デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
1節 海運
3款 日本郵船株式会社
■綱文

第8巻 p.184-213(DK080008k) ページ画像

明治27年3月6日(1894年)

是ヨリ先、孟買航路ノ開設ハ彼阿汽船会社ニ衝撃ヲ与エ、彼阿汽船社及ビ同盟汽船会社二社ハ栄一ニ説イテ大日本紡績聯合会ト、タタ・エンド・サンス商会ノ間ヲ割キ、以ツテ同会社ノ同航路就船ヲ妨ゲントス。栄一ソノ申出ヲ退ケ、該航路ヲ維持セントシテ同会社ト大日本紡績聯合会ノ締約ヲ堅固ニスベク是日追加約定書ノ調印ヲ了ス。

カクテ彼阿汽船会社トノ競争激化シ、後二十八年ニ至リ、タタ・エンド・サンス商会トノ契約ハ解除セラレタルモ、彼阿汽船会社トノ競争ハ止マズ、二十八年十一月ニ至ツテ彼阿汽船会社ハ遂ニ我外務省ニ調停ヲ申請スルニ至ル。同会社マタ欧洲航
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路開設ノ計画アリ、当時日英国交上ノ重大性ニ鑑ミテ之ヲ受諾シ、二十九年五月、運賃合同計算契約ヲ締結シ七月一日ヨリ実施ス。


■資料

竜門雑誌 第八二号・第一一―一四頁〔明治二八年三月〕 ○星か岡茶寮研究会集会席に於て(渋沢栄一君述)(DK080008k-0001)
第8巻 p.185-186 ページ画像

竜門雑誌  第八二号・第一一―一四頁〔明治二八年三月〕
    ○星か岡茶寮研究会集会席に於て(渋沢栄一君述)
愈々此契約が極まりましたものですから、船は十一月○明治二六年初に仕出すといふ目的を以て着々其支度を整へて居る中に、彼阿から頻りに之れを妨げ様と試みて参りました、彼阿の方では始に其事を聞てどういふ考をなしましたか、神戸にも支店が御座ゐますし、横浜にも支店があり、此両支店の人達から本国へも通知がありましたから、夫れて十月始で御座ゐました、本社からして香港の東洋の探題とも申すへき東洋支店を総支配して居る一人の稍々重役の位地に居る人、其名はジヨウゼフといふ者が本店からの訓令で日本へ差出されたので御座ゐます、夫れから神戸に居りました支配人のシールと云ふ人、横浜に居るリケツトといふ人、此三人が十月十六日に郵船会社へ参つて、印度新航路を開くに付ての事を故障する言葉を頻りに申し試みたので御座ゐます、其前に此ジヨウゼフといふ人は岩崎弥之助氏抔とも嘗て知人であつた故、同氏に話して私へ面会をしやうといふ事を申したと申す事で、丁度十月十四日の日で御座ゐました、岩崎氏より私に申聞けられしは、彼阿会社のジヨウゼフは何か競争でもするか或は妨けでもする意念があるのか、お前に遇ひたゐといふが、定めて船を出す事に付てであらうと思ふが、遇つてやつて見たら宜くはなゐかと申されましたそこで私は何時でも面会すへしと答へました、ジヨウゼフか郵船会社へ参つて話をしました趣意は、当会社では紡績聯合会と契約して印度に向つて新に航路を開くといふ事を定めたといふが、あの航路といふものは御承知の通り、私の会社が専ら力を入れてやつて居るので、夫れに付ては沢山の歴史もあり、又現に澳地利ロイド・伊太利会社といふものと、三会社でやつて居ります、然るに或る場合によれば荷物が却て足らぬといふ姿である、そこへ日本から新に航路を開くといふ事は、お互に職を争ふ様な姿になるから、遂に競争を生せさるを得ぬと思ふのだ、さう云ふ事をなさるのはお互の同業者中余り好む話で無ゐから、どうぞ人の畑へ鍬を入れる様な処置をして呉ぬがよゐでは無ゐか、又ターター氏のお勧めからさういふ次第に成たといふけれとも、ターター抔といふ人は決して信用の置けるものでは無ゐ、印度人位信用せられぬ人はありはせぬから、初て遇て甘口の話を聞かされたか知らぬが、決してそんな事を苟且にも信をお措きなさると、後で御迷惑をなさる様な訳であるといふ様な意味にありました、郵船会社の答は如何さまさういふ事実はあるに相違なゐが、私の会社で故らに貴処の船路に競争を試みて、貴処の利益を奪ふといふ悪意を以て企つた訳では無ゐ、併し営業上から夫々の道理があれば、他人の妨になるから差控へるといふ事は出来ぬが、此度の企の主動者は、紡績聯合会といふものがあつて、此紡績聯合会から斯様な契約して船を出す事は出来ぬかといふ事であるから、当会社の本業として一歩も進むといふ事を望
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むべき筈である、況んや夫丈けの契約を以て望むで来られたから、敢て辞する訳には往かぬゆへ、同意して遂に契約した訳である、今日貴処がさういふからとて、既に主動者と契約せし上は、郵船会社か此処でいやで御座ゐます、やめますと申す訳には参り兼ると申す答を致したらば、夫れは困つた者であるが、夫れならば紡績業者に遇ふて、能く其考の間違たといふ事を説破したいと思ふが、私は紡績聯合会員に一向知音が無ゐが、随分多数の人であらうから多数の人に遇つてお話する事も六ケ敷かろう、其中の重もなる人に面会する道はあるまゐかどうか、渋沢といふ人に遇ひたゐ、彼はどういふ考を持つて居るか聞きたゐから、之に面会は出来まゐか、夫れは別に差支は無からうと思ふから、私の方から照会して見ましやう、渋沢も厭ひはしまゐと考へるといふ事で、丁度十六日で御座ゐました、郵船会社の方から手紙が来ましたから面会しませうといふ答を致しました、尤も此面会する為に五日も七日も掛かるといふならば、さう滞留しても居られぬから帰りたゐ、一日か二日ならば面会する為に外に用は無ゐが、東京に滞留して居うと思ふが、至急に御返事をして呉れぬかといふ意味でありましたから、夫れでは明日面会致しませうと答へてやりました

