ告テ曰ク、今違約予防トシテ双方ヨリ若干ノ金額ヲ一銀行ニ托スルニハ共ニ其預ケ金ニ付テ各々一員ヲ択ンテ其レヲシテ此ノ預ケ主タラシメ、又別ニ仲裁人一名ツヽヲ撰ヒ置キ、而シテ万一他日紛議ヲ起ストキハ其仲裁人ノ決判ニヨリテ此ノ予防金ノ処分ヲ為スコトヽ約定セハ、縦令貸借両方ハ其法律ヲ異ニスルトモ既ニ此ノ預ケ金ハ他人ニ委シタルニ付必ス兼約ヲ履行スルヲ得ヘシト、是ニ於テ三人ハ品川総領事ヲ以テ委員タラシメント擬シ、且其金額ノコトヲ大蔵卿閣下ニ乞ハントス、然モ彼レノ未タ決定セサルヲ以テ帰途亦マンソンヲ訪ヒ石炭ノ員額ト価格ヲ定メ、且違約予防ノ為メ双方ヨリ出ス所ノ現金五万「テール」ノコトヲ決定セント責問ス、マンソンハ答フルニ許厚如及何福蔭ノ優柔不断ナルヲ以テシ頗ル難色アリ因テ明日ヲ
 - 第4巻 p.332 -ページ画像 
期シ之ヲ決答スヘキヲ約シテ旅寓ニ帰ル
二月十一日ヒツトマン旅寓ニ来リマンソンノ言ヲ伝ヘテ曰ク、違約予防ノ為メ現金五万「テール」ヲ外国銀行ヘ預クルコトハ許厚如及何福蔭モ之ヲ難ンスルニ付、三箇月後ニ至リ正金ニ引換ヘキ証書ヲ両人ヨリ差出サハ如何ト、三人ハ之ニ答ヘテ曰、今現金五万両ノ代リニ許氏何氏ノ証書ヲ以テスルハ之ヲ正貨ト同シキモノト信憑シ難タシ、之ニ反シテ第一国立銀行ヨリ出ス証書ハ素ヨリ現金ト同シキ者ナレハ証書交換ニ於テハ承諾スル能スト、依テ談判数刻ニシテ三人ハヒツトマンニ告ルニ左ノ言ヲ以テス
 違約ノ償金ハ約定書ニ各々拾万両ヲ出スヘシトアリ、而シテ此ノ予防ノ為メ五万両ノ現金ヲ出スノ議ハマンソンノ発言ニシテ我ヨリ之ヲ要求シタルモノニ非ラス、然リト雖モ今此ノ談ニ及ンテ彼ニ於テ之ヲ難ンスルハ我最モ不快タル所ナリ、故ニ違約ノ償金ヲ約定書中ニ掲載スルハ原案ニ従テ正貨ニテ差出スヘキ証書ヲ作ラシメ而シテマンソンハ我ニ対シテ之ヲ保証セハ可ナラン
右ノ諸項ヲ示シテ先ツヒツトマンヲシテマンソンノ商会ニ抵ラシメ、而シテ後更ニ之ヲ督責シテ其議ヲ決シ、及ヒ他ノ事項ヲ談判スル為メ益田孝ハマンソンヲ訪フ時ニ何福蔭モ来会シテマンソン及ヒツトマント談判酣ナリ、且何氏ノ英語ニ熟達セサルヨリ応答ノ間詳悉セサル所多キヲ以テ喧囂甚タ厭フヘキニ至ル、是ヲ以テ益田孝ハ温言何氏ニ示スニ違約予防ノ預ケ金ノコトヲ以テシ、次テ交付スヘキ各種物件ノ員額ト代価トノ定量ヲ告知ス、何氏ハ尚其意ヲ了セスシテ曰、曩キニ此ノ約款ノ草案ハ既ニ北京ニ送致シ其文中ニ違約金ノ額ハ拾万両トアリ、故ニ今之ヲ変シテ五万両ヲ増スヲ得ス、而シテ予防ノ為メ五万両ノ現金ヲ出サントスルハ其拾万両中ノコトタリ、如何セン今清国ノ歳晩ニ際シ縦令之ヲシテ弐万両ニ減スルモ清国銀行ニ計リテ該銀行ハ現金ヲ出スコトヲ肯ンセス、故ニ現金ニ代ルニ証書ヲ以テスルヲ望ムト、然リ而シテマンソンハ何氏ヨリ相当ノ抵当ヲ以テセサレハ我ニ対シテ保証ヲ為シ難シト云フ
尋テ物件ノ員額ト其代価トノ定量ニ於テ何氏ハ石炭ト小麦トニ於テ亦頗ル難色アリテ其額ヲ減スルカ或ハ価格ヲ減却センコトヲ望ム、是ニ於テ益田孝ハ励声シテ曰、前件違約予防ノ為メ現金ヲ出スノコトタル、其初メマンソン氏卿等ト計リテ之ヲ発言シタルニ非スヤ、然ルヲ今其事ヲ難ンシテ以テ此ノ紛議ヲ起シ、今亦物品ノ価額ニ於ルモ既ニマンソン氏ト協議セシニ付我儕ハ略々其事ヲ了セシト思考セシニ、僅ニ、其差アルモ強テ我ヲシテ曲従セシメント欲ス、是卿我儕ヲ簸弄セント欲スルニ近シ、故ニ我儕ハ決シテ之ニ協同スル能ハスト、而シテマンソンハ何氏ニ詰ルニ前後ノ言辞相反シテ決意定見ナキヲ以テス、何福蔭モ亦鴂舌ヲ以テ頻ニ之ト討論シテ已マサレハ、乃チ益田孝ハ之ニ告ルニ其多弁ヲ要スルヲ須ヒス、卿若シ此ノ約ヲ調成セント欲セハ宜シク余ノ言ヲ聴ケヨ、卿亦其説ヲ遂ケント欲セハ我儕ハ必ス此ノ約ヲ結了セサルヘシト、因テ何氏ハ之ヲ許厚如ニ詢リ明日必ス之ヲ決定スヘキコトヲ約シテ去ル、益田孝モ亦旅寓ニ帰ル
其翌日(二月十二日)朝マンソン書ヲ以テ石炭ノ価格ヲ三池ハ三弗五拾セン
 - 第4巻 p.333 -ページ画像 
ト、唐津ハ四弗、今福三弗弐拾五セント、多久ハ四弗弐拾五セントニ低下センコトヲ要求シ、且ヒツトマンヲシテ其低下ヲ乞フノ事情ヲ申請ス、三人ハ之ヲ熟議シテ三池ハ官山ニ係ルヲ以テ殊ニ其価ヲ進メテ四弗トシ、其他ハ要求ニ応センコトヲ決シテ回報ス、是ヨリ先キ何福蔭モ許厚如ニ稟議シテ違約予防ノ為メ弐万両ヲ出スヘシトシテ此ノ金額ハ六週間ニ弁出シ、マンソンハ該金ヲ無相違領収シテ其由ヲ報スヘシト云フ証書ヲ我ニ差出スヘキコトニ決談シ、且小麦ノ員額代価モ承諾シタレハ今此ノ石炭ノコトヲ議決シテ始メテ百事協議ニ至リシヲ以テ、直ニ本日ヲ以テ約定書ヲ作リ之ヲ調印セントスルニ臨ミ其英文ニ定位銀貨上海渡シノコトヲ記サス、因テ之ヲ責ム、マンソン更ニ上海又ハ清国印度ノ諸港ニ於テ之ヲ領収スルモ不可ナキヤヲ問フ、三人ハ答フルニ其運賃及ヒ保険ノ費用ヲ支弁セハ不可ナキ旨ヲ以テシテ仮ニ約束書ニハ上海渡シト記スヘキコトヽナシテ此ノ項ヲ団結スヘキコトニ決シ、ヒツトマンハ英国語ノ約定書ヲ謄写シ三人ハ之ヲ詳訳シテ日本語ノ約定書ヲ作リ、而シテ清国語ノ約定書ハ澳国領事館ノ書記官ハース氏之ニ任シ夜十二時ニ至リテ漸ク之ヲ整頓シ、日本領事館ニ於テ双方ノ主任及関係ノ各員ハ相集会シテ本約定書三通宛(英国語、日本語、清国語共)ニ記名調印セリ、其会合ノ各員ハ左ノ如シ
           貸方主任     渋沢栄一
           同        益田孝
           借方主任     許厚如
           在上海英商「リーテイウエンス」支配人
           物品取扱ニ付清国政府ノ代理人マンソン
    右約定書ニ鈐印セシ氏名
           大蔵省少書記官  岩崎小二郎
           内務省御雇英人  ヒツトマン
           清国人      何福蔭
           是ハ清国商人ニシテ曾テ政府ノ用達ノ如キ業務ヲ務メ此ノ度許厚如ニ属シテ此ノ貸付ノ事ヲ取扱フ者ナリ
           澳国公使館書記役 ハース
           是ハ澳国書記役相務メ清国語ニ通スルヲ以テ立会相頼ミタルナリ
           総領事      品川忠道
   右約定ニ関与スルヲ以テ会同セシ者
右記名調印シテ後会同ノ各員ハ許厚如ノ調印ヲ要スルカ為メ直ニ何福蔭ノ家ニ抵リテ其鈐印ヲ了セリ、蓋シ清国ノ憲法ニテ其印信ヲ蓋スルハ他ヘ之ヲ携帯セサルヲ以テ即チ何氏ノ家ニ就キ調成スル所ナリ
約定書各通ノ写及附属ノ書類ハ別ニ具載シテ上進ス
右約定書中ニ別紙海関証票写ニ異ラサル証票ヲ渡スヘシトアリテ其謄本ニ許厚如ノ調印アル所以ハ、若シ此ノ印ナキトキハ後日ノ紛紜図リ難キコトヲレイネー氏ノ忠告ニ依ルモノナリ
許厚如ノ受ケシ委任状ハハース氏之ヲ写シテ我ニ付スル所ナレハ其証トシテ同氏之ニ調印スル所ナリ
   招商局ニテ借銀ヲ要スル為メ清国人朱其詔面話之事
清国上海ニ開店セル招商局ハ其設立スル所私会ニ似タリト雖モ曾テ李鴻章ノ創意ニ係リ、爾来清国政府ハ鋭意之ヲ管保シテ其当任ハ貴重ノ
