公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第5巻 p.192-197(DK050044k) ページ画像
明治15年10月10日(1882年)
大蔵卿松方正義ノ建議ヲ容レ是年六月二十七日太政官布告第三十二号ヲ以テ日本銀行条例制定セラレ、是日同行開業ス。栄一株主タリ。
日本銀行第一回半季実際報告書 (自明治一五年一〇月一〇日至同年一二月三一日)(DK050044k-0001)
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日本銀行第一回半季実際報告書 (自明治一五年一〇月一〇日至同年一二月三一日)
第一回株主姓名表
住所 姓名 株数
東京 大蔵省 二五、〇〇〇
同 三井八郎右衛門 一、〇〇〇
京都 大谷光尊 五〇〇
東京 川崎八右衛門 五〇〇
同 安田善次郎 五〇〇
大坂 鴻池善右衛門 四五〇
滋賀 西川貞次郎 四二五
東京 川崎正蔵 四〇〇
同 川崎金三郎 四〇〇
徳島 久次米兵次郎 四〇〇
東京 三野村利助 三六五
東京 原亮三郎 三〇五
兵庫 小西新右衛門 三〇〇
千葉 池田栄亮 二五〇
神奈川 原善三郎 二五〇
東京 河野伝衛 二五〇
同 笠野吉次郎 二五〇
同 子安峻 二五〇
大坂 広岡久右衛門 二五〇
同 平瀬亀之助 二五〇
神奈川 茂木惣兵衛 二五〇
大坂 住友吉右衛門 二五〇
同 杉村正太郎 二五〇
兵庫 鷲尾松三郎 二〇〇
石川 金沢為換会社 二〇〇
東京 渋沢栄一 一八五
同 原六郎 一五〇
岡山 花房端連 一五〇
大坂 西村虎四郎 一五〇
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岐阜 西浦円治 一五〇
大坂 富岡半兵衛 一五〇
東京 川上左七郎 一五〇
大坂 山口吉郎兵衛 一五〇
兵庫 山邑太左衛門 一五〇
大坂 松本重太郎 一五〇
滋賀 浅見又蔵 一五〇
同 森弥三郎 一五〇
平沼専蔵 一二五
箕田長次郎 一二五
(百株以下略)
合計 五百八十一名五万株
○其後ニ於ケル栄一ノ持株ノ変動ハ次ノ通リ
明治一六年六月末日 二五五株
同年一二月末日 二六五
同一七年六月末日 二四〇
同二〇年六月末日 三一〇
同二〇年一二月末日 三〇〇
同二一年六月末日 二六〇
……
昭和六年六日 新旧合計二二株ヲ売却ス。
○同行創立準備中ニ於テハ、栄一尚九月十九日定款並ニ監事選任ニ関シ内議諮問ニ与リタルモノヽ如キモ明ラカナラズ。
〔参考〕日本銀行第一回半季実際報告書(自明治一五年一〇月一〇日至同年一二月三一日)(DK050044k-0002)
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日本銀行第一回半季実際報告書(自明治一五年一〇月一〇日至同年一二月三一日)
○銀行創立ノ事