竜門雑誌 ○第八三号 第一―一〇頁〔明治二八年四月〕 【十月の十七日は神嘗祭…】(DK080008k-0002)
第8巻 p.186-189 ページ画像

 ○第八三号 第一―一〇頁〔明治二八年四月〕
十月の十七日は神嘗祭か何かの休日で御座ゐました、午後一時に尋ねるといふ事で其前に待受けて居つた所へジヨセフとリケツトとレール《シール》とが三人で拙宅へ尋ねて参りました、矢張り郵船会社へ話した手続を以て今日訪問して御話するといふのも、貴君は紡績聯合会の御人では無ゐといふ事であるが、紡績会社には大分勢力の多ゐ人であるといふ事を承知しましたから、印度航路を御開きなさるといふ事柄に付て一言の御忠告をしたいと思ふて参た訳だ、どうぞ此聯合会の人達に丁寧に御話なされて、此事柄は御見合になる事を希望し舛といふ最初の申分で御座ゐました、委細承知したが、止めるか止めなゐかといふ事は御答は出来ぬが、貴君が話したゐといふ事柄はどういふ要点で御座ゐますか夫を伺ひませう、ジヨセフの云ふに、印度の航路といふものは我彼阿会社が長年の骨折で自分の領分唯一の得意場として居る訳である、外に澳地利ロイド・伊太利会社も営業して居りますが、今日は大抵相談し合つて航海業をやるといふ有様で御座ゐます、然るに此紡績業者が、印度から綿が来るから其綿の価を廉にしたゐ為に此く新航路を開くといふは、成程一部分運賃が廉くなつたならば綿が日本へ来る丈け廉くなるといふ事は尤千万の御話た、併し紡績業者が一寸さう考へて其事をするのは、俚言にいふ頭隠くして尻隠さぬとか、一を得て二を失ふとかいふ事実に成て、自分が大変不利益になる事を知らずに利益と思ふて甚しく悪い結果を来す事に御注意が無ゐと思ふ、何故さうなるかといふと、どうしても今申す通りの航路でありますから、爰に郵船会社が新に航路を開きましたなれば、彼阿会社は力を極めて之と抵抗せねばなりませぬ、抵抗すると必其間に運賃の競争が起きます、運賃の競争が起ると、此運賃はどの荷物に向つて一番競争を強くするかといふと、印度から日本へ来るもので一番多数のものは綿糸であります、綿糸に向つて彼阿が力めて廉い運賃でやると、御覧なさゐ
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さうすると日本の紡績業者は印度から綿を買つて印度から来る糸をば防きたゐといふ御意見であるだろう、処が印度から廉ゐ運賃で糸が来るといふと、綿の運賃は以前よりか下がるかも知らぬけれども、綿の下がる割合が強くなるから、夫からして却て綿が高くなり糸が廉くなつて来るから、印度の糸に競争をされる様になる、紡績業者が大変御損をなさる訳になつて来る、丁度一を得やうと思ふて二を失ふ様な場合に成て、其望むだ結果はまるで相背馳する様になります、況や此ターターといふ者は中々狡猾なので、実に譃ばかり吐いて当てになるのでは無ゐ、是が漫遊の時の言葉に瞞着されて、紡績会社の大勢が打挙つて我利益を計らむとするのは、抑子供の仕業見た様な事であるから、是非此事は御止めなすつたら宜からう、夫れで賢ゐ人は一言にして成程と御心当りの筈と思ふのだ、幸に貴君は聯合会の人に知合が多いといふ事たから、此事は申上たら直きに御了解下さるだろうと思ふて御話する所以であると、斯う云申分でありました、私は大に腹を立つて、此野郎といふ様な気が出まして、御前の云ふ丈けの理窟は一と通り分りました、併し凡そ人間といふものは先つ第一に迷ふといふ事がある、迷へば色々誤謬を生する、丁度御前の今の考が其迷からして誤謬を生じて居る位置に当る様に考へる、第一ターターの軽薄な言薬に瞞着されたといふ事は、実以て御前の誤謬の甚しい者である、日本人は決してターターの言葉によつて此航路の企を起した訳で無ゐといふ理由から、先つ第一御話して上げ様、日本の紡績事業の企は、今日から見ると殆と十四五年前の事である、明治十三年頃から斯くいふ私は種々心を砕ひて明治十五年に大阪紡績会社を発起して成立てたのである、其事業が大に利益があつたに付て各会社奮ひ起て、其時分には僅に六万か七万のスピンドルの数であつたか、今日は七十万以上に達したのだ、随て原料綿も二十二年に孟買から買ふといふ販路が開けて近々に来るのである、夫れで紡績事業家は之に対して、原料の廉くなる様に製造費の成丈け廉くなる様に務るは誠に適当な務であるといふ事は、如何御前が英吉利人として競争の位置に御座る国柄と雖ども尤だと思はねばならぬ事だ、故に何ぞターターの言を待て印度航路を開いて運賃を廉くしやうと企てたといふ様な、日本にはそむな愚かな人間は一人もありませぬ、そむな入らさる御心配には及ばぬ、又競争上の勢よりして多数の品物が大に廉くなる、遂に綿よりも糸が大に廉くなつて紡績業者か苦しむといふたが、成程もし彼阿会社が己の強大な力に誇つて非常に損をして此運賃の競争を強くしたならば、或はさういふ結果が生するであろう、併し経済の許す限りの競争であつたならばさういふ事実の生じやうが無ゐ、我輩も商人だから算盤は知つて居る、顆算でやろうか筆算でやろうが一を二つ寄せて三になつた例が無ゐ、夫れはもう算盤に於て決して争はれぬ事実の明かなものである、左様な道理の無ゐ事を以て、日本人を子供として待遇なさるは宜しくなゐ、もし経済の許す限り競争すると、御覧なさへ、如何に彼阿会社が其運賃を低廉にするも、現今の価直より三四割より引下ぐる事は出来ぬ筈なり、されば其為に日本の紡績業者が綿を高く買はねばならぬ糸か大に廉くなつて苦しむといふ事はあられぬ訳である、もし又彼阿
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会社が其経済に頓着せす、綿糸の運賃丈けを限りなく下くると見やうか、日本の紡績業者は或は聊の難儀する事もあらうが、日本総体の綿物費消者は大に仕合せである、日本の紡績業者は国家的の考が余程強ふ御座ゐます、もし競争の為に自分が損があつても日本の綿物費消者が幸福を得る事であつたならば、忍むで此廉ゐ輸入品を買ふといふ事は日本人の喜ばしく思ふ所の事てある、私も勿論其意念である、而して併し右様の事は之を永久に続けて行くといふ事は、何程彼阿会社の資力が大きうても、五年も十年も続くべき筈で無ゐといふ考であるから、彼阿会社が無暗にあせつて其間に損をしてさうして己の自滅を御求めなされば、日本人は黙つて居て先つ彼阿会社の苦しむ丈の余恵を受けるかも知れぬ、是等の事は子供でも勘定が分つた話、苟くも経済を知て居る者は其様な言葉に恐入りますとはいゝはしまゐと思ふ、聯合会の人も尚ほ私と同し位の考であらうと思ふ故に、御取次はしやうが結局御答は渋沢と同し答であろうと思ふといふ答を致しました
すると又、ジヨセフは論鋒を変へて、紡績事業の成立の歴史を詳細に御聞き申して、又ターターの教唆に因つて成立つたと申上けた為に大層貴君の立腹されたけれども、夫れはさうで無かつたといふ事は御説明に困つて分つた、又計算上に於て貴君はさう仰しやるけれとも、或はさうばかりでは無ゐと思ふが、どうも貴君が信して呉れぬならば仕方が無ゐ、併し其論は暫く脇へ取退けて、第二にもう一つ申上げませう、到底競争は強く起きます、競争が起き其結果はどう成るかといふと、郵船会社も随分苦しむでせう、彼阿は最も苦しむ、是は勿論競争を仕掛る方が苦しまねばならぬ、偖其競争の極は頻りに運賃を廉くする、夫れは品物を買ふ人が利益を得ると云ふ御話もありますが此利益は誰が一番得るかといふと支那人が受けます、支那は実に苦辛は少しもなく高見の見物で、何も知らないのに偶然にも日本人と英吉利人か苦しむで、其苦しみが支那人の所へ行つて空に夫丈けの利益を与ふるのは、抑々英吉利人・日本人ともに余り愚な事では無いか、さうして何も支那人に偶然の利益を与へて双方が苦しゐ思ひをせぬでも宜敷ではあるまゐか、此処を以て考ても競争の生せぬ様に再考して下さる事が出来さうなものでは無ゐか、といふ説を以て私を説得しやうとする、依て又私は答へて、是は誠に驚入たる見解てあります、私は英吉利人は左様な智恵の無ゐ浅墓な御考を以て、若かも彼阿会社の代表として御話なさるのは甚だ歎息する、前にも申した通り、彼阿会社が極度なしの競争をするといふ場合からは或は然ういふ事か生ずるであらうか、もし相当なる限度以内に競争するといふ事であつたならば、其為に支那人に幸福を与へるといふ事は少しも惜くない、是まで英吉利人は東洋諸国に向て属々此幸福を与へて英吉利の国が此の如くに富も進み力も増したといふ事は貴君は知らないか、試に例を設けて申しませう、譬へは金巾を製するに古は蒸汽器械をも用ゐす、多くは職人の手て製造して東洋へ売て居つた、然るに其後蒸汽器械を発明して其製造費を大に減出し、更に進むて種々の新発明機械が出来て次第に製作を逓減し、其低廉になつた金巾を他邦へ販売しましたろう、而して之を需用せしは一向何の関係も無ゐ国々なれとも、只其価か廉ゐから故
 - 第8巻 p.189 -ページ画像 
に需用か進むたであらう、然らば英吉利は其需用せし国々に対して、申さば新発明から生する莫大の恩恵を施したも同し事なれとも、其恩恵を施された国が先きに富むだか、恩恵を施した英国か先きに富むたか、仔細に考案せは明了に解得せらるべし、生産力を進めるも商売を繁盛にするも、其原因は製作する物品を廉く売る国こそ先きに力も増し富も増すでは無ゐか、英吉利の富むだは即ち夫れである、それを今此競争の為に運賃が廉くなりて支那人か廉ゐ物を買ふのは無益の恩恵を与へるも同様なれは、英吉利人もせぬがよゐ日本人もせぬかよいといふのは、殆と今の経済の原則を丸るで外づした話で、英吉利の如き学問も進み実業も経験ある国柄の人、殊に実業家といふ貴処抔の口から右様な道理の無ゐ事をいふは御気の毒に思ふまでゝ、さういふ事には御同意の出来ないといふ答をしました、夫れで談判は尽きたれは、更に私の申すには、郵船会社からも御答へした通り、自動的に此競争を企てる訳では無ゐから、私は郵船会社に関係のなゐ人であるか、郵船会社の意念は決して強い競争をすることは御座ゐませぬから、貴処も此事業を沮むといふ意向なしに、甚しい競争をせぬといふ御見込で御相談為すつたら宜からうと考へますと述へたれば、シヨウセフは、別に夫は私か今日何とも御答は出来ぬ、本社かどういふことをするか分らぬが、もし郵船会社か此事を中止して呉れたら、是から郵船会社と何時までも美しい御友達となりませうといふことは私か御答が出来ます、との答をせしゆへ、私は更に詞を継て、いやそれは貴処の御話が違ふて居る、郵船会社は止められぬ止める訳にはいかぬのである、止めぬから競争をせずに懇親を厚くなさゐといふのである、要するに紡績事業といひ海運事業いひ英吉利は先進者即ち御師匠さむである、其御師匠さむに習ふて追々に弟子が出来て来る、日本などは悲しいかな極く遅ゐ弟子と成て居る、所が其弟子が師匠の教へた通りに復習して居る時分には師匠は大に之を愛して居れとも、もしも此弟子か師匠の真似をしやうとすると此師匠が其弟子を憎む有様になる、丁度貴処の今の御話はさういふ境界に能く似て居れとも、どうそ英吉利人は此弟子を憎む心を去りて、人生普通の道理に基て師匠の真似をするを喜ふ様にありたきものと笑話して其局を結ひました、是か彼阿会社の重立た役員と談判をしました要領で御座ゐます、大抵話の顛末は殆と今申上げた通りて敢て修飾なしに記臆の儘を申上けたのであります