 - 第4巻 p.334 -ページ画像 
官員ヲ以テシ常ニ其事務ヲ調査シ専ラ運輸ノ便ヲ開キテ通商ヲ盛大ナラシメ、従前欧亜各国ノ会社ニ於テ占有スル清国各港往返ノ船舶ヲモ悉ク此ノ招商局ニ帰セシメ、以テ内国ノ海運ヲ専取シ傍ラ其航路ヲ外国ニ及サントノ目的ニテ、爾来既ニ呉湘ヨリ上海ニ達スル鉄道ノ如キモ其初メ英商ヂカルジン其他ノ者立会シテ創造セシヲ明治九年十二月清国官吏朱其詔ト英国公使館ノ書記官(但此ノ書記官ハ立会ノ代理ニ任シタル者)トノ間ニ於テ談決シ、海関テール弐拾万両ノ金額ヲ以テ清国政府ニ購取シ、明治十年二月九日旗昌号「ロツスル」商会ノ有スル漢口其他ノ諸港ヘ往返ノ航路及其汽船十八艘ト各所碼頭ノ地所倉庫等ニ至ル迄悉ク之ヲ買入レ、其費ハ実ニ海関テール弐百万両ノ巨額ニアリ今此ノ構造ト営業ノ情景ヲ観察スルニ、恰モ我カ三菱会社ノ如クニシテ而シテ其目的ノ汎ナル着手ノ大ナル更ニ之ニ加フルアル者ニ似タレハ、清国政府ノ之ヲ保護スルモ亦幾層ノ厚キニ居ランカ、然リ而シテ其船舶購取ノ費途ニ於テ曾テ他ニ借銀ヲ企望スルコトアリテ客歳十二月ノ間招商局ヲ管理スル清国政府ノ官吏朱其詔ナル者ヨリ我総領事品川忠道ニ詢ル、蓋シ朱其詔ハ品川ニ面識アルヲ以テナリ、後又上海在留ノ普国商会ミユラーナルモノニ依リテ屡々其議ヲ請求シタリキ、品川忠道ハ其来嘱ヲ以テ日本ニ通シ第一国立銀行等ヲシテ此ノ需メニ応セシメント欲シテ十二月廿八日ヲ以テ書ヲ福原大佐ニ東京ニ致シテ(時ニ福原大佐ハ許厚如ヨリ請求スル貸付金ノコトニ係リテ東京ニ在リ)其ヲシテ大蔵卿閣下ノ内旨ヲ伺候シ、且銀行頭取ニ協議セラレンコトヲ望メリ
大蔵卿閣下ハ其書牘ヲ一覧セラレテ後之ヲ渋沢栄一、益田孝ニ示シ、且諭シテ曰、卿等既ニ許厚如ノ請求スル借銀案件ニ付テ或ハ上海ニ駛行スルコトアラントス、幸ニ其行アラハ併セテ此ノ招商局ノ実況ヲ探訪シ、其需ムルノ要旨ヲ聴了シテ便宜之ニ応接スル所アレヨ、若シ其約款協議ニ至ラントスルニ於テハ其貸付金額ノ如キハ之ヲ華族中ニ徴スルモ亦以テ不可ナルコトナカルヘシト
既ニシテ許厚如ヨリ請求スル清国政府ヘ貸付金ノ内議ヲ決セラレ、渋沢栄一、益田孝ノ上海ニ達スルヤ品川総領事ハ両人ニ告クルニ此ノ案件ノ詳細ヲ以テシ、且曰、兄等此ノ地ニ到着スルヲ聞カハ朱其詔ミユラーノ輩ハ必ス其面接ヲ請ハン、宜シク之ニ応シテ其需ムル所ニ従テ回答スル所アレト、時ニ両人ハ以為ク今朱氏及ミユラーニ面接シテ若シ其需メニ応セサレハ或ハ他ノ主任ノ案件ニ妨害ナキヲ得ス、如カス先ツ許厚如ノ談判ヲ決シテ而ル後朱其詔ヲ見ント、因テ品川ニ答フルニ其旨ヲ以テシ彼等両人ノ面接ヲ望ムモ謝スルニ多忙ヲ以テシテ時日ヲ稽延スヘシト
然リ而シテ朱其詔及ミユラーハ三人此ノ地ニ抵ルヲ聞知スルヤ、果シテ其面晤ヲ品川ニ要スル頻ナリ、是ニ於テ渋沢ハ岩崎ト共ニ二月八日ヲ以テ始テ先ツミユラーヲ旅寓ニ延テ之ヲ接見ス
ミユラーハ先ツ我ニ問フニ招商局ニ借銀ヲ要スルコトハ曾テ品川ニ就テ其仔細ヲ演述セシニ付、既ニ同氏ヨリ之ヲ詳悉セシヤト、答フルニ其大意ハ品川ヨリ聞知スルト雖モ凡ソ貸借ノ案件ノ如キハ殊ニ面議ニ於テ各々其要望ヲ陳セサレハ其意見ヲ詳悉スル能ハサルヲ以テ、是ニ於テ此ノ借銀ノ要件ヲミユラーニ応答セシハ左ノ数項ノ如シ
 - 第4巻 p.335 -ページ画像 
一問、招商局ノ要望スル借銀ハ海関テール壱百万両ヲ以テス、而シテ日本第一国立銀行ハ能ク之ヲ調成スヘキヤ、答、其抵当品確実ニシテ約款満足スルヲ得ハ之ヲ承諾スヘシ
一問、該抵当品ハ招商局ノ有スル船舶及地所倉庫等ヲ以テセハ如何、答、其船舶及地所倉庫ノ如キハ縦令此ノ抵当ニ充足スルモ我ニ於テ未タ該局ノ営業ヲ詳悉セス、且其物件ノ実況ヲ了知セサルニ付之ヲ確実ト為スヲ得ス
一問、若シ其抵当意ノ如クナレハ利足ハ幾許ナルヤ、答、未タ貸借ノ要件ヲ了セスシテ利足ノ額ニ論及スルハ無用ナリ、更ニ問、只々其概略ヲ予知セン、答、利足ノ約款ニヨリテ昂低アルヘシト雖モ概ネ百分ノ十以上タルヘシ
一問、貸付金ハ上海テールナルヤ又ハ日本円銀ナルヤ、答、日本円銀ヲ以テ横浜ニ於テ貸付スヘシ、若シ其談判ニヨリテハ比較ノ相場ヲ定メ上海テールヲ以テ之ヲ貸付スルモ亦以テ難カラサルヘシ
右ノ談判畢リテミユラーハ此ノ案件ニ付渋沢ノ朱其詔ニ面会セラレンコトヲ乞フ、渋沢ハ岩崎ト協議シテ之ニ答フルニ此ノ借款ノ未タ協議ニ至ルノ定案ナキヲ以テ更ニ他日ヲ約シテ朱其詔ヲ見ルヘシト云フ、然レトモミユラーハ強テ朱氏面会ノコトヲ乞フテ已マサレハ、乃チ明後十日ヲ以テミユラーノ宅ニ於テ接見スヘキコトヲ約シテ去ル
ミユラー氏トノ兼約ヲ践ミ、二月十日、岩崎・渋沢・益田ノ三人ハ同氏ノ宅ニ抵リテ朱其詔ヲ見ル、時ニミユラー及クレルク(朱其詔ノ通弁人)モ共ニ席ニ在リ、賓主坐定リテ後寒暄ヲ叙ヘ畢テ朱其詔問ニ招商局ノ事ヲ以テス、因テ其抵当品ノ我カ要望ニ応セサルコトヲ答フ、朱其詔又問ニ其抵当ハ何ヲ以テ満足スルヤト、答ルニ海関ノ収税ヲ以テ其証票ヲ抵当タラシメント望ムコトヲ以テス、朱其詔大ニ難色アリ、然レトモ其借銀ノ求需切ナルヲ以テ頻リニ其方法ヲ按スルノ意其面ニ顕ハル且其言辞頗ル沈静ニシテ処事才幹アル者ノ如シ、而シテミユラー其間ニ介シ鄙慢ノ言ヲ以テ我レヲ軽視シ、強テ其事ノ調成ヲ欲スルカ如クナレハ、乃チ三人ハミユラート抗論数次ニシテ到底其望ム所ノ抵当品ニテハ此ノ借款ハ協議ニ至ルヘカラサルヲ切言シ、畢テ朱其詔ト共ニ午餐ノ席ニ就ク、蓋シ是レミユラーノ我ト朱其詔トヲ招待スルヲ以テ此ノ設ケアル所ナリ
午餐畢テ朱其詔ハ明日我旅寓ニ来訪シ此ノ応答ニ謝セント云フ、依テ他日其宅ニ答謝スヘキコトヲ約シテ去ル
二月十一日、朱其詔ハミユラー並ニクレルクヲ伴ヒ旅寓ニ来リ、又其借銀ノ談ニ及フ其応答ノ次第ハ左ノ数項ノ如シ
一問、此ノ借銀ニ付招商局ノ所産及船舶ヲ抵当トシ、加フルニ清国政府ハ若シ同局期ニ届リテ返金ヲ怠ラハ之ニ代リ償弁スヘキコトヲ保証セハ如何、答フ、清国政府ノ保証ニテハ借主ハ招商局ニアリテ万一ノ事アラハ其終局ニ於テ稽延ノ恐レナキ能ハス、故ニ此ノ抵当ハ独リ海関証票ヲ清国政府ヨリ発付スルモノニ限ルヘシ
一問、若シ海関証票ヲ以テ抵当トセハ貸与ノ金額ハ如何シテ交付スルヤ、答フ、米・銅・石炭・小麦等ノ物品ヲ以テ其六分ヲ与ヘ、他ノ四分ハ日本定位銀貨・貿易銀又ハ洋銀ヲ以テ之ニ充ツヘシ、且其為
 - 第4巻 p.336 -ページ画像 
替相場百弗ニ付上海規銀七十七「テール」ナルヘシ
右ノ問答ニ付テミユラーハ頻リニ我レノ要求其過当ナルヲ論スレトモ朱其詔ハ敢テ其細事ヲ言ハス、只々抵当品ノ我カ需メニ応スル方法ヲ按スルノ色アリ、談畢テ朱其詔、ミユラー共ニ帰ル