一当銀行創立事務顛末ノ概略ヲ挙ケンニ、明治十五年六月二十七日太政官布告第三十二号ヲ以テ日本銀行条例ヲ頒布セラレシヨリ、同二十八日大蔵省中ニ日本銀行創立事務所ヲ設ケラレ、大蔵少輔吉原重俊、同大書記官富田鉄之助、同権大書記官加藤済ニ創立事務委員ヲ命セラレ、尋テ第三国立銀行頭取安田善次郎、三井銀行副長三野村利助御用掛心得ヲ以テ之ニ従事シ、而シテ株主募集ヲ始メ、都テ創立ニ係ル一切ノ事務ヲ処弁シ、第一回入金相済、開業ノ日ニ至ツテハ右委員ノ名義ヲ解キ悉ク日本銀行ヘ引渡スノ目途ヲ以テ着手セラレタリ、又創立事務上ニ係ル経費ハ一切大蔵省ニ於テ繰替置、追テ日本銀行ヨリ返還スヘキ旨ヲ達セラレタリ、是ニ於テ先ツ株主募集ノ事ニ着手シ、七月二十八日ヲ以テ全国各地ノ新聞ニ株主募集ノ広告ヲ掲載セシニ招募ニ応スル者陸続先ヲ争ヒ、全国富豪ノ聞ヘアルモノハ勿論、苟クモ資力ヲ有スル者ハ加入ヲ望マサル無シト云フモ敢テ不当ナラサルノ状況ヲ現ハセリ、而シテ日ヲ閲スル僅ニ二十有三日、遂ニ八月二十日ヲ以テ株金満額ニ付加入ヲ差留ムル旨ヲ四方ニ広告シ、株式弐万五千箇、即チ金五百万円ノ株主此人員五百八十名、全ク満備ノ功ヲ奏セリ、是ニ於テ委員ハ速ニ精査ヲ遂ケ、株主名簿ヲ制定シ、条例第六条ニ拠テ之ヲ大蔵卿ニ奉呈シテ其許可得ヲ
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タリ、株主名員既ニ決定セシニ付、委員ハ各株主ニ報スルニ其加入申込ニ応シタル旨ト、且九月十五日ヨリ同月三十日マテニ第一回入金ヲ為スヘキ旨トヲ以テシ、而シテ東京府下第一国立銀行、第三国立銀行三井銀行及ヒ横浜第二国立銀行ト約定ヲ結ヒ、右第一回入金請取方ヲ委託シ、右四銀行ニ於テハ入金ヲ蒐集シテ之ヲ創立事務所ヘ送付セリ、又政府引受ノ株式ニ対スル入金百万円モ国債局ヨリ下付相成、是ニ至テ第一回入金ノ事全ク終レリ
是ヨリ先キ八月中創立委員ハ日本銀行創立ニ付差向本店開設ノ場所相当ノモノヲ取調ヘシニ、府下日本橋区北新堀町廿一番地、旧開拓使出張所建物ハ現時大蔵省ノ所轄タリト雖トモ、幸ニ差向所用ノ目的モ之ナキ趣ニ付、多少変換ヲ施サハ最モ適当ナルヘシト思惟シタルヲ以テ、右建物ヲ凡十五ケ年間御貸与相成度、尤モ拝借年期中ハ在来ノ建物修繕等ヲ始メ、土地家屋ニ関スル諸経費ハ銀行ニ於テ支弁スルハ勿論、他年本店新築ノ場合ニ及ンテハ現存ノ家屋其儘返還スヘキ旨ヲ以テ稟請セシカ、其旨速ニ許可セラレタリ、乃チ九月十二日ニ於テ創立事務所ヲ同所ニ移シ、開業ニ至ルマテ該事務ヲ取扱ヘリ、尤モ在来ノ家屋ハ狭隘ナルヲ以テ其傍ラニ営業事務所ヲ建築シ、又倉庫ヲ改造シテ金庫トナシ、其他数多ノ修繕ヲ加ヘタリ
是ヨリ先キ九月中子安峻、外山修造、松本重太郎、草間貞太郎ニ創立事務御用掛ヲ命セラレ、倶ニ創立ノ事ヲ経画シ且定款内規等ヲ審議シ、其他開業ノ準備ヲ商量セリ
定款ハ創立委員ニ於テ取調タル上御用掛ト詳論細議シ、而シテ尚参考ノ為メ九月十九日在京ノ東京横浜及ヒ大坂等ノ株主中銀行ノ業等ニ従事スル者十数名ヲ事務所ニ招集シ、内議諮問ヲ尽シテ議決制定シ、大蔵卿ノ認可ヲ受タリ、内規モ亦創立委員ノ編成セシ所ニシテ御用掛等ト審按シ、大蔵卿ノ許可ヲ得テ之ヲ実施セリ
監事ハ条例ニ拠レハ株主総会ヲ開キ其公撰ニ付スヘキ処、既ニ第一回入金ノ収入モ了リタルニ監事撰挙ノ為メ開業ノ時日ヲ遷延スルハ営業上ノ得失ニ関スルカユヘニ第一回監事撰挙ノ事ハ創立委員ニ於テ在京株主中其候補ニ合格スル者ヲ撰ミ之ヲ大蔵卿ニ具申シ以テ其特撰ヲ乞ハヽ可ナラント、前ニ掲ケタル内議諮問会ノ同意ヲ得テ之ヲ大蔵卿ニ具状シ採納ヲ得タルニ付、直チニ之ヲ各株主ヘ報道セリ創立事務委員ハ十月五日ヲ以テ創立ノ事務略ホ局ヲ結ヒ、開業ノ準備稍整ヒシニ付、十月十日ヲ以テ開業ノ期トナシ、開業式ハ追テ執行スヘキ趣ヲ大蔵卿ニ具申シ、且新聞紙ヲ以テ其旨広告セリ、是ニ於テ政府ハ十月六日ヲ以テ大蔵少輔吉原重俊ヲ日本銀行総裁ニ、同大書記官富田鉄之助ヲ同副総裁ニ任セラレ、又大蔵卿ハ十月九日ニ於テ安田善次郎、三野村利助、外山修造ヲ理事ニ、子安峻、北岡文兵衛、森村市太郎ヲ監事ニ任セラル、依之創立委員ハ其事務ヲ挙テ悉皆之ヲ銀行ニ引継キ、十月九日ヲ以テ創立事務所ヲ閉鎖シタリ、同日大蔵卿ヨリ開業免状ヲ下付セラレ、翌十月十日ヲ以テ日本銀行本店ヲ東京日本橋区北新堀町廿一番地ニ開設セリ
