公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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明治28年11月5日(1895年)
是ヨリ先、京都地方ノ有力者田中源太郎・浜岡光哲等京都鉄道建設ニ奔走シ、是日免許状下付サル。栄一ソノ株主タリシモ、後三十年一月ソノ関係ヲ断ツ。
青淵先生六十年史 第一巻・第九七一―九七二頁 〔明治三三年二月〕(DK090035k-0001)
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青淵先生六十年史 第一巻・第九七一―九七二頁〔明治三三年二月〕
第十節 京都鉄道会社
京都鉄道会社ハ明治二十七年ノ交ニ創立シタルモノニシテ、京都七条停車場ヨリ、丹波国南桑田郡・船井郡・何鹿郡ヲ経テ丹後国舞鶴・余部・宮津及兵庫県下但馬国和田山ニ達スル鉄道ヲ布設シ、旅客及貨物運輸ノ業ヲ営ムモノニシテ、其資本額ハ六百万円ナリトス
先生ハ同会社株主ノ一人ニシテ、此ノ鉄道ハ今日丹波園部マテ開通セリ、然ルニ三十年一月故アリ遂ニ同社ト関係ヲ断チタリ
日本鉄道史 中篇・第五〇四―五一一頁〔大正一〇年八月〕(DK090035k-0002)
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日本鉄道史 中篇・第五〇四―五一一頁〔大正一〇年八月〕
第十四章 私設鉄道
第十 京都鉄道
明治二十年、関西鉄道ノ発起セラルルヤ、京都地方ノ有志者田中源太郎・浜岡光哲等之ニ加ハリ線路ヲ京都ヨリ宮津ニ延カントセシモ果サズ、同年前京都府知事北垣国道ハ鉄道問答ト題スル冊子ヲ官民有力者ニ配布シタリシカ、之カ為地方人士ノ企業心ヲ刺戟シ、田中源太郎・浜岡光哲・高木文平等ハ私設鉄道ノ創立ヲ図ルニ至レリ、然ルニ当時大阪及兵庫ニ於テモ発起スルモノアリシカ、利害互ニ衝突シ協調成ラズシテ孰レモ其目的ヲ達スル能ハザリキ、二十二年ニ至リ市田理八等ノ有志者ハ京鶴鉄道ヲ発起シ、京都ヨリ亀岡・園部ヲ経テ舞鶴ニ至ル線ヲ経営セントシ、而モ営業上収支不償ノ虞アルヲ以テ其投資額ニ対シテ一箇年百分ノ五ノ利子保証ヲ得ンコトヲ願出テタリシカ、当時舞鶴ヲ終点トスル鉄道計画多ク起リ、孰レモ鉄道局長官ノ意見ニ由リ願書ハ却下セラレ、京鶴鉄道亦却下セラレタリ、二十四年帝国議会ニ於テ鉄道問題ノ起ルヤ、地方人士ハ山陰線ノ経営ヲ官設ニ待タントシ奔走スル所アリ、舞鶴町民ハ京都府知事ニ請願シ、又京都市会ニ向ツテ賛同ヲ求メ、委員ヲ選定シ、政府当局者・貴衆両院議員等ニ山陰線ノ必要ヲ説カシメタリ、翌二十五年鉄道敷設法ノ公布アリ、該法案ニハ