二月十二日、三人ハ朱其詔ヲ訪フ、蓋昨日ノ来訪ニ酬ユルナリ、此ノ日三人ハ品川総領事ニ依リテ清国通弁官ヲ伴ヒシニ付ミユラー並ニクレルクノ輩ハ来会セス、朱其詔モ亦英語ニ通スル清国人李滄橋ヲ伴フヲ以テ談話頗ル随意ナリ、坐定テ先ツ同氏ノ曾テ日本ニ来港セシ旅況ヲ問ヒ、話次高島其他ノ鉱坑及ヒ大阪造幣寮、富岡製糸場等ノコトニ及フ、而ル後頃日来数回応答セシ借銀ノ案件ニ至ル、三人ハ朱其詔ニ告ルニ外国人ヲシテ其間ニ介セシムルノ有害無益ナルコトヲ説明ス、朱其詔大ニ慚色アリ、且曰当初此ノ談ヲ試問セシハ曾テ品川総領事ニ面識アルヲ以テ其接見ノ間ニ於テセシヲ後ミユラーノ聞知スル所トナリテ其周旋ヲ望ムニヨリ或ハ外人ニ紹介セシメハ以テ調成ヲ速カニセント意想シテ今日ニ至リシナリ、然リ今兄等ノ説明ヲ聴テ大ニ了得スル所アリト、然レトモ其抵当ノ一案ニ於テハ素ヨリ同氏ノ決定シ得ヘカラサルヲ以テ更ニ之ヲ考案経画シテ後再ヒ其照会ヲ為スヘシト、依テ三人ハ他日其事アラハ幸ニ品川総領事、福原大佐ニ就テ親議スヘキコトヲ告ク、朱其詔大ニ喜色アリテ我レノ懇情ヲ謝セリ、朱其詔ハ又三人ニ問フ、若シ抵当品ノコト協議シテ此ノ借款ヲ調成スルニハ其金額ハ海関テール壱百万両ナルヘシ、而シテ其弐拾万両ハ石炭ヲ交収スヘシ、但米ハ之ヲ受取リ難カルヘシ、借銀ノ利足ハ年壱割ハ貴キニ過クルヲ以テ海関証票ノ抵当タラハ幾分ヲ減スヘキヤト、依テ答フルニ若シ此ノ事協議ニ至ラントセハ其物品交付ノ際ニ於テ大ニ関係ヲ有スルヲ以テ今日利足ヲ減スルノ額ハ明言シ難シ、而シテ石炭ノ如キ従前外国商ノ清国ヘ輸送販売スルハ其弊甚多シ、故ニ他日此ノ借款ヲ結了スルノ好機アラハ該品ヲ交付スルニ於テハ勉メテ最良ノ措置アルヘシト、朱其詔曰、石炭ハ我邦ニ乏シクシテ貴国ニ余リアレハ縦令此ノ借款ヲ調成セサルモ更ニ求需ニ従テ之ヲ照会スヘシ、右ノ談話ヲ為シテ三人ハ朱其詔ニ告別シテ旅寓ニ帰ル
二月十三日、朱其詔ハ亦福原大佐ノ僑居ニ来リ福原ニ面会シテ此ノ借款ノコトヲ談シ且ツ曰、抵当タル海関証票ノ如キハ勉テ総理衙門ニ請ハヽ或ハ其許可ヲ得ヘシ、然リ而シテ其利足ノ額甚タ貴キニ過クルヲ以テ更ニ之ヲ審按スト、福原モ温言之ニ接シテ其他件ノ協議ニ至ラントスルニ於テハ聊カ低下シ得ヘキコトヽ思想スル旨ヲ答フ、是ニ於テ先ツ石炭ノ品位ヲ試用スルカ為メ各々其見本一噸ツヽヲ長崎ヨリ送与セラレンコトヲ請フテ去ル
三人ノ上海ヲ発スルトキ(二月十四日)朱其詔ハ他方ニ赴クヲ以テ李滄橋来リテ告別ス
    上海商況之事
上海ハ清国各開港場中最大ノ埠頭ニシテ其商業ノ盛大ナルハ之ヲ海関収税ノ額ニ徴スルモ尚一班ヲ知ルヲ得ヘシ、外国商估ノ此ノ地ニ寄留スル者概算六千五百余人タリト云フ、而シテ其屋宅ノ壮麗稠密ナル我横浜ノ比ニアラス、就中英国人民ノ居留地ハ構造殊ニ美大ナリ
 - 第4巻 p.337 -ページ画像 
上海ハ呉淞江ニ瀕シテ開設シタル埠頭ナレハ直ニ大洋ニ接セスト雖モ江深クシテ巨艦ヲ碇泊スヘクシテ外国船ノ進出口モ頗ル多ク、加フルニ清国小船ノ碇泊スル常ニ帆檣林立ス、而シテ清国各港ニ往返スルハ河海ノ便ニヨリテ約日ノ郵船アルヲ以テ行旅ノ多キ物貨ノ殷ナル実ニ驚クニ堪ヘタリ
外国商估ノ居留地ハ都テ呉淞江ニ瀕シテ瓦甍相接シ延テ清国市街ニ連ル、而シテ清国市街ノ隘雑汚穢ナル実ニ厭フヘキニ堪ヘタリ、江ニ沿フテ外国人居留地ヲ彷徨シ路ヲ転シテ清国市街ニ入レハ恰モ昼夜ノ観ヲ為ス、尚錦繍ヲ脱シテ垢衣ヲ着クルノ想アリ
上海ニアル外国銀行ハ麗如(オリエンタルバンク)匯豊(ホンコンシヤンハイバンク)有利(チヤーターメリカンタイルバンク)三店其首ニ居ル、而シテ清国人ノ開店スル銀行ノ如キモ五康・寿康・升吉ノ三店ハ頗ル繁昌ナリト云フ
右銀行開店ノ景況及貨幣通用ノ制ハ曾テ探討セシ筆録ヨリ抄出シテ以テ此ノ参覧ニ供ス
通用貨幣ハ上海規銀及墨銀ヲ以テスト雖モ其比較ハ時価ニ従テ昂低アリ、而シテ上海規銀ト唱フルハ一種ノ通貨称呼ニ構成セシモノニシテ其実物ハ銀塊即チ沓銀ニシテ、完全タル通貨ト云ヒ難シ、只々其称呼常ニ時価ニヨリテ墨銀其他ノ貨幣ト相昂低シテ以テ貿易ノ媒介ヲ為スノミ
上海規銀ハテール(拾匁ノコト)メース(テールノ十分一)ガンダリン(メースノ十分一)ノ称呼ヲ以テ大小ノ数ヲ計算ス、而シテ此ノ「テール」、「メース」等ノ称呼ハ量目ニ唱フル「テール」トハ同唱別種ナリ、故ニ百テールノ規銀必ス壱貫目ノ量目ヲ有スルモノニアラス、其名同シキヲ以テ慣法ニ熟セサル人ハ時ニ計算ニ誤謬ヲ生スルト云フ
又海関テールト称スルモノアリ、多ク政府ノ収税ニ用フ、其制上海銀即「テール」梶子壱百拾壱テール四ヲ以テ海関テール壱百ニ対当スルモノタリ、且此ノ較量ハ政府ノ制定スル所ニシテ各海関ノ収税ニ用フルコトナレハ其割合時価ニヨルモノタリト雖モ多クハ差異ヲ生スルコトナシ
此ノ海関テールノ称ヲ制定スル原因ハ元来広東ニ於テ之ヲ換ルニ海関テールヲ以テセント欲シテ此ノ較量ト称呼ヲ作レルモノナリト云フ
広東テールノ較量ハ海関テールヨリ僅ニ相減スルモノニシテ、即今海関テールノ制アルヨリ上海ニ於テハ其称呼ヲ以テ貿易ノ計算ニ用フルコト稀ナリト云フ
金塊ハ天鎰・天豊・天吉、ト唱フル三種ノモノアリ(皆其金座ノ名ナリ)其量目ハ九テール七メース三アルモノトス、然シテ其売買ハ時価ニヨリテ品位ヲ較量シテ取引ヲ為ス、但清国政府ハ久シク其鉱山ノ開採ヲ禁止スルヲ以テ現品甚タ稀少ナレハ其売買モ僅々タリト云フ
銀塊ハ各種アリテ元宝銀ト唱フルモノ最多シ、上海規銀ノ実物ヲ得ント欲セハ即此ノ銀塊ヲ受取ルナリ、然リ而シテ従前此ノ銀塊ニ確然タル品位量目ノ制定ナキヲ以テ、其純銀ノ計算ニ於テハ清国政府ヨリ以テ商估等ニ至ル迄未タ之ヲ詳悉セシモノアラス、唯々之ヲ詳悉セサルノミナラス物価清算ノ際或ハ此ノ銀塊ヲ交収スルコトアルモ、唯々其通用シ得ヘキテール称呼ハ敢テ其実量ニヨリテ軽重ナキニ付以テ其純
 - 第4巻 p.338 -ページ画像 
分ヲ調査スルニ意ナキカ如シ、習慣ノ久シキ終ニ外国各銀行ノ如キモ亦此ノ実量ヲ調査スルモノナシ、元宝銀ノ量目ト通用テールノ割合ヲ定ムルハ(公估局ニ於テス公估局ハ猶旧幕府ノ銀座ナル者ノ如シ)公估局ハ政府又ハ人民ヨリ送ル所ノ銀塊ヲ受取リテ其品位ヲ試験シ、定則ノ品位ヨリ混合物多キトキハ之ヲ返却シ、品位定則ニ適スレハ銀塊ニ量目ヲ記シ、其品位ニ応シテ増量又ハ減量ヲ加ヘテ(之ヲ申水去水ト云フ)以テ通用テール割合ヲ現ハシ、之ヲ通用規銀ノ実物トス、且其品位定則ト云フモ真成ノ試験分析ヲ為シテ之ヲ定ムルモノナラサルヲ以テ時々多少ノ差異有ルヲ免レサレハ、之ヲ確然タル純分ト云フコトヲ得ス、然リト雖モ其通用ノ際ニ於テハ此ノ慣法ニヨリテ運用シテ障碍ナキニ付終ニ其実量ヲ詳悉スルニ至ラサルナリ
右銀塊ノ通用称呼ト実量トノ差異ヲ明カニスルニハ、曾テ此ノ各種ノ銀塊ヲ購入シテ之ヲ分析シタル計算ト及ヒ今回更ニ其二塊ヲ携帯シテ造幣局ノ分析ヲ経タル計算書ヲ添ヘテ其参観ニ供ス
通用ノ銅銭ニ三種アリ、卡銭、市銭、双断銭トス、卡銭ハ多ク貢租ニ用フ、其品種ハ銅又ハ真鍮ニシテ百孔ヲ以テ百文トス、市銭ハ市中一般ノ通用物ニシテ九十八孔ヲ以テ百文トス、且其中ニ微細ノ悪銭拾孔ヲ加フルヲ通法トス、双断銭ハ別ニ唱フルノ名ニシテ市銭ト大異ナシ唯々微細ノ悪銭ヲ交ヘス銅又ハ真鍮銭九十八孔ヲ以テ百文トス
