デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
1節 海運
4款 浅野回漕部・東洋汽船株式会社
■綱文

第8巻 p.258-267(DK080014k) ページ画像

明治29年4月25日(1896年)

栄一、浅野総一郎外三十二名ト共ニ、我邦ト独・米・露間ノ三大海外定期航路ヲ開設スルノ目的ヲ以テ、東洋汽船株式会社創立ヲ発起シ、是日発起人総会ニ於テ創立委員ニ選バレ、後、創立委員長トナル。マタ大東汽船ノ合併ニモ与ル。


■資料

青淵先生公私履歴台帳 明治三十三年五月十日調(DK080014k-0001)
第8巻 p.258 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳 明治三十三年五月十日調
                    (渋沢子爵家所蔵)
明治二十九年
一東洋汽船株式会社ノ設立委員長トナリ、後監査役ニ選ハル
  本会社ハ、日清戦役後外国航海ノ拡張ヲ要スルノ機運ニ応シ、日清間ニ完全ノ飛脚船航路ヲ開クヲ目的トシテ発起シタルモノニシテ、推サレテ創立委員長トナル、後会社ノ成立ヲ見ルニ及ンテ、監査役ニ選挙セラレタルモ、後更ニ之レヲ辞セリ


第三課文書類別 農商―会社廿五 明治二十九年第一種(DK080014k-0002)
第8巻 p.258-260 ページ画像

第三課文書類別 農商―会社廿五 明治二十九年第一種 (東京府庁所蔵)
明治廿九年四月十一日受 日出
 知事
  内務部長  第三課長  農商掛
(朱書)
内三丙第二六七九号ノ二
  東洋汽船株式会社発起認可申請書進達案
府下東京市深川区清住町一番地浅野総一郎外三十三名ヨリ、東洋汽船株式会社発起認可申請書進達方願出候ニ付、予テ御内訓ノ事項ニ基キ調査ヲ遂ケ、左ニ意見ヲ具シ別紙書面及進達候也
  年 月 日                知事
    農商務大臣宛 逓信大臣宛 (両大臣宛)
 - 第8巻 p.259 -ページ画像 
一法律命令ニ違反セス
一公安公益風俗ヲ害スル虞ナシ
一何レノ階級ノ人民ニ於テモ其生計及営業上多大ノ傷害ヲ被ルノ虞ナシ
一就業者ノ健康安全ヲ害スル虞ナシ
一発起人ハ概シテ資産及信用アルヲ以テ企業ニ適スト認ム
一企業ハ目下必要ノ時勢ニ際シ良好ノ結果ヲ得ヘキ望アリ
一資本ノ金額ヲ募集スヘキ見込アリ
一資本金額僅少ナル為メ企業ノ目的ヲ達シ及法律命令ヲ遵行シ得ザル虞ナシ

  (理由) 別紙書類調査候処不都合ノ廉無之、且発起人中ニハ著名ナル者多数加盟セシヲ以テ、起業ニ対シ充分ノ資産及信用アルモノト認メ、各自ノ身元調査ヲ略シ其儘進達ス

(別紙)
内三丙二六七九号
  東洋汽船株式会社設立ニ就キ書類進達願
拙者共今般海運業相営ミ候為メ、東洋汽船株式会社設立致度、依テ別冊東洋汽船株式会社設立認可申請書・同設立目論見書・同仮定款、農商務・逓信両省ヘ御進達被成下度、此段奉願候也
  明治二十九年四月七日
             東京市深川区清住町壱番地
            設立発起人総代 浅野惣一郎
             大阪市北区堂島湊通弐丁目拾五番邸
            同 阿部彦太郎
    東京府知事 侯爵 久我通久殿
    ○
明治廿九年五月十二日受 日出  内務部第三課主任属
 知事  参事官
  内務部長  第三課長  農商掛
内三丙二六七九ノ四
  東洋汽船株式会社発起認可申請書引替願書進達案
曩ニ東洋汽船株式会社発起認可申請書及進達置候処、今般府下東京市深川区福住町四番地渋沢栄一外二名ヨリ、該書面中訂正ノ廉有之候趣ヲ以テ、別冊書類提出、先ノ分ト引替方願出候ニ付、調査候処不都之廉無之ト被存候間、別冊書類及進達候也
  年 月 日                知事
    農商務大臣宛 逓信大臣宛 (両名宛)