竜門雑誌 ○第八四号 第一―一三頁〔明治二八年五月〕 【前の御話は十月の十七日…】(DK080008k-0003)
第8巻 p.189-194 ページ画像

 ○第八四号 第一―一三頁〔明治二八年五月〕
前の御話は十月の十七日で御座ゐまして、終に十一月の七日に始て神戸より広島丸を印度に航海させた、そこで彼阿は神戸に支店があるから目と鼻の間で能く其事は分つて居る、且本社から訓令もありましたので、俄に強ゐ競争を試みて参りました、此の如く彼阿会社にて最初から酷烈なる競争をするは、彼れの想像には此新航路は詰り一時の感情で卒爾の相談から成立つて来た事たから、厳しく競争をしたら大抵押へ付けられるたろうと云ふ方針に出でた事と見へます、夫れで今までの運賃は孟買より日本まて一噸十七ルーピーを八ルーピーにまで下げまして、更に進むて一ルーピー半まで下げました、尤も一ルーピー半といふのは日本の荷物は大抵郵船会社の約束部内に一致して居るの
 - 第8巻 p.190 -ページ画像 
でありますから、日本に向つては幾ら運賃を下げても積荷はないから飛越へてずつと下げるといふ事で、政略から出たやうに考へられます然うゆう競争に至て参りましたので、郵船会社も大に心配いたしますし、私も事の起りは首唱者の一人で御座ゐますから別して心配も強う御座ゐました、折から私は郵船会社の重役の一人に当選した為に最初は他に在て勤めた事柄が今は我身に引受ける地位に立つ場合に至りました、前にも申上ます通、紡績聯合会へ印度より輸入する綿花荷物は凡そ半高位を郵船会社の船にて積取る契約にて、且其年限は一年と限て居る斯ういふ不堅固の契約にて、彼阿の大敵と競争の出来兼るといふ気遣ひを郵船会社の重役一同に持ちました、特に私は強く之を憂慮しましたゆへ、何とか工夫して此契約を堅める手段をせねばならぬと考へまして、本年○明治二七年一月早々大坂の聯合会の会員連中へ手紙をやりまして、四月開くへき聯合会の定式会を二月早々に開く様な工夫にしてほしゐ、且其総会には私も御相談相手に出席したいと思ふ、御相談相手とは云はぬ、私は卑見を一応聞ゐてもらゐたいと思ふから、もし然うゆうことを出来得るならば大に仕合せと思ふと請求を致しました、又一方に鐘淵紡績会社の人より、別に聯合会を開いてもう一応聯合会の意思を堅めるが必要であろうといふことを請求してやりましたので、遂に二月の十三日に紡績聯合会を開く事に成たから来て呉れゝば重畳てある、其上彼阿から烈しく競争を仕向けられたに付ては、将来の思ひ入りも充分熟慮せなければならぬ、又貴君は当初よりの首唱者にて、殊に今日は郵船会社の重役の一人と成て居るし、彼是聯合会でも都合が宜かろうと思ふから是非出張して呉れろといふ返答を得ました、折柄郵船会社の重役たる中上川彦次郎氏も他用て大坂へ参り合せましたて、大坂に開かれた聯合会に私も共に罷り出で色々相談をした、私が大坂の聯合会へ勧誘し且忠告しました趣意は、彼阿からして暴戻な手段を以て日本人を一撃の下に叩き砕かうと掛かつて居る、既に八ルーピーに引下げた運賃を更に下げて一ルーピー半としたのは余程貴方が注意をせねはならぬ所てある、詰り今一ルーピー半といふ運賃に引下げたのは無価と云ても荷物は積まぬと思ふから下げたのだ、故に此呼価を意外に引下げて聯合会の瓦解を予期したのである、何故聯合会が瓦解するかと云に、貴君が彼阿会社は一ルーピー半だ、郵船会社の船は十二ルーピーだ、十二ルーピーと一ルーピー半では十ルーピー半の違ひては無いかといふ意念から終に郵船会社と聯合会との間に締結せし積荷契約の履行を阻隔しやうといふ瞞着手段である、此手段に乗る位愚昧の事は無い、曩に彼阿会社の役員が私方へ来て云はれた如くに只道理外の恐嚇手段である、例へば灯火の光力の仕掛にて小形の物も大きく見ゆる幻灯も同様であります、縦令一ルーピー半にしても決して積まぬと見て之を引下げ、聯合会の人心を惑はして其瓦解を謀る程の彼阿なれば、もしも瓦解後に至り其船に依頼する時は、又十七ルーピーにも二十ルーピーにも引上げるといふ事は予期せねばならぬ、抑郵船会社と聯合会との間に締結したる約条に其運賃を十二ルーピー(最初は十三ルーピーでありましたが、後に郵船会社も一歩進むで十二ルーピーに引下げたものである)と約束したのは双方とも熟
 - 第8巻 p.191 -ページ画像 
考せし上の事にして、例へば十二ルーピーなり一旦定めたる上は将来迄も是位の価で維持し得るであらふ、殊に一方に石炭も輸出する事ですから、大抵相当な価と思ふて約束したのである、然るに彼阿会社の今日の競争直段といふものは少しも将来を予期した訳て無ゐ故に、聯合会は此彼阿の幻灯手段に眩惑せす、将来に永続する考を強く御持ちなさらぬと、終には両者間の契約をして打破る事に傾かねばならぬ様になるかと思はれます、私が今日郵船会社の役人になつたから成丈け郵船会社を難儀させたく無ゐといふ様な意念を以て論弁すると思ふて下さつては問違ひますぞ、兼て聯合会全休で契約せねば成就せぬ、五会社のみの契約では往かぬといふ事は私が第一に主張して漸く其説も行はれ、今日聯合会の契約が成つて誠に喜ばしいなれども、七万五千俵といふ制限のある契約丈けで居るといふ事は、競争の今日に於ては此事業の為に大なる危ふみかある、如何となれば七万五千俵以上の輸入すべきものならは、七万五千俵は十二ルーピーの運賃であとは一ルーピー半と云ますと大変な懸隔もあり、且此競争時期に方つては或場合には、彼阿が聯合会の瓦解を謀る為に無価て積むかも知れませぬ、さうすると原料の価か二つに成て来るから遂に内が崩れる訳である、故に今日英吉利人に対して日本人が此競争に打勝ちたいと思ふならば聯合会は爰て一致をして総体の綿花を他の船へは積まぬといふ事を契約するが宜いたらうと思ふ、偶然の成立ではあるが、今日では殆ど航海権に付ては国家的の問題とまで云はねばならぬ、此国家的の大問題なれば紡績会社に於ても国家的観念を以て始終此事を処置して往きたゐ、夫れを失はぬで処置する事は今申す様な考を以て之に処するは甚た当然の処置だと思ふ、偖そこで貴君方が、然らば夫れは宜しい、総体の高を約束するとして、現約定の五万俵或は七万五千俵は其運賃一噸に付十二ルーピーである、之が十五万俵として二倍に成つたならば既定の一方の五万俵もしくは七万五千俵にても十二ルーピーで往ける位だから、郵船会社は尚其運賃を引下くるが相当では無ゐか、他の比例を以て云へば、有高の半分買ふのと悉皆買ふのでは幾分か直を減ずるが商売上当り前の事である、と斯ういふ意念を御持ちなさるか知らぬが、是が丁度幻灯の仕掛に乗ものであり、彼阿が定めた一ルーピー半といふものは決して適当なる価格でも何でも無い、何故なれば、もし此郵船会社が航海を止めても何時までも一ルーピー半といふものならは、成程積荷高を増すに付ては運賃割合を減ずるが相当であるが、もしも郵船会社が此航路を停止すれば直に十七ルーピー又は二十ルーピーにもする所は明かに分つて居る、又郵船会社に取ても荷物か増せば夫れ丈利益か増すといふ訳では無ゐのだ、私は紡績聯合会に御勧めする、今日は国家的観念を以て紡績聯合会は飽くまでも此契約を永続する様に望む、即ち年限も一年延べ、又運賃も十二ルーピーで宜しい総体の高は皆契約する、其代りに聯合会は郵船会社に一つの望がある此競争がやむでも此運賃を郵船会社は必ず引上げないといふ事を条約にして呉れ、又国家が此競争の為に郵船会社に相当の補助でもする様に成たならは、此運賃に対して一分の譲与をして呉れ、斯ういふ事は嘗て契約には無かつたが其事を矢張り尽力して呉れといふ事を以て、
 - 第8巻 p.192 -ページ画像 
郵船会社に御望みなさるならは、誠に紡績聯合会は奇麗な望であるから、郵船会社も全然同意するであらうと、丁寧反覆今日迄の行掛りを説き、且其趣意を明亮に申述へました所か、始は大坂の連中は大に疑つて居りまして、甚しきは郵船会社の為に謀るといふ考もあつた様ですが、段々真実に其事を説きましたに因つて、遂に悟る所があつたものと見へて、大坂聯合会は夫れに一決して、即ち今日の契約は高の増した丈で運賃の如きは前の契約通といふ事になりて居ります、其代りに荷物が増すに付ては船の仕出しは今までよりも尚一層増すといふ事は、郵船会社の責任として必尽す様にせねばならぬといふ事にて、聯合会は其通り議決して、契約改正の為に委員か両人出京して三月の六日に修正契約書の調印も済みました、其要旨は前にも申述ました如く綿花荷物は残らずの高を積み、運賃は十二ルーピーと定め、夫れに附帯した条件が、例令此競争がやむでもか是より決して上けさせぬといふ事を郵船会社も承諾し、又もし国家より此競争に対して補助して呉れる様な事があつたならば、運賃に対して郵船会社より相当に譲与するといふ事にて、来年の十一月まで契約する事に成て居る、是は紡績聯合会と更に取結びました当年春の契約で御坐います
又翻て、彼阿の方は、一撃の下にと仕掛けて見ましたけれども、此方か泰然として居るのですから、彼れも更に烈しく競争も試みませぬ、今日の所で見ると、ひと揉みに揉み潰さうと思へばさうも往かぬ、左すれば無暗に下げて往くと却て自家の損失か多ひといふ事からして、少し運賃を引上げるといふが如き有様、要するに持重して様子を見るといふ景況に見へます、併し矢張り競争の意念の強ゐ事は勿論、邪魔物に思ふ意念も余程強ゐに相違なゐ、只昨年の冬から此一月に掛けてひと挫きにたゝき附けよふと思ふたがさういふ訳に往かぬ事を悟りましたが、今日は尚続いて烈しき手段には出ませぬ様に見へる
又一方に於ては、郵船会社とターターと約束した運船は最初は一艘宛て御坐いましたが、更に二艘宛に増して、尚荷物の多い時には一艘を加へなければならぬといふ程に成て居ります、全体綿花荷物は六七月頃までが荷物の多く出る時節てありますから、却て冬分は荷物の減ずる方てあります、殊に競争上彼阿会社に他の積荷を奪はれますゆへに、郵船会社の勘定は到底損をせざるを免れませぬけれども、十一月の初航船よりも其次の航路には又損か立つといふ程の有様でも御坐いませぬ、却て十一月の初航海よりも次の航海の方が荷物か余計に積取れたゆへ、運賃は下つたけれども収益は幾分か増したと申す様な有様で、困難では御坐ゐますけれども維持か出来ぬといふ程にまだ申上げます事でもなからうと思ひます、併し是から先きまた六月・七月頃までは或は宜からうと思ひますが、其向ふは如何であらうかといふ事は郵船会社は頗る気づかはしく考へて居ります、そこでもうひとつ玆に郵船会社が甚た危険に思ひます一点があります、夫れは何たといふとターターで御坐います、能く考へて見ますと、此ターターと日本の紡績業者とは全く利益が背馳して居ります、何故なればターターの船は印度の綿糸事業家の為に綿糸を支那に運搬して充分其販路を拡張しよふといふ事は重もく見込むで居るものでありますから、成丈け其運賃
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を廉くしたゐといふ希望がある、処て日本の紡績業者は日本に印度から綿を取寄せるのは廉く原料を買ふて印度よりも入費を省略し上手に拵へて、日本の需要は十分の七と見て、あとの三分位は支那へ持つて行つて印度の販路地を奪ふといふ考であります、此奪ふといふ場合に於て日本人と印度人との間に利益の衝突を免れませぬ故に、例へば日本にては印度より原綿を買ひ取るに十二ルーピーの運賃を支払ふも印度人は此費用を要せぬ故他の工賃其他にて競争せねばならぬと申如く、追々に双方の間に烈しく競争が生ずるは免れ難き事実です、もし夫れが烈しくなりたならば、彼阿は頻りに離間策を其間に構ずるでありませう、要するターター即ち印度の商人と日本の商人とは根元の利益が背馳する処から、長く此契約は保つて往く事は甚だ六ケ敷からうと思ふ、是が郵船会社の今日に於て甚だ気遣つて居る所であります、夫れでもしターターが此航路の組合を退きた後はどうかといふと、もしも郵船会社と紡績聯合会との約定か一航海に是程の荷物は急度積むといふ契約で、十五万俵の高を一噸十二ルーピーの運賃で運送するものなれば或は損毛も小くして継続し得ると考へられますけれども、現今の約定は荷物の高は聯合会の随意に定むるものとして、積む荷物がある場合は必積まねばならぬ、又荷物が無いからといふて聯合会には其責任は無ゐのであります、何故に又紡績聯合会がひと航海に幾俵積むといふ契約をせぬといふと、原綿の供給は或場合には亜米利加が廉ゐ支那が廉ゐといふものであるから、果して印度より定期に何程の高を積むといふ契約は出来ぬ訳にてあります、然らば此航路は継続し得る時期までにして、もしも損失多き場合には郵船会社は廃業して宜いかといふと、是は決して郵船会社の一恥辱のみでなくして殆ど日本の航路に関係する所のものであります、即ち今日諸君の御集りて私に此事を陳上せよと仰られるのもそこの御関係からと察し上げます、故に郵船会社は偶然の心附よりして飛むた重要の問題を引越した訳でありますが、去り迚是も郵船会社が悪事を為したといふものでも無く、決して投機心を以て万一を僥倖せむとせし訳でも御坐ゐませぬ、又紡績会社が得手勝手の了簡から騒動を起したかといふと決してさうでも無ゐ、至て正当なる考へであつた、斯く反復熟考して見ますると、どうしても是は継続するといふ方に力めて其方法を求める外なかろうと思ふ、只今日の姿で目前に維持が出来ませぬから郵船会社は世間に向つて歎願する所存はちつとも無ゐ、元々何処へも依頼し又は委托を受て成立たので無ゐから幾分の損毛は素より覚悟であります、其代り又郵船会社は其存廃に責任も御坐ゐませぬなれども、当初の起源が世間に分らぬから或は世の中から色々に論ぜられると、郵船会社は実に其処置に苦しみます、詰る処止めるにも止められぬといふ位地に立ちましやうと考へます、幸ひに国家を御憂慮なさる所の此の列坐の方々が此事情の御尋ねが御坐ゐましたから、最初よりの事実を詳細に申上けて充分御考究を願ひ置く所で御坐ゐます
抑此新航路の起りから今日に至る迄の事体及彼阿状況等、大概聞き込みました所或は実地に経歴しました処はひと通り今申上げた通りで御坐ゐます、尚続て、将来維持の方法に付ては現今如何なる境遇である
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か等の事は、是は筆記などにせずに、もし御尋ねが御坐ゐますならば申上げます様に致しませう
  ○此演説ハ本款明治二十六年十一月七日ノ項所収ノ(第一五一―一六一頁)ノモノニ続ク。演説ノ時期ハ明治二十七年秋ナルモ月日不明。
  ○上文中ニ述ベラレタル大阪大日本紡績同業聯合会第七回定期集会ニ於ケル演説ノ速記録ハ第二編第一部第三章商工業中ノ大日本紡績聯合会明治二十七年二月十三日ノ項(本書第十巻)ニ収載ス。


