デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
6款 択善会・東京銀行集会所
■綱文

第6巻 p.662-670(DK060171k) ページ画像

明治39年8月7日(1906年)

銀行倶楽部第五十二回晩餐会開カル。栄一招カレテ出席シ一場ノ韓国視察談ヲナス。


■資料

銀行通信録 ○第四二巻第二五〇号・第一八五頁〔明治三九年八月一五日〕 銀行倶楽部第五十二回晩餐会(DK060171k-0001)
第6巻 p.662-663 ページ画像

銀行通信録
 ○第四二巻第二五〇号・第一八五頁〔明治三九年八月一五日〕
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    ○銀行倶楽部第五十二回晩餐会
銀行倶楽部にては八月七日午後六時より此程韓国視察を終へて帰京せる第一銀行頭取渋沢男爵、同行韓国支店総支配人市原盛宏及新任日本興業銀行副総裁佃一予の三氏を招待して第五十二回会員晩餐会を開き開食後豊川良平氏《(マヽ)》の挨拶に引続き前記三氏の演説あり、夫より別室に於て歓談の上午後十時散会せり

銀行通信録 ○第四二巻第二五二号・第四七四―四八〇頁〔明治三九年一〇月一五日〕 韓国所感(銀行倶楽部晩餐会席上演説) 男爵渋沢栄一(DK060171k-0002)
第6巻 p.663-669 ページ画像

 ○第四二巻第二五二号・第四七四―四八〇頁〔明治三九年一〇月一五日〕
    ○韓国所感(銀行倶楽部晩餐会席上演説)
                     男爵渋沢栄一
諸君、只今会長から前置の御言葉が大分厳でございまして立ちまして御話をすることは大に躊躇せざるを得ぬのであります、併し老人を犒はる情からして七十に近い身を以て遠方へ旅行をしたと云ふ余程慰籍の御言葉でございましたから左様な老人であれば軈て朝に杖くと云ふ年であるので、少々の過失も少々の言語の不調も総て御許し下さるであらうと思つて不遠慮にも立上つて相も替らず至つて古臭い至つて汚ない朝鮮談を御聴きに入れるやうに致します、私が朝鮮談を申上げるよりは寧ろ佃君の支那談を先へ伺ふ方が諸君に大に利益が多からうと思ひますが、併しどうも話と云ふものは先に面白いのを聴いて後にまづいのになると云ふことは余程困る、御覧なさい、総ての事物が先輩を先に立てるに拘らず此聴問に関係することは一番上手が後になる、即ち真打と云ふのが一番名人のすることである、故に私が先に立つたのは年をとつて居るとか先輩であるとか云ふ意味でなくして朝鮮の御話が諸君に興味少ないことであるから前坐として勤める、斯う御解釈を願ひます(ノーノー)
私が朝鮮に参りましたのは前後三回でございまして丁度明治三十一年から九年迄に三度の旅行を試みましてございます、此中には大分朝鮮旅行をなすつた方がある、縦し又御出がございませぬでも朝鮮と云ふ国の概況を御知りなさらぬ銀行者は殆ど御一人もあらう筈がない、故に朝鮮の有様を精しう申上げて見た所が実は諸君の書物若くは新聞で散見したより余計に申上げることは出来ませぬが、唯此朝鮮に三回旅行したに付て其時々感情が異つたと云ふだけは新聞でも書物でも御覧になり兼ねる所があらうと思ひますのでそれ等の感情の変つた有様だけを申上げます、未来の朝鮮を如何にするとか云ふことに付ては斯る老人が彼是申すよりは丁度此処に第一銀行に於て朝鮮支店の主任に任じて専ら朝鮮経営に当つて居る市原盛宏氏が参つて居りますから将来の抱負は同君から申上げるでございませう、依て私は現況を述べて自分の責任を尽さうと思ふのであります、扨其三度参つた旅行が如何なる有様であつたかと云ふと最初に参りましたのが三十一年の四月二十日に出発致しましたので、釜山に参り仁川に参り夫から京城に這入つた、釜山に参りました時には至つて日本に近い所の都会であつて九州当りに在る開港場にでも参つたやうな心持が致しました、是は三度の旅行に付いて左程大なる感想を変へると云ふ程ではございませぬけれども、矢張初めと今度とで比較しますと草梁より汽車が発すると云ふ事、埋立地が完成したと云ふ事、倉庫が出来たと云ふ事、桟橋が架せ