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京都ヨリ舞鶴ニ至ル鉄道ヲ掲ケザリシカ、京都府選出議員等ノ斡旋ニ由リ之ヲ第一期線ニ加ヘ、議決セラレタリシモ、兵庫県土山ヨリ福知山ヲ経テ舞鶴ニ至ル鉄道ト共ニ比較線トシテ掲ケラレタリシカハ、京都及沿線地方ノ有志者ハ鉄道期成同盟会ヲ組織シ、京鶴線ヲ主張シタリ、二十六年田中源太郎・若松雅太郎ハ東京ニ来リ有力者ニ謀リ、若松雅太郎ハ『京鶴鉄道ノ企望』ト題スル冊子ヲ印行シ、私設鉄道トシテ経営センコトヲ主唱シ、小室信夫亦趣意書ヲ発シ、私設論ヲ公ニシタリ、同年七月田中源太郎・浜岡光哲・中村栄助等ノ発起ヲ以テ京都市中ノ有志者ヲ商業会議所ニ会シ其企望ヲ談シタルニ、満場一人ノ異議者ナクシテ京都鉄道会社ヲ起スコトニ決シタリ、依テ同月ヲ以テ小室信夫外一百十五名ヲ発起人トシ、資本金六百万円ヲ以テ官設鉄道京都停車場ヨリ起リ、綾部・舞鶴ヲ経テ宮津ニ至リ、又綾部ヨリ分岐シ福知山ヲ経テ和田山ニ至リ、並ニ舞鶴ヨリ分岐シ、余部ニ至ル一百三哩余ノ免許ヲ申請シタリ
京都ヨリ舞鶴ニ至ル鉄道ニ対シ、土山ヨリ舞鶴ニ至ル鉄道ハ鉄道敷設法上ノ比較線ナリシカ、兵庫県ノ人士ハ京都ト其起点ヲ争フヘカラザルヲ察シ、大阪府ノ有力者ト合同シ、大阪ヨリ福知山ヲ経テ舞鶴ニ至ルヲ目的トスル阪鶴鉄道会社ヲ起サントシ、同時ニ大阪市中ノ有力者ハ大阪ヨリ池田・園部ヲ経テ舞鶴ニ至ルヲ目的トスル摂丹鉄道会社ヲ起サントセリ、是ニ於テ京都鉄道ハ阪鶴・摂丹ノ両鉄道ニ対シ競争ノ位置ニ立チタリシカ、京都鉄道発起人等ハ公爵近衛篤麿・侯爵蜂須賀茂韶・子爵藤波言忠等ノ助力ヲ求メ、円満ノ解決ヲ得ンコトヲ努メ、其結果トシテ大阪市ノ有力者ト協定シ、摂丹鉄道ノ企挙ト聯合スルコトト為レリ、然ルニ明治二十七年五月ニ至リ、政府ハ鉄道会議ニ諮詢シテ京都鉄道ノ線ヲ福知山ニ止メ、阪鶴鉄道ヲ和田山マテ貫通セシメ摂丹鉄道ノ申請ヲ却下セントセリ、依テ発起人等ハ、大阪ノ有力者ト分離スルニ至ランコトヲ憂ヒ、藤田伝三郎・広瀬宰平等ト相謀リ、阪鶴・摂丹ノ両者ヲ合同シ、然ル後京都亦之ニ合同セントシ、斡旋スル所アリシモ成功スルニ至ラズ、終ニ阪鶴鉄道ハ免許セラレ、摂丹鉄道ハ却下セラレ、福知山・和田山間ハ京都鉄道ニ許可セラルルニ決シタリ、同年六月法律第八号ヲ以テ鉄道敷設法第七条中近畿予定線路ハ京都ヨリ舞鶴ニ至ル線ヲ採ルコトヲ公布セラレ、又法律第十三号ヲ以テ之カ敷設ヲ私設会社ニ許可スルヲ得ルモノトシ、並ニ和田山ヨリ福知山ヲ経テ綾部ニ至ル線亦法津第十五号ヲ以テ私設会社ニ許可スルヲ得ルモノトセラル、七月京都鉄道ハ仮免状ヲ受ケ、翌二十八年十一月五日免許状ヲ受ケタリ
会社ハ、其位置ヲ京都市上京区鍵屋町ニ定メ、明治二十八年四月、技師長トシテ小川資源ヲ聘シ工事ヲ計画セシメ、翌二十九年四月、起点京都ヨリ起工シタリ、翌三十年一月、会社ノ位置ヲ葛野郡朱雀野村ニ移シタリ