  (理由)本願訂正ノ要ハ、資本金ヲ増加シタルト役員ノ変更ヲ生シタルトノ趣意ニ過キサルヲ以テ、本案之通進達スルモノトス

(別冊)
  東洋汽船株式会社設立発起認可申請書類引換願提出ニ付書面進達願
 - 第8巻 p.260 -ページ画像 
                          拙者共
本年四月七日附ヲ以テ、農商務・逓信両省ヘ提出仕候東洋汽船株式会社設立発起認可申請ニ関スル書類中、其後訂正ヲ要スル廉出来仕候ニ付、別紙ノ通リ修正書面相添更ニ出願仕度、新旧書類引換願提出仕候ニ付、右主務省ヘ御進達奉願候也
  明治二十九年五月十一日
                    渋沢栄一
                    浅野惣一郎
                    阿部彦太郎
    東京府知事 侯爵 久我通久殿
    ○
農商務省指令商第六六三五号
           東京府東京市深川区清住町一番地
                      浅野総一郎
                         外参拾三名
明治廿九年四月七日付申請東洋汽船株式会社発起ノ件認可ス
  明治廿九年五月廿三日
          農商務大臣 子爵 榎本武揚
          逓信大臣 白根専一

右本書ハ対照シ相違スルコトナキヲ認可ス
 明治弐拾玖年陸月肆日公証人植木綱二郎役場ニ於テ
            京橋区裁判所管内東京府武蔵国東京市
            京橋区新富町陸丁目参番地住居
               公証人 植木綱二郎
    ○
  東洋汽船株式会社設立発起認可書受領証
一東洋汽船株式会社設立発起認可指令書壱通
   右正ニ領受仕候也
  明治二十九年五月二十六日
           東洋汽船株式会社設立発起人総代
              東京市深川区福住町四番地
                    渋沢栄一
              東京市深川区清住町壱番地
                    浅野惣一郎


青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第九〇八―九〇九頁 〔明治三三年六月〕(DK080014k-0003)
第8巻 p.260-261 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版)第一巻・第九〇八―九〇九頁 〔明治三三年六月〕
東洋汽船株式会社ハ青淵先生・浅野総一郎・阿部彦太郎・原六郎其他三十余名ノ発起ニ係リ、明治二十九年七月〇八日免許 ヲ以テ創立シタルモノニシテ青淵先生ハ其創立委員長タリ
同社ハ明治二十九年航海奨励法ノ発布ニヨリ起リタルモノニシテ、最初ノ計画ハ、資本金五百万円ヲ以テ、四千五百噸乃至五千噸ノ汽船八艘ヲ購入若クハ新造シ、日本ト露国バツーム間ニ石油輸送ノ航海ヲ開キ、又別ニ日本ト独国漢堡及米国紐育並費府間ニ航海ヲ開カントスル
 - 第8巻 p.261 -ページ画像 
ニアリ、此ノ時ニ当リ我邦航海業者間ニ航路拡張ノ熱度大ニ昇騰シ、日本郵船会社ハ株金ヲ増加シ、六千噸ノ大船十八艘ヲ造リ、欧洲航路及米国航路ヲ開カンコトヲ決議シ、又横浜ノ資本家ハ新ニ大東汽船会社ヲ組織シ、大船三艘ヲ造リ、米国航路ヲ開カンコトヲ計画シ、其他大阪商船会社等何レモ航運ノ拡張ニ熱中セサルナシ、然ルニ東洋汽船会社ト大東汽船会社トハ、目的稍々同一ナルヲ以テ、両社合併ノ議起リ、其相談纏リテ大東汽船会社ハ解散セリ、而シテ東洋汽船会社ハ其資本五百万円ヲ七百五十万円ニ増加シ、日本ト米国トノ間ニ太平洋上一航路ヲ加フルコトニ決セリ、其後我邦一般金融逼迫シ、経済ノ状況宜シカラサルヲ以テ、明治三十年六月、東洋汽船会社ハ其三航路中不急ノ一航路ヲ減シ、資本金ヲ六百五十万円ニ減少セリ