総テ通用銭ハ其品乏シキヲ以テ、些少ノ取引ニハ商估常ニ困却ノ姿アリ、現ニ目下上海ニテモ我国ヨリ伝転スル人力車アリテ人々之ヲ至便トシ漸次増加ノ姿アリト雖モ、其運賃仕払ニ於テ小貨少キニ困スルヨリ商估ハ多ク毎戸小切手ヲ製シテ車夫ニ交付シ置キ、他日之ヲ集メテ其運賃ヲ清算スルニ至ル、他ノ物品売買ノ間ニ於ケルモ又推知スヘキニ足ル、是ヲ以テ我カ小銀貨ハ其通用甚タ至便タリ、既ニ滞在中時ニ人力車ノ運賃ニ交附シ及外国割烹店等ノ小費ニ交付スルモ敢テ之ヲ厭フコトナクシテ却テ其弐拾銭ノ貨幣ヲ以テ洋銀壱元ノ四分ノ一ニ適応スルコトヲ得ル、故ニ之ヲシテ更ニ其多量ヲ通用セシメテ人々其軽便ヲ知ルニ至ラハ其求需洋銀ニ亜クヘキハ今日之ヲ確言スルヲ得ヘシ、只々貿易銀ニ至テハ既ニ洋銀アリテ清国人ハ之ニ依頼スルヲ以テ若シ或ハ清国政府ニ於テ之ヲ海関収税ニ加フル等ノ殊例ナキトキハ縦令輸送スルモ直ニ之ヲ銀塊ニ改鋳スル迄ナラン、故ニ其計算ハ甚不適当ノ割合ニ至ルヘシ
貿易品ハ輸出ニ於テハ茶、生糸ヲ最大トシ、而シテ輸入ハ鴉片其尤タリ、其価額モ茶ト生糸トノ総額ニ適当スト云ヘリ
日本ヨリ輸出スル海産ハ清国人民ノ上等食料タリ、多クハ直隷、山東両省ニ輸送スト云フ、我カ広業商会ノ支店ハ専ラ其売却ニ従事スルヲ以テ漸ク其緒ニ就クヲ得ヘシ
石炭ハ清国ニ炭坑ナキヲ以テ追日其求需ヲ増スヤ必セリ、目下清国ニテ使用スルハ多ク台湾「キロン」ノ出産ヲ以テス、而シテ福州ニ亦小炭坑アルト雖モ開採充分ナラスト云フ、故ニ彼ノ招商局及各地ノ製造所等ニ我カ九州ノ石炭ヲシテ其運送ノ便ト商業ノ術ヲ得テ充分ノ使用アラシメハ其需求ハ益々増加スルニ至ラン乎
茶ハ欧米ニ於テ清国製ヲ好ムヲ以テ我九州産ノ山茶ノ如キハ之ヲ清国
 - 第4巻 p.339 -ページ画像 
製ニ摸シ、且清国ノ職工ヲ雇フテ方法ヲ伝習シ、更ニ彼レノ商估ニ計リテ販売ヲ為サハ又幾分ノ輸出ヲ得ヘシ、故ニ其方法ハ別冊ノ考案書ヲ以テ本年ヨリ之カ試験ニ着手セントス
米穀及銅鉄ノ如キモ亦時トシテ価格相応スルノコトアリ、且清国ハ凶歉ニ際シテハ殊ニ食料ノ輸送ヲ緊務トスルノ風アレハ常ニ我産出ノ中下米ヲシテ彼国ヘ送リテ其使用ヲ試ミ置クモ亦不時ノ需ニ供スルノ一助タラン、銅ハ天津以北ニ運輸シ、及ヒ印度ノ相場ニ応シテ其売却ヲ為スモ我横浜ヨリハ更ニ便宜ヲ得ルニ近カラン
材木ハ漸次其使用ノ方法ヲ知ラシメ、而シテ需用ニ応シテ間隙ナク輸送スルニ至ラハ必其販売ハ多量ニ至ラン、是レ蓋清国沿海地方ハ殊ニ材木ニ乏シキヲ以テ其価格モ必ス充分ノ額タルヲ得ヘシ
我レニ輸入スヘキ物品ニ於テハ別ニ新按ヲ具セスト雖モ台湾糖ノ如キニ至テハ此ノ地ノ実況ヲ詳知シテ購取ノ方法ヲ按セハ亦幾分ノ便益ヲ得ヘキ乎
居留外商ノ営業ヲ概見スルニ仲買者流ニ類スル者多シト思ハル、其間素ヨリ定業アリテ存スル者モ亦多シト雖モ、麗如、匯豊、有利ノ各銀行又ハ有名ナル商会等ヲ除クノ外ハ敢テ一事ヲ定メテ営業ヲ為サス、物品ノ時価ニ応シテ之ヲ売買シ、或ハ外方ノ来請ニ応シテ其従事ノ間ニ幾分ノ差益ヲ収ムルノ徒タリ、故ニ本年ハ此ノ物ヲ以テシ来歳ハ彼品ヲ以テスルノ類多シ、而シテ清国商估ハ小利ニ巧ミニシテ加フルニ貪婪狡猾タレハ貿易ノ嶮悪ナルモ亦我横浜ノ比ノ如クナラサルヘシ
在上海ノ洋商間ニハ「ブロークル」組合ヲ立テ、以テ通商ヲ便ス、其制恰モ英米等ニ行ハルヽモノヽ如シ、而シテ此ノ「ブロークル」ハ決シテ他ノ商事ヲ取ラス、且其組合中ノ約束ヲ厳ニシテ皆之ヲ確守ス、故ニ洋商ノ其業繁殷ナルモノハ其物品ノ売買及金銭ノ貸借等モ皆些少ノ手数料ヲ給シテ此ノ「ブロークル」ヲシテ取扱ハシムルヲ便トスト云フ
右ハ清国政府ヘ貸付金事務取扱ニ付彼地旅行及滞在中従事且見聞中ノ件々其概要ヲ摘録シテ謹テ報告仕候、且此ノ報告書ニ副フヘキ書類ハ都テ其号ヲ附シ併テ具申仕候也
  明治十年四月廿七日           岩崎小二郎
                      渋沢栄一
                      益田孝
    大隈大蔵卿閣下


株式会社第一銀行所蔵文書(DK040027k-0006)
第4巻 p.339-349 ページ画像

株式会社第一銀行所蔵文書
      ○
    第一国立銀行ノ名ヲ以テ支那政府ニ対シ貸金ヲ為ス場合ノ約条談判決極ノ限度
  支那政府江第一国立銀行ノ名ヲ以貸金ヲ為スコトアル時ハ其約条談判決極ノ限度左ノ如シ
   第一条
    貸付金額ノ事
第一 貸付金額ハ海関テール七百万両ノ目途タルヘシ、然レトモ支那
 - 第4巻 p.340 -ページ画像 
政府ニ於テ弐百五拾万両ヲ望ムニ於テハ左ノ手続ヲ以テ談判決定スヘシ、猶自余四百五拾万両乃至弐百五拾万両ヲ望ムニ於テハ第十二条ノ趣旨ニ従テ之ヲ談判スヘシ
第二 右海関テールト上海規銀トノ比較ハ壱百テールヲ壱百拾壱テール四メースノ割合ト定ムヘシ
第三 上海規銀ト我貿易銀及定位銀貨又ハ墨銀等トノ比較ハ壱百円ニ付七拾六テール半ノ割合ヲ以テ目途トス、然リト雖支那政府ヨリ此貸金ヲ返却スルニ彼ノ紋銀ヲ以テスル時ハ、其純量ハ我貿易銀ニ改鋳シテ損失ナキ処ヲ以テ限度トシテ此比較ヲ定ムヘシ
   第二条
    貸付物貨割合ノ事
第一 全額弐百五拾万両ヲ貸付スルニ其物貨割合及交付ノ期日ハ左ノ目途ヲ以テスヘシ
 一 壱百拾万両ハ 米穀三拾万石ヲ以テス
 一 四拾万両ハ 海関テールヲ以テス
 一 拾万両ハ 定位銀貨ヲ以テス
     但定位銀貨ハ可成丈多量ニ其渡方ヲ談判スヘシ
 一 九拾万両ハ 貿易銀又ハ墨銀石炭銅条旧銅貨小麦其他ノ物件ヲ以テス
   共計弐百五拾万両也
第二 右貸付ノ期日ハ約定書調印ノ日ヨリ六ケ月ヲ満ツル日限迄ニ其渡シ方ヲ為スヲ目途トス、尤米ハ談判ノ都合ニ寄テ更ニ三ケ月位ハ之ヲ延スコトアルヘシ
第三 物貨交付ノ割合ハ右ニ列上スル処ヲ目的トシ、約定ノ際ニ於テモ米穀海関テール定位銀貨ハ之ニ減額セサルヘシ、只貿易銀及其他ノ物件ハ可成丈品種ヲ多クスルノ目途ニテ談判ノ都合ニ寄テハ便宜之レヲ増減シテ其員額ヲ定ムヘシ
   第三条
    物品価格及其割合ノ事
第一 米ハ我明治九年ノ作ニシテ凡ソ中等以上ノ品ト定メ、各種其見本ヲ携帯シテ渡シ方ヲ談判スヘシ
第二 米ハ壱石ノ価格ヲ平均四円七拾五銭ト定メ其量目ハ弐百三拾斤ニ減セルモノトシ、升目ニハ拘ハラサルヘシ、而シテ其渡シ方ハ次ニ掲載スル各港ノ蔵場ニ於テスヘシ、尤渡シ済ノ後ハ危険請負其他ノ費用ハ我ニ関係ナキ様ニ談決スヘシ
第三 其港ハ長崎・下ノ関・大坂・兵庫・四日市・横浜・東京ノ七所ト定メ、尚此外ニモ外国船ノ碇泊シ得ル地ナレハ可成丈其箇所ヲ増スコトヲ談判スヘシ
第四 米ハ受渡ノ手続即チ斤量ヲ定ムル鬮取法、蔵敷、危険請負其他ノ細事迄都テ別冊ヲ以テ約定附録書ヲ作リ置クヘシ
第五 米ノ俵拵ハ日本ニテ普通ノ儘其渡シ方ヲ為スヘシ
第六 海関テールハ貯ノ品ヲ以テ上海ニテ交付スルコトヽスヘシ
第七 定位銀貨ハ可成丈多量ヲ好ムト雖、彼若シ之ヲ拒マハ限度拾万両ノ目的ニテ上海ニ輸送シ其渡シ方ヲ為スヘシ
第八 旧銅貨ハ凡ソ五万両ヲ目的トシ、上海ニ輸送シテ其渡シ方ヲ為
 - 第4巻 p.341 -ページ画像 
スヘキナレトモ、品ニ寄増減スルコトアルヲ約スヘシ
