公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2025.3.16
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明治33年4月8日(1900年)
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株式会社黒須銀行顧問役ニ推薦セラル。明治三十五年六月辞ス。
黒須銀行史(DK050080k-0001)
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黒須銀行史
○第六〇頁
一五、顧問役
推薦年月日 辞退年月日 住所 氏名
明治三十三年四月八日 明治三十五年六月 東京 男爵渋沢栄一
同 横浜 大谷嘉兵衛
同 東京 長井利右衛門
同 豊岡 繁田満義
○第一九―二一頁
創立事情
○上略 銀行設立の議幾多の波瀾を起して決定するや、資本金を五万円とし貯蓄専門といふ案がたてられ、それぞれ準備を整へたが、新商法実施の期が眼前に迫つて居たから出願を見合せて居つた。恰もよし実業界の泰斗渋沢男爵が尾高惇忠氏と用務の序繁田家を訪れられた。繁田翁は好機を逸せず銀行設立のことを語つて高教を仰ぐと、男は其の挙を喜ばれて、貯蓄一方よりは普通の銀行にして貯蓄を兼設するの利なることを教へられ其他種々指導の光を与へられたのである。翁はそれより第一銀行に至りて其の営業状況を視察し、且つ永井利右衛門氏大谷嘉兵衛氏等実業界《(長井利右衛門)》の名士を歴訪して新知識を得、愈資本金を拾万円として株式の募集に着手したのは明治三十二年八月のことであつた。
○中略 二月十一日の紀元の佳節を卜して創立総会を開き、○中略 渋沢男爵、大谷嘉兵衛氏、長井利右衛門氏の三大家は当銀行の顧問役たることを快諾せられた。○下略
○黒須銀行ハ埼玉県入間郡豊岡町大字黒須ニアリ、明治三十三年二月十一日資本金弐拾万円ヲ以テ組織シタルモノニシテ、取締役頭取ハ発智庄平、常務取締役ハ繋田武平ナリ。
靄湲遺響 第五〇―五六頁〔大正一一年二月〕(DK050080k-0002)
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靄湲遺響 第五〇―五六頁〔大正一一年二月〕
一八、銀行の創立 其の一
翁○繁田満義の光輝ある生涯中、其の晩年を飾るの大成功は、夫れ黒須銀行の創立にあらんか。社会の道徳を振興せしめんがために、日本弘道会黒須支会を設立し、勤倹の美徳を涵養せんがために、黒須信用組合を組織したることは、既に前に述べたる所なり。黒須信用組合の事業が、予期以上の好果を収め、第二期の末に至りては万金に垂んとする巨額に達しぬ。翁熟々思へらく、若し之を前例によつて払戻さんか、折角の辛労も水泡に帰し、所謂『爪で拾つて箕でこぼす』の失態に陥らんこと、火を賭るよりも明かなり。如かず百尺竿頭一歩を進めて、信用組合の蓄積金を基拠とし、一の銀行を設立し、以つて民福を無窮ならしめんにはと。乃ち明治三十二年二月、役員会を自邸に開いて之を謀る。各々の顔は揃ひ座は定まりぬ。翁は一座を見渡し、徐に口を開いて曰はく、
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『諸君の御尽力で、相助組合も今日の隆盛を見ました、誠に御同慶に存じます。そこでこの蓄積金の始末ですが、成功不成功の岐るゝ所、慎重なる考慮を要するものと思ひます。抑々金なる者は正宗の名刀と同じく一の魔物であります。之を巧に用ふればよいものゝ、若しその使用を誤らんか、恐るべき結果となるのは明であります。今仮りに蓄積金を払戻すとすれば、恰も鞘なしの名刀を懐に入るゝと同じく、其の害は測られません。斯ることは断じて不可であります。依つて之を銀行といふ鞘に収め、利用の方法を講ずるが万全の策と思ひます。どうぞ御賛成の程を願ひます。』
銀行設立説は提出せられぬ。衆黙して言なし。偶々火鉢に上る灰神楽は是何の兆ぞ。暫くして座中に声あり。曰はく、
『銀行設立の御説は一応御尤の様に伺ひます。併し昔から「創業は易く守成は難し」とか申して、何事も迂濶には手が下されません。銀行を立てゝも後の生立ちが思はれます。馴れぬ仕事に指を染めるよりも、まあまあ懐手をして居た方が怪我はないと思ひます。皆さんどうです。』
甲某は先づ反旗を翻しぬ。
『いや御尤です。金融界は舟乗りと同様、何時どんな狂瀾が起つて舟ぐるみ魚腹に葬られるか知れません。夫に黒須の様な寒村には、銀行などは無用の長物です。』
