デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
4款 国立銀行及ビ普通銀行 7. 第七十七国立銀行
■綱文

第5巻 p.294-306(DK050066k) ページ画像

明治11年10月(?)(1878年)

是ヨリ先、明治十一年二月、第七十七国立銀行創立発起人総代二人上京シテ栄一ニ会見シ、銀行設立ニ関シ指導ヲ受ケタリシガ、是月栄一、渋沢喜作ト共ニ仙台ニ到リ、第七十七国立銀行ノ創立ヲ指導シ、株主ト為ル。同年十月十七日同行創立総会ヲ開キ、同年十一月七日開業免状ヲ下附セラレ、十二月九日ヲ以テ開業セリ。以後同行ノ発展ニ尽力スル所多シ。


■資料

七十七年史 (七十七銀行編) 第六二―八一頁 〔昭和二九年五月〕(DK050066k-0001)
第5巻 p.294-297 ページ画像

七十七年史 (七十七銀行編)  第六二―八一頁 〔昭和二九年五月〕
  第一編 第一章 第二節 第七十七国立銀行創立
    三 第七十七国立銀行の設立
○上略
第七十七国立銀行創立経過 士族会議の小委員会の努力によつて、十一年二月六日に九万円の用意ができたので、資本金一〇万円の士族銀行設立を申請することになり、発起人として六人が選出され、創立事務を発起人に引渡し、創立委員は解散することになつた。増田繁幸 石川邦光、亘理隆胤、松前広致、後藤孫平、氏家厚時の六人が発起人としてあげられたが、さらに案をねつて変更を加え、十一年二月二十日に、増田繁幸・亘理隆胤・松前広致・中島信成、後藤充康、氏家厚時の六人を発起人として、資本金二〇万円の銀行設立願を呈出するにいたつた。この間に、河田安照・渡辺幸兵衛が発起人の総代となつて上京し、第一銀行頭取の渋沢栄一に会つて、銀行設立に関して周到懇切な教示を得て帰り、案を練つたといわれている。このことについては、なおもう一度後で述べるが、計画から出願まで、馴れぬことではあり、苦労もしたようであるが、慎重に成案を得て出願となつたのである。
○中略
 しかしとにかく、濫設を防ごうとする大蔵省が、順調に七十七銀行の許可をしたのは、何かある程度の好意的なものがあつたのではないかと思われる。
 一つは渋沢栄一が大いに力添えをしたということである。当時の第一国立銀行の頭取であり、国立銀行の最初の条例の起草者でもあり、銀行についてはもちろん、日本経済全体に対して最も深い理解と抱負をもち、官に対しても強い発言力をもちながら民間の事業育成につとめていた渋沢栄一は、晩年に自ら思い出を語つている中に、当時、最も文明のおくれている東北地方に文明の恵沢を及ばさねばならぬと考えており、奥羽開発という主張をもつていたので、第一銀行の支店も
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早く東北に設けたといつている。(青淵回顧録)そういう渋沢に七十七銀行設立の発起人は相談し指導をうけた。前にも一言したが、七十七銀行に残つている「重要事項摘録」には、銀行設立案が出ると直ちに河田安照・渡辺幸兵衛が総代として上京し、「渋沢栄一氏ニ会見シ之ガ創立ニ関シ其ノ卓見ヲ叩キタルニ最モ周到懇切ナル垂教ヲ受ケ大ニ其ノ要領ヲ会得シテ帰仙シ其ノ指導ニ基キ計画ヲ樹テ以テ同十一年二月二十日始メテ大蔵省ヘ上願シ」たとある。出願以前にまず渋沢に示教を得たのである。この出願以前の指導についてはこの記録があるのみで、具体的には不明であるが、三月にまた河田安照が上京していることは、次の委任状で判明する。
    委任状
 一 準備金之事
 一 第壱国立銀行ヘ打合之事件
 一 支配人等之事
 私共発起人トナリ出願ノ国立銀行事件貴殿エ委託ニ及候条御取計可被成、依テハ貴殿ノ所置ニ於テ異儀有之間敷為後日之如件
  明治十一年三月           氏家厚時(印)
                    増田繁幸(印)
   河田安照殿
                     (河田俊治郎氏所蔵)
 三月は既に銀行設立願が提出されて審議中である。準備金や支配人のことについて、直接上京して折衝する必要があつたのであろう。また既に第一銀行がこの地方の公金取扱もしているので、その関係について話をつけておく必要もあつたのであろう。そしてその第一銀行との件もあるから、当然この時渋沢栄一と会つているにちがいない。そして彼が大いに好意を示したであろうことは、後にみるように公金取扱について第一銀行は新設の七十七銀行に多くの部分を譲つていることでもわかるし、渋沢栄一・渋沢喜作が三万円を出資して大株主になつたことでも明らかである。そして七十七銀行の発達にともなつて、支店も引揚げてしまう。そういう結果が出てくるところをみても、出発当初に、渋沢はこの地に地元の銀行を堅実に育てようという意図があつて、助力を惜しまなかつたことが推定される。このような有力なる後援が、七十七銀行設立を順調にさせた一つの理由であろう。