第九 旧銅貨ハ壱千弐百三拾文ヲ以テ貿易銀壱円ト定メ、日本ニテ取扱フ藁緡ノ儘其渡シ方ヲ為スヘシ
第十 石炭ハ三池・荒石・唐津・多久・今福等ニテ凡ソ五万噸ヲ目的トシ、見本ヲ携帯シテ其割ヲ定ムヘシ
第十一 石炭ノ価格ハ、我産出地方渡シニテ壱噸四円弐拾五銭(本船迄ノ艀下ハ貸主ノ持タルヘシ)迄トスヘシ、彼ニ於テ上海ニ輸送スルヲ望マハ其運賃ハ相当ノ処ヲ以テ限度ノ価格ニ加ヘテ之ヲ談判スヘシ、尤其受渡手続ハ約定附録書ニ記載スヘシ
第十二 銅条ハ丁銅鋳形荒銅等ノ見本ヲ携帯シ、其品類ト価格トヲ談決シ、員額ハ凡ソ拾五万両ヲ目途トシ、上海ニ輸送シテ其渡シ方ヲ為スヘシ
第十三 茶・唐銅・鉄・小麦・海草・材木・土靛等ノ各品モ可成丈見本ヲ携帯シ、其品類ト価格トヲ談決シ、勉テ多量ニ交付スル様尽力スヘシ、然リト雖彼若シ之ヲ厭ヒ其価格不相当ナルカ又ハ他ノ妨アルト見ル時ハ不得已其渡方ヲ減省シ、又ハ之ヲ止ムルコトアルヘシ
第十四 右ノ目的ヲ以セハ貸付物貨中ニテ米穀海関テール定位銀貨等ノ限度アル分ヲ除キ他ノ各品ニテ凡ソ四拾五万両ヲ充テ、貿易銀・墨銀ニテ四拾五万両ヲ充ツルノ積リナレトモ、談判ノ都合ニ寄テ物品渡シノ分減セシ丈ハ貿易銀又ハ墨銀ニテ其渡シ方ヲ為スコトヽスヘシ
第十五 右各品ニテ交付スル分ノ員額及価格ハ実地相当ト思量スル処ヲ以テ談判ノ摸様ニ寄テ之ヲ約定スヘシ、尤彼品ヲ減シ此品ヲ増ス等ノコトハ貸主ノ都合ニ寄其時ニ臨ミ交替シ得ル様ニ其約定ヲ為スヘシ
第十六 都テ物貨中我郵船ヲ以テ上海迄輸送シテ渡シ方ヲ為スコトニ定ムル分(上海渡シニテ何程ト其価格ヲ定メタル分ノ外)ハ相当ノ運賃並危険請負料ヲモ要求スヘシ
   第四条
    利足起算ノ事
第一 利足ハ年八分半トシ壱ケ年両度ツヽニ受取ルモノトスヘシ
第二 利足ハ都テ物貨ヲ交付シタル日ヨリ起算スヘシ、尤米石炭等ノ日本ニテ受渡シヲ為ス品ハ談判ノ都合ニ寄テ其受渡シノ日ヨリ二週間乃至壱ケ月ハ之ヲ宥恕シテ其起算ヲ為スヘシ
第三 上海江送リテ受渡シヲ為ス物貨ハ同地ニ在ル三菱会社ノ蔵場ヲ以テスヘシ、而シテ其物品上海著ノ旨ヲ支那政府ノ委員ニ通知シタル日ヨリ五日間ニハ受渡ヲ始メ、之ヲ了セハ直ニ其日ヨリ利足ヲ付スルコトヽスヘシ
第四 日本ニテ交付スル物品モ蔵場ノ都合整束セシニ付、其受渡シノコトヲ派出委員ニ通知セシ日ヨリ一週日間ニハ受渡シヲ始ムルノ制限ヲ設ケ、別冊ノ手続書ニ記載シ置クヘシ
第五 利足ハ物貨交付ノ日ヨリ起算スルコトヲ談決スル時ハ、其日ヨリ海関証票ヲ受取ル日迄ノ分ハ別ニ日歩割ヲ以テ受取ルコトヲモ談決スヘシ
 - 第4巻 p.342 -ページ画像 
   第五条
    抵当ノ事
第一 全体ノ抵当ハ交付ノ金額ニ按照シテ各所海関証票ヲ受取ルコトナレハ之ヲ真実ノ抵当トス、而シテ此証票ヲ受取ル迄ハ支那政府ノ委員江物貨ヲ渡サハ(日本又ハ上海トモ)可成丈相当ノ代価ヲ取リ置クヘシ、若正貨ニテ之ニ充テ難キ時ハ確信スヘキ外国バンクノ期日渡手形カ又ハ慥ナル物品ニテモ可ナリトスヘシ
第二 海関ノ証票ヲ以テ抵当ト為スニ付テハ、各所海関ニ於テ収入スル税額ヲ調査シ、其総額中既ニ他ノバンク等ニ抵当トナル分ヲ按算シ、其余額ヲ以テ此貸付金額ニ応スル所ノ見積リヲ立ツヘシ
第三 此見積リ限度ハ、貸付金ノ総額及利足ノ総額ヲ積算シ(貸付ノ日ヨリ十ケ年賦済迄)而シテ、該海関ニ収入スル前十ケ年ノ税額ヲ積算シ(他ノ抵当トナリタル高ハ之ヲ除キ)其純額ノ半高位ヲ目途トシテ証票ヲ受取ルヘキモノトスヘシ
  但海関税ノ平均算ヲ為ス時ハ前後ノ盛衰摸様ヲ斟酌スヘシ
第四 此抵当ハ貸付金返済期限ニ至リテ滞リアランコトヲ予防スルモノナレハ、証票面ニハ貸金払戻期日ニ於テハ此証票ヲ以該港ノ海関税ニ充ツルノ文字ヲ記入セシメ、且証票ノ金額ハ五千両以下位ノモノニ製セシムヘシ
第五 又此証票面或ハ約定書中ニハ此証票ヲ所持スル債主ハ其相続人ニテモ約款ニ照ラシテ債主タルノ権利ヲ有シ、而シテ支那政府ハ向後何様ノ更替アルモ必負債者タルノ義務ヲ尽スヘキ旨ヲ記載セシムヘシ
第六 又此証票面或ハ約定書中ニハ此証票ヲ所持スル債主ハ万一向後支那国ニテ国内又ハ他国ト戦争ヲ開クコトアルモ期ニ照シテ証票面ノ金額ヲ回収シ得ヘク、且其戦争ハ債主ノ自国トノ間ニ起リタルコトナルトモ支那政府ハ之ニ関シテ其返金ヲ怠ルヘカラサル旨ヲモ記載スヘシ
   第六条
    返金期限ノ事
第一 貸付金返済期限ハ、海関証票交付ノ日ヨリ壱ケ年半据置キ(利足ハ第四条ニ拠リ、毎年両度ツヽ受取ルコト論ヲ俟タス)其向拾ケ年賦ト定メ、毎年壱度元高ノ十分一ツヽ払込ムモノトスヘシ、而シテ其月日ハ協議ノ上取究メ約定書中ニ掲載スヘシ
第二 貸付金ノ返却ハ都テ我貿易銀ヲ以スルコトヲ望ムヘシ、而シテ上海規銀トノ比較ハ貸付ノ時ニ用フル割合ヲ以スヘシ
第三 若シ支那政府此貿易銀ニテ返却スルコトヲ難スル時ハ彼レノ紋銀ヲ以スルコトニ談判シ、其純分量目等ハ之ヲシテ我レニ輸送シ、貿易銀ニ改鋳シテ不足ナキ丈ヲ以テシ、且其運賃鋳造費及運送改鋳間ノ利足等ヲモ見積リタル処ヲ以綿密ニ紋銀ノ純分量目ノ割合ヲ定メテ約定書ニ掲載スヘシ
第四 若又談判ノ都合ニ因テ支那政府ニテハ上海規銀ニテ返却スルヲ望マハ其返却ノ時ニ規銀ノ為替相場墨銀又ハ英貨ニ対シテ幾許タルヲ較量シ、為替ニテ之ヲ転換シテ我レニ損失ナキニ於テハ、上海規
 - 第4巻 p.343 -ページ画像 
銀ニテモ此返金ヲ受取ルコトアルヘキ旨ノ約定ヲ為スヘシ
  但此受取方ハ我レノ都合ヲ以スヘク、且此受取方ヲ為ス時モ貸付ノ時ニ用フル比較ヲ以スルコト論ヲ俟タス
   第七条
    公債証書発行ノ事
第一 此貸付金ハ第一国立銀行ノ名ヲ以スルニ付、銀行ハ其為メニ日本ニ於テ公債証書ヲ発行スヘキコトヲ談判スヘシ
  但此証書発行ノコトヲ協同セシメテ後、相当ノ手数料ヲ要求スルコトニ談及スヘシ
第二 幸ニ之ニ承諾セハ其定約書ノ文案及発行ノ順序等ハ、曾テ香港上海バンクヨリ支那政府江貸金セシ約定書類ノ文例ヲ斟酌シテ便宜之ヲ取究ハムヘシ
  但香港上海バンクノ約定ニハ万一戦時云々トノ記載ナキニ付第五条ノ六節ヲ参考シテ之ヲ増補スヘシ
第三 然リト雖此貸金ノコトハ今日迄未タ公債証書発行ノコトニハ談及セサルニ付、突然之ヲ主張シテ終ニ破談トナルヘキ程ナレハ不得已私債約定ニテ之ヲ結局スヘシ
  但談判ノ都合ヲ以一時若干ノ手数料ヲ受取ルコトハ程能ク之ヲ要求スヘシ
   第八条
    違約罰金ノ事
第一 違約罰金ハ銀行ト許道ト約定書ニ調印シタル後許道若シ借金ヲ為サヽレハ海関テール拾万両ヲ出シテ銀行ニ償ハシメ、銀行若シ物貨ヲ交付セサレハ同シク拾万両ヲ出シテ許道ニ償フコトヽ定ムヘシ
第二 許道ニ於テ若シ違約スル時、其前既ニ日本又ハ上海ニテ幾分ノ物貨ヲ交付シタルモノアレハ其定メタル価格ヲ以テ之ヲ許道江引取リ其代価並ニ既ニ約スル所ノ利子ヲ添ヘ即時ニ之ヲ払ハシメ、而シテ違約罰金ハ本額ノ通リ償ハシムヘキ旨ヲモ約定書中ニ記入シ置クヘシ
   第九条
    交付ノ物貨ニハ海関税ヲ付セサル事
第一 此貸付金ニ付テ交付スル物貨ニハ、日本渡シ又ハ上海渡シトモ両国政府ハ海関税ヲ課セサル旨ヲ約定書ニ明記スヘシ