乙某は忽ち之に左袒したり。
『如何にも、扇町屋や入間川には既に儼然たる銀行があるではありませんか、地の利を失つた上に時の利も失つて居ます。新に銀行屋を開いても繋昌の見込は立ちません。』
丙某も亦之に賛意を表したり。衆説悉く我に非にして、四面皆楚歌の声ならざるはなし。翁は如何にしてこの孤城落日の頽勢を挽回したるか、請ふ左の言を聞け。
『凡そ事業の要とする所は目的の公明正大なることです。将に雲の如く消え霧の如く失せんとする金員を、利用し活用して天下公衆の便益を謀らうとするのであれば、其の目的の正しきことは論を待ちません。又事を創むるには、須く我を勤めて彼を待つがよい。我に信義あり深切あり、彼我相助を本位とし、自他共利を主義として、著々事に従ひ、不屈不撓の精神を以つて之を貫けば、如何なることでも成らぬ筈はありません。成程今日の状態では、黒須に銀行は少しく物過ぎませう。併し将来は、必ず銀行の必要を見る時があります。私は必要に迫られてから設立せず、必要の前に設立して社会を指導したいのであります。銀行経営の上には、雨もありませう風もありませう。併し信義を笠とし勤勉を蓑とすれば安全です。私は雨や風を恐れて、地方開発のよい旅立を思切ることは出来ません。』
確乎たる信念は其の語気に現はれたり。加ふるに論旨精覈にして事理明徹なりしかば、他の役員も漸次に銀行設立の可なるを認知し、遂に黯雲は一掃せられて、翁の持論は役員の協賛する所となれり。爾来翁は創立の準備に着手し、之を先輩にたゞし、之を学者に聞き、東奔西走これ日も足らざりき。最初は資本金五万円の貯蓄銀行設立の案を立
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てゝ、之が認可を申請すべく準備を整へたりしが、折しも新商法実施の期日が眼前に迫れるを以つて、暫し出願を見合せぬ。恰もよし実業界の泰斗渋沢子爵は、尾高惇忠氏と共に展墓の途すがら、車を列ねて繁田家を訪れたり。翁は話次銀行設立に就き教を請ひたりしかば、子爵は大に其の挙を賛し、且つ曰はく『資本金五万円位の小銀行は、却つて維持経営に困難なれば、寧ろ拾万円の貯蓄銀行に改むるが得策ならん。』と、諭されぬ。翁は尚上京して男の経営に係る第一銀行、及び其の他の大銀行を視察して智見を広め、尾高惇忠・永井利右衛門《(長井利右衛門)》・大谷嘉兵衛等の諸家、何れも銀行業の耆宿実業界の重鎮に就きて意見を叩き、有益なる智識を齎して帰れり。準備既に遺漏なし、是よりは株主の募集に移らざるべからず。翁は胸中既に成算ありたりとはいへ、蓋を開かされば実際は別るものにあらず。明治三十二年八月の盛夏を物ともせず、諸方の資産家を歴訪して賛成を求め、朝は草鞋を穿ちて出で、夕は提灯に路を照して戻りぬ。案ずるより生むは易く、募集の結果は意外の好成績にて、二千株の募集に対し、期限内に早くも五千九百余株の多を算し、尚応募者は後るゝを恥づるが如き盛況を呈しぬ。是翁の信用厚き結果に非ずして何ぞ。斯の好況に対して、発起者中に資本金増額説を出し、或は三十万といひ、或は五十万と叫ぶ者あるに至る。翁は復其の軽挙を戒め、二十万説を出して、遂に満場一致の賛成を得たり。乃ち、貯蓄銀行を改めて株式会社黒須銀行と称し、十七万円を普通部とし、三万円を貯蓄部に充て、同三十三年二月十一日、紀元節の佳辰を卜して創立総会を開き、二月十七日大蔵大臣の認可を得、同二十八日川越区裁判所の登記済となり、三月五日桃の節句を喜ぶ時、目出度も営業を開始するに至れり。翁の神智妙算悉く当り、黒須銀行の発展は記録を被り、明治四十二年四月には、先の見る蔭もなき営業所を改築して、石礎瓦屋二階建の屋舎となし、地方銀行には双ぶものなき偉観を呈せり。其の他営業区域を拡めては、所沢出張所の外、川越・入間川・松山の三支店を設け、増資を決行しては七十万となし、更に三百万と発展するなど、とんとん拍子の盛況を呈せり。大正九年二月に行ひたる増資の如きは、熱狂的の歓迎を受け、新株一株に付、四十八円以上のプレミアムにて募入したるなど、田舎の銀行としてはレコードを破りたるものなり。此の盛況を呈せる所以のものは何ぞ。この歓迎を受けたるものは何ぞ。資本金が勤倹の徳より起り、株主が道徳会員たることは絮説するを用ひず。信義を守り親切に取扱ふ営業振も亦然り。尤も主なる原因としては、道徳と経済とを同径同路に伴はしめんとする主義主張あればなり。尚率直にいへば、翁といふ勤倹宗の本尊様が、その奥に控へ込んで居ればなり。世人称して道徳銀行といふ。真に知言といふべきなり。