行務要件
一明治十五年十月十日、大蔵卿ヨリ大蔵権大書記官加藤済ヘ日本銀行
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監理官申付候条此旨相達スル趣達セラレタリ
一同年同月同日、割引委員ヲ撰定ス、即チ第一国立銀行頭取渋沢栄一第百国立銀行頭取原六郎、川崎銀行頭取川崎八右衛門ノ三名ナリ
一同年十月二十日、大坂ヘ日本銀行支店ヲ設置致度旨ヲ大蔵卿ニ申請セシ処同月二十三日許可セラレタリ
一同年十一月二十二日、理事外山修造ヘ大坂支店長申付該地ヘ出張支店創設方着手為致度旨ヲ大蔵卿ヘ上申シテ認可ヲ得タリ
一同年同月廿五日、大坂支店条規ヲ編制シ、同十二月七日大蔵卿ノ許可ヲ得タリ
一同年十二月六日、大蔵卿ヨリ其行大坂支店開業ニ付諸事調理ノ為メ当省官吏派遣セシムル筈ニ付、其行ヨリモ副総裁並ニ理事及ヒ監事出張候様可取計旨ヲ達セラル、依之同月七日副総裁富田鉄之助、理事三野村利助、監事子安峻ニ出張申付、同月十三日出立シ、大蔵省ヨリハ郷三等出仕出張セラレタリ
一同年十二月十八日、大坂支店割引委員ヲ撰定ス、即チ第四十二国立銀行頭取田中市兵衛、第五十八国立銀行頭取富岡半兵衛、第百三十国立銀行頭取松本重太郎、第十三国立銀行支配人草間貞太郎、第百四十八国立銀行支配人西田永助、第一国立銀行支店勘定改役熊谷辰太郎ノ六名ナリ
一同年十二月廿八日、出納局長ヘ当銀行本店ト大坂支店トノ間為換金取扱方、並ニ同局大坂出張所へ支店ノ都合ニヨリ預ケ金ヲ為度旨ヲ請願セシ処速ニ許可セラレタリ。
〔参考〕日本銀行沿革史 第一巻・第二一〇―二一一頁(DK050044k-0003)
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日本銀行沿革史 第一巻・第二一〇―二一一頁
爾来追々株金ノ収入アリ、十月五日ニ至リ概略収入ノ見込モ立チタルニ依リ、同月十日ヨリ開業スヘキ予定ニテ、其前総裁以下役員ノ任命及開業特許状ノ下付アランコトヲ大蔵卿ニ上申シ、又同七日ヲ以テ東京、横浜、大阪、神戸ノ各新聞ニ来十月十日ヨリ開業ノ旨ヲ広告セリ尚同六日大蔵少輔吉原重俊ハ本行総裁ニ、同大書記官富田鉄之助ハ副総裁ニ任セラレ、同九日安田善次郎、三野村利助、外山修造ハ理事ニ子安峻、北岡文兵衛、森村市太郎ハ監事ニ任セラレタリ、又曩ニ提出シタル特許状ハ大蔵省ニ於テ更正ヲ加ヘラレ、同九日左ノ通リ営業免許状ヲ下付セラレタリ
営業免許状
東京府下ニ創立スル日本銀行ハ明治十五年六月二十七日太政官第三十二号布告日本銀行条例ヲ遵奉シタルコト該銀行定款ニヨリ明確ナルヲ以テ明治十五年十月十日ヨリ満三十年間即チ明治四十六年十月九日迄右条例ヲ遵奉シ其業務ヲ営ムコトヲ許可スルモノ也
明治十五年十月九日 大蔵卿 松方正義
○本文明治四十六年ト記シアルハ明治四十五年ノ誤記ナル旨明治二十七年一月十一日官房秘第三号ヲ以テ大蔵大臣ヨリ同行ヘ達セラレタリ。