日本郵船株式会社五十年史 第一一六―一一八頁〔昭和一〇年一二月〕(DK080008k-0004)
第8巻 p.194 ページ画像

日本郵船株式会社五十年史  第一一六―一一八頁〔昭和一〇年一二月〕
 競争開始 此に忽ち当社及びタタ商会と「彼阿」外二社との競争となり、対手は従来綿花一噸十七留比の運賃を、突然五留比に引下げ二ケ月の後には一留比半に急低下せしめたり。之に対し当社は、内には紡績聯合会と外にはタタ商会と緊密なる提携を保ち、甚大の損害に耐へ万難を排して堅忍苦闘を続けたり。
 間もなく日清戦役勃発し船舶大に不足せるも、当社は本邦紡績業の前途を思ひ、敢然として三社に拮抗し、予定の如く定期配船を継続したり。
 明治二十八年二月に至り、聯合者たるタタ商会は、競争の為め蒙むれる損失の莫大なるに堪へ得ず、共同契約を解かんことを請ふに至れり。依て当社は之を諒として約を解き、タタ商会の撤退せる汽船二艘を当社に於て補充し、当社単独にて引続き汽船四艘・三週一回の定期航海を践行せり。
 此時本線の上海寄港を止め、其代りに従来の上海浦塩斯徳線を香港まで延長し、香港に於て両線互に接続せしむることとなし、以て本邦・孟買間の航海日数を短縮したり。
 「彼阿」仲裁を申込み妥協成る 初め当社の本航路開始を決するや、二十六年十月十六日「彼阿」は使者三人を当社に派し、速に本航路開始を断念せざるに於ては、「彼阿」は横浜上海線に割込むべしと厳談せり。其態度恰も同社自身が往年三菱会社の横浜上海線に侵入して、惨敗したる事跡を全然忘却したるものの如し。仍て近藤理事は断乎として之を峻拒せり。使者は去つて渋沢栄一氏を訪ひ、当社を説得せんことを請ひしも亦容れられず。爾来一年余当社の闘志毫も衰へざるを見て「彼阿」は竟に、二十八年十一月英国外務次官補ベルチー氏を通じ、我駐英公使加藤高明氏に仲裁方を申入れ、同公使より我外務省に之が斡旋を稟申するに至れり。
 当社は当時日英国交の重大性に鑑み、且つ将に欧洲航路を開始せんとするの意図を有し居たる際、倫敦に於ける後日の便宜に想到し、適適同航路開始準備の為め渡英の途にありし取締役荘田平五郎氏に嘱し、時機を見て適宜の処置に出でしむることとせり。斯くて荘田取締役は渡英の後「彼阿」と数次折衝を重ね、二十九年五月六日を以て同社外二社と孟買・東洋間航業に関する運賃合同計算契約を締結し、同年七月一日より実行することと為し、開航二年半の後始めて妥協成立せり。


綿業時報 第二巻・第三号〔昭和九年三月〕 印度棉輸送の孟買線開始前後の経緯(四)(DK080008k-0005)
第8巻 p.194-200 ページ画像

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報知新聞 〔明治二七年一二月三〇日〕 明治二十七年回顧の日録(DK080008k-0006)
第8巻 p.200 ページ画像

報知新聞  〔明治二七年一二月三〇日〕
    明治二十七年回顧の日録
○中略
  二月
○中略
 十四日 日本郵船会社、英国ピーオー会社と孟買航路の競争を始む。
○下略


綿業時報 第二巻第七号・第六〇―六二頁〔昭和九年七月〕 印度棉輸送の孟買線開始前後の経緯(八)(DK080008k-0007)
第8巻 p.200-201 ページ画像

綿業時報  第二巻第七号・第六〇―六二頁〔昭和九年七月〕
  印度棉輸送の孟買線開始前後の経緯(八)
○中略
 孟買航路開設の本尊役たる紡績聯合会は、予期の如く本航路が其開設を見、やれ一安心と云ふ暇も無く、同業者将来の一大方針を確立するの要を認めた為、明治二十七年二月十三日より引続き大阪商業会議所に紡績同業聯合会の大会を開催し、其席上委員を以つて大会決議に基き日本郵船会社と商議せしむるに決したる処、委員の上京に先だち郵船会社にては、既に渋沢氏の帰京によつて委細諒知しゐたことゝて本航路の増配を決し、タタ・ヱンド・サンス商会等と電信を以つて交渉の上、汽船アーロヨ号(総噸数三、五六四噸、登簿噸数二、三〇七噸製造年月一、八九〇年)の一汽船を増加した。
 越えて明治二十七年三月五日、紡績聯合会より委員として田村正寛野田吉兵衛の両氏日本郵船会社に来り、取締役内田耕作・加藤正義の二氏に面会して来意を伝へ一先づ辞去し、翌六日改めて日本郵船会社の重役に面会し商議を遂げ、遂に追加約定として左記契約を締結し調印を了した。
   追加約定書
  孟買棉花運送のことに関し、明治二十六年十月二十八日日本郵船会社と紡績聯合会との間に締結したる本約定の追加として、今般双
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方協議約定すること左の如し。
 第一条 聯合会社に於て輸入する孟買綿花は悉皆其運送を日本郵船株式会社に委托し、一俵たりとも他の船舶に搭載せざるものとす。
  但し日本郵船株式会社の都合を以つて、其委托せられたる棉花を他の船舶に搭載するは此の限にあらず。
 第二条 第一条運送棉花の運賃は本約定第六条に依る。則ち一噸(四十立方呎)に付印度貸十七留比と定め、日本郵船株式会社は其中五留比を割戻すべし。
 第三条 第二条運賃の定額は、将来競走止みたる場合に於ても此約定期間及満期後継続する間は加重することを得ず。
 第四条 日本郵船株式会社は第一条の棉花を運送する為め必要の季節に於ては本約定第三条に規定したる外臨時船を使用すべし。然れども若し聯合会に於て将来或る施設に依つて孟買棉花を季節に拘らず輸入の数量を年中毎航平均して搭載し、臨時使用を必要とせざることを得るに至るときは、担保以外の輸入棉花に対しては更に協議を遂げ、運賃定額の幾分を減額することあるべし。
 第五条 本約定書中第十条は此追加約定に依つて消滅す。
 第六条 約定期限は本約定第二十条に一ケ年とあるを二ケ年と改め、明治二十八年十一月三十日まで継続するものとす。
右の通り明治二十六年十月二十八日附の本約定に追加契約したる証拠として正本二通を作り、双方記名調印し各一通を分有するもの也。
  明治二十七年三月六日
           日本郵船株式会社々長 森岡昌純
 此の追加契約を以つて紡績同業者は、愈々其の輸入棉花の全部を日本郵船会社の船舶に搭載することゝし、郵船会社は亦これに対して臨時船の準備を約し、更に両者の結合が一層密接を加へ、従つて孟買航路の基礎愈鞏固となり、以つて競争外国船をして全然手を下す間隙なきに至らしめたことは、真に国家の為欣喜すべきことゝ云はねばならない。
 思ふに日本紡績同業者が、積荷の全部を挙げて日本郵船会社船舶に積載せんとする決意をなし、これが実施の必要上増船を要することゝなり、孟買タタ・ヱンド・サンス商会との間に往復したる電信によつて彼地に於ても我国の実状如何を知り、これに対応して相当の対策をしたと見え、孟買棉花荷主等も進んで日本郵船々舶に出荷せんとする傾向頓に顕著となれる旁、日本郵船会社に於ては専務取締役浅田正文氏を孟買に派遣することゝなり、依つて同氏は三月七日午後九時五十分新橋発汽車にて神戸に向ひ、九日未明同地発の三池丸に乗船渡印の旅に出発した。


日本郵船株式会社 第十期前半年度 事業報告書(自明治二七年一〇月一日至同二八年三月三一日)(DK080008k-0008)
第8巻 p.201-202 ページ画像

日本郵船株式会社 第十期前半年度 事業報告書(自明治二七年一〇月一日至同二八年三月三一日)
前期ニ於テ其開始ノ顛末ヲ詳報シタル孟買航路ハ、本年二月ニ至リ連合者タル該地「タタ・ヱンド・サンス」商会ノ請ヲ容レ、其連合ヲ解
 - 第8巻 p.202 -ページ画像 
約シ爾後本社一手ニ於テ之ヲ引受クルコトト為セリ、此変更ハ本社ノ責任ヲ一層加重シタルモノナリ、然レトモ連合者ニ於テ解除ヲ求ムル以上ハ、仮令責任ヲ加重スルモ、本社ノ体面上之カ為メニ事業ハ中止スヘカラス、故ニ本社カ此場合ニ処スルハ、方針ヲ尚一層進取ニ執リ以テ損失ヲ軽減スルノ方法ヲ講スルニ在ルノミ、依テ本社ハ此連合ヲ解クヤ、三月中旬ヨリ従来ノ上海浦塩斯徳線ヲ香港マテ延長シ、滊船二艘ヲ以テ双方トモ毎三週間一回発ノ定期ト為シ、孟買ヨリノ復航香港ニ於テ両線互ニ相接続セシムルモノトシ、孟買線ノ上海寄港ヲ止メ以テ、本邦孟買間ノ航海日数ヲ減縮シ、三週一回ノ定期ト為セリ、要スルニ孟買線路其他海外諸航路ハ軍国多事ノ日ニ拘ハラス、漸次其地歩ヲ固フセルモノト謂フヘシ
  ○東京商業会議所、日孟航路競争ニ関シ委員ヲ設ケテ其実況及ビ之ニ対スル方策ヲ調査セシム。其調査報告ニ依レバ、日孟航路ハ現下航路拡張ノ急務ニ鑑ミ日本郵船会社ヲ保護シ彼阿トノ競争ニ勝タシメ、又綿糸輸出税及棉花輸入税ヲ免除スベシ、更ニ進ンデ国家ハ海外航路拡張ノ方策ヲ講スベシト論ズ。本書第二編第一部第七章東京商業会議所明治二十七年五月二十九日ノ項参照。