   第十条
    支那政府江照会ノ事
第一 此貸付金ノ約定書ニ調印シ直ニ許道カ此命ヲ左宗棠ヨリ受ケタル令状又左氏カ此借金ノコトヲ総理衙門ヨリ受ケタル委任状ノ写ヲ要シ、而シテ左氏江ノ委任状ハ之ヲ総理衙門ニ照会シ、許氏江ノ令状ハ之ヲ左氏ニ照会スヘシ
第二 然リト雖左氏江ノ照会ニハ頗時日ヲ費ヤスノ恐レアラハ、両江総督江蘇撫台上海海関道ニ照会シテ保証ヲ為サシメ、之ヲ信憑ノ証トスヘシト雖、物品ヲ渡スニ於テハ之ニ相当スルノ抵当ヲ要スルヲ約スヘシ
第三 此照会ヲ為スハ総理衙門江ハ日本ヨリ派出セル全権公使ノ□《(不明)》ヲ
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経其他ハ在上海ノ総領事ノ手ヲ経ルコトヽ為スヘシ
第四 総理衙門ヨリノ委任状左氏ノ名ノミナレハ、許道トノ約定標題ノ文字モ左宗棠ノ命令ニ因リ云々ト書載セシム、又金幇弁ノ名ナレハ約定書ニモ其命令ニ因リテ云々トセシムヘシ
   第十一条 
    約定書文案ノ事
第一 約定書ハ第一国立銀行頭取ト許道トノ名ヲ以テシ、其文案ハ曾テ品川総領事ヨリ逓送シタル草稿ニ因リ更ニ要件ヲ記入シ、且文書ノ体裁ヲモ補綴シテ相当ト思量セル処ヲ以之ヲ定メテ調印スヘシ
第二 約定書ヲ製定スルニハ日本文・支那文及ヒ英文ヲ要ス因テ上海ニ在ル英国法律家ヲ傭ヒ最精密ニ其文章ヲ検正セシメ、若シ他日紛紜ヲ生スル等ノコトアラハ此英文ヲ以証ト為スヘキコトヲ約スヘシ
   第十二条
    貸付増額ノ事
第一 支那政府ニテ此約定ノ外更ニ借用金ノ増額ヲ望マハ海関テール四百五拾万両迄ハ貸付ノ約定ヲ為スヘシ
第二 右ノ金額ハ談判ノ都合ニ寄テ米穀ノ渡シ方ハ除クト雖、定位銀貨ノ渡シ方ハ第二条ノ割合ヲ以之ヲ加フヘシ、尤其利足ハ年九分半迄ヲ限リトスヘシ
第三 米穀ヲ除キ他ノ物件ヲ交付スルノ都合及約定ノ体裁等マテ都テ此約定ニ照シテ同様ノ振合ヲ用ヒ、相当ト思量スル処ニテ之ヲ定ムヘシ、然シテ其物貨渡方ハ約定書調印ノ日ヨリ予メ拾八ケ月ヲ目途トシテ其期日ヲ定ムヘシ、若又四百五拾万両ノ内弐百五拾万両ヲ望マハ調印ノ日ヨリ拾弐ケ月ヲ目途トスヘシ
右件々ノ外彼地ニ於テ談判ノ摸様ニ因リテ臨機相生スル儀ハ此書面ニ記載スル限度ニ超ヘス且要旨ニ矛盾セサル分ハ便宜相当ノ談判ヲ為スヘキコト兼テ令委任候也
                        (朱印)
    明治十年一月廿五日   大蔵卿 大隈重信
        渋沢栄一殿
        益田孝殿
     ○
    清国政府ヘ交附スヘキ物品代価之内御渡方奉願候書付
此般清国政府ヘ御貸渡可相成物品之内銅拾五万斤石炭五千噸之代価凡積ヲ以テ金五万円也御下渡シ被下度此段奉願候也
    明治十年四月二日     第一国立銀行頭取
                     渋沢栄一(印)
                 三井物産会社長
                        (朱印)
                     益田孝
    大蔵卿 大隈重信殿
(朱書)
願之趣ハ予而申出有之候物貨交付之順序及ヒ事務取扱方伺書第九条之通交付セシ物品之高ニ応シ其証拠ヲ添ヘ代価受取方可申出事
    明治十年四月六日
                         (朱印)
                 大蔵卿 大隈重信
     ○
 - 第4巻 p.345 -ページ画像 
  石炭代価御下渡之儀奉願候書附
第一号石炭渡高
一多久石炭 四百九拾四噸弐分
   此代価洋弐千百〇〇弗三分五厘 但壱噸ニ付洋四弗弐分五厘換
一唐津 同 四百五拾噸八分
   同 洋千八百〇三弗弐分 同 洋四弗換
一三池 同 百八拾五噸
   同 洋七百四拾弗 同 洋四弗換
 〆噸数千百三拾噸
   此洋四千六百四拾三弗五分五厘
     右ハ別紙請取証書ノ通リ三月廿一日ウースター船ヘ引渡候
一今福石炭 五百噸
   此代洋千六百弐拾五弗 但壱噸ニ付洋三弗弐分五厘
     右ハ別紙請取証書ノ通三月廿一日アルマシヤ号ヘ引渡候
 両口合テ洋六千弐百六拾八弗五分五厘
右之通長崎港ニ於テ支那政府ヘ貸附金約定面ニ対シ石炭相渡候ニ付、代価洋銀ヲ以御下渡被成下候様別紙証書写弐通相添奉願候、尤右代価ニ当ル抵当トシテ上海テールヲ以リードイウエンス商会ヨリ品川総領事殿ヘ四千七百九拾五テール四分四厘御渡申上候由申越候也
    明治十年四月十九日
                     渋沢栄一(印)
                        (朱印)
                     益田孝
   大蔵卿 大隈重信殿代理
     大蔵大輔 松方正義殿
(朱書)
申出之通支那政府ヘ貸附金約定ニ対シ交付スル所之石炭代洋銀六千弐百六拾八弗五拾五セント相渡候条受取方可申出候事
    明治十年四月廿四日
            大蔵卿 大隈重信代理
                        (朱印)
               大蔵大輔 松方正義
     ○
    丁銅御買上之儀願書
清国政府ヘ貸附金額中物品交附割合ハ本年三月五日上申書之附録ニ詳記仕候処、就中丁銅之儀ハ私共上海出張之際大坂之時価有品共心得之為メ取調置、彼地ニ於テ本年一月中結約之場合ニ立至リ候ニ付、何レニモ要用之品ト奉存候間、不取敢大坂表ヘ電報致シ別紙之通買附取計置、其後前書物品交附之順序モ相伺候儀ニテ、勿論彼レヘ交附之見込ニ御座候処、此際弥破約ニ相成候ニ付而ハ、今日之ヲ他ヘ売却候而ハ縦令時価ニ照シ敢而高価ニ無之候共、一時大高之売払ヲ要スル為メ幾分ノ損毛ヲモ相生シ可申、就而ハ造幣局ニ於テハ常々御需用之品ニモ有之、且右丁銅ハ市中売買品之上等ニ位シ候品柄ニモ有之ニ付、何卒右買入原価ニ諸入費ヲ加算仕候別記之代価ヲ以テ、御同局ヘ御買上被成下度候、依而別紙相添ヘ此段奉願候也
    明治十年五月卅一日     第一国立銀行
                     渋沢栄一(印)
 - 第4巻 p.346 -ページ画像 
                  三井物産会社
                        (朱印)
                     益田孝
   大隈大蔵卿殿
     ○
    買入丁銅調書
明治十年二月中買入
一丁銅三拾万〇〇〇九拾斤 住友吉右衛門分《(マヽ)》
   此代金六万八千〇六拾円四拾壱銭四厘 但百斤ニ付金弐拾弐円六拾八銭弐厘
明治十年二月ヨリ五月迄買入
一丁銅拾壱万弐千斤 小田平兵衛分
   此代金弐万四千六百〇六円四拾銭 但百斤ニ付金弐拾壱円九拾七銭
約定高拾五万斤ノ残十年六月七月ニ受取可申分
一丁銅三万八千斤 同人分
   此代金八千百七拾円 但百斤ニ付金弐拾壱円五拾銭
合丁銅四拾五万〇〇九拾斤
   此代金拾万〇八百四拾弐円八拾壱銭四厘
    内
