デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
2節 鉄道
2款 日本鉄道株式会社
■綱文

第8巻 p.590-592(DK080047k) ページ画像

明治31年8月9日(1898年)

是日開カレタル通常株主総会ニ於テ栄一議長ト為リ、営業報告ノ後配当率ヲ年五分五厘ニ引下グベシト陳述ス。株主中之ニ反対スル者アリシガ、栄一調停シテ終ニ其原案ヲ通過セシム。続テ臨時総会ヲ開キ理事委員検査委員ノ改選ヲ行ヒ、栄一理事委員ニ再選サレ、子爵曾我祐準社長ト為ル。


■資料

日本鉄道株式会社沿革史草稿 第二編・第二二六―二二七頁(DK080047k-0001)
第8巻 p.590 ページ画像

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(日本鉄道株式会社)報告 第三四回〔明治三一年一二月〕(DK080047k-0002)
第8巻 p.591 ページ画像

(日本鉄道株式会社)報告  第三四回〔明治三一年一二月〕
    第一項 事務要領
理事委員及ヒ検査委員改選 理事委員及ヒ検査委員任期満了ニ付三十一年八月九日通常総会畢テ後臨時総会ヲ開キ理事委員及ヒ検査委員ノ改選ヲ行ヒ、曾我祐準・有島武・富田鉄之助・酒井明・毛利重輔・角田林兵衛・久米良作・二橋元長・渋沢栄一・菊池長四郎・若尾幾造・渡辺福三郎ノ十二氏理事委員ニ、安川繁成・林賢徳・久野昌一ノ三氏検査委員ニ当選、孰レモ即日上任シ、且同月十二日理事委員ノ互選ヲ以テ曾我祐準氏社長ニ、毛利重輔氏副社長ニ当選、亦即日上任セリ
○下略


曾我祐準翁自叙伝 第四〇八―四一〇頁〔昭和五年一二月〕(DK080047k-0003)
第8巻 p.591 ページ画像

曾我祐準翁自叙伝  第四〇八―四一〇頁〔昭和五年一二月〕
 元来日本鉄道会社と十五銀行とは、故岩倉公の深謀遠慮から出た華族世襲財産唯一の品であることは、何人も熟知する所である。此の二者には毎も大華族連が重役を占めて居た。日鉄は創設以来年所を経るに従ひ工事も進み、好況に発展し、二十七八年戦役後経済界の膨脹に伴ひ急速の進捗を加へたるに、此の際余り好運に乗じ過ぎ、措置を誤りたる為め、忽然配当を低下したので、乍ち株主は疑惧を生じ、重役は信用を失ひ、端なく革新論が全株主に瀰蔓し、加之機関手共が同盟罷業を企てた。彼是併せて十五銀行迄が攻撃さるゝことゝなつた。是に於て華族中にも株主の多数が反対を仕出したので、重役連は大に閉口し、総辞職して、余に入社を依頼し来つた。其紹介者は鉄道局長の松本と、実業家では渋沢栄一と、多額議員の渡辺治右衛門等であつた。余も近年は一年に僅か二三ケ月貴族院に登院する外、何等幾業務もなく、随分閑散に飽き果てた時であるから、柄にもなき事とは思うたが、何様、当時に於ては日本第一の大会社ではあるし、又鉄道は軍国の要具でもあるし、思切りて社長を承諾した。此の時改革派には同軌会と云ふ同志会が出来、夫れには長岡子爵を初め青山、相良両子爵、富田鉄之助、谷森真男、日下義雄、中島永元、柴原和、若尾幾造、渡辺福三郎、久米良作其他多数の後援者があつた。是より明治三十九年国有迄、満八個年計らずも鉄道業に従事した。