(呉大五郎) 書翰 加藤正義宛 (明治二八年)一月二二日(DK080008k-0009)
第8巻 p.202-205 ページ画像

(呉大五郎) 書翰 加藤正義宛 (明治二八年)一月二二日
                 (日本郵船株式会社所蔵)
拝啓、益御清康奉遠賀候、陳ハ目下貴社トタヽ社トノ間ニ交渉相成居候日印間海運業ヲ貴社一手ニ引受之協議ニ関シ、アル、デー、タタ氏(氏ハ本月六日本邦ヨリ帰省致候)本月十五日小生ヲ領事館ニ来訪シ本件ニ関シ小生ノ意見ヲ聞キ度トテ、兼テ同氏在京之節貴社ト為シタル協議之英文筆記録ヲ渡シ、小生ノ熟読ヲ乞ヒ、然ル後更ニ小生ト協議スル所アラント言ヒ出シ候、其日ハ他之要務ヲ談シ別レ候、小生固ヨリ同氏在京中之成行ハ、小生発京之節渋沢・岩永之諸氏ヨリ伝承、其後ノ事ハ去ル十一月八日附貴信ヲ以テ詳悉致居、其日直ニ意見ヲ述ベ、多少ノ協議ハ出来候ヘトモ、余リ軽々敷意見ヲ述ベテ、貴社之申込之事ノミ主張シテハ、却テ面白カラサル成果ヲ見ンカヲ恐レ、其日ハ態ト其儘ニシテ氏之再来ヲ約シ別レ候、十七日ニ至リ同氏再来シ双方申込之件逐項論究致シ、同氏之申条モ十分聞取リ、又タ貴社申込ノ条件ニ対シテハ、小生之意見ヲ以テ出来ル丈ケノ弁解ヲ与ヘ、遂ニ貴社申込ノ条件ニ一二修正ヲ加ヘタル儘ニテ引渡ヲ承諾スルコトニ協議整ヒ、其旨ヲ同氏ヨリ公然貴社ニ通牒シ、小生ヨリモ口添候事ニ取極候、然レトモ兼而老タヽ氏ハ此海運業ヨリ手ヲ引クトノ主張者ナルコト承知致居、且ツ老タヽ氏モ全ク協議之内ニ加ヘザレバ、折角ノ相談モ重キヲ欠クト存シ、其面会ヲ望ミ居候処、丁度同氏ハ去冬ヨリ新年ノ休暇ヲ過《(マヽ)》ボシ居候内地ヨリ十七日ニ帰宅致候ニ付、十九日ニ小生タタ商会ニ至リ候処、幸ヒ老タタ氏モ来合セ居候間、其意ヲ述候処、同氏モ本件ニ付小生ト相談仕度思ヒ居候処ナリトテ、之レヨリ更ニ三人ニテ協議ヲ凝ラシ候、斯ク前後二回ニ於ケル協議之要領ハ凡ソ左之通リニ有之候
一タヽ商会ガ日印間海運業ヨリ手ヲ引キテ、貴社ノ一手ニ引渡之儀ニ
 - 第8巻 p.203 -ページ画像 
付、其利害ニ関シ、小生ニ意見ヲ問候間、小生ハ渋沢氏ヨリ御伝及貴社ヨリノ御申越之趣モ有之候間、第一タヽ商会ノ為メニ取リテハ、此損失シツヽアル営業ヨリ手ヲ引クコトヲ得ルハ何ヨリノ上策ナルコト、第二ニ彼阿ニ反対シテ此海運業ヲ成就セシムルニハ、貴社ノ一手ニ任シテ自由ノ働キヲナサシムルノ良策ニ如カズ、故ニ今夕ヽ氏ガ手ヲ引クハ実ニ一挙両得ノ策ナリト申述ベタル処、両タヽ氏トモ同意ヲ表シ候、(尤モ此外ニモ種々ノ利益ヲ申述候ヘトモ并《(マヽ)》ニ特記スルノ必要無之候ニ付省略致候)依而兎ニ角タヽ社ガ手ヲ引クコトニ取極候、而シテ其手ヲ引クニ就而ハ、一方ニハタヽ商社ノ利益トナリ、一方ニハ貴社ヲシテ従来ヨリ被リツヽアル損失ヲ、今後ニ全額引受クルコトニナル不利アルヲ以テ、先ツ貴社ヨリ申込ノ条件ヲ基礎トシテ協議スル方公平ナリト申出、其事ニ致シ、逐項論究シタル結果ハ、凡テ貴社ノ申込条件ヲ承諾スルコトニ相成候、只一ノ条件ヲ加ヘ候、其儀ハ即チタヽ社ヲ貴社ノ代理店トナスニ五年ノ期限ヲ保証スルコトニ有之候、蓋シタヽ氏等ガ元ト此航線ヲ起シタルハ、只利益ノ為メノミナラスシテ、一ハ名誉ノ為メニナシタルモノナレバ、世間ノ批評モ憚ラス、種々之困難ト損失モ顧ミス今日迄維持シタルモノナルニ依リ、今不得已手ヲ引キ、単ノ代理店トナリテモ、貴社ノ申込通リニテハ、何日何時夫レスラ止メラルヽヤモ知レス、然ルトキハ世間ニ対スル今迄之関係ヨリ、実ニ同氏等ノ面目ヲ失スルヲ以テ、攻メテ数年ハ代理店タラシムルノ保証アリ度キモノトノ事ナリ、此点ニ付テ小生ノ述ベタル所ハ、貴社ノ条件ニ明文ハ無之モ、従来ノ関係モアリ、貴社ハ決シテ今日命シ明日之ヲ廃スル如キ不徳ノ事ハ為サヽルベシ、故ニ条件ニ明文ナキモ、数年代理店タラシムルノ疑ヲ容レスト弁解致候ヘトモ、兎角此点ニ最モ重キヲ置キ、不安心ノ様子ニ見ヘ候、依テ小生ハ未タ貴社ガ年限ヲ定メサル理由ハ確知不致候ヘトモ、熟慮致候ニ、タヽ氏等ノ此点ノ請求ハ無理ナラヌ事ト存候而已ナラス、貴社カ同店ヲシテ数年ノ久敷代理店タラシムルモ、決シテ大ナル不利ハ有間敷ト存候、否、初メノ数年ハ却テ利益アルコトト存候、其理由ハ(一)当地ニ於テ彼阿、墺太利ロイド等ノ二三ヲ除クノ外、英ノホール、シチー、クラレ等ノ滊船会社ハ皆或ル商社ヲ代理店ト為シ居リ、其例ニ乏シカラサルコト、(二)貴社ガ当地ニ支店ヲ設クル時ニハ、社員ハ第一ニ当地之習慣事情ニ通シ居ラサル可ラス、又タ印度人中ニハ一種ノ特習アリテ、外国人ニテハ到底為シ能ハサルコトアリ、此等之事ニ通スル極メテ必要ナルヲ以テ、貴社ノ支店ヲ設立スル前ニ、一二社員ノ数年当地ニアルコト肝要ナルコト、(三)此項サヘ貴社ガ承知シテ相当ノ保証ヲ与フレバ、他ノ条件ニ就テハ異論ナクシテ事纏マルノ見込アルコト、此三点ヨリ小生ハ貴社ガ多少ノ譲与ヲナシ、年限ヲ保証スルヲ可ト認メ候間、何年程ナレバ承知スルヤト尋候処、是レ亦タ小生ノ意見ニ任スト云タル故、小生ハ貴社ヨリ二分五厘ノ口銭ヲ五年間与フルトノケ条有之候間、其間ナレバ別ニ大ナル関係アルマシト存シ、五年ト申出候処、少々首ヲ傾ケ、少クモ五年ナレバ好シト云ヒ遂ニ五年ノ保証ナレバ承諾スルコトニ相成候、小生ハ更ニ前述第二
 - 第8巻 p.204 -ページ画像 
ノ理由及其他下ニ記スル理由アルヲ以テ、此五年間貴社ヨリ一二社員ヲ当地ニ派シ、タタ社ニ於テ事務煉習ノ為メ執務サセシムルコトヲ承諾スルヤト尋候処、決シテ差支ナシ、却テ喜ブ所ナリト云ヒ候次ニ論究ヲ要スル個条ハ、総運賃ニ対シ弐分五厘ノ口銭ヲ与フルトノ貴社ノ申込ト、タヽ社ノ名ヲ以テ積込ミタル荷物ノ運賃ニ対シ、一割乃至一割五分ノ割戻ヲ為ストノタタ氏ヨリノ申込ノ件ニ候、此点ニ就テハ小生ハ貴社ノ此申込ハ得意アルコトニシテ、大坂聯合会ノ関係ヲ考テノ申込ナルベシ、且ツ此方却テタヽ社ノ為メ利益アランカト維持シ候、其理由ハタヽ社ノ名ヲ以テ積ムモノハ毎年限リアリト雖トモ、総運賃トナレバ増加ニ限リナキ故ニ候、然ルニタヽ氏ハ暫ク熟慮ノ後、此件ハ何レニテモ宜シ、全ク貴社ノ裁定ニ任ス、只自分ハ自分等ノ申込ノ方ヲ望ムト云ヒ候
 第三ニ議シタルハ、将来若シ貴社カ彼阿ト和議ヲ結ビ、運賃等ヲ規定スル時ニハ、預メタヽ氏ニモ相談アリタシトノ件、此件ハ明文ヲ以テ貴社ヲ束縛スルコト能ハスト雖トモ、従来ノ関係ヨリシテ、貴社ハ彼阿ト如何ニ訂議シツヽアルヤヲ、タヽ氏ニ対シ徳義上便宜報道スルコトアルベシ、又タ此位ノ事ハ徳義上ニ任セテ宜カラント維持致候、又タタヽ氏及当地綿糸輸出家カ恐ルヽ所ノ、貴社ガ日本紡績家ノ利ノミヲ計リテ彼阿ト約シ、香港上海迄ノ綿糸運賃ヲ不釣合ニ高ク上クルコトアルベシトノ事ハ、稍々杞憂ニ属スルガ如シ、如何ニトナレバ、彼阿会社ガ日本迄之棉花ノ運賃ヲ競争中ノ如ク安ク貴社ト規定スルコトナクシテ、凡テ何レノ港ヘモ相当ノ釣合ヲ有スル運賃ニ定ムルコトナルベシト信スルヲ以テ、杞憂ヲ要スマジト申候処、別ニ固ク其説ヲ主張不致候、其他ノ事ハ凡テ貴社ノ申込通リ承諾致候
 故ニ本件ハ凡テ貴社之申込条件通リニシテ、只代理店ノ年限ヲ五年ト保証スルノケ条ヲ加ヘルノミニテ、相談纏マリ可申ト存候
以上之如ク協議整ヒ候以上ハ、早ク此事ヲ貴社ニ報知スル方宜カ《(ラ脱カ)》ントテ、即チ本日タヽ氏ヨリ左ノ意味ヲ以テ電報発セラレ候
 貴社ニ引渡ノ事ヲ承諾ス、但シ代理店ヲ勤ムル五年間ハ慥ナルコト 呉ト相談シタリ、委曲ハ郵便ニテ
扨今般小生ガタタ氏等ノ相談ヲ受ケ候ニ就テハ、凡テ貴社之申込通リヲ主張スルコト勿論ニ候ヘトモ、又タ一方ニハ日清戦争相止ニ及暁ハ、貴社ニ剰余船多クシテ海外航拡張ノ必要ヲ感セラルベク、又タ日印間航海ヲ貴社ノ一手ニ引受サセ度ハ、在孟買日本人ハ勿論本邦当業者ノ熱望スル処ニ有之候而已ナラス、他ノ一方ニ於テハ支店開設前ニ一二社員ノ当地ノ習慣事情ニ通暁スルノ必要アレハ、五年間ノ代理店ヲ置ク間ヲ利用スレハ、他日支店開設ノ際便宜多ルベクト存候間、五年位ノ保証ヲ与フル程ノ譲与ハ、余リ貴社ノ不利ニハ相成間敷ト存シ且ツ本件ノ速ニ決了スルノ利モ有之ト存シ、小生斯クハ賛成致シタル訳ニ有之候ヘハ、其辺不悪御諒察之上、小生擅越之段ハ平ニ御宥恕被下度候
支店開設前ニ一二社員ヲ派シ、タヽ社ニ於テ事務ヲ執ラシムルハ、前述シタル土地ノ事情ニ慣ルヽノ外、左ノ二利アルカト存候
 - 第8巻 p.205 -ページ画像 
 一営業上乍蔭タヽ社ヲ監督シ、利己擅権ノ処置ヲ防クコト
 二貴社ノ船出入スルニ至レバ、乗組人員ニ日本人多キヲ以テ、日本人ノ当地代理店ニ居ルノ必要アルベキコト
此等ノ利益アルベシト信候ニ付、五年ノ保証ヲ与フルニ賛成シタル時貴社員ノ派遣従職ヲ要求シタル訳ニ有之候
本信ハ渋沢栄一氏ヘモ御見セ被下度候
右要件而已申上度呈荒函候 敬具
  廿八年一月廿二日       在孟買
                   呉大五郎(印)
   日本郵船会社
    加藤正義 殿