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られたと云ふ事其他種々の有様から見ましても大に変りました、殊に仁川から京城に参りますに付いて三十一年の旅行は例の朝鮮轎に乗つて参つたのでございまして朝暗い中に仁川を発して日の没する頃に漸く京城に這入る、或は其間に轎に振落されて腰を痛めたと云ふ滑稽談もある位でありまして以て旅行の困難を察するに足ります、殊に其時は京仁鉄道の線路が工事中に係つて居りましたから旅行旁ら其線路の工事を視察すると云ふもので通常の道を参らず線路を旅行致しました故、別して其道が嶮悪であつて其為めに大に時を費やして日が暮れてから京城に達することを得ましたが、而も其日は雨後であつて泥濘中を夜中旅行して大に困難を致しましたのを記憶して居ります、殊に途中も汚なし京城に這入ても真暗である、朝鮮旅行と云ふものは暗黒世界であると云ふ程の感を以て旅行を致しました、唯仁川と京城との間には鉄道を通ずると云ふ吾々の計画がありましたから、今に見ろ此道をしてずつと汽笛一声で旅行が為し得らるゝであらうと朝鮮の轎に乗りながらも、聊か将来の企望を蓄へて居ると云ふやうな旅行に過ぎませぬ、其時には京城だけで北部には参りませぬから朝鮮の都会には二三経過致しましたけれども、僅に或る部分の朝鮮人に接し或る部分の朝鮮の土地を見たに過ぎませぬからして決して朝鮮の其当時の真相を知る抔と云ふことは出来ませぬ、殊に丁度二十八年の事変の以後まだ十分に日本の勢力を回復せぬ際でありましたから、政治上の据りも甚だ悪く又朝鮮人の我邦に対する観念も最も疑懼の多い時代でありましたから、此初度の朝鮮旅行と云ふものは往古より長い関係の朝鮮でありながら殊に二十七八年の大戦争をした跡でありながら、如何なれば吾々の力は斯の如く微々として伸びぬものであるかと暗黒世界の旅行者も亦暗涙を呑んだと申しても宜い位でありました、是は初度の旅行で其間に種々なお話がありますが古めかしいことは申上げませぬ
夫から三十三年に参りましたのは第一銀行の関係も多少ありましたけれども、前に申上げました京仁鉄道が丁度三十一年から二年の間に工を竣つて三十三年の八月開通しました、引続いて開業式を致さねばならぬと云ふので十一月出立致して罷越しました、先づ釜山の有様は其前々年に参つた時と大なる相違はございませなんだが、併し三十一年に比べると大に日本の勢力が回復して参りましたからして釜山の土地が吾々を快く迎へるかの如き感を致しました、故に縦令事物の観は大に改まることがございませぬでも多少愉快を以て釜山を通過致しました、続いて仁川に参りますと京仁鉄道が開業致して居りますから、所謂汽笛一声一時間半位で京城に達することが出来ました、此時の愉快さは先年の困難を殆ど取返して尚差引大に利益を得た如くの感念を持ちましてございます、殊に此鉄道は微力ながらも自分が大に骨を折つて、第一に亜米利加人との契約と云ひ其後の事業の経営と云ひ、種々なる困難の際に竣工を致した鉄道でございますから、僅に二十六哩余の鉄道でございますけれども其通過の間は何とも言ひ得られぬ愉快な観念を持ちましたのでございます、今日も尚其時の心地好いと思ふたのは此前の旅行に暗黒世界に這入つたと云ふ苦難を十分に打消したと云ふことを記憶しております次第でございます、そこで京城に到着し