〔参考〕中外物価新報 第五五三号 〔明治一五年一〇月五日〕 日本銀行(DK050044k-0004)
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中外物価新報 第五五三号 〔明治一五年一〇月五日〕
○日本銀行
同行は開業を急がるゝも、如何せん旧開拓使物産取扱所は家屋唯一室
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のみにて諸課を配置して事務を扱ふに不便たれは予て営繕を急がる、此ほどの風雨にて破損所あるにも拘らす、本月廿日頃には開業相成べしと云ふ、又御用掛子安峻氏は専ら同行に従事せらるゝに付き、読売新聞は中山譲治氏が引受け、紙尾に社長の名を署さるゝと日々新聞に見へたり、又理事委員には既に三野村・安田の両氏が命せられ、其は前日の紙上に記載せし所なるが、今又噂に拠れは渋沢栄一氏は一旦理事員を辞されしも再ひ命せらるべく、第百銀行の原六郎氏も同様理事員とならるべしと云ふが果して然るや否や
〔参考〕東京経済雑誌 第一二九号 〔明治一五年九月一六日〕 日本銀行(DK050044k-0005)
第5巻 p.196 ページ画像
東京経済雑誌 第一二九号 〔明治一五年九月一六日〕
日本銀行 同行事務所は兼て大蔵省の中に設けありしが、去る十一日に日本橋区箱崎町の旧開拓使物産取扱所跡へ移され、同行の理事官は官選にて渋沢・安田に命せらるゝよしなりしか、安田善二郎《(安田善次郎)》、三野村利助氏の二氏に命せられたりとか、又た神田錦町なる大蔵省の簿記講習所生徒の中、此ほど卒業したる四十七名を夫々会計諸掛員に採用せらるべしと云ふ
〔参考〕雨夜譚会談話筆記 上巻・第一八四―二〇四頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕(DK050044k-0006)
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雨夜譚会談話筆記 上巻・第一八四―二〇四頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
第九回雨夜譚会は昭和弐年六月廿四日午後四時半より飛鳥山邸に於て開かる。出席者青淵先生、敬三氏、増田氏、渡辺氏、白石氏、小畑氏、高田氏、岡田、泉。予備調べに従ひ「明治廿九年六月設置の農商工高等会議に就て」及び「特殊銀行の設立に就て」の中「日本銀行の設立並に経過に就て」御談話を乞ふ。
○中略
敬「特殊銀行設立の方のお話を願ひます」(日本銀行設立に関する予備調べを読む)
先生「一体日本での銀行組織は明治五年に銀行条例が出来てから、それは伊藤さんが三年に米国の国立銀行制度を見て来たものに依つたのである。銀行条例を作つた当時二説があつた。一説は吉田清成と云ふ薩摩人で、英国に於て銀行の制度とか組織とかを学理と実際両方面から研究した人の英国流銀行説であつた。此人は私より一寸先へ大蔵少輔になつた。伊藤さんは(或は英国式がよいかも知れぬが太政官札の兌換を行ふには米国式がよい)と云ふので米国式を主張し、両者相譲らなかつた。其当時松方さんは、さうした議に参加する地位でなく、租税権頭で、私が租税局から本省へ移つた後を襲いで租税頭になつた人である。