(加藤正義) 書翰 呉大五郎宛 (明治二八年)二月二二日(DK080008k-0010)
第8巻 p.205-206 ページ画像

(加藤正義) 書翰 呉大五郎宛 (明治二八年)二月二二日
                 (日本郵船株式会社所蔵)
一月廿二日付ノ御書面本月廿一日到着、拝読仕候、先以而其御表愈御佳勝奉賀候、陳ハ過日来孟買航路当社一手引受ノ儀ニ付不一方御配慮ヲ煩ハシ、此度ハ又其詳細ナル顛末御報道ニ預リ、事情逐一明悉、始終御尽力ノ程承リ奉謝候、御承知ノ如ク、此書面御発送後、彼ノ「三ケ月前通知スレハ代理店ヲ解クコトヲ得ル」ト云フ項ノ存廃ニ付、数回電信ヲ以而「タタヱンドサンス」商会ト往復ニ及候時ハ、当社モ止ムナクバ来十一月迄ハ現今ノ通リニテ継続可致積ニ有之候所、遂ニ同商会ヨリ去十一日客年「アールデイタタ」氏ト当社取締役等ト予メ協議致置候所謂覚書第三号ヲ其儘ニ実行可致旨申来リ、即チ彼ノ三ケ月云々ノ条項モ当社見込通リ存置候事ニ相成、去ル十四日当社ヨリ同商会ヘ向ケ、其申込ニ応スル旨返電ニ及置候、定メテ貴地ニ於而此一条ニ就キ引続キ色々御配慮被下候事ト奉存候、今ハ御蔭ヲ以而当社意思通リ此航路引受ノ儀モ一段落ヲ告ゲ、是ヨリハ万事当社ノ勝手ニ候ヘバ、操船ノ上ニ於テモ大ニ敏捷ナルヲ得ベシト信居候、此始末ニ就テハ略五六日前ニ愚書ヲ以而申上置候ヘバ、此書面着候迄ニハ定メテ御披見被下候事ト奉存候
最早過去リ候事ニ而余リ必要モ無之候如ク相見候ヘ共、或ハ又後来ノ御参考ニモ相成候ハント存候ヲ以而、当社ニ於テ彼ノ三ケ月云々ノ一条ヲ強ク主張仕候理由一通リ左ニ申陳置候
「タタヱンドサンス」商会ガ其面目ヲ保持スルノ上ヨリシテ、少クトモ五ケ年間ハ必代理店タラント請求候モ、全ク其理由ナキニアラズ、又右ニ関スル貴下ノ御意見ハ夫々御尤ニ奉存候得共、原来彼ノ一条タルヤ、畢竟万一ノ時ニ処スベキ活道ニ有之、因《(固)》ヨリ此条アレバ迚、当社ニ於テ理由ナクシテ今日之ヲ命シ明日之ヲ廃スルト申ス如キ、不徳ノ行為ニ出テザルベキハ、貴説ノ通ニ御坐候ヘ共、去リ乍ラ五ケ年ト申スハ相当永キ期限ニ候ヘバ、人事ノ測ル可ラザル、其間双方如何ナル事情出来、互ニ約ヲ果ス能ハザル次第ニ立至ラントモ難申、又一面ヨリ見候而モ、当社ノ外国航路モ此数年内ニハ、必ス大ニ歩ヲ進メ候時運ニ相向キ可申、其際ニモ相成候ヘバ、孟買ニハ支店ヲ設ク可キ必要モ生シ来ルベク、又夫迄モナク他日彼阿ト和議ノ約ニテモ成立候時
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ハ、或ハ其結果トシテ代理店ノ変更ヲ要スル如キ事無之トモ難申、夫是ノ点ヨリ相考候時ニハ、此条ハ平時ニ在リテハ余リ効力ナキ閑文字ノ如クニ候得共、何カ事アリ候時ハ尤モ効力アル条ニ而、通常ノ道理上ヨリ推究候モ亦之ナカル可ラザル規定ニ有之候間、此当然ノ条ヲ削ラントスル「タタ、ヱンド、サンス」商会ノ請求ニハ、飽ク迄反対仕候訳ニ御坐候、次ニ「タタヱンドサンス」商会ヨリ貴下ニ望ミ出候他日彼阿ト和議ノ協議成立候時ハ、同商会ヲモ其協議中ニ加ヘラレタシトノ一条ハ、客年「アール、デイ、タタ氏」ヨリモ其話有之候得共、当社取締役ニ於テハ之ニ承諾ヲ与ヱズ候、申上候迄モナク彼阿トノ和議ノ如キ、所謂商業上ノ掛引ニテ、前後ノ利益ヲ慮リ、臨機ノ処置ヲ必要ト可仕モノニ有之候、然ルニ其際同商会ヲ加フルコトトセバ、或ハ出来ル相談モ出来ザルニ終ルカ如キ悪果ヲ惹起サントモ難計、此辺ノ杞憂モ御坐候ヘバ、是ハ先同商会ヲシテ関係セシメザル考ニ御坐候間、右御含置被下度候
以上両件ノ中ニハ、「タタヱンドサンス」商会ヘ知レ候而ハ面白ラザル点モ多ク有之、是ハ唯貴下迄ノ御含ニ奉希候、社員派遣ノ事ニ付深ク御注意被下難有奉存候、当社ニ於テモ此事ハ兼テヨリ心配仕居候儀ニ有之候ヘハ、其中是非何トカ仕度モノト存居候、尚後臨可申上候
右此度ノ御配慮ニ対シ重ネテ御礼申上度、旁当社ノ事情モ御参考迄ニ申上度、草々如此ニ御坐候、時気千万御自愛之程奉祈候 頓首
  廿八年二月廿二日        東京ニ於テ
                      加藤正義
    呉大五郎 殿


(呉大五郎) 書翰 加藤正義宛(三カ) (明治二八年)二月一九日(DK080008k-0011)
第8巻 p.206 ページ画像

(呉大五郎) 書翰 加藤正義宛     (明治二八年)二月一九日《(三カ)》
                 (日本郵船株式会社所蔵)
二月十六日、同廿日、及廿二日付之三書各々拝接披閲之下各位益御清康奉欣賀候、小生ハ先月初旬ヨリ公《(務脱カ)》ヲ帯ビ印度内地旅行致居本月ニ入リ帰孟致候為メ返書延引致シ歉然之至ニ候、扨今般日印間海運業ハ首尾能クタヽ社トノ相談整ヒ、愈々貴社ノ一手ニ御引受之事ニ相成リ其航海期日其他支店代理店等之御規定之ケ条一々御詳報被下奉感謝候
○下略
  廿八年二月十九日
                    呉大五郎(印)
    加藤正義 殿


渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛 ○(明治二七年)一〇月六日(DK080008k-0012)
第8巻 p.206-207 ページ画像

渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛  (八十島親義氏所蔵)
 ○(明治二七年)一〇月六日
今朝ハ口中之痛所モ聊快方ニ候得共、今日之伴氏之宴会ニハ出席仕兼候ニ付、病気不参之旨名子氏迄御申遣し可被下候
ラルカヽヘ之回電ハ(タタ氏貴地ノ用事何日頃ニテ相済ミ出京セラルルヤ其日限報知タノム)と申事を一応電報ニて申遣し度候間、今日中ニ御取扱可被下候○下略
  十月六日
 - 第8巻 p.207 -ページ画像 
                    渋沢栄一
    八十島親徳殿

渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛 ○(明治二七年)一〇月七日(DK080008k-0013)
第8巻 p.207 ページ画像

 ○(明治二七年)一〇月七日
タタ氏之電信一覧仕候至急左之返信御発し可被成候
 九日着京ナレハ東京ニテ御面会スヘシ
右之通リ御申遣し可被下候 匆々
  十月七日
                       栄一
    八十島殿


渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛 ○(明治二七年)一一月七日(DK080008k-0014)
第8巻 p.207 ページ画像

 ○(明治二七年)一一月七日
再三日来口中之痛所強く相脳候為出先《(悩)》ニて療用罷在候、右ニ付昨夕タタ氏之告別も出来兼、残懐千万ニ御坐候○下略
  十一月七日
                       栄一
    八十島殿
  ○R・D・タタハ明治二十七年秋再ビ日本ヲ訪レタリ。ソノ際栄一ト商議スル所アリシハ、上ニ引用スル文書ニ依リテ知ルヲ得レドモ、商議ノ内容ニ就テハ資料ヲ得ズ。ソノ内容ノ大体ハコノ項ニ引用セル明治二十八年一月二十二日附呉大五郎ノ加藤正義宛ノ書簡参照。
  ○タタ商会ト日本郵船会社トノ共同契約ガ解除セラレルニ至リシ理由ハ、大凡次ノ如キモノナルベシ。
   一、元来支那市場ニ関スル限リ日本綿糸紡績業ト印度紡績業トハ全ク敵対関係ニアル故ニ、両者ノ生産費上ノ競走ヨリ、タタ商会ハコノ日本郵船トノ契約ヲ継続スルコトヲ不利トシタルコト(本項ニ引用シタル竜門雑誌所載栄一ノ演説〈同文「青淵先生六十年史」再版第一巻第一〇六四頁以下ニ収載〉ニ依ル)。
   一、日本郵船株式会社ノ活動ノ自由ヲ確保センニハタタ商会ノ掣肘ヲ極力避クル要アリシコト(本項ニ引用シタル加藤正義ノ手紙ニ依ル)。
   一、他日航海奨励法施行ノ際外国商会トノ共同事業ニテハ同法ノ適用ヲ受クル能ハザル恐アリシコト(本書第二編第一部第三章商工業中ノ大日本紡績聯合会明治二十七年二月十四日ノ項ニ引用シタル伊藤伝七ノ手紙ニ依ル)而シテ航海奨励法ハ明治二十九年三月二十三日法律第十五号ヲ以テ公布セラレタリ、ソノ第一条左ノ如シ。
     帝国臣民又ハ帝国民間ノミヲ社員若クハ株主トスル商事会社ニシテ、自己ノ所有ニ専属シ、帝国船籍ニ登録シタル船舶ヲ以テ、帝国ト外国トノ間又ハ外国諸港ノ間ニ於テ貨物旅客ノ運搬ヲ営業トスル者ニハ、此ノ法律ニ依リ其ノ船舶ニ対シ航海奨励金ヲ下附ス。