 またこの銀行設立案が、宮城県士族の銀行として、いわば正統的なものだつたことも、許可までの経過を順調たらしめたかと思われる。県が中心となつて、旧士族のための結社を作らせ、その結社の議決として、さらにそれに増田繁幸も加わつて発起出願したのだから、県としても大いに力を入れたであろう。官が指導する上からの新産業・経済の発展の時代として、そのことは大きい作用をしたにちがいない。いわば、もつとも信用あるもので、大いに育成すべきものであるとみなされたのであろう。渋沢栄一の好意の中にも、そういう点をくんでいるところがあつたのであろう。それについて四十六銀行が特に冷眼視されたわけでもあるまい。前にみたように、すばやく計画して例外の小資本で許可を得ているから、地方銀行育成の立場でやはり容易に
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許可したのであろう。遠藤温のような有能人が中心にあつたし、まだ士族全体の動きはなかつたけれども県内一つの銀行として許可を得やすかつたことであろう。また発起人は実際に貸金の組織をもつていた連中だから一応は馴れている人達でもあつたから、信用がなかつたわけではあるまいけれども、このあとに士族会議の議として生れてきたところの計画については、官としてもずつと信用もし、また保護育成を必要と考えたのであつても不思議はないのである。
 また渋沢栄一の指導内容について推察されることは、銀行営業そのものについてである、宮城県士族としての銀行計画案の内容は、前にも記したように、銀行の体をなさぬようなものであつた。それが開業のときは、のちに見るように立派に銀行としての営業課目を定めている。その間には、渋沢が懇篤に方法・組織を教えたということが推定できるのであつて、それは大蔵省の指示によつたことでもあろうが、渋沢を間において考えることは不自然ではない。
○中略
設立許可より営業免状交付まで ○中略結局あとから出発した七十七銀行が、資本も組織も大きく、四十六銀行側から合併を申込むということになつたのであろう。合併銀行は七十七銀行を名乗ることになつた。この時、渋沢栄一・渋沢喜作が三陸視察に来て特に仙台により、薀蓄をかたむけて援助を与え、その上に遠藤敬止とともに多数の株式引受けをし、発起人一同感奮して諸計画を進めた。(重要事項摘録)この渋沢の来仙が、合併の前か後か不明であるが、多数の株式まで引受けているところをみると(十六年考課状の株主名簿によると、遠藤敬止、七〇〇株・三五千円、渋沢栄一、四一九株・二〇、九五〇円、渋沢喜作二〇〇株・一万円であり、市の富家佐藤三之助がこれに次いで一七一株、そのほか一〇〇株台が四人、氏家厚時は六三株にすぎない。これも面白い)。株式募集を地方だけで行うのは、案外に難しかつたのであろう。六十銀行がこの土地で募集したときは予定数はすぐ得ていた。十一年三月までに三〇八名の士族から八三、八六五円の参加を得て、きわめて順調であつたが、四十六銀行は同じころでありながら、五万円の資本金の計画であつて一向に進捗していないので、四十六銀行の計画にやはり不審があるが、七十七銀行の場合、設立の遅かつたためもあろうし、資本金額も大きく、やはり株式募集にかなり困難があつたのであろう。両者合して二五万円を県のみで集めることができなかつた。県内にただ一つの国立銀行が、渋沢栄一などの株式引受けを必要とする程度に、地元で募集できなかつたのは、馴れないための不手際もあつたであろうが、士族の考えかたも退嬰的だつたためかもしれぬ。そしてまた渋沢栄一にしてみれば、東北開発という見地から有望と認め、自らも投資してしつかりした銀行を育てたいという気持で、力をつくしたということでもあろう、とにかく渋沢栄一の七十七銀行設立に際してのこの助力はきわめて大きいものであつて、その後もなにかと好意をもち続けていた。いち早くこの地方に置いた第一銀行支店も、順次にその仕事を七十七銀行に譲つて引揚げていつたこともあとでみる通りである。
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 なおここで、先にも一言したが、四十六銀行設立企画者と、七十七銀行の企画者の相違ということを問題にしてもいいかもしれない。四十六銀行は土着の民間人が集つて計画したと評されたが、それは七十七銀行に対比してのことである。七十七銀行は、その点では士族・官僚の有能者が集り、官設的な傾向も強い。そうはつきり区別するほどのものでないにしても、一応は違つているともいえる。そして七十七銀行の資本の中には、大株主として遠藤敬止・渋沢栄一・渋沢喜作がある。土地の資本だけでないということもいえないことはない。そういう二つの銀行が合併したからには、結局はいずれということにはならぬが、四十六銀行が独自に出発し得ず、七十七銀行もまた渋沢等の資本の援助を受けなればならなかつたということは、つまりこの地方の資力の乏しさということにはなるのである。結局特にこの地においては、国の保護指導をまつてはじめて一銀行が成立し得るだけの地盤しかなかつたことは明白である。
 合併の許可があり、渋沢の援助を受け、発起人は大いに努力して開業準備を進めたのであるが、十月十七日に、予定通りに株式募集が満ち、二五万円の資本金(株数五千株、一株五〇円)で出発できることになり、創立証書と定款を作り、創立総会を開いてこれを議決し、株式引受者は各これに記名調印し、次いで十八日役員を選出した。頭取は氏家厚時、取締役は増田繁幸・中島信成・亘理隆胤・佐藤信義であり、中島信成が支配人を兼任した。
○下略