中外商業新報 第四二三二号 〔明治二九年四月二日〕 一大汽船会社創立の計画(DK080014k-0004)
第8巻 p.261 ページ画像

中外商業新報 第四二三二号 〔明治二九年四月二日〕
    一大汽船会社創立の計画
 此度一大汽船会社創立の計画ある由は兼て聞居たる所なりしが、果して浅野総一郎・馬場道久等の諸氏は両三日前浜町常盤屋に於て渋沢栄一・原六郎・安田善次郎・渡辺治右衛門・今村清之助・原善三郎・大倉喜八郎・渡辺洪基・渡辺甚吉・森村市左衛門等の諸氏を招きて此事を協議したり、其計画によれば、重もに海外航業を経営するに在りて資本金は四百五十万円とし、既に七名の創立委員も選定したりといふ。


中外商業新報 第四二三四号 〔明治二九年四月五日〕 外国航海汽船会社の資本金(DK080014k-0005)
第8巻 p.261 ページ画像

中外商業新報 第四二三四号 〔明治二九年四月五日〕
    外国航海汽船会社の資本金
 浅野総一郎・馬場道久の両氏が渋沢栄一・原六郎・安田善次郎・大倉喜八郎・原善三郎・今村清之助・渡辺治右衛門・森村市左衛門・渡辺甚吉等諸氏の賛成を得て、外国汽船会社なるものを設立せんとするの計画ある由は既に去二日の本紙上に報道せし処なるが、最初同会社は航海奨励法に基き、本邦紐育及ポーランド《(ト脱カ)》並に露領バツーム間に定期航海を開くの目的にて、資本金五百三十万円を醵集し、一大汽船十二隻を新造すべき計画なりしかども、ポーランド《(ト脱カ)》線は日本郵船会社に於ても既にこの計画あるを以つて、紐育及バツーム線のみ航海することゝし、更に資本金総額を三百七十万円とし、五千噸以上六千噸内外の大汽船八隻を新造すべき内定なりと云へり。


中外商業新報 第四二五二号 〔明治二九年四月二六日〕 東洋汽船会社発起人総会(DK080014k-0006)
第8巻 p.261-262 ページ画像

中外商業新報 第四二五二号 〔明治二九年四月二六日〕
    東洋汽船会社発起人総会
 浅野総一郎・馬場道久氏等の発起主唱に係る東洋汽船会社にては予記の如く昨二十五日坂本町の銀行集会所に発起人総会を開き、渋沢栄一氏会長席に着き、同会社発起以来万般の報告を為し、尋で創立委員を撰定し、資本金の増加、株式申込の期限及会社創立事務所の位置等に就て協議する所ありし、その結果左の如し。
創立委員 渋沢栄一・浅野総一郎・阿部彦太郎・原六郎・原善三郎・
 - 第8巻 p.262 -ページ画像 
森村市左衛門・天埜盤伊左衛門
資本金増加 資本金三百七十万円を更に五六十万円増加して四百二三十万円に改むる事、但多少の増減は創立委員に一任するものとす。
株式申込の期限 株式の申込は昨二十五日を以て期限とす。
創立事務所 創立事務所は当分日本橋区北新堀町十八番地(浅野商店)に設置すること。
 創立委員中未だ委員長定まらざれども、多分渋沢栄一氏推選せらるべく、又同会社の設立愈よ認可さるゝ時は、浅野総一郎・塚原周造の両氏専務取締役となり、浅野氏は営業部を担当し、塚原氏は庶務部を担当することに内定せる由なり。