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て京仁鉄道の開業式を挙行し、続いて第一銀行のことに付いても多少経営致しましたが、同時に例の京釜鉄道の布設も其前年に許可を得ましたに依て之を落成せしめたいと云ふので、色々夫れに付ての手続を韓国の官憲に引合ひ、又は我公使にも御打合をし、及び日本から参つて居る居留の人々にも此事業に付ての賛成を乞ふと云ふやうなことに力を尽しました、此時には丁度帰路に木浦に廻つて釜山、仁川、京城以外の一港湾を見ましたが、木浦と云ふ所は余り精う申上げる程の価値の無いと申しても宜しいのであります、但し近頃農業に付て殊に棉花の耕作に付ては木浦も中々軽蔑せられぬと云ふ有様になりさうであますけれども、是は後段に申上げることに致しませう
夫から第三回の旅行が今度でございます、今度参つて見ましては朝鮮が真に面目を改めたと申す程見違へましてございます、先づ第一に釜山に着して見ますると三十三年に経営し掛て居つた、是は私共の手ではございませぬ、他の組合に依つて成立つて居つた埋立地が、其大半落成して其所には桟橋が出来て居る、此桟橋には釜山と馬関の聯絡船がピツタリ着く、汽船からして直様橋を渡して其桟橋へ下りる、夫から埋立地を通つて釜山の市街へ往く、其間には立派な煉瓦造の倉庫が出来して、倉庫会社が開かれて居る、着するや直ぐに彼所へ電話を懸ける、此所から電話が来る抔と云ふやうな訳で真逆釜山から電話があの通りに普く行はれて居るとは思ひませなんだ、所が夜になると電灯も煌々と猶白昼の如く照渡つて居る、而して距離は少しく隔ちますけれども草梁と云ふ所からして京釜鉄道の汽車が出発すると云ふ都合になります、草梁と云ふ所は其前に通行しましたが、洵に荒涼たる一村であつたのが今日では遠くから見ると立派な家が甍を列べて居ると云ふ様な有様である、又竜頭山の東に向つて絶影島に対する市街は三十一年若くは三十三年にも稍々立派であつたが、其西へ廻つた方面所謂竜頭山の裏へ亘つた方には家が疎であつた、然るに今度参つて見ますと立派な町並を為して一杯に家屋を建て連ねて居る、或る部分は宏大な煉瓦家屋なども見へると云ふやうなことである、又学校其他総ての設備が釜山港としては完備して居ると申しても宜い位に整つて居ります、唯一寸見ても厭ふべく思ふのは、白い着物を着して長い烟管を携へたる人がブラブラして居るのである、是れ無くんば宜からうと思ひますが、是れ無くんば朝鮮でないのでありますから拠ないとしなければならぬ
続いて私の今度の旅行は釜山からして京釜鉄道に依つて京城に参りましてございます、此途中或は三浪津、密陽、大邱、続いて鳥致院だとか太田だとか成歓だとか平沢だとか云ふやうな中には相応なる都会もあり、有名な古戦場なども通過して夜十時過に京城に着しました、此日は而も暑い日で塵埃も多く汽車中は随分困難だと言はざるを得ぬでありましたが、左様に暑くても埃があつても自分の心には是位な愉快な感情を持つた旅行はないのであります、日本の鉄道旅行で心地好い例へば山陽鉄道に乗りて最上等の待遇を受け、瀬戸の山水を眺望したよりも尚好い心持がしたと云ふことは、諸君御察し下すつたならば分るであらうと思ひます、京城に着しますると京城の有様も昔日と大変
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に違ひまして、三十三年に仁川から竜山に参つた時竜山の停車場も至つて微々たる有様であつた、永登浦の停車場も甚だ寂寥として居つたと云ふことを回顧しますると実に竜山、永登浦あたりは家屋櫛比と云ふ有様で且つ夜になると灯火の設備がございますから、昔は朝鮮の旅は暗黒であつたが、今日は即ち文明の夜中と言ふて宜い程の立派な市街となり得たのでございます