第七十七国立銀行半季実際考課状 第一回 〔明治一一年一二月〕(DK050066k-0002)
第5巻 p.297-298 ページ画像

第七十七国立銀行半季実際考課状 第一回 〔明治一一年一二月〕
    銀行創立ノ事
一明治九年八月一日改正国立銀行条例ヲ遵奉シ、明治十年十一月十五日、増田繁幸・亘理隆胤・松前広致・後藤充康・氏家厚時・河田安照・須田平左衛門・中島信成ノ八名仙台大町一丁目栽培地ニ会シ、国立銀行創立ノ手続ヲ画策討論シ、而シテ河田安照・渡辺幸兵衛ヲ総代トシテ出京セシメ、之ヲ東京第一国立銀行頭取渋沢栄一氏ニ謀リ、大ニ其要領ヲ得タルニ依リ、明治十一年二月廿日大蔵省ヘ上願シ、同年四月廿六日辱クモ允準ヲ蒙リ、第七十七国立銀行ノ称号ヲ賜リ《(ル)》、此時ニ際シ嘗テ允可ヲ蒙リ称号ヲ命セラレタル第四十六国立銀行ノ発起人遠藤温・佐藤信義等当行ト合シ、同心協力其業務ヲ盛大ニセンコトヲ望ムニ付、双方発起人等直チニ集会決議ノ上、同年九月九日其旨ヲ大蔵省ヘ請願シ、同月廿日恭シク其允可ヲ蒙リ、両銀行合併スルコトヲ得タリ、其後渋沢栄一・渋沢喜作ノ両氏会《(マヽ)》マヽ三陸地方巡回ノ際、自ラ当行ニ臨ミ、戸塚貞輔・遠藤敬止ノ二名ト共ニ当行創立ノ事ニ関係シ、各自大ナル株主トナリテ営業上ノ要件ヲ懇篤説明セリ、之ニ依テ一同其交誼ノ厚キニ感シ、一層勉励諸般ノ順序ヲ経、成規ニ拠テ創立証書及ヒ定款ヲ製シ、同省ヘ上呈シ、十一月七日開業免状ヲ付与セラレタルニ付、十二月九日ヲ以開業本務ニ従事スル事ヲ得タリ、
○下略
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右明治十一年十二月九日ヨリ同三十一日ニ至ルマテ廿三日間当銀行実際所務ノ考課状、前書ノ通相違無之候
 明治十一年十二月三十一日
               第七十七国立銀行
                取締役   佐藤信義
                同兼支配人 中島信成
                同     亘理隆胤
                同     増田繁幸
                頭取    氏家厚時
   株主各位
      御中


(氏家厚時) 書翰 渋沢栄一宛 (明治一一年)一一月二四日(DK050066k-0003)
第5巻 p.298 ページ画像

(氏家厚時) 書翰 渋沢栄一宛 (明治一一年)一一月二四日 (渋沢子爵家所蔵)
一翰拝呈仕候、然ハ過日ハ寒冷之砌遠路之所態々御下リ、万端御指揮被成下候方《(マヽ)》ヨリ、諸事都合能速ニ運相付候段、株主一統御礼申出候、私儀惣代トシテ如斯ニ御坐候 恐惶謹言
 十一年十一月廿四日
                    氏家厚時
  渋沢栄一様
  ○仙台第七十七国立銀行ハ明治十一年十一月七日開業免状ヲ下付セラレ、同年十二月九日二十五万円ノ資本金ヲ以テ開業セリ。栄一ハ金二万九百五十円、渋沢喜作ハ金壱万円ヲ出資シタリ。成立後第一国立銀行員遠藤敬止同行教授役トナリ、後明治十四年取締役頭取ニ就任セリ。明治三十一年、株式会社七十七銀行ト改称シ、純然タル普通銀行トシテ営業ヲ継続シ、昭和二年宮城商業銀行・仙台興業銀行ヲ合併、後更ニ原町銀行、浪江銀行、五城銀行、東北実業銀行等ヲ合併シ、昭和二十年東北貯蓄銀行、宮城銀行ヲ合併シタリ。(七十七銀行「七十七年史」ニヨル)