日本郵船株式会社所蔵書類 第二号函 建白意見書類(DK080008k-0015)
第8巻 p.207-210 ページ画像

日本郵船株式会社所蔵書類  第二号函 建白意見書類
其社孟買航路之儀ニ付、別紙外務大臣内牒之趣慎重社議ヲ尽サレ意見答申可有之、此段及内牒候也
  明治二十八年十二月二十六日
                    佐藤管船局長
  日本郵船株式会社長
    近藤廉平殿
(別紙)
機密第三十七号
 - 第8巻 p.208 -ページ画像 
本月一日他用ニ付外務省ニ出頭、大臣ト面談ヲ了リタル際、外務次官補ベルチー氏ハ本官ノ在省セルヲ聞知リ面会相求メ候ニ付、即チ其官房ニ到リ候処、彼ハ日本印度間航路ニ於テ英ノ汽船会社(彼阿会社ヲ指ス)ト日本ノ汽船会社(日本郵船会社ヲ指ス)トノ競争ノ件ニ関シ談話ヲ聞キ、本件ノ当初日本ノ綿花輸入者カ連合シテ英ノ汽船ニ積荷ヲ為サヽル契約ヲ結ヒタル儀ニ付、汽船会社ヨリ当省ヘ苦情ヲ申出テタル事アリ、取調タルニ、右ハ両国間ノ条約違背スルニ措置トモ難被申ニ付、其苦情ハ取上ケサリシカ、爾来両会社ノ間ニ競争甚シク、目下ノ有様ニテハ双方トモ莫大ノ損失ヲ免カレサル由、然ルニ英国汽船会社ノ株主中ニハ現ニ下院ノ議員タル者モ尠カラス、夫等ノ輩ハ該競争ノ義ニ付毎々彼是苦情ヲ唱ヘ居候有様ナルガ、此儘打捨置クトキハ両国ノ交誼ヲ保ツ上ニ於テモ間接ニ多少妨害ナシト謂フヘカラス、夫ハ兎ニ角、商利ノ一点ヨリ云フモ、際限モナク競争ヲ継続シ互ニ損失ヲ重ヌルハ策ノ得タルモノニアラサルハ勿論ニ付、何トカ両会社ノ間ニ協議ヲ整ヘ、双方ノ利益ヲ謀ルノ方法アラハ仕合ナルヘシ、貴国政府ニ於テモ御同意ナラハ、日本汽船会社ニ其旨ヲ伝ヘラレタキモノト存シ、御相談ニ及フトノ事ニ付、本官ハ日本郵船会社印度航路開設前後ノ顛末ヲ大要説明シ、元来此事ハ曩ニ彼阿会社カ航路ノ専有ニ乗シ、常ニ日本ノ貸主ニ対シ不遜ヲ極メ、極メテ不廉ナル運賃ヲ貪リタルヲ以テ、日本貸主ノ激昂ヲ来タシ、其極該貨主等ヨリ郵船会社ニ謀リ、新航路ヲ開カシメタルニ起因シ、其後両会社ノ間ニ多少ノ兢争ハ免レサル事ヲ聞知スレトモ、其損失ハ貴官ノ云フ如ク莫大ナルヤ否ヲ知ラス、又右日本汽船航路新設ノ為メ、日本貨物ヲ印度ニ輸入スルノ便宜ヲ与ヘタルコト浅少ナラサル由ナルニ付テハ、現ニ多少ノ損失ヲ免レサルモノトスルモ、他日ノ成功ヲ期シテ、日本郵船会社ハ依然其航路ヲ継続スルナラント思考ス、尤モ幸ニ両汽船会社ノ間ニ協議相整ヒ、互ニ利益ヲ得ルノ法アラハ、日本郵船会社ニ於テモ其方法ヲ講スルノ意ナキニアラサルヘク、一己人トシテ昨年本官本邦出発前ニモ、右辺ノ事ニ付多少聞込ミタルコトナキニアラス、然レトモ日本郵船会社ト云ヒ、彼阿会社ト云ヒ、共ニ商売人ノ事ナレハ、損得ヲ観ルノ明ニ至テハ局外者ノ及フ所ニアラス、且ツ両会社ノ役員間ニハ互ニ知合ノ者モナキニアラサルヘキヲ以テ、他ヨリ彼是容喙セス、寧ロ時機ノ熟スルヲ待テ、彼等自身ノ間ニ合議セシムルコソ最良ノ方法ナルヘシト相答ヘタルニ、ベルチー氏ハ貴説一応御尤モナリ、或ハ双方トモ合議ノ念慮ナキニアラサルモ、互ニ先方ヨリ口開キヲ待チ居ルト云様ナル事情モアラン、拙者ノ意ハ決テ英汽船会社一方ノ利益ヲ謀ラントスルニアラス、畢竟両方ノ為メヲ思ヒ御相談ニ及ヒタル次第ナリ、敢テ御迫リ申ス訳ニハアラサレトモ、何カノ機会ヲ以テ前述ノ意味合内々貴国政府ヘ申報サルヽコトヲ得バ幸甚ナリ、左スレハ拙者ニ於テ当方関係ノ者ヘ序ヲ以テ相話シ置クヘシト、懇々申述候ニ付、本官ハ遂ニ其義ヲ諾シ、日本政府ハ間接タリトモ此事ニ関係スルヲ欲セサルモ難計、又ヨシ関係シタリトモ其効能如何アルヘキヤ覚束ナシト思惟スレトモ、御懇談難黙止ニ付、貴意ノアル所丈ヲ不日、本省ヘ申達スヘシト、程克挨拶致置候、就テハ御一考ノ上良案モ有之候ハヽ御施設相成
 - 第8巻 p.209 -ページ画像 
度、而シテ本件ハ他日再ヒ話頭ニ上ルコト可有之ト存候間、貴意ノアル所其内御内示相成度候様致度候
彼阿会社ノ現社長サー、トーマス、サヾランドハ下院ノ議員ニシテ、保守党中可ナリ有力ノ一人ニ有之候ニ付テハ、自然現外務大臣トハ懇意ニ可有之、従テ其所説時々外務大臣ヘ波及シ、同省ニ於テモ多少何彼ニ付周旋ノ労ヲ執ル傾向アルモノニハ有之間敷哉ト推察致候
先頃ノ千島艦訴訟仲裁ノ件ト云ヒ、今回ノ内談ト云ヒ、彼是思合スレハ、前記ノ推察モ強チ無根拠ニハ有之間敷哉、右御参考ノ為メ申添候
  明治廿八年十一月五日
              在英
               特命全権公使 加藤高明
   外務大臣臨時代理
    侯爵 西園寺公望殿

                        親展
明治二十八年十二月二十六日付ヲ以テ、当会社孟買航路ニ於テ彼阿汽船会社ト競争ノ件ニ関シ、在英加藤全権公使ヨリ外務大臣ヘノ御内牒書写被添、右ニ対シ当会社ノ意見覆申可仕旨、御内牒之趣敬承仕候、抑孟買航路ノ義ハ、明治二十六年十一月開航以来、今日ニ至ルマテ競争相止マス、為是蒙ムル所ノ損失少ナカラス、二十八年二月ニ至リ我連合者タタ、ヱンド、ソンス商会ハ遂ニ損失ニ堪ヘスシテ手ヲ引キタルヨリ、当会社ハ独力益其負担ヲ加重致候得共、国家ノ体面会社ノ名誉及紡績業者ノ利害ノ為メ、今更之ヲ廃止スヘキニアラス、騎虎ノ勢百折不撓ノ精神ヲ以テ此航路ヲ維持シ、昨年日清戦争中船舶欠乏ノ際ニモ拘ラス、之ヲ持続シタルノミナラス、却テ其航海ノ度数ヲ増加スル等、拮据経営競争ノ難局ニ当リ、年々莫大ノ損失ヲ忍ヒ、辛フシテ持続致居候処ニ御坐候、彼阿会社ニ於テモ此競争ノ為メ蒙ル所ノ損失亦莫大ナラント被察候、素ヨリ際限モナク限リアル資本ヲ以テ限リナキ競争上ノ損失ヲ累ヌルコトハ、彼我共ニ望マサル所ニ付、到底相当ノ時機ニ於テ互ニ和協致候方得策ト存居候、然ルニ彼阿会社ハ当会社ニ於テ、孟買航路開始ノ当時、其東洋諸港監督ノ一重員ヲ本邦ニ特派シ該航路開始ノ不利益ナルコト及競争自然ノ結果巨額ノ損失ヲ招クコト昭ナルヲ以テ、其損失ヲ累ネサル以前ニ於テ、該航路ヲ閉止スルノ利益ナルコトヲ申込ミタレトモ、其所説単ニ我航路ノ閉止ヲ望ムニ止リ、更ニ彼我運賃定額ノ協定ヲ諜リテ和協ヲ望ムノ意ナク、其辞頗ル不遜ニ渉ルモノアルヲ以テ、当会社ハ其当時断然之ヲ拒絶シ、遂ニ今日ノ競争ヲ見ルニ至リタル事情有之候ニ付、此行懸上ヨリシテ、双方何レヨリモ和協ノ意ヲ申入ルヘキ場合ニ至ラス、畢竟荏再トシテ今日ニ及ヒタル次第ニ御坐候、事情前陳ノ通ナルニ付、彼阿会社ニ於テ我航路ノ閉止ヲ望ムカ如キノ念ヲ去リ、協和ノ意嚮ナルニ於テハ、当会社モ相当ノ方法ヲ以テ協議致候所存ニ候、且此件ニ付テハ今般欧洲航路開始ノ事ニ付、過日英国ヘ出張為致候取締役荘田平五郎ヘモ内意ヲ含メ、時機ヲ謀リ我不利トナラサル範囲内ニ於テ程能ク和協相整候場合ニ臨マバ、臨機適宜ノ談判ヲ開始スヘキコトヲ内談致居候、同人ハ
 - 第8巻 p.210 -ページ画像 
彼阿会社重役中ニ面識ノ者モ有之ニ付、今回渡英ニ付テハ談必ラス此義ニ及候半ト被存候、殊ニ此度加藤公使ヨリノ御報告ハ、彼我競争ニ関シ最モ有益ノ御報告ニシテ、右ニ依リ愈英国政府寧ロ彼阿会社カ和協ノ意志アルヲ窺知スルコトヲ得タルハ、当会社ニ取テ便利不尠候、就テハ右御報告ハ写取リ、直ニ荘田平五郎ヘ差廻シ、此際臨機適宜ノ処置ヲ執リ候様可申遣候
右当会社取締役会ノ内議ヲ経、御内答仕候也
  明治二十九年一月九日
                日本郵船株式会社々長
                      近藤廉平
    管船局長 佐藤秀顕殿