東京経済雑誌 第三三巻第八二四号・第八〇八頁〔明治二九年五月九日〕 ○大東汽船株式会社(DK080014k-0007)
第8巻 p.262 ページ画像

東京経済雑誌 第三三巻第八二四号・第八〇八頁〔明治二九年五月九日〕
    ○大東汽船株式会社
横浜の安部幸兵衛・大谷嘉兵衛・若尾林平・大浜忠三郎・渡辺和太郎・西村喜三郎・左右田金作・増田増蔵・石川徳右衛門・木村重太郎・桑原福三郎・矢野甚蔵・田中善助・柏木彦太郎・渡辺幸之助等の諸氏は相謀りて大東汽船株式会社と云へるを設立し、其の認許を其の筋へ出願せり、其の航路船舶及び資本金計算は左の如し
 航路は日本及支那諸港と亜米利加合衆国オレゴン洲ポルトランド港間、船舶総噸数凡三千噸、速力凡十五「ノツト」汽船三艘、中間諸要港は便宜寄港するものとす、資本金総額は二百万円とし、之を四万株に分ち、一株の金額を五十円とす
 一金百八十万円 総噸数三千噸の汽船三艘新造若くは購入費
 一金五万円 地所家屋及什器購入費
 一金拾五万円 流通資金


東京経済雑誌 第三三巻第八二五号・第八五三頁〔明治二九年五月一六日〕 ○東洋・大東両汽船会社の合併談(DK080014k-0008)
第8巻 p.262 ページ画像

東京経済雑誌 第三三巻第八二五号・第八五三頁〔明治二九年五月一六日〕
    ○東洋・大東両汽船会社の合併談
浅野総一郎・馬場道久・渋沢栄一・南島間作・関野善次郎等諸氏の発起に係る東洋汽船会社は、目下創立の準備中なるが、横浜貿易商の発起せる大東汽船会社と合併の相談内定し、浅野氏は汽船注文旁々洋行すると同時に、両会社の合併を遂げ、資本金を一千万円に増加し、欧洲・米国の両航路を開始する計画の由にて其米国航路なる横浜・ポートランド港は北亜米利加のオレゴン洲なるオレゴン鉄道に連絡する計画なりと、又同航路は従来横浜の「サミユル」商会の独占せる処なるが、愈々大東・東洋両汽船会社合併する上は、同商会も同航路は全然右汽船会社に譲り、且一ケ年五百万円の収入なき時は「サミユル」商会より五百万円に達する迄の金額を補償する約束を附し、此契約を実行する代りに、汽船会社は一ケ年五十万円宛十ケ年間「サミユル」商会に払込む約束なりといふ


中外商業新報 第四二七九号 〔明治二九年五月二八日〕 大東汽船会社の計画中止に帰せんとす(DK080014k-0009)
第8巻 p.262-263 ページ画像

中外商業新報 第四二七九号 〔明治二九年五月二八日〕
    大東汽船会社の計画中止に帰せんとす
 資本金二百万円を以て五千噸の汽船三隻を製造し、横浜・ポルトラ
 - 第8巻 p.263 -ページ画像 
ンド間の航路を開かんとしたる大東汽船会社は、初め東洋汽船会社と合併の目的なりしも、元来此線路たる、日本郵船会社が将に開かんとする米国航路とは自然競争に陥いるの憂あるを以て、渋沢栄一氏は断乎として合併に不同意を唱へたるを以て、此事終に立消の姿に帰し、爾来大東汽船会社は頻に躊躇の躰なりしが、聞く所に拠れば、昨今の模様にては、会社事業の衝に当るべき適当の人物も欠乏せる折柄なれば、かたかた以て、折角の企画も此際或は中止に帰するやも測り難しと云ふ。


東京経済雑誌 第三三巻第八三一号・第一一四四頁〔明治二九年六月二七日〕 ○大東汽船会社の解散(DK080014k-0010)
第8巻 p.263 ページ画像

東京経済雑誌 第三三巻第八三一号・第一一四四頁〔明治二九年六月二七日〕
○大東汽船会社の解散 横浜市に於て発起せし大東汽船会社は、今回愈々東洋汽船会社と交渉纏り、同社より九十万円の増株を分与されたるに就きては、全く解散することに決し、去廿三日発起人諸氏より其筋に解散届を呈出せしよし、右に就き東洋汽船会社より送らるべき九十万円の株式は相当の配賦方を決したる上、其の株数を一般申込人に通知すると同時に、同社株の申込を取消さしめ、新に割り当てし株数を以て更に東洋に申込ましむる由なり