明治二十九年一月、和田山津居山間延長免許ヲ申請セシカ四月願書却下セラル、八月二条伏見間、日ノ岡大津間延長ヲ申請シタルモ一旦願書ヲ撤回シ、三十二年十月二条伏見間ヲ申請シタリシカ、三十三年三月願書ハ却下セラレタリ
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明治三十年二月十五日、二条嵯峨間三哩六十五鎖開通シ、四月二十七日大宮二条間二哩四鎖、十一月十六日京都大宮間三十八鎖亦開通シタリ、是年五月京都停車場ノ使用ニ関シ鉄道局ト協定スル所アリシカ、該停車場ニ発著スル列車ノ数ヲ制限セラレタルヲ以テ、一般列車ノ発著点トシテ大宮ニ停車場ヲ仮設シ、而シテ三十一年六月ニ至リ之カ常設ヲ申請シ認可ヲ得タリ、翌三十二年鉄道作業局ト契約シ、毎列車京都ニ発著スルニ至リタルヲ以テ、七月三十一日限リ大宮停車場ヲ閉鎖シタリシカ、三十八年一月十五日旅客取扱ノ為再ヒ之ヲ開キタリ
明治三十二年六月二十二日、園部以西ノ建設費ニ対シ補給利子ノ下付ヲ請願シタリ、其理由トスル処ヲ約スルニ、会社ノ鉄道ハ国家枢要ノ線路ニシテ其速成ノ必要切迫スト雖、工事困難ニシテ投資額多キニ対シ収益歩合乏シキヲ憂フルヲ以テ、利子補給ノ保護ヲ得ントスルニ在リ、翌三十三年三月取調ノ都合ニ由リ該請願書ノ一時返付ヲ請ヒ、六月再ヒ補助金下付ヲ請願シタルモ、九月難聴届ノ指令ニ接セリ、後三十五年一月更ニ補助金下付ヲ請願シタリシカ、二月再ヒ難聴届ノ指令ニ接セリ
三十二年八月十五日、嵯峨園部間十五哩六十九鎖開通シタリ、此区間中嵯峨亀岡間ハ山勢峻嶮ノ地ニシテ隧道八箇所ヲ算シ、就中朝日隧道一千六百三十七呎ヲ最長トス、橋梁ハ全区間ニ於テ五十一箇所、就中保津川橋梁ハ二百八十呎ノ径間ヲ以テ架シタリ
明治三十四年二月、旅客賃率三等一哩一銭五厘ヲ一銭九厘ニ改メタリ而シテ一、二等ノ三等ニ対スル割合ハ、従前ノ如ク三等ノ三倍及二倍トス
是ヨリ先明治三十三年十一月三十日、園部以西工事未成部分ノ免許取消ヲ願出テ、又十二月二十五日ヲ以テ未成線敷設ニ要セシ予測費・実測費・工事監督費・土工費・運送費・総係費ハ政府ニ於テ補償セラレ又用地及材料ハ凡テ政府ニ於テ買上ケラレンコトヲ請ヒ、併セテ既成部分ヲ買収セラルルトキハ建設実費ヲ以テ之ニ応スヘキコトヲ具申シタリ、翌三十四年三月二十五日、園部以西未成線ノ竣功期限十一月五日ヲ以テ満了スルニ由リ、更ニ三箇年ノ延期ヲ申請シ、六月七日之カ認可ヲ指令セラレ、且ツ条件ヲ附セラル、其一ニ曰、工事竣功延期々間内ト雖、政府ニ於テ未成線ノ全部若クハ一部ノ急設ヲ必要ト認ムル場合ニ於テ会社之ヲ竣成セザルトキハ、政府ハ何時ニテモ之カ免許ヲ取消シ、未成鉄道ヲ収用スルコトヲ得、此場合ニ於テ政府ハ会社カ其未成線建設ニ投シタル実費ヲ下付スヘシト
