デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
6款 択善会・東京銀行集会所
■綱文

第6巻 p.672-674(DK060173k) ページ画像

明治39年11月21日(1906年)

銀行倶楽部第五十五回晩餐会開カル。栄一出席シ一場ノ挨拶ヲナス。


■資料

銀行通信録 第四二巻第二五四号・第七六四頁 〔明治三九年一二年一五日〕 銀行倶楽部第五十五回晩餐会(DK060173k-0001)
第6巻 p.672 ページ画像

銀行通信録 第四二巻第二五四号・第七六四頁 〔明治三九年一二年一五日〕
    銀行倶楽部第五十五回晩餐会
銀行倶楽部にては十一月二十一日、午後六時より過般清韓地方を視察して帰朝せる近藤廉平氏及日本貿易の率先者たる森村市左衛門氏を請待して第五十五回会員晩餐会を開き、会食後渋沢男爵の挨拶に引続き前記両氏の演説あり、終て別室に移り随意談話の上午後九時散会せり


時事新報 第八三〇〇号〔明治三九年一一月二三日〕 銀行倶楽部晩餐会(DK060173k-0002)
第6巻 p.672 ページ画像

時事新報 第八三〇〇号〔明治三九年一一月二三日〕
    銀行倶楽部晩餐会
二十一日午後六時半開会、先づ渋沢男の挨拶ありて後、近藤廉平氏の去る三十二年三十六年及本年の三回に於ける清国漫遊所感の比較談あり、次で森村市左衛門氏は本邦人中是迄動もすれば米国貿易に於て不成巧に遇ひたるは、畢竟技術の如何に基因するものにして、換言せば商業上の武器即ち商品の調はざりしに依るを以て、今後大に発展せんとする我対米貿易は進んで内地に於ける製造業を発達せしめざるべからずと述べ、九時一同散会したり、因に当夜の出席者は豊川・池田・佐々木・松尾・園田・木村・山口等諸氏を初め約七十余名なりしと


銀行通信録 第四三巻第二五九号・第六七四―六七九頁 〔明治四〇年五月一五日〕 外国貿易に就て(森村市左衛門)(銀行倶楽部晩餐会席上演説)(DK060173k-0003)
第6巻 p.672-674 ページ画像