青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第九一二―九一三頁 〔明治三三年六月〕(DK080014k-0011)
第8巻 p.263 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第九一二―九一三頁〔明治三三年六月〕
東洋汽船会社ノ成立ニハ、青淵先生ノ尽力与テ多シトス、先生今ハ同社ノ監査役ナリ、是ヨリ先キ、先生ノ東洋汽船会社ノ為メニ尽力スルヤ、先生ハ一方ニ於テ日本郵船会社ノ重役ナルヲ以テ其挙ヲ非トシ謗ル者アリ、人アリ、来テ之ヲ先生ニ告ク、先生曰ク、余ノ事業ノ為メニ奔走スルハ一念国家ノ利益ヲ計ルニアリ、故ニ成立ノ見込アル事業ナレハ、幾箇ニテモ成立セシムルコトニ尽力シ、国家経済ノ発達ヲ助ケントス、銀行業ナリ、紡績業ナリ、其他幾多ノ商工業ニシテ、余ノ関係セルモノ皆尽ク然ラサルナシ、但成立ノ見込ナクシテ、徒ニ競争ノミヲ事トスルモノニ至テハ、余ノ取ラサル所ナリ、若シ余カ業務ノ多岐ニ渉ルヲ非ナリトセハ、初ヨリ余ノ如キモノヲ重役ニ選挙セサルニシカス、余ニ於テ株主ノ依頼アリタレハコソ奮テ重役ヲ引受コソスレ、毫モ余ヨリ願テ求メタルニハアラサルナリト、以テ先生志ノ存スル所ヲ知ルヘキナリ、此ノ談話ト対スル一ツノ談話アリ、或ル時有力者本史ノ編纂者ニ語テ曰ク、渋沢君ハ当世ノ財産家ナリ、併シ乍ラ同君カ若シ利殖ノ目的ヲ以テ初ヨリ一二ノ業ニノミ専ラ従事経営セラレタルナラハ、同君ノ富ハ今日ニ幾層倍セシナラン、同君ハ事業ノ成立発達ノミヲ楽ミトシ、為メニ費セシ所ノ私財幾何ナルヲ知ラス、同君ノ尽力ニヨリ困厄ニ陥リタル会社ノ復活昌盛ニ趣キタルモノ多々アリ、為メニ友人及株主等ノ財産ヲ作リタルハ実ニ巨大ナリ、是等ノ財産ハ皆ナ同君ノ賜ナリ、之ヲ総計シテ見ルトキハ幾千万円ノ上ニ出ヘシ、豈ニ盛ナラスヤ、故ニ余ハ謹テ同君ニ布衣商工務大臣ノ名ヲ呈スヘシト