京城に両三日居つて平壌に参りました、此旅行は例の軍用で竣工された所の京義鉄道に便乗しましたのであります、平壌と云ふ所は今度初めて一覧致しましたが、成程思ふたよりも立派な土地で旧帝都と云ふに耻ぢますまいと思います、第一に地味が大層宜しうございます、市街の設けは京城などゝ比べますると余程狭い、又其構造も規模が小でございます、併し日本人の居留の増しましたことは最も平壌が多いのであります、日露戦争の以前には漸く三百人位であつた平壌が今日は六千人、二年の間に殆ど二十倍を増加し為めに日本市街を新市街と云ふて一区域出来て居ると云ふ程の有様にまで進んで居ります、例の大同江が平壌の町の下を流れて居ります、此江は大陸的の大河であります、唯水の流が緩でありますから余り水が清澄とまで褒める訳に往かない、併し濁水ではございませぬ、而して平壌より上流はずつと断崖になつて居つて清流壁と云ふ地でございます、此流に泝つて例の牡丹台迄舟遊を致して見ましたが其辺の場所は殆ど文人墨客の随分筆を執つて書切れぬ程の事柄があると申しても宜しい、少し文学的に申すと清流壁の牡丹台に近寄つた山の名は錦繍山、大同江の向ふに一の島がありますが夫れは綾羅島、何だか綿繍、綾羅抔と云ふ美人でも其処へ出さうな様子に見えますが、出るものは例の白衣ばかりであります、山の尖端に一の立派な楼があります、立派と云ふても今は殆ど古色掬すべく、塗つた彩色も悉く禿げて居りますけれども、浮碧楼と云ふ一の楼があります、此処から大同江の流域を眺望すると実に蒼茫たるものであります、夫より牡丹台、乙密台、玄武門、箕子廟等色々の名所を一覧致しましたが此名所の中に二十七年の役に戦死した支那の将軍左宝貴の墓があるとか、当時我軍が何れから進んでどう云ふ戦略を以て敵を被つたとか云ふことを聞きますと、軍事に関係せぬ吾々でも過日の京釜鉄道に乗つた時よりは、又更に心地好いやうな観念が致しましたのでございます、平壌と云ふ所は兎に角旧都府で相当な商売があるやうでございます、殊に周囲の土地が至つて地味が良い為めに其近傍の大なる集散地になつて居りますから、追々に繁昌すべきだけの望があるやうです、併し左様に日本人が俄に殖えたと云ふことは其土地の商売が日本人を沢山引附けたと云ふよりは、寧ろ日露戦争の軍事関係が殊に平壌に著るしかつた為めと言はなければならぬ、果して然らば其関係が止んでも其繁昌が継続し得るやと云ふことは一の問題と言はねばならぬ、併し如何にも地味の良いのと土地の関係を以て段々日本人の入込んで参る所の有様が大に進んで往きましたならば、前に申す軍事の関係が止みましても猶其繁昌を維持することが出来ぬものでもなからうかと想像されます、蓋し是等の事は今日断言し能ふことではこざいませぬ、唯其海陸の聯絡は殆ど無いと云ふて宜いやうな有様
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であります、鎮南浦からして陸路十五里の距離があるけれども此道は朝鮮の駄馬ならでは通行が出来ぬと云ふ有様であります、船も大同江の下流は相応に通ずるけれども平壌から二里ばかり河下に浅瀬が沢山あつて容易に大きな船が通ることは出来ぬ、支那「ジヤンク」に似たる朝鮮「ジヤンク」は多少交通して居るが是以て誠に寥々たるものであります、先づ海陸交通運輸の聯絡と云ふものは頓と附いて居らぬ、又附けやうと企つる人も無いと云ふ有様であります、縦令農産のみを主とする場合でも此有様では迚もいけまいと思ひます、是は吾々大に心を用ゐねばならぬことゝ自分は感じましたのであります