第七十七国立銀行創立証書(DK050066k-0004)
第5巻 p.298-299 ページ画像

第七十七国立銀行創立証書
大日本政府ヨリ発行スル所ノ公債証書ヲ抵当トシテ銀行紙幣ヲ発行シ之ヲ通用シ、之ヲ引換フル儀ニ付、明治九年八月一日大日本政府ニ於テ制定施行シタル国立銀行条例ヲ遵奉シテ、国立銀行ヲ創立シ、其業ヲ経営セント謀り、私共即チ此創立証書第五条ニ連署シタルモノ、一致協力シテ当銀行ヲ創立シ、左ノ創立証書ヲ取極メ候也
第一条 当銀行ノ名号ハ第七十七国立銀行ト称スヘシ
第二条 当銀行ノ本店ハ宮城県管下仙台区大町壱丁目四十番地ニ於テ設置スヘシ
第三条 当銀行ノ資本金ハ弐拾五万円ニシテ、五拾円ヲ以テ一株トナシ、総計五千株ト定ムヘシ
第四条 当銀行ノ永続期限ハ開業免状ヲ受ケシ日ヨリ二十箇年間タルヘシ
第五条 当銀行株主ノ姓名住所其他並ニ各株主ノ引請ケタル株式ハ左ノ如シ
  但シ株主姓名表ニ譲リ此ニ省ク
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第六条 此創立証書ハ国立銀行条例ヲ遵奉シ、銀行ノ業ヲ営ミ、一同ノ利益ヲ謀ル為ニ取極メタルモノニシテ、其証拠トシテ私共一同姓名ヲ記シ調印致シ候也
  明治十一年十月三十日
                        株主連名印
右第七拾七国立銀行創立証書ハ其株主等書面之通記載約定シタル趣ヲ正実ニ保証スルニ付、其証拠トシテ余ハ玆ニ記名調印シ、併セテ当庁ノ官印ヲ鈐シ候也
  明治十一年十一月一日
               宮城県令 松平正直(印)
 宮城県印

右ハ第七拾七国立銀行創立証書ノ正写ニシテ、其本紙ハ正ニ之ヲ当省ニ受取リ、其事ヲ承認シタル証拠トシテ、余ハ玆ニ記名調印シ、併セテ当所ノ印章ヲ鈐シ、以テ其銀行ヘ下付スルモノ也
  明治十一年十一月七日
               大蔵卿 伊藤博文(印)
 大蔵省印


(芝崎確次郎) 日記簿 明治一五年(DK050066k-0005)
第5巻 p.299 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記簿 明治一五年
七月三日 晴
今朝泊明ケ無事
主君ヨリ被命仙台第七十七銀行江来ル、九日株主惣会欠席遠藤敬止殿ヘ委任状添依頼状差出候事
午後三時半退散帰宅


渋沢栄一 日記 明治三六年(DK050066k-0006)
第5巻 p.299 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三六年
六月三十日 晴
○上略第一銀行ニ抵リテ午飧ス ○中略 日下義雄氏来リテ七十七銀行業務改良方針ニ関シ其調査書類ヲ以テ得失ヲ討議ス ○中略 五時再ヒ第一銀行ニ抵リ仙台七十七銀行整理ニ関シ平岡書記官、早川市長、遠藤頭取大森監査役等ニ会話ス、佐々木支配人同席ス ○下略


渋沢栄一 書翰 佐々木勇之助宛 (明治三七年)一〇月二二日(DK050066k-0007)
第5巻 p.299-300 ページ画像

渋沢栄一 書翰 佐々木勇之助宛 (明治三七年)一〇月二二日 (佐々木家所蔵)
○上略
七十七銀行始末ニ付而ハ其後神谷へも詳細ニ申示し大野ニも面会し最後之整理方案早々提出候様督促中ニ候、大野申出候処ニてハ必至苦配いたし相当之見込差出可申との事ニ候、又盛岡支店譲渡之事も其後大蔵省ヨリ催促も有之候ニ付同様大野へも内示し、見込為申出或ハ御帰京前ニても兼而御考置之方法位ニ行届候ハヽ譲受決行為致度と存候、是ハ当方ニ差急候義ハ無之候も県知事より頻ニ大蔵省へ申立候由ニ付
 - 第5巻 p.300 -ページ画像 
余呈稽延せハ七十七ニ取り或ハ不利益かと存候為ニ御座候、御聞置可被下候
右等拝答旁当用申上候 匆々不一
  十月廿二日
                      渋沢栄一
   佐々木勇之助様
         拝復
○下略


渋沢栄一 書翰 佐々木勇之助宛 (明治三七年)一一月二日(DK050066k-0008)
第5巻 p.300 ページ画像

渋沢栄一 書翰 佐々木勇之助宛 (明治三七年)一一月二日 (佐々木家所蔵)
  明治卅□《(欠)》年十一月二日
○上略
七十七銀行之事ハ今以改定之整理方針差出不申日々催促仕候、然るニ盛岡支店引譲之事ハ大蔵省ヨリ日本銀行へ催促有之候由ニ付、御留守中ニハ候得共西脇と申談し、曾而御見込被成候位之方法ニて即今譲受交渉中ニ候、近日村井又ハ太田清助出京候ハヽ東京之小野と申取締役と協議して決定候筈ニ候、七十七之方ハ大野ヨリ依頼之旨既ニ申出有之候義ニ御座候
○中略
                      渋沢栄一
   佐々木勇之助様
         梧下
○下略


渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛 ○(明治三七年)一一月四日(DK050066k-0009)
第5巻 p.300-301 ページ画像

渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛 (株式会社第一銀行所蔵)
 ○(明治三七年)一一月四日
其後ハ御清適奉賀候、然者過頃御出京之節縷々申上候七十七銀行現任之重役方より提出すへき同行整理ニ関する覚書之修正ハ爾後貴台より御督促被成近日差出候運ニ相成候哉、右ニ付而ハ此程も西脇氏ヨリ書通御促申候筈、又大野頭取も過日貴方へ出立前ニも帰京後にも面会いたし、老生ヨリ詳細申談し同氏も充分領意之様子ニハ相見へ候得共、今以御送付無之ニ付為念更ニ申上候
又右修正覚書提出ニ付而ハ貴方ニ於て県知事書記官及早川市長之諸氏へも篤と御聞合被成、諸氏ニも同意いたし将来充分之助力致候御意念ニ候哉、其辺能々御聞糺可被成候、而して此修正ニ付而之眼目ハ例之遠藤氏死去之前後ニ発覚せし三拾弐万円余と六万円之不始末を如何ニ償却之途相立候哉と申点ハ尤以現任者之今日及将来ニ於る尽力ニ出候事と存候ニ付、其辺別而御注意被成、可成丈明瞭確実之目込申出候様御引合可被成候
先頃来再三申上候如く貴台之立場ハ当事者ニハ無之、単ニ本行ニ於て後援者と相立候為メ、七十七之行務監督候まてニ付、其位地御取違無之様可被成候、さり迚日常之事務取扱上ニ付而ハ余り条理ニのミ拘泥せす便宜之助力いたし候も差支無之候得共、根本違却候而ハ主義ニ齟齬いたし候次第ニ付、常々御注意可被下候
 - 第5巻 p.301 -ページ画像 
七十七銀行盛岡支店を盛岡銀行へ譲渡之義ニ付而ハ過日老生と西脇とニて種々相談相試是非都合能相運候様為致度と存候、本月初旬村井弥兵衛又ハ太田支配人出京候ハヽ落着を見可申歟と存候、御含可被下候右一書申上度 匆々不一
  十一月四日
                      渋沢栄一
   神谷義雄様
       梧下

渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛 ○(明治三七年)一一月一四日(DK050066k-0010)
第5巻 p.301-302 ページ画像

 ○(明治三七年)一一月一四日
  尚々盛岡支店引譲之事ハ稍都合能決了仕候、委細ハ大野氏より御聞取と存候也
貴方本月十日附御状十二日落手拝見仕候、然者七十七銀行新整理方案提出之事ニ付而ハ兼而貴兄より知事、書記官及早川氏へも御相談被成三氏とも疾く了諾ニ候得共大野氏不在之為延引相成候由承知仕候、然処大野氏ニも今日東京出立貴地へ罷越候ニ付昨朝も拙生面会之上篤と申談置候間、着早々充分御協議被成、兎ニ角精細ニ調査いたし、稍確実と見込相立候処を以て御差出被成候様御心配可被成候
遠藤遺族之財産取立方及大野其他之人々より欠損額ニ償却之方法ハ如何様ニ取纏可申哉、大野氏抔も口ニハ飽迄も尽力いたし所有之資財ハ蕩尽するも七十七之存立を謀ると申居候得共心実如何ニ候哉、損失高莫大ニ付其補償方も頗る困難と存候
小倉、中山其他之人々無責任之行為のミニて御困却之由実ニ沙汰之限と可申始末と存候、右様没理漢ニてハ将来とても到底安心仕兼可申ニ付、もしも新整理ニして見込相立向後持続と申場合ニハ盛岡之飯田ニても本店ニ任用候而ハ如何と存候、是ハ大野も過日申居本店か又ハ東京支店杯ニ慥成人物必要と被申候間、飯田ハ或ハ可然歟と答置申候、幸ひ盛岡支店之事ハ譲受之引合約束相済候間品ニ寄引継前ニても主任者を移転せしめ候義ハ出来可申歟と存候、尚大野抔御打合可被下候
大森之事ハ必要無之旨、過日大野も申出貴兄ヨリも来書有之早川氏同意之由ニ付別ニ異見無之と相答候得共、もし前陳之如く誰も慥成事務者無之時ハ、終ニハ貴兄抔ニて当務取扱候様相成、毎々拙生ヨリ申進候主客処を替候様相成可申ニ付、大野氏ニ於て向後直ニ負担致候念慮ニ候ハヽ篤と御掛合被成、本店ハ誰々、東京支店ハ某と申振合ニ一二稍安心すへき人物之配置必要ニ存候、但夫とても将来持続し得る見込有之候哉之先決問題相定候上之義ニ付、第一ニハ七十七銀行之命脈存続如何を充分ニ御考究被成候義専一ニ御坐候、此点ニ付而ハ昨日大野氏へ厳格ニ申談置候間呉々御聞合可被下候
来書ニ有之候尚又不始末相顕候との事ハ実ニ奇怪とも可申程ニて、是迄何故右様之事共発見し得られさる訳に候哉、余り同行之計算上不整理之極ニて普通ニハ理会致兼候義ニ御坐候、既ニ再三右様之不都合発覚いたし候上ハ、当方ハ豪も気之毒抔之婆心ハ無之と存候、乍併縦令向後五七年株主へ利益配当抔ハ出来不申候とも、兎も角も其命脈ハ維持いたし可申見込相立候義ニ候ハヽ今日見放し可申訳ニハ無之、其辺
 - 第5巻 p.302 -ページ画像 
能々御注意被成、貴兄ニ於てハ詰リ当行より派出せし人ニ付、呉々も其位地御蹈違無之義肝要ニ候間御心掛可被下候
来書中優先株募集云々抔ハ弥以整理方法相立可申と見込相定候上之義ニて、是等ハ決而当行抔より発言すへき事柄ニ無之ニ付御差扣可被下候、詰る処此度之不都合之原因をも篤と推窮し、是迄之分と共ニ其償却之途相立候哉否を突留、其上ニて現在之資力ニて如他なる繰合方を為して得失相支へ、幾分之剰余相生候見込有之候哉を確ニ見定め、而して其方針ニ従て経営いたし候順序相立候外無之と存候、当行ハ此将来之経営ニ関し常ニ監督致候義ニ付、右等之権義分界能々御領意被成御引合可被下候
右ハ御答旁早々如此御坐候 不一
  十一月十四日
                      渋沢栄一
      神谷義雄様
          拝答
  神谷義雄様 親展 渋沢栄一
  十一月十四日


渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛 ○(明治三七年)一一月二六日(DK050066k-0011)
第5巻 p.302 ページ画像

 ○(明治三七年)一一月二六日
本月廿日附貴翰ニ対してハ別ニ御答差出可申候得共、先刻も本店ニて西脇ニ打合せ同人書状中ニも申上候県知事田辺氏へ御伝言之事ハ可成丁寧ニ御申述被成、県庁及市役所等ニて向後七十七銀行ニ対する救護之御見込篤と御聞合被成度候、到底昨年之整理案ハ反古と相成今日修正案提出無之ニ付、第一銀行ハ補助も添心も見込相立兼候場合ニ候間其辺能々御申立可被成候、もしも此上官庁も重役も株主も真実ニ改正整理之念無之時ハ、弊行も手を引候外無之と存候ニ付、右等も無遠慮御申述可被成候、又大野氏へハ東京ニても懇々申談候儀ニ付、整理案差出方今一応厳重ニ御引合被成、何日迄ニ差出候哉御確メ可被下候
盛岡国庫金譲受之事ニ付而ハ日本銀行ヨリ内示も有之候間早々書面差出候様重役へ御掛合可被成候、同時ニ盛岡銀行ハ引受出願可致筈ニ付貴方ヨリ取扱御願と共ニ盛岡ヨリも書面差出候方と存候、右ニ付而ハ拙生ヨリ太田総六《(太田惣六)》へ書面ニて申通置候ニ付、貴方ヨリも御打合被成候右者本店ヨリも書通之筈ニ候得共為念一書申進候 匆々不備
  十一月廿六日
                      渋沢栄一
   神谷義雄様
       梧下
   尚々早川氏へも宜敷御伝声可被下候也

渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛 ○(明治三七年)一一月二九日(DK050066k-0012)
第5巻 p.302-303 ページ画像