日本郵船株式会社第十一期後半年度事業報告書(自明治二十九年四月一日至同年九月三〇日)(DK080008k-0016)
第8巻 p.210-211 ページ画像

日本郵船株式会社第十一期後半年度事業報告書(自明治二十九年四月一日至同年九月三〇日)
孟買ハ前半期ニ引続キ六七月ノ交ニ至ル迄棉花ノ輸出猶ホ盛ナリシヲ以テ、定期船ノ外ニ三回臨時船ヲ回航シ、或ハ他船ノ船腹ヲ借入レ、以テ其需要ニ応シタリ、此航路ハ去二十六年開設以来、英国彼阿会社、墺国「ロイド」会社及伊国「ルバチノ」会社ノ聯合線ヨリ激烈ナル競争ヲ受ケ、非常ノ困難ニ遭遇セリト雖トモ、内ニハ紡績聯合会ノ竪ク結テ動カサルアリ、外ニハ同盟「タタ、ヱンド、サンス」商会ノ堅忍事ヲ共ニスルアリ、防備其宜ヲ得、漸次其地歩ヲ固メツヽアルニ際シ、競争ハ双方ノ不利ナルヲ悟リ、互ニ妥協スル所アリテ、遂ニ本年七月以後競争ヲ停ムルニ至レリ、而シテ八月二十六日本航路ニ対シ逓信大臣ヨリ命令アリ、本年十月一日ヨリ明治三十四年三月三十一日ニ至ル四箇年六箇月間、郵便物逓送及旅客貨物運搬ノ為メ、毎年航海浬数ニ応シテ助成金ヲ下附セラレ、総噸数三千噸以上平均速力十海里以上ノ船舶三艘ヲ以テ、毎月一回横浜及孟買ヲ出帆スルコトトナレリ、此命令ニ依ルトキハ毎月一回ノ規定ナレトモ、当会社ハ特ニ既設ノ儘四週間一回ノ定期ヲ継続スヘキ計画ナリ
  ○明治二十九年日本郵船株式会社ハ Penisular and Oriental S.N. Co., Austrian Lloyd S.N. Co. 及ビ Navigazione Generale Italianaト孟買同盟合同規約ヲ結ビ、七月一日ヨリ実行セリ。即チ、日本孟買間各社ノ航海数ヲ、毎年P・Oハ四十八回、郵船ハ十六回、Lloyd 及ビ Italiana ハ各十二回ヲ越エザルモノトシ、孟買ヨリノ復航ニ於テ各社ノ得タル運賃ヨリ口銭・戻金及ビ接続港ニ於ケル諸費ヲ控除セル額ヲ合同シ、之ヲP・Oニ 30/60 郵船ニ 14/60 Lloyd 及ビ Italiana ニ各 8/60 ノ割合ヲ以テ分配スルモノナリ。該同盟加盟会社ニハ数次ノ変更アリ。明治四十四年十月ニハ Italiana 脱退シテ Societe Nazional di Servizi Marittimi 加盟シ、大正二年一月ニハ Lloyd 脱退シテ大阪商船株式会社加盟シ、大正四年一月ニハS・N・S・M脱退セリ。コノ間各社ノ割当ニモ変遷アリ。
  ○孟買日本間ノ綿糸棉花ノ運賃ハ明治三十三年迄ハ一噸(四十才)ニ付十二留比(総運賃十七留比、戻金五留比)ヲ保チ、其後ハ屡々変更セリ。最低ハ明治四十四年ニ於ケル八・三〇留比、最高ハ大正七、八年ニ於ケル六十留比ナリ(以上日本郵船株式会社編「我ガ社航路ノ沿革」ニヨル)
  ○明治三十四年四月一日、逓信大臣原敬ハ日本郵船株式会社ニ命令シ、横浜孟買間ノ命令航路ノ期限ヲ五年間延長シ、輔助金ヲ年額拾七万八千七百八拾五円拾参銭参厘ニ減額シタリ(同社所蔵ノ命令書ニヨル)ソノ期限経過後自由航路トナレリ。
 - 第8巻 p.211 -ページ画像 
  ○尚此項ニ関シテ第二編第一部第三章商工業中ノ「大日本紡績聯合会」明治二十六年十月十七日ノ項、同二十七年二月十三日ノ項、同二十九年七月一日ノ項(本書第十巻)参照。


東京経済雑誌 第三三巻第八二八号・第一〇〇〇頁〔明治二九年六月六日〕 ○郵船会社の外船同盟加入(DK080008k-0017)
第8巻 p.211 ページ画像

東京経済雑誌  第三三巻第八二八号・第一〇〇〇頁〔明治二九年六月六日〕
    ○郵船会社の外船同盟加入
彼阿其地の外国汽船会社より運賃協定同盟に加入せんことを我が郵船会社に申込来りしに付ては、頃日来交渉商議中なりしが、郵船会社に限り協定の運賃よりも一志六片の低減をなし得るの条件を附して協議纏り、左の如き仮約定を結びたる由
 一横浜倫敦間の運賃は一志と定むる事
 一ピー・オー、ヱム・ヱム、及びロイドの三会社は此の運賃定率より一割の戻運賃を貸主《(貨)》に払渡すことを得べき事
 一日本郵船会社は前記三会社が一割の戻運賃を払渡すものよりも更に一志六片の低き運賃を以てすることを得る事
此本約定は郵船会社の欧洲航路第四回船バルモラロ号の出帆前交換する都合なり、付ては郵船会社も独り勝手に運賃を低下する能はずして外船の高くなるだけ郵船会社の運賃も高くなり、外船との差は常に一志六片に止るものとなりし訳なり



〔参考〕大日本紡績聯合会紀要 孟買棉花の回漕(DK080008k-0018)
第8巻 p.211-213 ページ画像

大日本紡績聯合会紀要
    孟買棉花の回漕
 孟買棉の我が紡績業に使用せられたるは大阪紡績会社員川村氏及び三重紡績会社員杉村氏が、孟買棉業視察の結果二社の試みに製紡したるに始まる。踵で各社相争ふて之に学ぶや、該棉の輸入宛も潮の湧くが如きを見る。然れども之が漕運は当時東洋唯一の航路たる彼阿会社船に托せざるを得ず。其運賃は不廉と云はんよりは寧ろ方外と言ふべき高価を支払ひたれば、為之製産費を増加して紡績業者の不利甚しかりしを以て渋沢栄一氏等は深く之を憂へ、二十六年孟商タタ氏の来朝に会し、商議の上日本郵船会社へ交渉し、略ぼ其同意を得たるを以て同年六月鐘淵紡績会社の朝吹英二氏は渋沢氏の命を銜んで三井物産会社の端善二郎氏と共に大阪に来り、紡績業者と協議する者数回、結局紡績業者は其漕運を郵船会社に委托し、若し同社に於て外船と競争上収入運賃にして約定額より低下する場合は、其差金を保護として同社に支払ふことに決し、理事菅沼政経氏は直に東上して郵船会社に交渉したり。其議の相諧ふや、此歳八月五日を以て臨時総会を大阪商業会議所に開き、議案三項を掲げて契約の大綱とし、更に決議要領二十二条を議決して同盟を約束し、併せて補給の方法を定めたり。斯くして同業者の確認書を徴し了るや、十月一日を以て相談委員(為之特に定めたるなり)及理事は東上して郵船会社と契約草案を商定し、竟に常務委員の名を以て本契約を締結し、初航船広島丸は十一月七日を以て神戸港を発し孟買に向ひたり。於是聯合会は決議要領第十七項に拠り、准会員にあらざる棉商の同盟に関する規則を草定し、特約同盟員と称し之を拘束
 - 第8巻 p.212 -ページ画像 
したり。
 初め聯合会の郵船会社と孟買棉花回漕の約を結ぶや、両々相危む所ありて、若し得失相償はずんば更に商議を費やさんとの宿意ありしかば、為めに僅々一ケ年を限りて契約の期としたりしも、事実は予想の外に出で紡績業者の利便は着々眼前に発現せるのみならず、郵船会社に於ても略ぼ相償ふを得たれば、二十七年二月追加条約を締結し、其の協定期間を二ケ年と改め、二十八年十一月三十日迄継統するものとなしたり。此際契約格守の方法として、之に副ふべき諸規定に改正を加へ厳密にして虧隙なからしめたり。
 此新航路開始以来、郵船会社は毎航往復満載にして洋々多望なりしに反し、彼阿会社は一噸六留比に低減して貨物を待たるも獲ず、往々空拐にして帰航したりと云ふ。之れに加ふるに我国紡績業は日を逐ふて盛に、前年来据付に着手したる紡錘は概ね咸な運転を開始したれば、棉花の需用は大に起り、多々益々弁ずるの状勢にて、郵船会社をして其回漕に忙殺せらるゝの感あらしめたり、而も棉花の需用は孟買港積出のみを以て之に周給する能はず、他沿岸諸港に積出されたる棉花も之を吸収するの必要を生じ、終に二十七年五月日本郵船会社と第二追加約定を締結し、コロンボ及チユチコリンの両港に於ても積入れ之を輸入するに至りたり。
 自是郵船会社は毎航多少の損失を免れず、較々逡巡の色あり。然れども是れ寧ろ国家事業なり。須らく其本面目に顧みて政府は相当の保護を加へ、其航運を継続せしむべきのみならず、之を拡張して終に欧西へも伸長せしめざるべからざるを以て我同業者は之に向て策する所あり。発して航路拡張航業助成の請願となり、之が運動に着手せり。其委員実に八名なりとす。
 又孟買回漕の事務は始め決議要領に従ひ、在孟の邦商三名に委嘱することゝなりしが、後書記を遣はし其事務を執らしめ、内地にありては首として神戸に出張所を設け、長崎は三井物産支店及松尾巳代治の両准会員に托し、横浜は井上・松下の両回漕店に嘱付し、内外相応じて輸入上の調査を厳密にし、以て反対者の侵害を防遏したり。聯合会は前きに郵船会社と二年の期を約し、一面航路の拡張を希望して政府に請願する所ありしが、政府は之を変じて航海奨励案として二十八年議会の解散に会して之が議決を得ず、二十九年の議会に於ては議案提出の有無之を卜する能はず、而も郵船会社にして棉花回漕上利益する所なしとせば、聯合会は期満ちて同社の発船を強ゆる能はず、大にしては本邦航運の消長に関し、小にしては斯業の通塞に繋るを以て、大に航海奨励の必要を陳べ、其提案の通過を計られんことを望み、時の総理大臣に上書したり。
 日本郵船会社は二十六年来、独力を以て孟買棉花回漕の任に膺りしが、印棉の需要は歳を逐ふて熾にして、社船のみを以て之を周済する能はず、往々荷物の停滞に会し、紡績業者の運営に影響する所少なからず。同社も玆に見る所あり、明治二十九年に至りかの競争者たる彼阿・澳匈ロイド・伊太利郵船の三社と聯合契約を締結し、此歳七月一日より実施したり。於是本会々員は爾後四会社の何れの船にも棉花を
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搭載するの便を得、復た船隻の不足に苦しむことなきに至りたり。蓋し我聯合会は此年米国棉の不作にして印度棉の豊作なるを予想し、同時に其輸入の増加を来すべきを推算し、予め孟買航路に向ひ船隻を増加し、之に備へんことを郵船会社に交渉し、竟に此の結果を得たるなり。
 尋で郵船会社は航路助成金を得て復た此航線に於ける収支の不償を愬ふるを得ず、猶ほ進んでその欧洲航路を開始せるに方りては、本船をして其復航に於て古・忠の二港に寄らしめ、孟買港の在荷は主として直航路を以て之を積取ることゝせり。而して契約は三十年後毎歳期満ちて之を改め以て今日に及べり。


〔参考〕朝野新聞 〔明治二六年一〇月一三日〕 郵船の孟買航路に強敵出現す(DK080008k-0019)
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朝野新聞 〔明治二六年一〇月一三日〕
    郵船の孟買航路に強敵出現す
 日本郵船会社の孟買航路は、愈々来月より開始することに決したるが、此の航路開始は本邦及び同所間に航海せし多数の外国汽船に非常の影響を与ふることなれば、自然競争も激しからんことは当初より想像せし所なるが、玆に同地の棉花搭船なる英国商船ガロフ、ヲフ、サイアム号は、一昨日午前九時半、棉花其他の雑貨を搭載し、紐育より横浜に入港せしが、郵船会社の第一航海船も既に定まり、近々出帆となるべきより、同船は其先廻はりをなし、得意を奪はんとて貨物の陸揚を取急ぎ、同日中に陸揚を済し、昨日午前三時半横浜を出帆しシドニーに向ひたるが、同所より直ちに孟買へ廻航する筈なりと。第一航海船未だ発せざるに早く既に此先駆あり、郵船会社及び紡績者たるもの益々注意を加ふべきなり。