夫から大同江を船で下りまして鎮南浦に参りました、是も初めての旅行で、三度参りました中今度初めて経過したのであります、鎮南浦は大同江の河口から二里ばかり上にある港であります、即ち川港であります、山を負ひて川に臨んで居る、地勢も宜しく風景にも富み山には樹木もあつて汚ない土地ではございませぬ、寧ろ朝鮮の港の中では先づ奇麗なと言ふて宜い位であります、規模は小いが随分望のある所と言ふて宜からうと思ひます、併し先づ其辺での都府たる平壌との交通機関が前に申す通りでありますから其他にも近傍に都会があるさうでありますけれども是等との聯絡も附ては居らぬ、唯僅に地方から出て来る米・大豆が貿易品となつて居りますから、内地に於ては道路の改良を図り海に於ては海陸の聯絡を附けなければ将来の繁昌が期せまいと思ひます、併し鎮南浦も昔日に比べると殆ど四五倍の人員が増して其初め山の方から家を造り掛けてあるから、まだ海に向つて良い場所に多くの空地がございまして追々に家屋を建築しつゝあるやうな有様であります、此地は平壌の如く俄か進みがない代りに戦争関係に対して余り困難を感ずる虞れがなくても済まうかと云ふ有様であります
京城の御話を十分申上げませなんだが、京城は此前から比べますと総ての設備が盛になつて居ります、諸役所に於ては現に統監府も立ち、理事庁も立ち総てのものが具備して居ります、独り日本の設備ばかりでない、韓国に於ても多少事物が変つて参りまして、殊に泥峴の近辺は日本の町が昔日から比べると大変に拡がりました、又電灯、電話抔は釜山に申上げたと同じに自由に使用されて居ります、其他或は料理屋でも宴会をするやうな所でも一回は一回より進んで参つて居りますやうであります、唯朝鮮だけに属する家屋、若くは総ての有様が日本のそれ程進んで居ると云ふことは申上げ得られぬのであります、仁川には京城滞在中両三日参つて滞留を致しましたが、是も誠に奇麗な港でありまして、唯此港は潮の干満の強い為に潮の引いた時は甚だ見悪い有様がありますけれども、場所は狭いが方面も好し、而も朝鮮家屋はずつと山の傍の殆ど人の目に触れぬ所にありますから殆んど日本町である、且つ所々に西洋館があり、或る一部に支那町がある、貿易開港場としては朝鮮に於ては第一等に位して居ります、殊に総ての設備も洋食とか宴会とか其他遊戯に属する場所に至るまで寧ろ京城よりは一段を越えて居ると云ふやうな設備で、ナカナカ行届いた奇麗な町でございます、殊に軍事行為として例の月尾島へ一の橋を架しまして約そ一海里以上もあらうと云ふ所をずつと聯絡を附けました、此聯絡は
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他日如何なる方法にするのでありますか、先づ軍事の必要から一時の設けでありませうが、是から先に如何にするかと云ふことはまだ能く私共伺取りませぬが何にせよ大工事であります、牧野と云ふ大佐からの案内に依つて其処へ「トロツク」で一覧を許されまして参つて見ましたが、甚だ愉快でございました、而して此軍事行為としての築港の経営などのことも陸軍では種々考案を尽されて居りますが、まだ併し地方の商売上若くは政治上の考を以て仁川の港を如何にすると云ふ方法は立つて居りませぬ、故に海陸の聯絡は、まだ其緒に就いて居ると言はれぬやうに見ました為めに私は仁川の人に向つて既に軍人間にも斯る考案のあるのに、諸君の間に其論が上らぬと云ふことは甚だ奇異の思を為すと云ふて少し詰る如き一演説をして別れたことでございます、兎に角大に仁川の港が面目を改めたと云ふことは申上げ得らるゝやうでございます