  丁銅四拾壱万弐千〇九拾斤        即今御買上相願候分
   此代金九万弐千六百七拾弐円八十一銭四厘
  丁銅三万八千斤             十年六月七月ニ御買上可相願分
   此代金八千百七拾円
右之通御坐候也
  明治十年五月三十一日
                  第一国立銀行
                     渋沢栄一(印)
                  三井物産会社
                        (朱印)
                     益田孝
   大隈大蔵卿殿
(朱書)
願出ノ趣聞届買上可致候条該銅上納並代金受取方ノ儀ハ国債局ヘ可申立候事
    明治十年六月廿三日
             大蔵卿大隈重信代理
                        (朱印)
               大蔵大輔 松方正義
     ○
    丁銅御買上代価御下渡並該銅納方之儀願書
丁銅御買上ノ儀、本年五月三十一日付ヲ以テ相願候処、去ル廿三日御允准被成下奉領承候、就テハ該銅大坂表ニ蓄在有之、同所第一国立銀行支店ニ於テ上納可仕候間、其都度上納斤量ニ対シ代価モ同行ヘ御下渡可被下候、且右代価金品ノ儀ハ兼テ御口諭御坐候通、新銅貨ヲ以テ百円ニ付壱円弐拾五銭ノ割手数料トシテ別段御下附被下度候、此段奉願候也
    明治十年六月廿五日
                  第一国立銀行
 - 第4巻 p.347 -ページ画像 
                     渋沢栄一(印)
    郷国債局長殿
(朱書)
願之趣聞届該銅調査受入之上代金渡方等之儀、大阪支局江相達置候条此旨可相心得事
    明治十年六月廿七日
            国債局長
                       (朱印)
             大蔵大書記官 郷純造
     ○
    清国上海ニ於テ兌換ノ為メ銀銅貨御下附之儀願書
清国上海ヘ私共合併ノ支店設立之儀ハ、本年三月六月両度ニ開申仕候以来怠ラス彼地ノ物情捜索罷在候処、右開申之目的ハ益可被相行様認得候ニ付、目下試ミ旁兌換取扱申度候間、定位銀貨五千円旧銅貨壱厘銭五千円金壱円ニ付千弐百五拾枚ノ見積ニテ御下渡ノ儀御允聴被成下、両貨共清国上海ニ於テ御下附被下度候、然ル上ハ凡ソ三ケ月ヲ限リ兌換取扱詳細ノ情由復申可仕候、此段懇願仕候也
    明治十年九月七日
                  第一国立銀行頭取
                     渋沢栄一(印)
                  三井物産会社長
                        (朱印)
                     益田孝
   大蔵卿 大隈重信殿代理
     大蔵大輔 松方正義殿
(朱書)
願之趣聞届定位銀貨五千円旧壱厘銅貨五千円壱円ニ付千枚合金壱万円三ケ月間貸下候条、受取方上海領事館ヘ可申出、尤右証書ノ儀ハ国債局長宛ニ相認於当地可差出事
    明治十年九月廿七日
                        (朱印)
                大蔵卿 大隈重信
  追テ壱厘旧銅貨之儀ハ実際交換之景況委細可申出事
     ○
    上海領事館ニ於テ銀銅貨御下付之儀ニ付願書
本年九月中相願候上海ニ於テ為交換銀銅貨合金壱万円御貸付之儀ハ速ニ御允准被下候上已ニ該貨品同地領事館ヘ御送付被成下候ニ付テハ、在上海当社支店詰上田安三郎笹瀬元明之両人ヨリ領事館ヘ申立次第速ニ該貨御下付御座候様仕度候ニ付、其段領事館ヘ御電報被成下置度候依而右銀銅貨御預リ証書相添ヘ此段奉願候也
    明治十年十二月五日
                  三井物産会社
                        (朱印)
                     益田孝
                  第一国立銀行
                     渋沢栄一(印)
    大蔵卿 大隈重信殿
(朱書)
願之通本日上海領事館ヘ及電報候条受取方同館ヘ可申立事
    明治十年十二月七日
                        (朱印)
                大蔵卿 大隈重信
 - 第4巻 p.348 -ページ画像 
     ○
    於香港為交換銅貨御下付之儀奉願候書付
先般香港ニ於テ銀貨御下付被下度儀相願未タ御允准無之、然ル処方今同地之形勢詳悉仕候得ハ、爾来益渇望之情態有之殊ニ銅貨成色致シ目下壱弗ニ付千零五十枚之価ニ騰貴致シ候趣報知有之候、因テ此際該貨充分輸送交換取計候時ハ実ニ彼我之便益不少ト奉存候、就而ハ先回相願置候銀貨之外今度別段旧銅貨五万円一円ニ付千枚至急御下付御座候様仕度奉願候、就而ハ時機ニ投シ神速下手不仕候テハ其便益充分不行届候ニ付、来ル八日抜錨相成ヘキ英国滊船「ケリサツキ」号ヘ御装載被下香港領事館ニ於テ私共派員之者ヘ御下付可被下候此段奉懇願候也
    明治十年十二月五日
                  三井物産会社
                        (朱印)
                     益田孝
                  第一国立銀行
                     渋沢栄一(印)
   大蔵卿 大隈重信殿
(朱書)
願之趣聞届候事
  但明八日抜錨之英国船ニテハ切迫候ニ付向後便船之節尚可申出事
    明治十年十二月七日
                        (朱印)
                大蔵卿 大隈重信
     ○
    清国借銀約定書解廃之儀ニ付稟候
清国借銀条款違約ニ付償銀弐万五千テール御誅求之上解約スヘキ事ニ御決定相成、右銀額之内已ニ壱万五千両ハ両回ニ御収納御座候処、今回品川領事殿ヨリ本月八日午後五時五分上海発電報有之、其文「三期渡シ償金ト引換之為メ和文英文支那文ノ調印済約定書ヲ許道ニ送レ」ト御座候、右ハ即チ前顕償銀之残額壱万両徴収之為メ其互換ニ供スヘキ儀ト奉存候間、該書取揃ヘ品川領事殿ヘ向ケ回送可致候哉此段稟候仕候也
    明治十一年三月十二日
                  三井物産会社
                        (朱印)
                     益田孝
                  第一国立銀行
                     渋沢栄一(印)
   大蔵卿 大隈重信殿
(朱書)
伺之通
  但第二期ニテ弐万両収納第三期ハ五千両ニ候事
    明治十一年三月十六日
                大蔵卿 大隈重信
     ○
    清国政府江貸附金ニ付状師レネーヘ相渡スヘキ第二回文筆料御給付之儀ニ付伺書
清国政府ヘ貸附金之儀ニ付、昨春三月中ヨリ六月中ニ係ル状師レネー文筆料六百三拾五両払渡之儀、品川総領事殿ヨリ右書類ヲ以テ御照会