但し明治十五年には大蔵卿になつた。私が租税司に就任してから後官制を改め租税頭としたので、司の方は奏任官であつたが、頭の方は勅任官となつて居た。だから松方は私より後輩であり、吉田は先輩の訳である。扨て右の伊藤説と吉田説との議論に対して、判断するのは井上さんと私の任で、井上さんが表面判断するが其の材料は全部私の手で成つた。従つて伊藤さんはよく私に(間違つてくれては困る)と云ひ、吉田氏は(後に誤りを残すやうであつてはならぬ)と云ふ。私は実際、何れがよいか判定に苦しんだ。どうも英国式がよいやうに思はれるが、太政官札を兌換するのには米国式でなければならぬやうである。其処で先づ伊藤説に同意して、それに基いて銀行条例を作製した。これは明治五
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年のことで、翌年私は第一銀行の経営に任ずるようになつた。その後十年近くも経つた明治十四年に松方さんが大蔵卿に就任したが、当時の財政関係は非常に面倒であつた。先是明治十年西南戦争が始まり、之に要する戦費に充当する為め、十五銀行などから多額の紙幣を発行せしめて使つた。之は大隈さんが已むなくやりくりをしてやつたので、為めに紙幣の膨脹が著しく、物価が騰貴し金融も危険に瀕し、銀紙の差が甚だしくなり、十四年頃には紙幣の価値は銀の半分迄で下つた。従つて財政の緊縮、紙幣の縮少が旺んに説かれ、国立銀行の如きも私が主唱して紙幣の銷却を行ふべく、大蔵省へ建議をし、前回にも話したやうに大隈さんから大いに悪まれたこともある。右様な財政の紊乱とか、経済界を危機に導いたからと云ふのでなく、大隈さんの改進党組織に就て、少しも薩長と提携しなかつたので、薩長の人々から面白く思はれず所謂諭旨免官となつた。其の後へ松方さんが十月に大蔵卿となり、大隈さんと反対に、積極から消極に変り、紙幣減縮の政策を採り、数年を出ずして、兌換が出来るやうにしたが、此間に金融制度の一つとして、日本銀行の制度を定め、従来の制度が完全に行はれぬのを改正した。其改正の、第一は国立銀行紙幣の兌換が出来なかつたことで、吉田氏などは大いに先見の明があつたと誇つて居たが、条例制定の当時にはそれ程の確信もなかつたのである。然し事実は伊藤さんなり、渋沢なりが米国式で兌換出来ると思つたのは誤つて居たのである。とは云へ何分当時としては雲を掴むやうな有様で、吉田氏にしても英国式を主張する処から、米国式に反対して居た程度である。前に云ふた様に十四年頃になつてからは、金融界がこのまゝでは不安であるとて、英国に於ける英蘭銀行に倣ひ中央銀行を設立することになつた。それが日本銀行で、其の発起人の中へ私のは入つてないのは、前のやうな関係から避けたものであらう。それから十六年に紙幣銷却の方法に就て松方さんに意見を開陳し、又国立銀行の紙幣発行に年限を定めたことに賛成した。これは私、安田善次郎、山田隣之助などで、十五の三輪振次郎は反対した、けれども勢力がなく、銀行一同はそれに賛成するに到つた。斯くて、漸次我が銀行制度も整備して来たのである。若し斯かる変革が行はれないで居たならば、先般の恐慌の折など一層甚だしかつたであらう。之は松方の大功績であつたのである。要するに日本銀行は吉田清成氏が主張して、松方さんが創立したものである。