〔参考〕浅野総一郎 (浅野泰治郎 浅野良三 著) 第四五八―四六〇頁〔大正一四年二月〕(DK080014k-0012)
第8巻 p.263-264 ページ画像

浅野総一郎 (浅野泰治郎 浅野良三 著) 第四五八―四六〇頁〔大正一四年二月〕
 - 第8巻 p.264 -ページ画像 
同○明治二十九年春二月、総一郎は知名の士十数氏を、浜町の常盤屋に招待して、一夕の宴を張つた、定刻参集した人は、渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・岩出惣兵衛・田中新造・沖三郎兵衛《(奥三郎兵衛)》・臼井喜兵衛の諸氏、其他横浜より五六人あつたが、総一郎は森村市左衛門氏の不参を非常に残念がつた、席上、総一郎が、海外航路の緊要を説いて汽船会社設立の希望を述べた時、一番に賛成して呉れたのが安田善次氏であつた、安田氏の人となりを知る一座の人々も、挙つて設立に参加する事となつた、今夕の会合が、無意味に終らなかつた事を、総一郎は非常に喜んで、盛宴深更に及び、一同上機嫌で常盤屋を引上げたが、翌朝総一郎は、早速に渋沢さんを訪れて、発起人帳を示し、冠頭第一番に先づ氏の署名捺印を乞うた、処が、
『外国航路を目的とする汽船会社の設立は、自分としても非常に賛成ではあるが、自分は今日本郵船会社の重役をしてゐるから、新汽船会社の発起人中に名を連らねることは、怎麼《どんな》ものかと思ふ。』
 といふ尤もな御意見が出て、署名することを躊躇せられる御様子に見えた、が、総一郎は押強く懇願した。
『郵船会社も、外国航路を営んでゐる。それと目的を同ふする東洋汽船であるから、国家の利益を図る点に於いては、同一であるから、発起人は愚か、重役となられても、差支はありますまい、同業を営む新会社に関係するのは、在来の会社に対して、如何あらうかとの御遠慮は、聊か狭量の御説かと思はれます、同じ世界を相手の外国航路に当る以上は、郵船は兄で、東洋は骨肉の弟とも見るべきではありますまいか、兄を助けて弟を顧みないといふことは、如何なものでありませうか?』
 と熱の高い理論が、比較的井然と総一郎の口から出た。
 渋沢さんは、釈然として悟られた。
『さうだ、国の仕事に甲乙はない、乃公《わし》の印一つが役立つなら、捺しませう哩《わい》!』
 渋沢さんは、サラサラと、立派に署名して、捺印された。
 斯くと聞き伝へた郵船会社の重なる株主連中は、帝国ホテルに、緊急会を開いて、他の会社の発企に関係を付ける渋沢男の行為は、怪しからぬと大騒ぎを始め出した、然し総一郎の願意を容れられた渋沢さんは、飽く迄、援助を賜はる御決心から、郵船会社からの八釜しい言ひ分に対し、一向に耳を藉される様子もなく、却つて
『悪ければ郵船の方は、俺は止しても宜い。』
 とさへ極言されて、平然たるものであつた、渋沢男の頭脳の広いことがよく判る。


〔参考〕塚原夢舟翁 (編纂代表者山崎米三郎) 第一〇一―一〇二頁〔大正一四年五月〕(DK080014k-0013)
第8巻 p.264-265 ページ画像

塚原夢舟翁 (編纂代表者山崎米三郎) 第一〇一―一〇二頁〔大正一四年五月〕
 当時君は私かに思ふに、已に日本郵船会社があり、大阪商船会社があり、我海運は次第に発達を見るであらうけれども、まだ航海奨励法に依つて航路補助金を得るに足る船舶を新造し、其の業務を拡張して世界海運の競争場裡に乗り出さんとする大決心有るものを見ない。普通の実業家では、躊躇逡巡して進んでやつて見ようといふ勇気がある
 - 第8巻 p.265 -ページ画像 
まい。これは何うしても大胆豪放な実業家でなくては、実現を期待し得られない。それでは誰がよいか、先づ第一に指を屈すべきは浅野総一郎氏であらうと。或日、君は同氏と会見し、此の話を持ち出した。すると氏は大いに意を動かし、『私がやつてみませう』といふことになり、君に援助を請はれたので君も快諾し、忽ち会社創立の事に決定したのであつた。
 浅野氏は、従来回漕店を経営し、傍ら石油販売に従事してゐた関係から、新設会社も油槽船を備へて専ら石油の供給に便する方が、其の利益は奨励法に依つて受くべき利益よりも遥かに大なる事を縷々として語つたが、君は、石油船では奨励金を受くる資格を欠く恐れがあるから、石油船の新造をやめて航洋客船を新造する事を勧告し、資本金三百五十万円を以て、東洋汽船会社を創立することになつたのであつた。さうして浅野氏が社長に、君が副社長に、取締役に原六郎・原善三郎・奥三郎兵衛、監査役に前島密・若尾幾造、相談役に渋沢栄一の諸氏が選任された。
   ○相談役ニ渋沢栄一トアルハ誤リ。