竜門雑誌 第一二四号・第三八―三九頁〔明治三一年九月〕 日本鉄道会社の改革(DK080047k-0004)
第8巻 p.591-592 ページ画像

竜門雑誌  第一二四号・第三八―三九頁〔明治三一年九月〕
    日本鉄道会社の改革
日本鉄道会社にては曾我新任社長の就任以来社務革新の調査中なりしが、九月二日の理事委員会に於て曾我社長より改革案を提供し協議する所あり、改革の大方針は不急の拡張事業を中止し、並に営業上諸般の経費を節約することに決し、大体に於て守成方針を執り、改革の目的を達せんとするにありて、其細目に就ては理事委員富田鉄之助・若尾幾造・有島武・久米良作・撿査委員安川繁成の五氏を委員に挙げ、改革案の調査を為さしめ、審査の上着々実行することとなり、右の結果大宮工場の拡張事業、各駅停車場の拡張設備及従来の機関助手其他の養成員は将来新に募集せざることとなり、社内に在りては各課長以
 - 第8巻 p.592 -ページ画像 
下老朽無能の冗員を排除し、新に有為敏腕の事務員を入社せしめ、業務の刷新を謀る方針を執り、同日直に運輸課長足立太郎、会計課長白杉政愛、庶務課主事内田直三の三氏を退職せしめ、其後任として運輸課長に久保扶桑、会計課長兼倉庫課長に神戸挙一、庶務課長に山田英太郎の諸氏入社せしめ、其後改革案調査委員は調査の結果を理事委員会に報告し終りたるより委員の任務は解除せられたり、而して其間調査の進行に伴ひ着々改革を断行したるか、調査事項は(一)職制大綱(二)定款改正(三)補給利子等に関するものにして、職制大綱は会社の事務は運輸、会計、倉庫、滊車、保線(旧建築課を併合せり)庶務六課及一工場(大宮工場)に分割し、各課に在りては副課長を全廃し冗員を淘汰するに在りて、課長にては足立、白杉両氏の外建築課長長谷川謹介氏は休職を命ぜらられ、副課長廃止の結果主事に転任せしめたるものあり、若くは解職を命するものあり、其以下の社員には夫夫淘汰を断行し、専ら経費を節減するの計画を実行し、猶職制の細目に就ては調査委員の意見を附して社長の採用に任したる由なり、又定款の改正は此際敢て修正変更を加へざるべく、補給利子は従前の通り据置くことに決したりと云ふ


山田英太郎氏談話筆記 昭和九年七月六日於白金台町山田邸(DK080047k-0005)
第8巻 p.592 ページ画像

山田英太郎氏談話筆記            昭和九年七月六日於白金台町山田邸
                    佐治祐吉・山口栄蔵筆記
 曾我さんが社長となつた新内閣で私は庶務課長として先づ前内閣の残党を皆馘首した、足立太郎をはじめとして。しかも皆たゞ「解職候事」として退職手当なんどやらない。これは渋沢さんが見兼ねて是非「依願解職」のことにしてやつて呉れ、でないと辞令に判がつけないと云ふ。これは渋沢さんにしてみれば尤もの話なので之はさう改めた。足立太郎その他皆渋沢さんの処へ是非何とか使つてもらいたいと泣きついて京仁鉄道其他にゆくことになつたのです。
 日鉄の重役会に渋沢さんの見えられる時はいつもフロツクコートにインパネスを羽織られて定刻より遅れて見えられる、「イヤ遅れて済みません」と丁寧に断られて、忙しくベタベタと書類に調印されること屡々。
重役会議の部屋は正面の壁に明治十七年七月二十五日 明治天皇の上野高崎間鉄道開通式に行幸の折賜つた勅語「日本鉄道会社員ノ協同力ヲ効セルニ因リ東京高崎間鉄道成ルヲ告ケ玆ニ開業ノ式ヲ挙ク都鄙便ヲ通シ遠近利ニ倚ル眹カ嘉奨スル所ナリ」の写が額となつてゐる。その前に曾我社長を中央に右側の上席に渋沢さんその向側に富田氏ときまつてゐたものだつた。