銀行通信録 第四三巻第二五九号・第六七四―六七九頁 〔明治四〇年五月一五日〕
    ○外国貿易に就て(森村市左衛門)
     (銀行倶楽部晩餐会席上演説)
今夕は御懇切なるお招きに預りまして斯く御盛会の末席を汚しましたのは、私の誠に難有御礼を申上ぐる所でございます、唯今渋沢男爵から抜打に何かやれといふ御沙汰がありまして当惑致して居ります、一
 - 第6巻 p.673 -ページ画像 
体私は人様の前でお話をしたことが嘗て一遍もないのであります、無駄口は利きますが更に順序を立つてお話を致すといふやうなことが不得手でございまして(園田孝吉君「今夜からお始め下さい」と呼ぶ)それでは園田さんからも今夜からやれと云ふことでありますから、幼稚園の積りで一言申上げます
唯今近藤さんから有益なお話を伺ひまして、私共は非常に有難く感じました、私は三十有余年亜米利加の商業を致して居りますが、一向遅遅として捗りませぬ、慚愧の至りでございます、昨今は日露戦役の後東洋へ向つての商業は非常に発達致しまして紡績或は紙其他関西地方から硝子とか種々の物が出ますので日増に貿易が盛になりまして、誠に結構なことでございますが、亜米利加の方に向ひまして私共唯今日まで感じて居ることを一言申上げたいと思ひます、是も三十年以前と今日と比べて観ますると、大分日本の商売は進んで居ると云ふて宜いのでございますが、彼の地の進み方と比較しますれば迚も比較は取れない程の誠に遅い進み方でございます、亜米利加へも段々近頃商売をせられて盛に勉強して居られる方もありますが、私共と同時に亜米利加へ店を出されたお方々が今日は誠に少なうございます、どういふものであるか其お方々は資本もあり学問もあり、又経験もあるといふお方であるのに―吾々は其反対でございまして、漸く今日どうか斯うか致して居るといふのは誠に僥倖と謂はなければならぬが、唯全く一生懸命その仲間が食ふ物がなければ土を食ふても生きて居らうといふ様な精神でばかり生残つたので、何も特別の事があつて後へ残つたと云ふ訳ではございませぬ、それで是迄の人々が何で失敗したらうかと云ふことを申上げますると、恰度戦争と同じ事で勿論皆献身的に遣られるのですから、誰も失敗するといふ事は無ささうなものですが、それには大に原因があらう、夫は何でございませうかと云へば、戦ふ兵士は、実に献身的にやるけれども武器がない、武器は何かと云ふと品物です、是が一向整はない、沢山注文すれば御承知の通り手細工のことですから約束通りに出来ず、品がまちまちになる、一の外国貿易のため品物を造るとか、製造するとか云ふ場所がない、自身でそれを造り自身でそれを売ると云ふ様な事でございますから、如何なる人が遣つても成功する気遣はない、弓矢を持つて鉄砲を持つて居る人々と戦ふと云ふ有様ですから、洵に是は失敗するのが当然でございます、然らば今日はどういふことになつて来て居るかと云ふと天産物の生糸の如きは決して後退りはしないで進んで参りまして、紐育丈では生糸の取扱は日本人が大方七分を占めて居ります、二三の会社で七分を占めて跡十軒程の外国人の商館が漸く三分位を扱つて居る、是も年々に向ふを蚕食して参るのみならず、日本人の手で遣る事が出来るといふことは確に今日は見込が附いて居ります、詳しく申上げますと商売の内部のことに亘りますから申上げませぬが―それで工芸品に至りましてはどうでありますかといふと、情けないかな日本では未だ外国に向つて独逸の如くに戦ふことが出来ない、独逸は金と智識と経験と機械とチヤンと備へてサア戦へと云ふやうにして商人に与へるから十分に戦ふことが出来る、腕のあらん限りを揮ふことが出来る、日本人は如
 - 第6巻 p.674 -ページ画像 
何に腕を揮はうとしても持つて居るのが弓矢の如き有様ですから残念ながら進むことが出来ない、日本人であるから独逸人のやうに商売が出来ないのであるかといへば決してさうではない、私共の今日までの実験で見ますると、英国人、独逸人に勝るといふことは或はないかも知れませぬが、決して之に劣らぬ様に商売が出来るといふことは人の上では云へます、唯残念ながら武器が整頓して居りませぬ、然らば如何したら宜からうかと云ふと、どうしても揃つた品物を拵へるといふ製造所を起すより外仕方がない、それならばさういふ物を造りますのに経験ある人があるか、又そう云ふ事をしても利益があるか無いか知れぬのに金を出す人があるかと云ふに誠に是はむづかしい話でありますから、先づ自分は自分の力の及ぶ丈の事を致して居る、詰らぬ事を企てゝ見ましたが漸く未だ二三年にしか相成りませぬで、極く最初でございますが試みに倫敦と紐育に出して見ますと、其売行といふものが非常でございまして、見本を出しましたが殆ど倫敦あたりはお断りをしてもう二三年待つて戴きたいと云ふやうな訳で、亜米利加も亦其通り、最初考へました通り此武器さへ出来ますれば日本人が十分に戦ふ力があると云ふことは能く分つて居ります、それが長い間外国に居つて苦心をした結果自ら商売の道といふものを覚えたのでございませう、所謂戦術を覚えたのでございませう、それでございますからどうぞ今後は願くは皆様が御知己に御相談あつて、兎に角青年の志ある者を海外に遣り、実際に商売の中へ放り込んで艱難をさせ、或は向ふの工場へ丁稚奉公に入り―縦令学術を修業に遣つても唯本を読むばかりでなく、工業の方面に子弟を入れて而して彼の技術を覚へ込ませ、夫れで外国に向く品物の出来る製造場を造つてやりましたならば少なからぬ日本の利益を起すであらうと思ひます、それはチヤンと数字の上に具体的にお話する事は出来ませぬが、唯想像を致しまして斯ういふ品物、あゝいふ品物と考へて見ますれば、随分色々な種類もございませう、一品に就て数千万といふ金を取り得られる物があらうと存じます、兎に角私共甚だ小さな商売を致して居り、殊に唯亜米利加だけに汲々として居りますから、欧羅巴その他東洋等の総ての事に眼を注ぐことが出来ませぬが、亜米利加といふもの一つに対しても未だ起すべき仕事、商売人として往つて働くべき場所と云ふものは必ずありませうと存じます、此度は内外に大層な負債を致して戦争を致しましたが之を返すことは捨てゝ置いても必ず今日の趨勢ならば出来るかも知れませぬが、尚進んで返したのみならず、それ以上の金を取つて来ようと云ふには、どうでも私の田へ水を引くやうでありますが外国貿易といふことが好い仕事ではあるまいか、何も六づかしい事ではない、吾々は無学文盲智恵もなく金もないのでありますが、唯一生懸命之を遣らうと思へば出来るといふことは明言が出来やうと思ひます、どうぞ御若いお方々は是からそういふ方を御視察下され、将来利益がありますならば、目前の利益を捨てゝもさう云ふ方に御進みになるやうに皆様が御誘導下さつたならば非常な利益と存じます、唯一言御挨拶に止めます(拍手)