明治三十五年政府ニ於テ園部舞鶴間、舞鶴余部間、綾部福知山間ヲ敷設スルコトヲ決定シ、四月五日逓信大臣ハ三十四年六月七日付指令条件ニ依リ之カ免許取消ヲ会社ニ達シタリ、三十五年五月一日政府代表者鉄道事務官内海安太郎・鉄道技師小川東吾会社ニ来リ、未成線ニ関スル事務ノ引継ヲ受ケ、十二月二十日引続事務結了シ、会社ハ建設実費及貯蔵物品代等金四十二万八千四百九十七円四十五銭二厘ヲ受領セリ、是年七月二十五日未成線ノ内舞鶴宮津間及福知山和田山間免許取消ヲ申請シ、九月五日認可セラル
会社ノ鉄道ハ明治四十年八月一日ヲ以テ鉄道国有法ノ規定ニ依リ買収
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セラル、是日会社本店ニ於テ会社々長田中源太郎ハ政府代表者ト相会シ一切ノ引継ヲ了セリ、是ヨリ先四十年三月鉄道国有法ノ規定ニ依リ鉄道買収価格ヲ算定セラルルニ於テハ、建設費ヲ償フニ足ラザルヲ以テ、同法ニ除外例ヲ設ケラレンコトヲ貴族院及衆議院ニ請願シ、又同年六月八日鉄道国有ニ関シ、陳情書ヲ逓信大臣ニ提出シタリ、其要ニ曰、会社ノ鉄道ハ創業ノ際ヨリ陸海軍当該官憲ノ内諭モアリ、国家的観念ニ駆ラレ微力ヲ顧ルノ遑ナキニ至リ、其発程ニ於テ嵐峡ノ峻嶮アリ、大堰ノ激流アルニ拘ラズ万難ヲ排シテ工事ヲ遂行シ、線路面ヲ水上四十呎以上ニ築キ、勾配ハ百分ノ一ヲ最急トシ、隧道穹窿ノ全径ハ之ヲ十五呎トシ、保津川橋梁ノ如キハ二百八十呎一張ノ鋼桁ヲ架シテ橋柱ヲ用ヰズ、停車場ノ主要ナルモノハ大規模ヲ以テ計画シ、二条停車場ノ如キハ約二万五千坪ノ地積ヲ占メ、又都会附近即チ京都嵯峨間ノ如キハ将来ニ於ケル土地買収ノ困難ヲ慮リ、複線ノ余地ヲ存シテ用地ト為シタル等勉メテ広軌式ニ準シ施設シタレハ、之カ為巨額ノ建設費ヲ要シ、嵯峨亀岡間ハ一哩三十三万五千余円ヲ費シタリ、然ルニ鉄道国有法ニ依レハ、鉄道買収価格建設費ニ達セザルトキハ建設実費以内ニ於テ協定スルモノナルモ、三十四年六月建設実費ヲ以テ収用スヘシトノ指令ハ之ニ依リ消滅ニ帰シ、他ノ被買収鉄道ト同一ノ取扱ヲ受クルモノトセハ、当社園部以西ノ未成不完全ノモノハ四年前建設実費ヲ以テ買収セラレ、完全ノモノハ却テ実費以内ニテ協定セラレ、而モ公債ヲ以テ買収セラルルコトト為リ、公平ヲ得ザルヲ以テ特別ノ詮議ヲ仰ク云々、然レトモ買収価格ハ同法ノ明文ニ基キ建設費以内ニテ決定シ、翌四十一年二月之ヲ通達セラル、其額三百三十四万千三十九円九十二銭七厘トス
○栄一京都鉄道ノ株主タリシコト「青淵先生六十年史」以外ニ之ヲ求ムルコト能ハズ、今姑ク之ノミニヨル。
○京都鉄道ニツイテハ前掲「日本鉄道史」ノ外
「浜岡光哲翁七十七年史」第二一三―二一八頁、「田中源太郎翁伝」第一一六―一二六頁、「今村清之助君事歴」第三九〇―三九六頁
等ヲ参照スベシ。