 ○(明治三七年)一一月二九日
貴方十一月二十日附御状ハ翌日落手拝見仕候、益御清適御勉務之由抃
 - 第5巻 p.303 -ページ画像 
賀之至ニ候、老生も引続き日々出務罷在候御省念可被下候、然者七十七銀行整理方案修正提出之義者今以相運不申候由、実ニ同行重役諸氏之怠慢ハ只々驚入候のミニ御座候、其上二十日附御状ニ相添候計算書ニて相考候時ハ、如何ニ将来を努力するも詰リ収入と経費と僅ニ相償候位ニ相見へ到底整理改良之望も無之様被存行末之処直ニ不安心千万ニ御座候、但先頃遠藤氏死去之際発覚せし不都合之金額ニ付、もしも充分之弁償方法相立且貸金中滞りと見込候分ニ幾分之回収ニても出来候ハヽ格別なれとも、今日之処右等も引当ニハ相成申間敷と存候、乍去目下之順序として一日も早く右整理案提出為致、其上県庁市役所等之幇助見込並重役一同株主等之覚悟承合之上ニて何分之決案相立候外無之と存候間、呉々も右之手続御督促被成、五七日間ニ是非相運候様御取斗可被下候
平岡書記官転任之義ニ付御申越之段拝承、其中出京ニ候ハヽ面会之上相談も可致候、又其代リニ相立候株主中之三名ニ付而ハ過日知事へ向一書差出置候間、尚貴兄ヨリも三氏之決意篤と御聞合之上御申越可被下候
大野氏ハ仔《(孜)》々勉力之由至極之事と存候、右様尽力之際ニ督責的之義申通候ハ御気之毒ニ候得共、前段整理案提出之事ハ、能々御引合可被下候
盛岡支店引継相纏候上飯田を本店ニ任用云々ハ篤と大野頭取ニ御相談被成候方と存候、東京支店としても今日之儘にてハ安心ハ致兼候哉ニ存候、夫是御協議可被成候
大森氏之事ニ付御申越之段承知いたし候、出来得るなれハ此人こそ本店ニ従事候様致候而ハ如何哉、尚大野氏又ハ早川氏と御相談可被下候再応之欠損金も三拾万円ニ登り可申旨承り申候、実ニ如何之取扱方ニて、右様ニまて不始末ニ不始末相重候候哉、通常之思想ニてハ理会し能ハさる次第ニ御座候、右不都合之次第及計算書、詳細ニ御推窮有之度候
過日県知事ニ対する老生ヨリ之答書ハ写封入せしニ付、御一覧之上夫夫上申之事と存候、其来書ハ余程平穏無事楽観ニ相見へ候ニ付、右様回答せし次第ニ候間、御含之上尚能々事情御申述可被成候、右等此程一書差上候得共来示之詳答として更ニ申上候 匆々不一
  十一月廿九日
                      渋沢栄一
   神谷義雄様
      梧下

渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛 ○(明治三八年)三月四日(DK050066k-0013)
第5巻 p.303-304 ページ画像

 ○(明治三八年)三月四日
爾来益御清適奉賀候、然者七十七銀行其後之営業振は如何之摸様ニ候哉、先頃株主総会も無事ニ相済重役改撰見込之如く行届候ニ付而ハ今日之処幾分カ面目相改候点も可有之事と存候、而して株主も向後之無配当を覚悟せし由、一方ニハ預金者之動揺も懸念仕候得共、是以格別之影響無之趣重畳之事ニ御坐候
大野氏も其後出京之由ニ候得共、いまた染々面会不致候ニ付情況詳悉ハ不仕候も先引続き別条無之摸様ニ候哉、但滞貸ハ勿論不安全之貸金
 - 第5巻 p.304 -ページ画像 
取立方ニ付而ハ兼而差出候方針ニ従ひ精々整理被成候と存候
県知事も昨今御出京ニ候得共取込中御訪問も不致候、両三日間ニ一寸拝眉之積ニ候、早川君ハ不相替添心致呉候事と存候、此両三年間之整理尤以肝要と存候ニ付、引続き御助力被成下候様尚御打合可被成候
東京支店之取締方ハ先頃より不充分と相考佐々木氏とも申談大野氏へも話合候事有之候、右ハ如何処分被成候御見込ニ候哉承リ度候
右者敢而突然御問合と申ニハ無之候得共、此程御懇書ニて貴方御土産之味噌御恵贈被下候御回答之序、却而平生懸念罷在候行務之近況承知仕度一書申上候義ニ御坐候 匆々拝具
  三月四日
                      渋沢栄一
   神谷義雄様
       梧下
  尚々貴台之御勤務も是迄と別条なく不相替内外之事務を総括し、且整理方針ニ従ひ百事御経営相成候義と安心仕候是又為念相伺候也
  仙台市北壱番町三五 神谷義雄様 親展 東京 渋沢栄一
  三月四日