斯様に各所が面目を改めたと申上げて見ますると即ち朝鮮が大層盛になつたかのやうに聞えるが、退いて能く考へて見ると朝鮮が左迄盛になつたのではなくして、詰り日本の繁盛が溢れて朝鮮に流れて来て吾吾が朝鮮に於て盛になつたと云ふて宜しい、朝鮮と云ふ国は余り大なる変化は為さぬのであると云はなければなりませぬ(喝采)、然らば朝鮮は三十一年と少しも変りはないかと云ふ反問を起しますとさうではございませぬ、家屋其他にも多少変化はあるが第一に商工業界に於て考が変つて居る、其変つて居る一例を申上げますると先づ三十一年頃には一切なかつた合本法と云ふものが近頃追々に企てられ、且それ等が細々ながら其業も緒に就いて居るのがございます、即ち漢城銀行と云ふのが数年前から業を開いて微々たるものでございますが昨今では大分盛になつて居るやうであります、又天一銀行、独立銀行、韓一銀行、妙な座頭の名のやうな銀行が沢山出来て居りますけれども、併し是れ等が兎に角資本を合して営業を為すに至つたと云ふのは吾々の徳化が行はれて来たと自慢しても宜いと思ひます、それと同時に昨年から此春にかけて金融逼迫から引続いて生じました手形組合会或は倉庫会社、此会社は庫へ物を入れて居るかと思ふと庫も何にも無い、野天に貨物を積んで居る、倉庫会社でなく野天会社と言つても宜い、其仕事は何をして居るかと云ふと品物に対して金を貸して居るのである、誠に奇異の感がありますけれども、併し日本の三十年の昔を見たならば決してさう云うことは珍らしいことでないから何も朝鮮許りさう笑はぬでも宜いことゝ考へる(喝采)、左様な事物は縦令不完備にせよ明治三十一年頃には無かつた、三十三年にも無かつた、同時に朝鮮の商売人が第一銀行にも其他の銀行にも取引を開いて居る、して見ますと朝鮮も所謂豎子教ゆべしと云ふ場合にまで相成つたと申して宜からうと考へます、さりながら此朝鮮が決して工業国になるとか商業国になるとか云ふことは先づ今日の希望には上らぬので、朝鮮国はどうしても農業国たらざるを得ないと考へるのであります、商売も前に述べました通り多少進んで往く傾はありますけれども、決して商業国などゝ云ふことは望む訳には行かぬ、又工業に於ても今日の朝鮮人では不可能とまで言はなければなるまいかと思ふ位に考へます、故に朝鮮に於
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ては将来の開発は農業一天張として勉強するのが相当の事と私は信じて疑ひませぬ、而して幸に我同胞人が朝鮮に対する施設は先づ第一に鉄道は何の為めに敷設されたかと云へば即ち農業拡張の基礎に相成ると申して宜しい、又今日各地に手を着けて居る仕事はどういふことかと云へば大抵農業です、三浪津近所には此会員中の有力なる村井氏などが大に力を入れて経営をして居る、群山の最寄には大倉氏が力を入れて経営をして居る、又兼二浦最寄の土地を経営して居る華族では岡部子爵が居る、尚鍋島侯爵も力を入れる、其他細小なる種類で吾々知つた者にも指を屈して数へたならば十四五の数を数へ得らるゝ程に農事に手を着けて経営して居るのでございます、而して其人々が皆著々其緒に就いて居ると云つても宜いのであります、殊に道路は徐々に改良し、海陸の聯絡も着け而して鉄道の仕事が段々進んで農事に有効になつて参りましたならば蓋し朝鮮の富が数年の後には倍加するであらうと考へます、然らば決して朝鮮を農業国だからと云つて軽蔑するものではなからうと思ひます、唯今席上の御話の中に世界に有名の大戦争をして残したものは英米に対する借金ばかりであると言つて会長が頻に嘆息の御言葉がありましたが、成程或る点までは嘆息の言葉も出さねばなりませぬ、けれども併し朝鮮も大戦争の結果残したものゝ一部分である、而も将来大に望がありと考へまするならば、縦令十二億や十三億の金を費やしたからと云つて唯悲観的にのみ終らぬでも宜からうと思ひます、唯玆に私が更に一言末尾に申上げ添へたいと思ひまするのは、どうしても彼の国の政体人情が殆ど形体無く恰も萍の今日は向ふの岸に咲くと云ふ有様たることを免れませぬ、之をして根拠ある政体人情たらしめやうとするのは実に困難と言はねばなりませぬ、故に我邦の之に対する政治が如何なる方針を以てするが宜いかと云ふことは、明治三十一年頃の如く定まらぬ天気のやうに降るか照るか分らぬのは誠に困る、天候は人工を以て定むることは出来ぬでありませうが、政治上の事は大体の方針が定まりましたならば天候よりも定め易いものであらうと思ひますから、是非とも今日の主義を何処までも貫ぬいて貰はねばならぬ、其貫かんとする主義は今日の博愛で宜い、一視同仁で宜い、決して朝鮮人を厳酷に対遇するやうな企望は持ちませぬ、吾々と同じく視て宜いのでありますが、只終始一貫して進むやうにして貰ひたい、果して其政治の施設上から彼の国民をして生命、財産を安固ならしめ得られましたならば―加ふるに交通機関、海陸の聯絡若くは農事の改良等が十分行はれましたならば、彼国の富は十数年の後には数倍しまして今日吾々が彼の国に対する貿易高が僅に三四千万円に過ぎませぬが、是に数倍する高に達することは困難ではあるまいと考へます、果して然らば今後十年乃至十五年の後には今申す大なる戦争の効果が成程是程の利益を為し、是程の価値を増したと豊川君が大にお喜びなさる時期があらうかと信じます(喝采)、先づ朝鮮に対する私の希望は右の通りで現在の観察のみを申上げて今夕の謝意に代へます(拍手喝采)


竜門雑誌 第二一九号・第三五―三六頁〔明治三九年八月二五日〕 ○銀行倶楽部晩餐会(DK060171k-0003)
第6巻 p.669-670 ページ画像

竜門雑誌 第二一九号・第三五―三六頁〔明治三九年八月二五日〕
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○銀行倶楽部晩餐会 銀行倶楽部に於ては本月七日午後六時より晩餐会を開き、韓国より帰朝せる青淵先生を始め市原盛宏及び北京より帰朝して日本興業銀行副総裁に就任せる佃一予氏を招待したるが、席上豊川良平氏の挨拶ありたる後来賓三氏の演説あり、最初に青淵先生は韓国視察の雑感を述べ、三十一年・三十三年及び今回にて前後三回韓国に赴きたるが其都度一段の進境を認めたる由を詳細に述べられ、次に平壌の繁栄仁川の海陸設備に就いて述べられたる後
 韓国の進境は著しきも而かも退いて考ふれば朝鮮其者の進歩は実に微々たるものにて日本の繁栄が外に溢れたる結果韓国をして進歩の外形を呈せしめたるのみ、偖て韓国は大体農業国として発展すべきものにて商工業の大に興るべき望は少し、我国人も此に見る所ありしにや土地に対する経営をなすもの多く村井、大倉、岡部、鍋島の諸氏数え来れば知人のみにても十数を算せらる、斯くの如き農業を第一とすれば交通運輸の便を計ること最も急要なるべし、之れ我々内地実業家の意を致すべき所なり、次に韓国の政治は変化極りなく恰かも昨今の天候の如く降るか降らぬか分らぬ様なり、かくて事業を為すに頗る困難なれば政府に於て是非とも一貫せる方針を把持して替らざらんことを望まずんばあらず、斯くして官民共に進まば十数億円を費したる戦争の結果が案外香しからずと考へつゝある人々も、十五年二十年の後には其案外好ましかりしを悟るに至らん云々
次に佃氏の演説あり、最後に市原盛宏氏は今回再び銀行界に身を投ずる事となりたれば各位の眷顧を望むとの挨拶を述べ、次で
 韓国民の一部には随分惰弱懶怠の人物もあれど、其大部分を占むる農民は案外勤勉なるが故に生命財産の安固を保ちなば其発達大に見るべきものあらむ、此の故に日本の擁護の下に働けば働き甲斐あることを悟らしめ、以て韓国の富強を図らば勢ひ日本も亦其富を増進する事を得べし、云々
尚ほ朝鮮に於ても又日本に於ても港湾の設備海陸の連絡を欠くは遺憾なりとし、頻りに其修築を説きて論を結び、夫より席を移し歓談快語午後九時過散会したり