 - 第4巻 p.349 -ページ画像 
御座候ニ付御下金可相願之処、昨年四月中第一回文筆料其外ニ而九百五拾両御下金相願候分、未タ上海ヘ為替ニ不取計私共方ニ貯存罷在候間、此回右之内ヲ以テ六百三拾五両之分其節御渡シ之相場七拾三テール之割合ヲ以テ、此弗八百六拾九弗八拾六仙ハ品川総領事殿方江為替ニ差立、残り三百拾五両之分此弗四百三拾一弗五拾壱仙ハ返納之積取計、追テ右為替相場上海より報知有之次第決算可申上様可仕候間、此段御聞届可被下候、依之総領事殿より被遣候勘定書写相添ヘ奉伺候、已上
    明治十一年五月一日
                     益田孝
                         (朱印)
                  代理 木村正幹
                     渋沢栄一
                  代理 永田甚七
   大蔵卿 大隈重信殿
(朱書)
伺之趣聞届最前相渡候洋銀千三百壱弗三拾七セント一旦返納ノ上更ニ英人状師「レネー」第弐回文筆料洋銀八百六拾九弗八拾六セント下渡可申事
    明治十一年六月七日
                        (朱印)
                大蔵卿 大隈重信
     ○
     (消印)
   印紙
        受取証
一 洋銀千三百〇壱弗三拾七セント
右ハ清国政府江貸金之儀ニ付法師其外雇費用ピツトマンヨリ一時繰替戻入之分見積辻前書之高正ニ奉請取候也
    明治十年五月十二日
                     渋沢栄一(印)
                        (朱印)
                     益田孝
   大蔵省 御中

図表を画像で表示領収証

 領収証 一洋銀四百三拾壱弗五拾壱セント(印)   但清国政府貸与金ニ付状師レネー文筆料    第一回下渡高之内返納之分 明治十一年六月十一日 国債局[img 図]印 





渋沢栄一 書翰 伊藤博文宛(明治一〇年)一月二六日(DK040027k-0007)
第4巻 p.349-350 ページ画像

渋沢栄一 書翰 伊藤博文宛(明治一〇年)一月二六日(加瀬喜衛氏所蔵)
爾来御疎音申上候、兼而御聞込も被為在候支那借金一条ニ付此度益田同行上海迄罷越申候、出立前御暇乞ニ罷出度之処漸昨日ニ至今日と取極り候程之火急之事ニて終ニ拝謁も仕兼候、何れ彼地之摸様ハ帰京後可申上候、御詑旁此段申上候頓首
  一月廿六日
                       渋沢栄一
 - 第4巻 p.350 -ページ画像 
   伊藤工部卿閣下


竜門雑誌 第二七五号・第一二―一三頁〔明治四四年四月〕 日清借款に就て(青淵先生)(DK040027k-0008)
第4巻 p.350 ページ画像

竜門雑誌 第二七五号・第一二―一三頁〔明治四四年四月〕
  日清借款に就て(青淵先生)
○上略 回想すれば今より
△三十四年前 即ち明治十年清国と借款契約を結びたりし事あり当時の大蔵卿大隈伯は清国陜西甘粛の巡撫金順氏より軍艦築造の資金として五十万両の借款を我国へ申込み来れりとて余に語つて曰く政府は此の借款に応じたく思へども政府は直接之れに交渉するを好まず願くは第一銀行の名義を以て協義を遂げられたし尤も夫れ丈けの金は大蔵省より第一銀行に預金すべし云々予は伯の意を諒とし即ち契約締結の為に態々清国へ出張し熟議の末愈陜西甘粛の道台許供襄氏と二百五十万両借款の契約を締結したり而して金銭の受授は正貨を以てせずして恰かも今日我邦人が外資を借入るゝに際し現金を以てせずして多く鉄材等を受くるが如く銀塊又は米等の品物を与ふるの契約なりき然るに此契約は終に履行に及ばずして清国より
△契約の解除 を申込み来れり依て我政府は予ねての約束の如く違約金として六万両を徴収すべき筈なりしを種々交渉の結果大に譲歩して僅に其半額を収めて事済みとなしたり而して大蔵省はこの違約金中一文も第一銀行に与へずして悉く之れを其庫中に納めたり当時大隈伯は如何なる考へを以て此清国借款に応じたりや知るべからず ○下略
○東京出発ノ日ヲ第一国立銀行半季実際考課状ニハ一月二十七日トシ、青淵先生六十年史ニハ一月二十六日トナス。然レドモ加瀬喜衛氏所蔵文書ニヨリテ二十六日ノ正シキヲ知ル。
○明治十一年四月ノ条(本巻三六六頁)ヲ参照スベシ



〔参考〕対支回顧録 上巻・四七頁〔昭和一一年〕(DK040027k-0009)
第4巻 p.350 ページ画像

対支回顧録 上巻・四七頁〔昭和一一年〕
清国政府が自ら担保を提供し、利息を支払ひ、普通の手続きによつて、始めて資金を外国に仰いだのは、慶応三年(同治六年)五月であつて、例の左宗棠が甘粛軍の軍費に充てるために奏請裁可を得て、上海在留の洋商から銀百二十万両を借り入れ、之を三期に分けて領収、漢口を経て現送せしめたものである。爾来二十年間、明治二十年(光緒二十年)に至るまで、清国政府は前後七回の外債を借り入れたが、その相手方は匯豊銀行(香港上海銀行)独逸等で、総額六百八十四万九千八百八十磅に達した。その後日清戦争が開始されるや、軍事費補給のために、匯豊銀行から一千九十万両の銀貨公債を借り入れるまでは、外国資金の借り入れは一度もやらなかつたものである。而して前記七回の外債のうち、日本に関するものは明治七年、我が征台出師の償金四十万両、及び被害民撫恤金十万両の支払等に充つるため、当時の閩浙総督沈葆楨の奏請した、外債二百万両(起債は六百万両であつたが実際は二百万両に止まつた)が含まれてゐる。
     ○


〔参考〕三井物産株式会社五十年小史 第二頁(DK040027k-0010)
第4巻 p.350-351 ページ画像

三井物産株式会社五十年小史 第二頁
○上略 抑モ三井家ニ於テハ徳川幕府時代ニ既ニ長崎ニ店舗ヲ置キ外人ト
 - 第4巻 p.351 -ページ画像 
交易セシ事アリ、又明治維新後従来ノ呉服並ニ銀行業務以外ニ新ニ国産方ヲ設ケ、伊豆七島ノ産物ノ販売並ニ京浜間ノ運送業務ニ従事シ居リタリシカ、明治九年七月三井武之助、三井養之助ノ両名ヲ組合員トシ
「皇国物産ノ有余ヲ海外ニ輸出シ内地需用ノ物貨ヲ輸入シ普ク宇内万邦ト交易セン」
事ヲ目的トシテ玆ニ三井物産会社ナルモノヲ創設シ、事務所ヲ日本橋区兜町ニ設置セリ、其当時ノ社長ハ益田孝ニシテ副社長ハ木村正幹ナリキ、又創立ノ際ハ一定ノ資本金ナルモノナク唯三井銀行並ニ第一銀行ヨリ資金ノ融通ヲ受ケ之ヲ流動資本トセリ。 ○下略


〔参考〕浪花新聞 第三一一号〔明治一〇年二月一〇日〕 渋沢栄一南清へ著目(DK040027k-0011)
第4巻 p.351 ページ画像

浪花新聞 第三一一号〔明治一〇年二月一〇日〕
   渋沢栄一南清へ著目
 此間だ上海へ行かれたる渋沢栄一君は、香港に二ケ所と上海に二ケ所の日本物産会社を設けらるゝ見込の由。