渋沢栄一 日記 ○明治三八年(DK050066k-0014)
第5巻 p.304 ページ画像

渋沢栄一 日記
 ○明治三八年
四月十六日 曇 風ナシ
○上略 八時朝飧ヲ畢ル、食後盛岡小野敬三、太田小四郎二氏来ル、七十七銀行ノコトヲ談ス〇下略

渋沢栄一 日記 ○明治四一年(DK050066k-0015)
第5巻 p.304-305 ページ画像

 ○明治四一年
三月二十五日 曇 軽寒
○上略 仙台七十七銀行熱海孫十郎氏ノ来訪ニ接ス○下略
四月十五日 曇 夕雨 寒
○上略 三時第一銀行ニ抵リ亀井宮城県知事ノ来訪ニ接シ、七十七銀行ノコトヲ談話ス○下略
四月二十七日 雨 暖
○上略 第一銀行ニ抵リ○中略 薄井佳久氏ノ来訪ニ接シ早川知寛氏来リ、七十七銀行ノコトニ関シ種々ノ談話ヲ為ス○下略
四月二十九日曇 軽寒
○上略 仙台早川知寛氏第一銀行ニ来話シ、佐々木氏ト共ニ仙台七十七銀行ノコトヲ談ス
六月十八日 曇 又雨 暑
○上略 七十七銀行ノコトニ関シ要務ヲ内議ス
七月六日 雨 冷
○上略 午前十時第一銀行ニ抵リ宮城七十七銀行ノコトニ関シ西村渥美二
 - 第5巻 p.305 -ページ画像 
氏ト談話ス
八月十二日 朝雨夕雨 暑
午前五時半頃岩沼駅ニ抵リテ起床、六時過仙台停車場ニ抵ル、是ヨリ先七十七銀行神谷氏迎ノ為来リ会ス、種々ノ要務ヲ談ス○下略
九月五日 曇 冷
○上略 午前十一時発ノ汽車ニテ仙台市ニ向ヒ十二時仙台着、停車場ニハ市長早川氏其他多人数来リ迎フ、停車場ニテ家人ト分レ土岐其他七十七銀行諸氏ト共ニ同行ニ抵リテ行務ヲ談ス ○下略
九月十七日 曇 涼
○上略 土岐僙氏ト七十七銀行経営ノコトヲ談ス ○下略


渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛(明治四一年) ○五月五日(DK050066k-0016)
第5巻 p.305 ページ画像

渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛(明治四一年)(株式会社第一銀行所蔵)
 ○五月五日
爾来益御清適御坐可被成奉賀候、然者貴方其後之御営業振ハ如何之摸様ニ候哉、日々嘸御心配之事と存候、就而頭取後任者之事ハ過日亀井知事御滞京之際縷々御打合申上早川氏東京帰着之上ハ知事公と共ニ小生も切ニ勧告し是非承諾為致度と存候処、時日延引候中亀井君ハ御帰任と相成、其後早川氏東京帰着ニ付第一銀行ニ於て佐々木氏と共ニ会談し切ニ勧誘いたし、甚しきハ佐々木氏より少々強迫的ニ相談せしも何分同意無之、引続き富田翁ニ小生より懇々申談、同翁も切ニ相勧候も均しく応諾せす、一昨日ハ弥早川氏も帰県之由ニ付王子拙宅ニ於テ会見之上再三再四懇談せしも決意致兼候由ニて、兎ニ角帰県早々知事及市長又ハ現任重役之方々とも篤と熟談之上第一銀行ニ於て安心相成候様之方法相立申度と申事ニて相分れ申候、小生ハ前後数回早川君へ申談ハ、もしも貴兄ニして御断と申義ニ候ハヽ、小生も七十七銀行ニ対する情義ハ最早謝絶致候も不人情とも不徳義とも相考不申候ニ付同様手を引可申と切言仕候義に御坐候、就而ハ昨日ハ早川君も仙台帰着と存候ニ付、早々亀井知事へ御申上被下、是非御説得相成候様此上之御尽力頼上候、実ニ今日之処ハ七十七銀行ニハ主人無之姿ニて、第一ニても小生ニ於ても此上援助之途無之と申候ハ決而無理ならぬ次第、能々知事公へ御申陳可被下候、右一書可得貴意如此御坐候 匆々拝具
  五月五日
                      渋沢栄一
   神谷義雄様
       梧下
  「宮城県仙台市七十七銀行」 神谷義雄様 親展 「東京兜町」 渋沢栄一
  五月五日
 - 第5巻 p.306 -ページ画像 

渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛(明治四一年) ○六月二日(DK050066k-0017)
第5巻 p.306 ページ画像

 ○六月二日
五月廿九日附貴翰拝見仕候、其後盟兄益御清適之条抃賀之至ニ候、然者早川知寛氏を七十七銀行頭取ニ推薦之事ニ付而ハ、亀井知事殿始貴方重役御一同種々御尽力被成候得共、本人頑乎と拒絶せられ、爾後再三之会見ニ於て談話せし摸様ニてハ、当初本行へ依頼致候際之事共まて忘却せし言語ニ相聞へ、頗る違却之趣承知仕候、此上ハ最早致方無之ニ付他ニ方法相考候外無之と存候得共、知事及現重役之方々ハ如何ニ御考被成候哉、其精神も予め承置申度と存候、兎ニ角当銀行ニ於ても篤と熟案之上後々之処まて審思を要し候義ニ付、内々重役中之評議を尽し、近日何分之義申上候様可仕と存候、就而ハ此上ニ早川氏と過激之御議論被成候も却而将来之利益とも相成申間敷ニ付、厳談ハ御見合之方と存候、いつれ其中再応可申上候得共、一応拝答如此御坐候
                                       匆々不備
  六月二日
                      渋沢栄一
   神谷義雄様
      拝答
  尚々亀井知事ヘハ宜敷御伝声頼上候也
  「仙台市七十七銀行」 神谷義雄様 親展 「日本橋区兜町」 渋沢栄一
  六月二日