〔参考〕鴻爪痕 (前島弥発行) 後半生録・第一〇八―一〇九頁〔大正九年四月〕(DK080014k-0014)
第8巻 p.265 ページ画像

鴻爪痕 (前島弥発行) 後半生録・第一〇八―一〇九頁〔大正九年四月〕
○上略当時政府は是等○日清戦争償金三億円を資金として、海運事業を企だて、民間の会社と雖も大に航路を拡張するものには助成金を与ふる事に閣議が決し、航海奨励法が発布されたのである。其時分浅野氏は亜米利加に向つて航路を開かん事を企てた。但し其れは主として石油輸送であつた。其処で其の当時管船の衝に当つて居た塚原周造君、既に野に下つて居た翁なぞは航海奨励法の下に立つて海運の拡張を図ると云ふ訳ならば、其様な石油を目的とする如き些細な事よりも、一層進んで定期の大航路を開くが善からうと言ふので、浅野氏に勧めて斯様に方針を改むる事となつた。其れが明治二十九年の事である。浅野氏は其れが為に洋行して太平洋汽船会社のハンチントンと云ふ人を訪ねて、是れに向つて談判の結果、この太平洋汽船会社と共同して、三艘の日本の船を其の共同範囲に於て、日米間を往復させることを協定した。尤もこの太平洋汽船会社の外に、英吉利オリエンタル、エンド、オキシデンタル会社も其れに共同する事となつて、此処に三つの会社が或条件の下に連合して、日本も其中に加はる事になつた、斯様な訳で、浅野氏は洋行中英吉利に七千噸の船で十八節の速力ある大船の製造を託した。其等の船は即ち日本丸・香港丸・亜米利加丸の三艘で、当時十八節の速力は日本の海運界のレコードを破る速力のもので、殆んど其道の人を驚かした程である。
   ○鴻爪痕ハ前島密ノ伝記ナリ。


〔参考〕原六郎翁伝 (原邦造編纂発行) 中巻・第三八五―三八七頁〔昭和一二年一一月〕(DK080014k-0015)
第8巻 p.265-266 ページ画像

原六郎翁伝 (原邦造編纂発行) 中巻・第三八五―三八七頁〔昭和一二年一一月〕
 翁が浅野氏からはじめてこの計画を打ち明けられ、参加を求められたのは明治二十九年四月二日であつた。その頃九州の炭坑事業に精励してゐた翁は、その年来の主張からも、将又採掘せられた石炭の処分の上からも、浅野氏のこの国家的大事業に欣然参加を承諾した。即ち
 - 第8巻 p.266 -ページ画像 
この日の翁の日記に云ふ、
 「明治二十九年四月二日 東洋汽船会社三百七拾五万円の内拾五万円即ち三千株を引受く。総一郎為めに来訪し、定款・申請書・目論見書各四冊に捺印す。」
 しかるに四月二十五日の発起人会は資本金を四百三十五万円に改め翁は渋沢栄一氏・浅野総一郎氏・阿部彦太郎氏・原善三郎氏・森村市左衛門氏・外一名(天野某氏)と共に創立委員に選ばれた。創立委員長は渋沢栄一氏であつた。浅野氏は屡々翁を訪ねて会社組織の具体案を相談し、着々準備をすゝめた。併しこれほどの国家的大事業の経営には、どうしても渋沢氏のやうな財界の声望を一身に荷ふ人の積極的援助が望ましかつたが、同氏は日本郵船会社の重役である関係もあり、容易に浅野氏の希望を容れようとしなかつた。翁は浅野氏の旨を受けて、五月二十五日、渋沢氏を兜町の第一銀行に訪ね、折よく来合せた森村氏と二人で、切に東洋汽船会社の取締役になることを勧めてみたが、しかし渋沢氏は種々の理由を並べて固辞したため、致しかたなく相談役又は監査役に就任方を約束して別れた。(同日日記)かうして出来上つた最初の計画によると、右の資本金を以て四千五百噸乃至五千噸の汽船八隻を購入もしくは新造し、日米間の航路の外に、日独・日露間の航路開拓をも考慮せられてゐたのである。東洋経済雑誌第十五号(明治二十九年四月)はこの間の事情を次のやうに伝へてゐる。
 「東洋汽船会社は当初資本金五百三十万円を募りて米国東西洋岸及び露国への航業を営む筈なりしが、米国西岸は日本郵船会社の計画に関るを以て故らに之を避け、資本金三百七十万円を以て露国線と紐育線との航業を営むに決したるなり。欧洲航路は従来数多会社の営業する所にかゝると雖も、彼の紐育線の航業に至つては、外人すら未だ之を営む者あるを聞かざるに、東洋汽船会社発起者の之を計画せしは、甚だ大胆なるに似たりと雖も、一面には奨励法のあるあり、一面には我国と紐育間の貿易殊に盛なるあり、彼是以て其成功を期待するを得べし。」
 然るに航海奨励法に刺戟せられたのは翁や浅野氏等のみではなかつた。我国海運業者の間には至る所航路拡張の機運が漲り、日本郵船会社は資本金を増額して六千噸級の大船十八隻を建造し、欧洲航路及び米国航路の開拓を決議し、又横浜の資本家の間でも新に大東汽船会社を興して米国航路を開く計画があつた。この大東汽船の目的は東洋汽船のそれと略同じく、相方競争相手となることは面白くない。そこで翁や渋沢氏が間に入つて奔走した結果、両社合併の相談がまとまり、明治二十九年七月一日大東汽船会社は解散し、東洋汽船会社はその資本五百万円を七百五十万円に増加した。


〔参考〕白石元治郎氏談 〔昭和一一年一〇月八日〕(DK080014k-0016)
第8巻 p.266-267 ページ画像

白石元治郎氏談 〔昭和一一年一〇月八日〕
          渋沢栄一伝記資料編纂室 山本勇 筆記
 浅野廻漕部は浅野が単独でやつたもので、青淵先生は別に御関係はありませんでした。
 東洋汽船会社の創立に当つては、青淵先生も同社の発起人として参
 - 第8巻 p.267 -ページ画像 
加されましたが、先生は当時日本郵船会社の重役をして居られた為に表面にはお立ちになりませんでした。しかし先生は国家的見地からして同社設立の進行上に於て、浅野に対してプライヴエトに色々と援助されました。
 当時の記録については私の処でも探してみましたが、ございませんでした。若し残つてゐるとすれば東洋汽船にある筈です。
 東洋汽船と郵船の合併問題の時も青淵先生は表面にはお立ちにならないで、専ら井上準之助氏をして折衝に当らせられました。
 尚ほ此の時は浅野総一郎氏の傍に良三君が附いてゐましたから、良三君をお訪ねになられたら幾らかお分りになると思ひます。(以上)


〔参考〕中外商業新報 第三二一〇号 〔明治二五年一一月一七日〕 銀行家と廻漕業者との協議(DK080014k-0017)
第8巻 p.267 ページ画像

中外商業新報 第三二一〇号 〔明治二五年一一月一七日〕
    銀行家と廻漕業者との協議
 一昨日の我中外商業新報に記したる如く、京浜同盟銀行の月次定式総会開くに先ち、渋沢委員長は佐々木慎思郎・池田謙三の両氏と共に同日会場に招ける谷道英橘・尾城満友(浅野廻漕店)・山本之順(玉置廻漕店)・酒井泰の四氏等に対し、日本郵船会社を除く外各廻漕業者の間に行はるゝ船積証書は其責任者に就て不完全を感ずる処甚だ尠なからずとて、親しく其事例を指摘し、要する処左の要求を為す。
第一、搭載貨物は必らす船積証書と引換に受渡を為すべき事。
第二、共同荷捌所を設置して搭載貨物を保管し併て受渡を厳重にする事。
第三、船積証書には必ず損害の弁償を為すべき責任を充分にする為船主に代り船長の署名捺印を要する事。
の三箇条を以てしたり、尤同廻漕業者中には代理の向も有りて即答することもならざれば、篤と協議を遂げたる上何分の返答に及べしとて同日は引分れとなりける。